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井上陽水英訳詞集 単行本(ソフトカバー) – 2019/5/16
ロバート キャンベル
(著)
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購入オプションとあわせ買い
井上陽水デビュー50周年、『ブラタモリ』のテーマ曲をはじめ、私たちの心をずっと捉えて離さない陽水の名曲の数々。ロバート キャンベルが人生を彷徨っていた時代から、病の日々も傍らにあったのは陽水の歌だった。初期の代表作から陽水を象徴する曲まで、厳選歌詞50作を英訳。英語というフィルターを通すことで炙り出されてくる陽水のメッセージ。この本はスリリングなほどのくわだてなのだ。
「陽水はうなぎだ」これは陽水の親友であるユーミンが放った一言。
後日TOKYO FMの番組で陽水と対談したキャンベルは、ついにうなぎを捕まえる。これまで陽水は決して歌詞について語ろうとしなかったが、沈黙は破られた。スタッフが固唾を飲む中初めて自らの歌詞について語る。同番組「ミュージックドキュメント 井上陽水×ロバート キャンベル『言の葉の海に漕ぎ出して』」は、日本放送文化大賞グランプリなど放送界の大きな賞を多数受賞。
この対談も含めて評論パートでは、何にこだわり、どんな心情を込めてきたのか陽水自身の言葉も多数紹介。「青い闇の警告」では、「言葉をそういうふうに並べることで、切なさや、人間って何だろうと想像してもらうんです。それこそがこの歌詞の目論見なのです」と。
病に倒れたキャンベルが病床で1日1作を英訳していったことから本書は生まれた。評論では人間の業や願いをすくって文学世界にも分け入っていく。命のカウントダウンが始まったとき、作家たちは何を日々記したか、何を望んだか。陽水の歌から、宮沢賢治、中江兆民、正岡子規など近現代の作家たちの声が立ち上ってくる。さらに、陽水が受けていたボブ・ディランの影響、ジェーン・バーキンらは陽水の「カナリア」をどう解釈したのかも――。愛や人間、人生、社会と、本書の中で陽水の言葉が読み手をも照らしていく。
【本書収録の英訳詞】
限りない欲望・人生が二度あれば・断絶・もしも明日が晴れなら・家へお帰り・傘がない・つめたい部屋の世界地図・東へ西へ・かんかん照り・夏まつり・夢の中へ・心もよう・帰れない二人・氷の世界・夕立・ゼンマイじかけのカブト虫・二色の独楽・招待状のないショー・青空、ひとりきり・曲り角・結詞・青い闇の警告・ミス コンテスト・甘い言葉ダーリン・なぜか上海・海へ来なさい・勝者としてのペガサス・ジェラシー・とまどうペリカン・カナリア・お願いはひとつ・ワカンナイ・背中まで45分・バレリーナ・いっそ セレナーデ・ダンスはうまく踊れない・飾りじゃないのよ 涙は・ワインレッドの心・ミスキャスト・恋こがれて・最後のニュース・少年時代 ・Just Fit・ドレミのため息・嘘つきダイヤモンド・アジアの純真・積み荷のない船・ビルの最上階・長い坂の絵のフレーム・覚めない夢
「陽水はうなぎだ」これは陽水の親友であるユーミンが放った一言。
後日TOKYO FMの番組で陽水と対談したキャンベルは、ついにうなぎを捕まえる。これまで陽水は決して歌詞について語ろうとしなかったが、沈黙は破られた。スタッフが固唾を飲む中初めて自らの歌詞について語る。同番組「ミュージックドキュメント 井上陽水×ロバート キャンベル『言の葉の海に漕ぎ出して』」は、日本放送文化大賞グランプリなど放送界の大きな賞を多数受賞。
この対談も含めて評論パートでは、何にこだわり、どんな心情を込めてきたのか陽水自身の言葉も多数紹介。「青い闇の警告」では、「言葉をそういうふうに並べることで、切なさや、人間って何だろうと想像してもらうんです。それこそがこの歌詞の目論見なのです」と。
病に倒れたキャンベルが病床で1日1作を英訳していったことから本書は生まれた。評論では人間の業や願いをすくって文学世界にも分け入っていく。命のカウントダウンが始まったとき、作家たちは何を日々記したか、何を望んだか。陽水の歌から、宮沢賢治、中江兆民、正岡子規など近現代の作家たちの声が立ち上ってくる。さらに、陽水が受けていたボブ・ディランの影響、ジェーン・バーキンらは陽水の「カナリア」をどう解釈したのかも――。愛や人間、人生、社会と、本書の中で陽水の言葉が読み手をも照らしていく。
【本書収録の英訳詞】
限りない欲望・人生が二度あれば・断絶・もしも明日が晴れなら・家へお帰り・傘がない・つめたい部屋の世界地図・東へ西へ・かんかん照り・夏まつり・夢の中へ・心もよう・帰れない二人・氷の世界・夕立・ゼンマイじかけのカブト虫・二色の独楽・招待状のないショー・青空、ひとりきり・曲り角・結詞・青い闇の警告・ミス コンテスト・甘い言葉ダーリン・なぜか上海・海へ来なさい・勝者としてのペガサス・ジェラシー・とまどうペリカン・カナリア・お願いはひとつ・ワカンナイ・背中まで45分・バレリーナ・いっそ セレナーデ・ダンスはうまく踊れない・飾りじゃないのよ 涙は・ワインレッドの心・ミスキャスト・恋こがれて・最後のニュース・少年時代 ・Just Fit・ドレミのため息・嘘つきダイヤモンド・アジアの純真・積み荷のない船・ビルの最上階・長い坂の絵のフレーム・覚めない夢
- 本の長さ306ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2019/5/16
- 寸法15.6 x 2.6 x 21.7 cm
- ISBN-104065131316
- ISBN-13978-4065131312
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商品の説明
著者について
ロバート キャンベル
ロバート キャンベル Robert Campbell
日本文学研究者。国文学研究資料館館長。東京大学名誉教授。
ニューヨーク市生まれ。カリフォルニア大学バークレー校卒業。ハーバード大学大学院東アジア言語文化学科博士課程修了、文学博士。1985年に九州大学文学部研究生として来日。専門は近世・近代日本文学。とくに江戸後期~明治前半の漢文学に関連の深い文芸ジャンル、芸術、メディア、思想などに関心を寄せている。著書には『Jブンガク 英語で出会い、日本語を味わう名作50』(編集、東京大学出版会)、『ロバート キャンベルの小説家神髄 現代作家6人との対話』(編著、NHK出版)、『東京百年物語』1~3(編集、岩波文庫)などがある。
ロバート キャンベル Robert Campbell
日本文学研究者。国文学研究資料館館長。東京大学名誉教授。
ニューヨーク市生まれ。カリフォルニア大学バークレー校卒業。ハーバード大学大学院東アジア言語文化学科博士課程修了、文学博士。1985年に九州大学文学部研究生として来日。専門は近世・近代日本文学。とくに江戸後期~明治前半の漢文学に関連の深い文芸ジャンル、芸術、メディア、思想などに関心を寄せている。著書には『Jブンガク 英語で出会い、日本語を味わう名作50』(編集、東京大学出版会)、『ロバート キャンベルの小説家神髄 現代作家6人との対話』(編著、NHK出版)、『東京百年物語』1~3(編集、岩波文庫)などがある。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2019/5/16)
- 発売日 : 2019/5/16
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 306ページ
- ISBN-10 : 4065131316
- ISBN-13 : 978-4065131312
- 寸法 : 15.6 x 2.6 x 21.7 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 261,857位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年8月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
井上陽水の歌詞の英訳には、省略されていた主語が必ず表にでてくる。そして日本語の歌詞で自分が誤解していたところもあるのに気付く。
2023年4月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
陽水独特の意味合いを英語でどう表現してあるかがわかり面白いです。
2019年6月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
改めて、彼の楽曲の詩を、英訳の詩と並べられると、独特な世界観が楽しめる。ロバートキャンベルさんの色々な話も面白い。
陽水ファンなら、手元に置いておきたい1冊である。
陽水ファンでなくても、彼のことに少しでも興味がある方は、是非とも一読してほしい。
陽水ファンなら、手元に置いておきたい1冊である。
陽水ファンでなくても、彼のことに少しでも興味がある方は、是非とも一読してほしい。
2021年12月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
作詞した本人(井上陽水)にもわからないことを質問してなんとか訳そうという試みは、なんだか無粋。そして英文を見ても「コレジャナイ」感。言語が違うんだからしょうがない。詩を訳すことの限界が見えました。日本語は曖昧なので受け取り手が解釈できる幅が英語よりずっと広いんだなと再確認しました。逆に言えば、作詞家は、受け取り手が自由に解釈できるように表現を曖昧にしているということも多いにあると思います。それが相まって作詞家と受け手が協力して豊かな世界を作っている。なのでわざわざ意味を限定していく行為が、なんとなく無粋に感じたのでした。
2020年1月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
やっぱり陽水さんのものは歌詞であって、歌ってこそいいものだと思います。陽水さんの歌詞はキャンベルさんのように一つ一つ細かく積み上げていくのでなく(それもとても刺激的なのです)もっとフワッとしたものだと思います。
キャンベルさんは、まず近くで細かいところを見ながら組み立てていって、少しずつ離れながら全体を見ていくようですが、陽水さんは遠くから全体をぼんやりと見当をつけて少しずつ細かいところを埋めていくのではないでしょうか。陽水さんはとても帳尻合わせがうまいのだと思います。でも、ところどころ埋めそこなった箇所があって整合性がないところもあるのだと思います。とても東洋的だと思います。半分勢いのようなところもあると思います。(でも、べつに気楽に書いているわけではなく、もともと詞を書くのは苦手で机に向かってウンウンうなって書いている、ということを聞いたことがあります。)
それに、日本語と英語の違いもあると思いますが(日本では、風景は俳句のようにほとんどそのまま心象風景になるのではないでしょうか。叙情として。)歌詞と詩の違いもあると思います。
詩の宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』がワカンナイ陽水さんは、自分ならこうなりたいと、歌として『海へ来なさい』を書いたのではないでしょうか。
「私はこういう人になりたい」と。
他人のことばかり考えていると、自分が空っぽになってしまいそうで。(もしかしたら、賢治は自分を無私にしたかったのかもしれませんが。)まず、自分自身が納得のいくような人間にならないといけない。そうしないと他人を幸せにする資格はないのでは、幸せというイメージも浮かばないし、と考えているのかも。もちろん、賢治の願いを踏まえた上で、自分もなんとかなりたいという、賢治の時代よりも豊かな時代にふさわしい「(思想ではなくて)生活感」なのかもしれません。(思想よりも生活感のほうが具体的な感じがしませんか。)そういう感覚が、詩には無いメロディーに乗ってダイレクトに伝わってくるのだと思います。メロディーとリズムとサウンドが詞の言い尽くせないところを補ってつじつまを合わせてくれます。意味的にではなく、情感的に。
逆に言うと、文学というのは言わなくていいことをあえて言わないと、伝わらないものなのかもしれません。
そして、陽水さんの歌は詩のようにいつまでもそこに存在するものではなく、どこからか立ち昇ってくる香りのよい煙のようなものでふわっと人の気持ちをよくして、しばらくしたらふーっと消えてしまうようなものだと思います。そよ風がしばらく吹き抜けてきて「気持ちよかったなあ」と「その時だけ」思うようなものなのではないでしょうか。そういう感興を起こすための装置の一つのようなものではないでしょうか。「その時に感じたものでないと本物ではないよ」というような。淡水魚の絵を描いた時の洋画と日本画の違いのようなものなのでは。
また、プリズム効果のように見る時と角度によって、またその時の気分によって味わいが違って感じられるのではないでしょうか。
これは、キャンベルさんがそうだというのではなく、言葉で世界を表現しようとすると、どうしてもその一面を切りとったものになり、全体を表現することはできないのではないでしょうか。それに陽水さんの、現象のある一部分を切り取って表現するのではなく全体像を(しかもとても繊細に)表現しようとしているところは、今の世の中の極度に専門化された視点ではなく博物学の視点に近いのではないのでしょうか。だから、極度に専門化された言葉で分析しようとすると、うなぎのようにつかみどころがなくなってしまうのではないでしょうか。それよりも、ガバッと丸ごと呑み込んで味わえば納得できるのでは。
陽水さんの頭の中にはおもちゃ箱のように多種多様な興味に任せたたくさんの知識や感興が詰まっているのでは。それを「歌」にしたものを一つの視点で括ろうとすることはできないのではないでしょうか。言葉だけで表現できないから歌にしているのでしょうし。
陽水さんの詞は「うなぎ」ともいえるのでしょうが「生きもの」なのではないでしょうか。北斎の波の描写のような。「ああ、こういう表現方法があったんだ。こういう表現をしてもいいんだ」という。
だから、詩のようにあんまりいつまでもジーっと見つめられると、陽水さんも「ちょっと、そういうものではないんじゃないの」と、居心地が悪くなってしまうのではないでしょうか。(すーっと通り過ぎたいのに「ちょっと立ち止まってください」と呼び止められてジロジロ見つめられるような。)やっぱり陽水さんは自分の歌詞を文学として語られると面映ゆいのではないでしょうか。陽水さんの歌は分析するよりも感じるものなのではないでしょうか。
ですから、この英訳詞集は陽水さんの歌詞を素材にしたキャンベルさんのアレンジによるキャンベルさんの文学作品だと思います。文学の語り方で歌を語っているのだとおもいます。異種格闘技戦のようなものだと思います。相手の思考の大系が違っているのに、自分の土俵で考えようとするので、よく分からなくなってしまうのだと思います。
私はテレビの番組で文学関係の人と音楽関係の人がそれぞれ陽水さんの音楽について語っているのを見ましたが文学側の人はいかにも「文学」という切り口で無理を感じました。自分の土俵から出てないなぁと思ってしまいました。私は宇多田ヒカルさんの話が一番素直に入ってきましたし、とても音楽的でした。文学と音楽は、それらを生じさせる衝動の質がそれぞれ違うのだと思います。音楽の方はどちらかというと言い過ぎかもしれませんが「唐揚げが食べたい!」に近いのだと思います。情動がより生です。(誤解のないように念のためにいっておくと「唐揚げが食べたい!」と言えることはとてもチャーミングなことなのだと思います。それをまわりくどくにしか言えない不便な人も世の中にはいるのですけど。あまりにも音楽が文学的になりすぎたために出現したのがパンクだとおもいます。「唐揚げ、食べたい!」と。
今、うちの裏に新しく家を建てているのですが、必要以上にガンガン大きな音を立てています。たぶん、自分が立てている音に高揚してハイになっているのだと思います。その衝動と似ているのではないでしょうか(笑)) それをどれだけ文学的に、ではなく音楽的に魅力的に表現するかという問題だと思います。
そこで生まれる詞は文学的な詩というよりもやはり歌詞としか言いようのないものだと思います。歌の世界で生まれて歌の世界で育ったものとしか言いようのないものだと思います。一方、文学的な歌詞は「料理にはどういう意義があるのか…。」とか考えていそうです。「歌」よりも「思考」の色合いが強いようです。冷めているのではないでしょうか。(ずいぶん前に、これからは自分の不幸をカミングアウトしてそれが世間で認められたらヒーローになれる、とかいうことを書いていた人がいましたが、そういうの「も」あっていいとは思いますがそればっかりになってもなぁ、と思います。)
一般的に歌謡曲というものははどちらかというと詩をあじわうもので、曲は詞を引き立てるものなのではないでしょうか。作曲家の皆さんすみません。ある種の邦楽の伝統でしょうか。どうかするとメロディを知らなくても勘で歌えたりしていました。それだけ日本語に合った言葉を生かすメロディだったのだと思います。
今の歌は詞よりもサウンドのほうがメインになっているようです。サウンドを引き立てるために歌詞が添えられているようです。詩を文学的に味わいたい人には向いていないのではないでしょうか。陽水さんが登場した時も、そのサウンドが革新的だったのではないでしょうか。(『氷の世界』が出た時も、それまでの「フォーク」然としたものと比べても、星勝さんのロックっぽいアレンジはインパクトがありました。)その歌唱力も。(今は、なんとなく素敵な詩の歌を口ずさんでみたいような気もしますけど。等身大の自分を普通に語ってみたいなぁ、とふと思ってしまいます。これはまた、詩の朗読とは違った感興を引き起こすと思います。色々あったほうがいいなぁ、と思います。そういう言葉が人格を育てる、ということもあると思います。)
もちろん詞も素晴らしいのですが、文学的に読もうとする人には「良く分からない」というのが正直なところではないでしょうか。歌詞として「感じる」のが「より」正解なのではないでしょうか。音楽と意味の中間のようなものではないでしょうか。日本語もかなり「感じる」要素が大きいのではないでしょうか。
さっきと逆のことを言うと、正確に歌っているのに実は意味をちゃんとは理解して歌ってはいなかった、という場合もあるようです。(よく子供が大人の歌をよくは分からずに、一生懸命に歌っていことがあります。そういうのもなかなかいいものですが。)やっぱり歌詞は音楽と意味の中間なのではないでしょうか。
歌を歌ったり聴いたりする時というのは、かなり浮かれた心理状態なのではないでしょうか。心は翔んでいます。歌詞にもどこか飛翔力があって捕まえても振り切って飛んでいきそうです。
(子供の頃、なにか想いが心の中に溢れてきたときに、思わず脈絡もない思い付きの歌詞でこれもまた思い付きのメロディーに乗せて行き当たりばったりに歌を歌っていたような思い出があります。こういうものが歌の原型ではないでしょうか。)
素材の取り扱い方も違うように思えます。どちらが上というのではなくて。根っこは同じでもやはり質が違うと思います。使っている脳の部位が違っているのではないでしょうか。まあ、陽水さんの詞が文学者の鑑賞にも耐えうるものだと保証されたのでしょうが。(この本はキャンベルさんの英訳詞集としても興味深いのですが、陽水さんの歌詞集としてもとても便利です。)
私も余技に英語の歌詞の和訳をしていますが、やはり原詞のまま、というよりも自分の詩になっているようです。歌を聴いているときの私の心の中と自分の訳詞を読んでいるときの心の中はやはり違っています。言葉から受ける「語感」というものが違うような気がします。
それでもキャンベルさんの訳詞はとても注意深く丁寧なもので、細やかな心のこもったものだと思います。
歌のメロディやリズムの代わりに、キャンベルさんにしか書けない文学的な労を尽くした考察が、読む人に陽水さんの詞の心を感じさせているようです。
それにしても、キャンベルさんの文章は柔らかくてしなやかでとても読みやすいですね。お手本にしたい文章です。もしかしたら、英語のスピリットをも持った日本語なのかもしれませんね。
私もやっぱりキャンベルさんの文章に触発されて、自分の頭に浮かんだことを書き連ねてしまいました。自分の言いたいことだけ書いてしまいました。キャンベルさんすみません。著者の心、評者知らずですね。
蛇足:長くなってしまいましたが、ついでに私なりの「カナリア」の感想を書いてみたいと思います。ここからは、怪しげなものでも読んでもいい、という奇特な方だけ読んでください。
「カナリア」を歌っている池田エライザさんの動画があって、これが良くて歌詞も付いているので、ついキャンベルさんの訳詞集を見直してしまいました。私は他の人が、私の興味のあることを面白いやり方で一生懸命考えているのを読むと、刺激されて自分も考えたくなるのです。面白そう、と思って。自分は自分のやり方で勝手に考えるのですが。我がままな奴ですね。
そして、私の妄想が広がりました。装置としての歌詞から広がった妄想なので、歌詞にはあまり対応していません。そうだから歌詞なのだ、というと我田引水に過ぎるでしょうか。私の屁理屈の実践版ですね。緻密に分析するやり方とは違っているかもしれません。直観ですね。だから、全くの見当はずれかもしれませんが思い切って書いてみました。私にとっての読解力とは、そこに書いてある客観的な事実と自分の妄想力とのすり合わせなのです。
理論的に合っているだけでなく、その裏打ちをしている情動のようなものも納得させてくれないと満足できないのです。これは、「学問」というよりも生活者の「詩情」というものだと思います。日本で言われる「言霊」という言葉の本来持っている実質と言ってもいいものかもしれません。あることを説明するのなら、理論だけでは片手落ちではないでしょうか。不完全だと思います。(さきほどの宮沢賢治の時の「思想と生活感」の関係と同じではないでしょうか。)芥川龍之介も『文芸的な、余りに文芸的な』のなかで、「瞠目」しながらも、森鴎外への違和感としてこのことを書いているようです。学者の人たちは芥川のこういうものを嫌うようですが。まあ、大目に見てください。こういう性分の人もいるのです。
今は学問が独り勝ちしていて、この詩情というものは瀕死の状態にあるように思えます。下手すると、詩情さえも学問的に語られないといけないようです。(もしかして、茂木健一郎さんとかは、この詩情を全開にしている学者さんではないのかな、と思ってしまいますが。(笑))こういうものは、なんというか「人柄」から出てくるものだと思います。
私のこの文章も、妙に理屈っぽい文章になっていますが、理屈ではなく私が感情で感じたことを書いています。でも感情そのままを書いたら他の人に通じないだろうと思って理屈っぽく書き直して書いています。少し硬い文章になっているのはそのためだと思います。(ちなみに、私は喋るようになるのが遅かったのは、もともと感じるタイプだったのが理論立てて喋ることができるようになるのに、時間がかかったからではないのかと思っています。)
感性を学問でピン留めしたら、もうそれは感性ではなく知性だと思うのですが。感性が生き生きすると、全人格的にも生き生きして知性も活発に働き始めるのではないでしょうか。やっぱり東洋医学的ですね。
一歩一歩着実に歩んでいくのも大事ですが、時には翼を広げて飛翔することもためにはなるのではないでしょうか。(また、芥川は『寒山拾得』の中でも、ロシア革命よりも寒山拾得のような詩情の世界の方に魅かれているようです。)
「理論的にどうなるか」ということをおろそかにしているわけではありませんが、せっかく感性というものもあるのですから、「どう感じているか」ということも手掛かりにしてもいいのではないでしょうか。
前置きが長くなってしまいました。それでは私なりの感想に入りたいと思います。
カナリアというのは「この世界」のことではないでしょうか。この世界のコアというか、神秘というか。それを擬人化したものではないでしょうか。
そして「自分がこの世界から愛されているのかどうか、とても知りたい」という欲求を満たしてくれるものではないでしょうか。
白雪姫の「鏡よ鏡、鏡さん。この世で一番美しい人は誰?」というのと同じで、自分がこの世界で一番愛されていたい、存在を認めてほしい、という欲求に応えてくれるものではないでしょうか。自分が認められたいという自己肯定欲というか。
その対象がカナリアではないでしょうか。
それを、昔のアラビアンナイトの女奴隷の踊り子や歌姫、話し相手、相談相手のような存在であり預言者のような、そんな人に問いかけているのではないでしょうか。シェヘラザードのような存在に対して。
そして「君」というのは、今付き合っている女の人かもしれないし、色々なものに形を変えて存在するようです。(なにか、手塚治虫の「火の鳥」みたいになってきました。)自分を満足させてくれるもの、一種の「愛」のようなものなのかもしれません。
そして、一番その世界から愛されているのは自分だ、と言ってほしい。存在を認めてほしい。
少年はその年代にあるように、春という愛の中に世界と一緒にいたいし、老人はやはりその年代によくあるように、思い出のような愛の中に世界と一緒にいたい。そして、素晴らしい世界の中にいたい。一体になりたい。
でも、そう感じるためにはどうしたらいいのか誰も知らない。せめて、その素晴らしい目に会えた人の事を話して聞かせてみて。一番輝いていた人の事を話してほしい。教えてほしい。この世界のだれか、カナリア。(そうやって人は物語を見たり読んだりするのかもしれません。)
池田エライザさんの、西田佐知子さんのような歌声で妄想が膨らんでしまいました。
私の妄想による感想です。
長々とすみません。
追記:この頃、山下達郎さんの人気がすごいそうです。みんな「一発で好きになった」と言っています。でも私は最初はピンときませんでした。昔の話です。
何でかとよく考えると、私はそれまで歌を詞で聴いていたようです。詞の割合が大きかったようです。
それで、山下さんのは最初よく分からなくてピンときませんでした。気にはなっていたのですけど。それに、その当時の洋楽というものを、あんまり知りませんでした。(実は今もよくは知りません。)私の知識は古くて、昔のものばっかりでした。私は遅れていたのです。だから、山下さんのやっていることが今一つ分かりませんでした。(そのころ日本では「もう欧米から学ぶものはない」と言われるようになっていました。「そんなことはないと思うけど」と私たちは言ってましたが。気のせいか、その頃から世間ではあまり洋楽がかからなくなってきたようでした。)
でも、聴いていくうちにだんだん山下さんの曲の良さが分かるようになってきました。山下さんの曲は、最初は「なんだこれ?」と思っていても聞き込んでいくうちに、だんだん良さが分かるようになってきて、だんだん好きになっていきます。じわじわと沁みてきます。ロングセラーが多いのもそのせいだと思います。人柄と同じだと思います。だんだん良さが分かってきます。
山下さんの曲が良いと思うようになってから、歌を(インストゥルメンタルはまた別に、サウンドだけで聴いていたのですが、詞とサウンドを同時に聞くとなると、どうしても詞の方を優先して聴いていたようです。)詞じゃなくて曲(サウンド)でも音楽を聴くようになってきました。たぶん、他の人たちもそうなのではないのでしょうか。
これは、私の勝手な思い込みですが、たぶん、山下達郎がよく聴かれるようになってから、日本人は詞じゃなくて、曲(サウンド)でも音楽を聴くようになったのではないでしょうか。(最近、歌の歌詞が話題に上ることも少ないようですし。昔はちゃんと歌詞を覚えて歌ってましたが、今はサビの部分だけとかちょっと耳に残るところだけ覚えてるだけです。だいたい歌詞が聞き取れず、後からネットで検索して歌詞を調べる始末です。)まあ、シティ・ポップの曲群のおかげもあると思いますが。
だから、歌謡曲→フォークソング→ニューミュージック→ポップス・ロック→シテイ・ポップと変化していくうちに、詞優先だったのが、曲(サウンド)優先に変化していったのではないでしょうか。だから、今、山下達郎さんの音楽が受けているのだと思います。
あ、でも山下さんの詞がダメだというわけじゃないですよ。詞もいいんですよ。曲にとてもよく合っています。
さらに追加:なんとなく今の一部のロックは、NHKの「みんなのうた」や学習雑誌の付録の音楽やアニソンとかの影響を受けているような気がします。テーマの取り方とか歌詞とかサウンドとか。別にそれが悪いとは言いませんが。(ビジョンがちょっと狭くなってしまうんじゃないのかと思ってしまいます。でも、別の見方をすると、新しい視点が一つ加わったということなのかもしれませんが。)ふと、思いついたので。あ、それとこの頃の曲は、みんなやたらと音圧が高いですね。優しい歌でも音圧が高くてあまり気が休まりません。これは、私が時代に追いついていけないせいでそう思うのだと思いますが。
(以上は私の妄想的な想いです。)
キャンベルさんは、まず近くで細かいところを見ながら組み立てていって、少しずつ離れながら全体を見ていくようですが、陽水さんは遠くから全体をぼんやりと見当をつけて少しずつ細かいところを埋めていくのではないでしょうか。陽水さんはとても帳尻合わせがうまいのだと思います。でも、ところどころ埋めそこなった箇所があって整合性がないところもあるのだと思います。とても東洋的だと思います。半分勢いのようなところもあると思います。(でも、べつに気楽に書いているわけではなく、もともと詞を書くのは苦手で机に向かってウンウンうなって書いている、ということを聞いたことがあります。)
それに、日本語と英語の違いもあると思いますが(日本では、風景は俳句のようにほとんどそのまま心象風景になるのではないでしょうか。叙情として。)歌詞と詩の違いもあると思います。
詩の宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』がワカンナイ陽水さんは、自分ならこうなりたいと、歌として『海へ来なさい』を書いたのではないでしょうか。
「私はこういう人になりたい」と。
他人のことばかり考えていると、自分が空っぽになってしまいそうで。(もしかしたら、賢治は自分を無私にしたかったのかもしれませんが。)まず、自分自身が納得のいくような人間にならないといけない。そうしないと他人を幸せにする資格はないのでは、幸せというイメージも浮かばないし、と考えているのかも。もちろん、賢治の願いを踏まえた上で、自分もなんとかなりたいという、賢治の時代よりも豊かな時代にふさわしい「(思想ではなくて)生活感」なのかもしれません。(思想よりも生活感のほうが具体的な感じがしませんか。)そういう感覚が、詩には無いメロディーに乗ってダイレクトに伝わってくるのだと思います。メロディーとリズムとサウンドが詞の言い尽くせないところを補ってつじつまを合わせてくれます。意味的にではなく、情感的に。
逆に言うと、文学というのは言わなくていいことをあえて言わないと、伝わらないものなのかもしれません。
そして、陽水さんの歌は詩のようにいつまでもそこに存在するものではなく、どこからか立ち昇ってくる香りのよい煙のようなものでふわっと人の気持ちをよくして、しばらくしたらふーっと消えてしまうようなものだと思います。そよ風がしばらく吹き抜けてきて「気持ちよかったなあ」と「その時だけ」思うようなものなのではないでしょうか。そういう感興を起こすための装置の一つのようなものではないでしょうか。「その時に感じたものでないと本物ではないよ」というような。淡水魚の絵を描いた時の洋画と日本画の違いのようなものなのでは。
また、プリズム効果のように見る時と角度によって、またその時の気分によって味わいが違って感じられるのではないでしょうか。
これは、キャンベルさんがそうだというのではなく、言葉で世界を表現しようとすると、どうしてもその一面を切りとったものになり、全体を表現することはできないのではないでしょうか。それに陽水さんの、現象のある一部分を切り取って表現するのではなく全体像を(しかもとても繊細に)表現しようとしているところは、今の世の中の極度に専門化された視点ではなく博物学の視点に近いのではないのでしょうか。だから、極度に専門化された言葉で分析しようとすると、うなぎのようにつかみどころがなくなってしまうのではないでしょうか。それよりも、ガバッと丸ごと呑み込んで味わえば納得できるのでは。
陽水さんの頭の中にはおもちゃ箱のように多種多様な興味に任せたたくさんの知識や感興が詰まっているのでは。それを「歌」にしたものを一つの視点で括ろうとすることはできないのではないでしょうか。言葉だけで表現できないから歌にしているのでしょうし。
陽水さんの詞は「うなぎ」ともいえるのでしょうが「生きもの」なのではないでしょうか。北斎の波の描写のような。「ああ、こういう表現方法があったんだ。こういう表現をしてもいいんだ」という。
だから、詩のようにあんまりいつまでもジーっと見つめられると、陽水さんも「ちょっと、そういうものではないんじゃないの」と、居心地が悪くなってしまうのではないでしょうか。(すーっと通り過ぎたいのに「ちょっと立ち止まってください」と呼び止められてジロジロ見つめられるような。)やっぱり陽水さんは自分の歌詞を文学として語られると面映ゆいのではないでしょうか。陽水さんの歌は分析するよりも感じるものなのではないでしょうか。
ですから、この英訳詞集は陽水さんの歌詞を素材にしたキャンベルさんのアレンジによるキャンベルさんの文学作品だと思います。文学の語り方で歌を語っているのだとおもいます。異種格闘技戦のようなものだと思います。相手の思考の大系が違っているのに、自分の土俵で考えようとするので、よく分からなくなってしまうのだと思います。
私はテレビの番組で文学関係の人と音楽関係の人がそれぞれ陽水さんの音楽について語っているのを見ましたが文学側の人はいかにも「文学」という切り口で無理を感じました。自分の土俵から出てないなぁと思ってしまいました。私は宇多田ヒカルさんの話が一番素直に入ってきましたし、とても音楽的でした。文学と音楽は、それらを生じさせる衝動の質がそれぞれ違うのだと思います。音楽の方はどちらかというと言い過ぎかもしれませんが「唐揚げが食べたい!」に近いのだと思います。情動がより生です。(誤解のないように念のためにいっておくと「唐揚げが食べたい!」と言えることはとてもチャーミングなことなのだと思います。それをまわりくどくにしか言えない不便な人も世の中にはいるのですけど。あまりにも音楽が文学的になりすぎたために出現したのがパンクだとおもいます。「唐揚げ、食べたい!」と。
今、うちの裏に新しく家を建てているのですが、必要以上にガンガン大きな音を立てています。たぶん、自分が立てている音に高揚してハイになっているのだと思います。その衝動と似ているのではないでしょうか(笑)) それをどれだけ文学的に、ではなく音楽的に魅力的に表現するかという問題だと思います。
そこで生まれる詞は文学的な詩というよりもやはり歌詞としか言いようのないものだと思います。歌の世界で生まれて歌の世界で育ったものとしか言いようのないものだと思います。一方、文学的な歌詞は「料理にはどういう意義があるのか…。」とか考えていそうです。「歌」よりも「思考」の色合いが強いようです。冷めているのではないでしょうか。(ずいぶん前に、これからは自分の不幸をカミングアウトしてそれが世間で認められたらヒーローになれる、とかいうことを書いていた人がいましたが、そういうの「も」あっていいとは思いますがそればっかりになってもなぁ、と思います。)
一般的に歌謡曲というものははどちらかというと詩をあじわうもので、曲は詞を引き立てるものなのではないでしょうか。作曲家の皆さんすみません。ある種の邦楽の伝統でしょうか。どうかするとメロディを知らなくても勘で歌えたりしていました。それだけ日本語に合った言葉を生かすメロディだったのだと思います。
今の歌は詞よりもサウンドのほうがメインになっているようです。サウンドを引き立てるために歌詞が添えられているようです。詩を文学的に味わいたい人には向いていないのではないでしょうか。陽水さんが登場した時も、そのサウンドが革新的だったのではないでしょうか。(『氷の世界』が出た時も、それまでの「フォーク」然としたものと比べても、星勝さんのロックっぽいアレンジはインパクトがありました。)その歌唱力も。(今は、なんとなく素敵な詩の歌を口ずさんでみたいような気もしますけど。等身大の自分を普通に語ってみたいなぁ、とふと思ってしまいます。これはまた、詩の朗読とは違った感興を引き起こすと思います。色々あったほうがいいなぁ、と思います。そういう言葉が人格を育てる、ということもあると思います。)
もちろん詞も素晴らしいのですが、文学的に読もうとする人には「良く分からない」というのが正直なところではないでしょうか。歌詞として「感じる」のが「より」正解なのではないでしょうか。音楽と意味の中間のようなものではないでしょうか。日本語もかなり「感じる」要素が大きいのではないでしょうか。
さっきと逆のことを言うと、正確に歌っているのに実は意味をちゃんとは理解して歌ってはいなかった、という場合もあるようです。(よく子供が大人の歌をよくは分からずに、一生懸命に歌っていことがあります。そういうのもなかなかいいものですが。)やっぱり歌詞は音楽と意味の中間なのではないでしょうか。
歌を歌ったり聴いたりする時というのは、かなり浮かれた心理状態なのではないでしょうか。心は翔んでいます。歌詞にもどこか飛翔力があって捕まえても振り切って飛んでいきそうです。
(子供の頃、なにか想いが心の中に溢れてきたときに、思わず脈絡もない思い付きの歌詞でこれもまた思い付きのメロディーに乗せて行き当たりばったりに歌を歌っていたような思い出があります。こういうものが歌の原型ではないでしょうか。)
素材の取り扱い方も違うように思えます。どちらが上というのではなくて。根っこは同じでもやはり質が違うと思います。使っている脳の部位が違っているのではないでしょうか。まあ、陽水さんの詞が文学者の鑑賞にも耐えうるものだと保証されたのでしょうが。(この本はキャンベルさんの英訳詞集としても興味深いのですが、陽水さんの歌詞集としてもとても便利です。)
私も余技に英語の歌詞の和訳をしていますが、やはり原詞のまま、というよりも自分の詩になっているようです。歌を聴いているときの私の心の中と自分の訳詞を読んでいるときの心の中はやはり違っています。言葉から受ける「語感」というものが違うような気がします。
それでもキャンベルさんの訳詞はとても注意深く丁寧なもので、細やかな心のこもったものだと思います。
歌のメロディやリズムの代わりに、キャンベルさんにしか書けない文学的な労を尽くした考察が、読む人に陽水さんの詞の心を感じさせているようです。
それにしても、キャンベルさんの文章は柔らかくてしなやかでとても読みやすいですね。お手本にしたい文章です。もしかしたら、英語のスピリットをも持った日本語なのかもしれませんね。
私もやっぱりキャンベルさんの文章に触発されて、自分の頭に浮かんだことを書き連ねてしまいました。自分の言いたいことだけ書いてしまいました。キャンベルさんすみません。著者の心、評者知らずですね。
蛇足:長くなってしまいましたが、ついでに私なりの「カナリア」の感想を書いてみたいと思います。ここからは、怪しげなものでも読んでもいい、という奇特な方だけ読んでください。
「カナリア」を歌っている池田エライザさんの動画があって、これが良くて歌詞も付いているので、ついキャンベルさんの訳詞集を見直してしまいました。私は他の人が、私の興味のあることを面白いやり方で一生懸命考えているのを読むと、刺激されて自分も考えたくなるのです。面白そう、と思って。自分は自分のやり方で勝手に考えるのですが。我がままな奴ですね。
そして、私の妄想が広がりました。装置としての歌詞から広がった妄想なので、歌詞にはあまり対応していません。そうだから歌詞なのだ、というと我田引水に過ぎるでしょうか。私の屁理屈の実践版ですね。緻密に分析するやり方とは違っているかもしれません。直観ですね。だから、全くの見当はずれかもしれませんが思い切って書いてみました。私にとっての読解力とは、そこに書いてある客観的な事実と自分の妄想力とのすり合わせなのです。
理論的に合っているだけでなく、その裏打ちをしている情動のようなものも納得させてくれないと満足できないのです。これは、「学問」というよりも生活者の「詩情」というものだと思います。日本で言われる「言霊」という言葉の本来持っている実質と言ってもいいものかもしれません。あることを説明するのなら、理論だけでは片手落ちではないでしょうか。不完全だと思います。(さきほどの宮沢賢治の時の「思想と生活感」の関係と同じではないでしょうか。)芥川龍之介も『文芸的な、余りに文芸的な』のなかで、「瞠目」しながらも、森鴎外への違和感としてこのことを書いているようです。学者の人たちは芥川のこういうものを嫌うようですが。まあ、大目に見てください。こういう性分の人もいるのです。
今は学問が独り勝ちしていて、この詩情というものは瀕死の状態にあるように思えます。下手すると、詩情さえも学問的に語られないといけないようです。(もしかして、茂木健一郎さんとかは、この詩情を全開にしている学者さんではないのかな、と思ってしまいますが。(笑))こういうものは、なんというか「人柄」から出てくるものだと思います。
私のこの文章も、妙に理屈っぽい文章になっていますが、理屈ではなく私が感情で感じたことを書いています。でも感情そのままを書いたら他の人に通じないだろうと思って理屈っぽく書き直して書いています。少し硬い文章になっているのはそのためだと思います。(ちなみに、私は喋るようになるのが遅かったのは、もともと感じるタイプだったのが理論立てて喋ることができるようになるのに、時間がかかったからではないのかと思っています。)
感性を学問でピン留めしたら、もうそれは感性ではなく知性だと思うのですが。感性が生き生きすると、全人格的にも生き生きして知性も活発に働き始めるのではないでしょうか。やっぱり東洋医学的ですね。
一歩一歩着実に歩んでいくのも大事ですが、時には翼を広げて飛翔することもためにはなるのではないでしょうか。(また、芥川は『寒山拾得』の中でも、ロシア革命よりも寒山拾得のような詩情の世界の方に魅かれているようです。)
「理論的にどうなるか」ということをおろそかにしているわけではありませんが、せっかく感性というものもあるのですから、「どう感じているか」ということも手掛かりにしてもいいのではないでしょうか。
前置きが長くなってしまいました。それでは私なりの感想に入りたいと思います。
カナリアというのは「この世界」のことではないでしょうか。この世界のコアというか、神秘というか。それを擬人化したものではないでしょうか。
そして「自分がこの世界から愛されているのかどうか、とても知りたい」という欲求を満たしてくれるものではないでしょうか。
白雪姫の「鏡よ鏡、鏡さん。この世で一番美しい人は誰?」というのと同じで、自分がこの世界で一番愛されていたい、存在を認めてほしい、という欲求に応えてくれるものではないでしょうか。自分が認められたいという自己肯定欲というか。
その対象がカナリアではないでしょうか。
それを、昔のアラビアンナイトの女奴隷の踊り子や歌姫、話し相手、相談相手のような存在であり預言者のような、そんな人に問いかけているのではないでしょうか。シェヘラザードのような存在に対して。
そして「君」というのは、今付き合っている女の人かもしれないし、色々なものに形を変えて存在するようです。(なにか、手塚治虫の「火の鳥」みたいになってきました。)自分を満足させてくれるもの、一種の「愛」のようなものなのかもしれません。
そして、一番その世界から愛されているのは自分だ、と言ってほしい。存在を認めてほしい。
少年はその年代にあるように、春という愛の中に世界と一緒にいたいし、老人はやはりその年代によくあるように、思い出のような愛の中に世界と一緒にいたい。そして、素晴らしい世界の中にいたい。一体になりたい。
でも、そう感じるためにはどうしたらいいのか誰も知らない。せめて、その素晴らしい目に会えた人の事を話して聞かせてみて。一番輝いていた人の事を話してほしい。教えてほしい。この世界のだれか、カナリア。(そうやって人は物語を見たり読んだりするのかもしれません。)
池田エライザさんの、西田佐知子さんのような歌声で妄想が膨らんでしまいました。
私の妄想による感想です。
長々とすみません。
追記:この頃、山下達郎さんの人気がすごいそうです。みんな「一発で好きになった」と言っています。でも私は最初はピンときませんでした。昔の話です。
何でかとよく考えると、私はそれまで歌を詞で聴いていたようです。詞の割合が大きかったようです。
それで、山下さんのは最初よく分からなくてピンときませんでした。気にはなっていたのですけど。それに、その当時の洋楽というものを、あんまり知りませんでした。(実は今もよくは知りません。)私の知識は古くて、昔のものばっかりでした。私は遅れていたのです。だから、山下さんのやっていることが今一つ分かりませんでした。(そのころ日本では「もう欧米から学ぶものはない」と言われるようになっていました。「そんなことはないと思うけど」と私たちは言ってましたが。気のせいか、その頃から世間ではあまり洋楽がかからなくなってきたようでした。)
でも、聴いていくうちにだんだん山下さんの曲の良さが分かるようになってきました。山下さんの曲は、最初は「なんだこれ?」と思っていても聞き込んでいくうちに、だんだん良さが分かるようになってきて、だんだん好きになっていきます。じわじわと沁みてきます。ロングセラーが多いのもそのせいだと思います。人柄と同じだと思います。だんだん良さが分かってきます。
山下さんの曲が良いと思うようになってから、歌を(インストゥルメンタルはまた別に、サウンドだけで聴いていたのですが、詞とサウンドを同時に聞くとなると、どうしても詞の方を優先して聴いていたようです。)詞じゃなくて曲(サウンド)でも音楽を聴くようになってきました。たぶん、他の人たちもそうなのではないのでしょうか。
これは、私の勝手な思い込みですが、たぶん、山下達郎がよく聴かれるようになってから、日本人は詞じゃなくて、曲(サウンド)でも音楽を聴くようになったのではないでしょうか。(最近、歌の歌詞が話題に上ることも少ないようですし。昔はちゃんと歌詞を覚えて歌ってましたが、今はサビの部分だけとかちょっと耳に残るところだけ覚えてるだけです。だいたい歌詞が聞き取れず、後からネットで検索して歌詞を調べる始末です。)まあ、シティ・ポップの曲群のおかげもあると思いますが。
だから、歌謡曲→フォークソング→ニューミュージック→ポップス・ロック→シテイ・ポップと変化していくうちに、詞優先だったのが、曲(サウンド)優先に変化していったのではないでしょうか。だから、今、山下達郎さんの音楽が受けているのだと思います。
あ、でも山下さんの詞がダメだというわけじゃないですよ。詞もいいんですよ。曲にとてもよく合っています。
さらに追加:なんとなく今の一部のロックは、NHKの「みんなのうた」や学習雑誌の付録の音楽やアニソンとかの影響を受けているような気がします。テーマの取り方とか歌詞とかサウンドとか。別にそれが悪いとは言いませんが。(ビジョンがちょっと狭くなってしまうんじゃないのかと思ってしまいます。でも、別の見方をすると、新しい視点が一つ加わったということなのかもしれませんが。)ふと、思いついたので。あ、それとこの頃の曲は、みんなやたらと音圧が高いですね。優しい歌でも音圧が高くてあまり気が休まりません。これは、私が時代に追いついていけないせいでそう思うのだと思いますが。
(以上は私の妄想的な想いです。)
2019年9月5日に日本でレビュー済み
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渾身の井上陽水英訳詩集に驚いた。名曲「少年時代」は、「青空に残された 私の心は夏模様」をキャンベル氏は「Left out in the blue sky, my heart takes on the shape of summer.」と英訳する。「青空に残された 私の心は夏の姿形を纏う」と直訳出来る。「私の心は夏模様」とは夏の印象(心象風景)、心が夏めいてくることを歌っているが、「夏の姿形」と風景そのものに解釈される。夏のイメージが夏の風景そのものになる。これが、日本語表現と英語表現の決定的な違いであろう。イメージを英訳するのは困難である。実に面白い。こういうニュアンスの違いを味わうのが本書を読む楽しさである。そして前半では、陽水の歌詞を英訳したキャンベル氏の思いが凝縮されている。こちらも面白い。キャンベル氏の渾身の訳業に感嘆すると共に、陽水の歌詞に日本文学としての価値を認めたキャンベル氏の慧眼を絶賛したい。お勧めの一冊だ。
2021年1月21日に日本でレビュー済み
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早速に発送して頂き、有りがとうございます
いい状態で、届きました。
いい状態で、届きました。
2019年6月10日に日本でレビュー済み
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この本を読むまで井上陽水は作曲家兼作詞家だと思っていましたが、当世最上級の詩人だってことがよく分かりました。