2020年107冊目/11月13冊目/『私の体験的ノンフィクション術』(集英社新書)/佐野 眞一/P.240/2011年/★3.4 #読了 #読了2020
二重の意味で面白かった。①仕事柄、誰かに取材をすることが多いが、ノンフィクション作家なりの取材とは何たるか、が参考になった。役に立つ知識や情報をまず相手に伝える。(p27)、相手に話の流れを作らせる(p48)②ノンフィクションの面白さを再発見できた。『東電OL殺人事件』『カリスマ』などを手掛けた徹底した現場取材は、それ自体が小説になりうる、さながらミステリー小説並の面白さだ。細木数子の例も面白い。彼曰くの最重要要素とは、自分だけの視点を持つ、独自の切り口を見つける、埋もれていた人物を発掘する。
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私の体験的ノンフィクション術 (集英社新書) 新書 – 2001/11/16
佐野 眞一
(著)
私淑する宮本常一をベースにしつつ、処女作『性の王国』から『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』まで、自作の舞台裏を明らかにした自伝的文章・取材論。
- ISBN-104087201171
- ISBN-13978-4087201178
- 出版社集英社
- 発売日2001/11/16
- 言語日本語
- 本の長さ240ページ
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登録情報
- 出版社 : 集英社 (2001/11/16)
- 発売日 : 2001/11/16
- 言語 : 日本語
- 新書 : 240ページ
- ISBN-10 : 4087201171
- ISBN-13 : 978-4087201178
- Amazon 売れ筋ランキング: - 374,752位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 394位ジャーナリズム (本)
- - 524位文学理論
- - 744位集英社新書
- カスタマーレビュー:
著者について
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1947(昭和22)年東京生れ。
出版社勤務を経てノンフィクション作家に。主著に、民俗学者・宮本常一と渋沢敬三の交流を描いた『旅する巨人』(大宅賞)、エリートOLの夜の顔と外国人労働者の生活、裁判制度を追究した『東電OL殺人事件』、大杉栄虐殺の真相に迫り、その通説を大きく覆した『甘粕正彦 乱心の曠野』『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』など多数。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2011年7月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
宮本常一に感化され、生涯をノンフィクションに捧げる著者の自伝である。
タイトルのとおりに、著者が学生の時代から現在に至るまでの「体験」を
紹介することがメインであるために、一般的な「ノンフィクション術」が
書かれているわけではない。
これまでに著者が形にしてきた作品について、なぜその問題を取り上げよう
と思ったのか、取材を進める際の苦労話、出版後の反応、などについて
時系列に沿って書かれているのである。
宮本常一の「あるく、みる、きく」を体現する筆者の姿勢は超人的であり、
近年のマスメディア不信に対する一つの解でもある。
堅苦しいことを抜きにして、1人のフリーライターの自伝として読んでも
抜群に面白く、スラスラ読めてしまう。
ただやはり、実際にノンフィクションを書く手法について、もう少し整理した
形で教えてほしかったかな。
具体的な手法を知りたい人は、野村進の「調べる技術・書く技術」がオススメ。
タイトルのとおりに、著者が学生の時代から現在に至るまでの「体験」を
紹介することがメインであるために、一般的な「ノンフィクション術」が
書かれているわけではない。
これまでに著者が形にしてきた作品について、なぜその問題を取り上げよう
と思ったのか、取材を進める際の苦労話、出版後の反応、などについて
時系列に沿って書かれているのである。
宮本常一の「あるく、みる、きく」を体現する筆者の姿勢は超人的であり、
近年のマスメディア不信に対する一つの解でもある。
堅苦しいことを抜きにして、1人のフリーライターの自伝として読んでも
抜群に面白く、スラスラ読めてしまう。
ただやはり、実際にノンフィクションを書く手法について、もう少し整理した
形で教えてほしかったかな。
具体的な手法を知りたい人は、野村進の「調べる技術・書く技術」がオススメ。
2021年5月15日に日本でレビュー済み
代表作『旅する巨人』でとりあげた民俗学者の宮本常一の著書から、佐野は「取材してから書くまでの方法を自我流で学んできた」。宮本常一が全国をくまなく自分の足で歩き、人に会い、話を聞くことに徹した姿勢、そこから著書がたどり着いたノンフィクションの定義は「固有名詞と動詞の文芸である。形容詞や副詞の修辞句は『腐る』が、固有名詞と動詞は人間がこの世に存在する限り、『腐らない』。いいいかえれば、固有名詞と動詞こそが、人間の『基本動作』であり、『歴史である』。
取材とは何か。取材者とは何者か。それを考えるにも佐野は宮本の著書に立ち戻る。宮本常一の故郷、周防大島では、旅から旅を渡り歩き、50歳を過ぎて村へ戻ってきて百姓をしているような人を「世間師(しょけんし)」と呼んだという。旅で見聞きしたできごとを故郷の人たちに面白おかしく話して聞かせる人たちのことだ。宮本の祖父がその典型だったらしい。宮本自身は自分のことを「伝書鳩」に例えることが多かったという。どこかで役に立つ話仕入れたら次に訪れる場所でそれを伝える。そんな存在だ。取材という行為は「役に立つ知識や情報をまず相手に伝える」ことからしか始まらない、と佐野はいう。そうやって信頼を得ながら相手の懐に入っていく。話を聞くときにノートにメモなど取らず、記憶にとどめておいてあとから文字にする。その内容は正確をきわめたという。それも宮本のフィールドワークのスタイルだった。
佐野自身のノンフィクションの手法として挙げているのが「映画の文法」だ。映画には二つの関係ない映像を「衝突」させることによりまったく別のイメージを喚起させる「モンタージュ」の手法をはじめ、多種多様な技法がある。映画監督志望だった佐野は早稲田大学の稲門シナリオ研究会というサークルでその面白さんに目覚めた。何本か映画のシナリオも描いた。その過程で「大切なのは、映画のあらすじを書くのではなく、自分が感動した映像表現を、言葉に移しかえてみることである」。
大学を卒業した佐野は新宿にあった小さな出版社。そこで『原色怪獣怪人大百科』という図鑑を大当たりさせる。その後、新宿歌舞伎町のキャバレーの上にあったタウン新聞の出版社を振り出しにさまざまな業界新聞社をわたり歩く。その経験が10年後、『業界紙諸君!』に結晶する。佐野はこの経験を振り返って言う。「私生活をの『体験』を書くだけでは狭くやせ細ったノンフィクションにしかならない。・・・自分の『体験』をより広い時間軸と空間軸のなかに放り込むことで、自分の『体験』が作品のなかで意味をもちはじめる」。
佐野は正力松太郎伝『巨怪伝』、宮本常一伝『旅する巨人』(大宅壮一ノンフィクション大賞)、中内功伝『カリスマ』、小渕恵三伝(凡宰伝)孫正義伝『あんぽん』など、ある時代を凝縮したような人物、その時代の光と影を一身に集めたような人間、を題材として次々とノンフィクションのベストセラーを生み出した。たんに有名な人をとりあげたのではない。「『いいテーマ』とは、テーマ自身が時間とともに成長せいていく課題のことである」と佐野は言う。たとえば佐野が正力や中内という人物に関心を抱いてから実際に彼らについて書き始めるまで、20年以上もかかっている。一方で、『東電OL殺人事件』は1990年代後半に東京電力の幹部社員だった女性が、東京都渋谷区円山町で殺害された事件を追った平成を代表する犯罪ノンフィクションである。センセーショナルな面ばかりが報道された事件だったが、被害者の生い立ちを追い、戦後復興からバブル崩壊に至る過程で何が失われたのかを彼女の目を通して描いたこの大作は昭和という時代へのレクイエムともいえるものだった。実はこの作品は、佐野にとって方法論的な挑戦だった。断片的な報道資料しかなく、東電OL本人は亡くなっているので取材もかなわない。家族も取材には応じない。そんななか佐野が選んだ手法は「死んだ彼女の目玉をくりぬき、それをコンタクトレンズのように自分の目にはめこみ、そのまなざしでこの世をながめて」みることだった。当然「これはノンフィクションではない」という批判がくるであろう、それも覚悟のうえだった。実際にこの本はノンフィクションというには佐野の想像が暴走しているのではと感じさせるところもあったが、この振り切った手法によって書かれた一冊は、とりわけ被害者と同世代の女性からの反響があり、それがまた『東電OL症候群(シンドローム)』という本になったくらいである。佐野が東電OLの目玉を借りて見た光景がいかに真に迫っていたか、という証だろう。
本書は佐野が自著の舞台裏を、着想から「取材・構成・執筆」そしてその後日談に至るまで惜しみなく語っている。タイトルは「ノンフィクション術」などという軽々しいものではなく、せめて「ノンフィクション流儀」とでもしてほしかった。「術」は再現可能だが「流儀」は人それぞれで極めるものである。エピローグに書かれているとおり、「個人情報保護法」により、宮本常一的な「あるく」「みる」「きく」取材は自由にできなくなった(宮本は郵便局の住民簿を、佐野は受託地図を頼りに取材をしていた)。その一方で、SNSやスマホの普及により、映像や個人の通信内容などが容易に入手できるようになった。本書は2001年発刊。それから20年たつ。ノンフィクションというジャンルにも再定義が必要になってきているが、ノンフィクションは「固有名詞と動詞の文芸である」ということに変わりはない。
取材とは何か。取材者とは何者か。それを考えるにも佐野は宮本の著書に立ち戻る。宮本常一の故郷、周防大島では、旅から旅を渡り歩き、50歳を過ぎて村へ戻ってきて百姓をしているような人を「世間師(しょけんし)」と呼んだという。旅で見聞きしたできごとを故郷の人たちに面白おかしく話して聞かせる人たちのことだ。宮本の祖父がその典型だったらしい。宮本自身は自分のことを「伝書鳩」に例えることが多かったという。どこかで役に立つ話仕入れたら次に訪れる場所でそれを伝える。そんな存在だ。取材という行為は「役に立つ知識や情報をまず相手に伝える」ことからしか始まらない、と佐野はいう。そうやって信頼を得ながら相手の懐に入っていく。話を聞くときにノートにメモなど取らず、記憶にとどめておいてあとから文字にする。その内容は正確をきわめたという。それも宮本のフィールドワークのスタイルだった。
佐野自身のノンフィクションの手法として挙げているのが「映画の文法」だ。映画には二つの関係ない映像を「衝突」させることによりまったく別のイメージを喚起させる「モンタージュ」の手法をはじめ、多種多様な技法がある。映画監督志望だった佐野は早稲田大学の稲門シナリオ研究会というサークルでその面白さんに目覚めた。何本か映画のシナリオも描いた。その過程で「大切なのは、映画のあらすじを書くのではなく、自分が感動した映像表現を、言葉に移しかえてみることである」。
大学を卒業した佐野は新宿にあった小さな出版社。そこで『原色怪獣怪人大百科』という図鑑を大当たりさせる。その後、新宿歌舞伎町のキャバレーの上にあったタウン新聞の出版社を振り出しにさまざまな業界新聞社をわたり歩く。その経験が10年後、『業界紙諸君!』に結晶する。佐野はこの経験を振り返って言う。「私生活をの『体験』を書くだけでは狭くやせ細ったノンフィクションにしかならない。・・・自分の『体験』をより広い時間軸と空間軸のなかに放り込むことで、自分の『体験』が作品のなかで意味をもちはじめる」。
佐野は正力松太郎伝『巨怪伝』、宮本常一伝『旅する巨人』(大宅壮一ノンフィクション大賞)、中内功伝『カリスマ』、小渕恵三伝(凡宰伝)孫正義伝『あんぽん』など、ある時代を凝縮したような人物、その時代の光と影を一身に集めたような人間、を題材として次々とノンフィクションのベストセラーを生み出した。たんに有名な人をとりあげたのではない。「『いいテーマ』とは、テーマ自身が時間とともに成長せいていく課題のことである」と佐野は言う。たとえば佐野が正力や中内という人物に関心を抱いてから実際に彼らについて書き始めるまで、20年以上もかかっている。一方で、『東電OL殺人事件』は1990年代後半に東京電力の幹部社員だった女性が、東京都渋谷区円山町で殺害された事件を追った平成を代表する犯罪ノンフィクションである。センセーショナルな面ばかりが報道された事件だったが、被害者の生い立ちを追い、戦後復興からバブル崩壊に至る過程で何が失われたのかを彼女の目を通して描いたこの大作は昭和という時代へのレクイエムともいえるものだった。実はこの作品は、佐野にとって方法論的な挑戦だった。断片的な報道資料しかなく、東電OL本人は亡くなっているので取材もかなわない。家族も取材には応じない。そんななか佐野が選んだ手法は「死んだ彼女の目玉をくりぬき、それをコンタクトレンズのように自分の目にはめこみ、そのまなざしでこの世をながめて」みることだった。当然「これはノンフィクションではない」という批判がくるであろう、それも覚悟のうえだった。実際にこの本はノンフィクションというには佐野の想像が暴走しているのではと感じさせるところもあったが、この振り切った手法によって書かれた一冊は、とりわけ被害者と同世代の女性からの反響があり、それがまた『東電OL症候群(シンドローム)』という本になったくらいである。佐野が東電OLの目玉を借りて見た光景がいかに真に迫っていたか、という証だろう。
本書は佐野が自著の舞台裏を、着想から「取材・構成・執筆」そしてその後日談に至るまで惜しみなく語っている。タイトルは「ノンフィクション術」などという軽々しいものではなく、せめて「ノンフィクション流儀」とでもしてほしかった。「術」は再現可能だが「流儀」は人それぞれで極めるものである。エピローグに書かれているとおり、「個人情報保護法」により、宮本常一的な「あるく」「みる」「きく」取材は自由にできなくなった(宮本は郵便局の住民簿を、佐野は受託地図を頼りに取材をしていた)。その一方で、SNSやスマホの普及により、映像や個人の通信内容などが容易に入手できるようになった。本書は2001年発刊。それから20年たつ。ノンフィクションというジャンルにも再定義が必要になってきているが、ノンフィクションは「固有名詞と動詞の文芸である」ということに変わりはない。
2002年8月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
民俗学者・宮本常一氏の「歩くドキュメンタリー」に感化された著者が、ダイエーや正力、出版界を斬るドキュメンタリーの尖兵として活躍していること自体が、素晴らしいことだと思います。
数々の著作を執筆するための調査、推理などを実例として、機上で専門用語をまき散らすのではなく、著者の言う「小文字」で訴える、格闘するドキュメンタリーの実際を見せてくれます。
ただ気になったのが、本書の直前に『だれが「本」を殺すのかPART2延長戦』を読んだところ、非常に内容が重複していました。というか、そちらは講演録なので、いたしかたないのですが、連続して読むとちょっと損した気分…。もし読むとしても、こちらが先ですね。
数々の著作を執筆するための調査、推理などを実例として、機上で専門用語をまき散らすのではなく、著者の言う「小文字」で訴える、格闘するドキュメンタリーの実際を見せてくれます。
ただ気になったのが、本書の直前に『だれが「本」を殺すのかPART2延長戦』を読んだところ、非常に内容が重複していました。というか、そちらは講演録なので、いたしかたないのですが、連続して読むとちょっと損した気分…。もし読むとしても、こちらが先ですね。
2006年11月29日に日本でレビュー済み
宮本常一の足を使った取材と調査の仕方に強い感銘を受けた著者が、ノンフィクション作家としてんがねんの体験から学んだ仕事の仕方について、懇切丁寧に具体的な例を挙げて書いた本書は、文章を書いて生きようと考えている人にとっての奥義書であり、著者の誠実さが漲っている点で素晴らしい手引書である。「取材の一番の基本動作は、とにかく歩くことである」と考える著者は、人間を訪ね当てて話すことから始めて問題を煮詰め、問題を明らかにし意識を研ぎ澄ませて仮説を実証していく。その具体的な例として引用する「遠いやまびこ」のケースは、この人が誠実で真摯な作家であることを証明している。統一教会の元会長が書いた本の内容をパクッて、醜い日本を美しいように摩り替えて首相になった、安倍のようなペテン政治家が支配している日本にあって、佐野真一という本当に土性骨の座った作家が健在なのは、何と素晴らしいことだと思わずにはいられなかった。カネのために雑文を書きまくっている作家が圧倒的な時代に、日本を心から愛している著者のようなまじめな作家がいることは、本当に嬉しいことだと晴れやかな気分の読後感を持てて嬉しい限りだ。
2012年3月26日に日本でレビュー済み
ノンフィクション作家の佐野眞一が2001年に書いた「ノンフィクション術」。これはスキル面に重点を置いたハウツーではなく、自分の問題点を深掘りし、自分だけの「切り口」を見つけるためのマインドセットをどう自分のなかにつくりあげるかについて、自らの経験をもとに書いたものだ。
著者自身が解説した、佐野眞一のノンフィクション作品の読み方についての本でもある。ある意味では2001年時点での佐野眞一によるノンフィクションの入門書になっている。
佐野眞一のノンフィクションの読者にとっては、舞台裏を知ることができるとともに、読者自身の読みと著者の思いの一致やズレを知ることもできる。なによりも、2012年の時点からノンフィクションで取り上げられ、切り取られた時代の断面を未来からのぞき込んでいるような不思議な感覚も感じるのは、出版後10年以上たってから読む者がもつ感想であろう。
宮本常一という民俗学者の作品と人生にインスパイアされたノンフィクション作品の数々。宮本常一が故郷の周防大島を出る際に父親からさずかったという教えが本書に引用されているが、じつに味わい深いものだ。佐野眞一にとって宮本常一はノンフィクション作品のテーマであるだけでなく、つねにインスパイアされる存在でもあることがよくわかる。
好き嫌いの分かれるノンフィクション作家であろうが、戦後日本大衆史を描き続けてきた佐野眞一の「中間報告」として読んでみるのもいいだろう。もちろん、ノンフィクションの書き方についての一つの入門書としても読めるものになっている。
著者自身が解説した、佐野眞一のノンフィクション作品の読み方についての本でもある。ある意味では2001年時点での佐野眞一によるノンフィクションの入門書になっている。
佐野眞一のノンフィクションの読者にとっては、舞台裏を知ることができるとともに、読者自身の読みと著者の思いの一致やズレを知ることもできる。なによりも、2012年の時点からノンフィクションで取り上げられ、切り取られた時代の断面を未来からのぞき込んでいるような不思議な感覚も感じるのは、出版後10年以上たってから読む者がもつ感想であろう。
宮本常一という民俗学者の作品と人生にインスパイアされたノンフィクション作品の数々。宮本常一が故郷の周防大島を出る際に父親からさずかったという教えが本書に引用されているが、じつに味わい深いものだ。佐野眞一にとって宮本常一はノンフィクション作品のテーマであるだけでなく、つねにインスパイアされる存在でもあることがよくわかる。
好き嫌いの分かれるノンフィクション作家であろうが、戦後日本大衆史を描き続けてきた佐野眞一の「中間報告」として読んでみるのもいいだろう。もちろん、ノンフィクションの書き方についての一つの入門書としても読めるものになっている。