女性が天皇になった時代があった。その時代の天皇は、いまの象徴天皇となにが違うのか?
それを考える前提のために、女性天皇を知るのは、最適な一冊。
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女性天皇 (集英社新書) 新書 – 2004/10/15
瀧浪 貞子
(著)
皇位継承の変遷から見た、新たな古代日本史。
飛鳥朝から奈良朝にかけて登場した六人の女帝に光を当てながら、古代王権の知られざる相貌を浮き彫りにした刺激的な論考。本書は、現在の皇位継承をめぐる議論にも、示唆的な内容を含んでいる。
飛鳥朝から奈良朝にかけて登場した六人の女帝に光を当てながら、古代王権の知られざる相貌を浮き彫りにした刺激的な論考。本書は、現在の皇位継承をめぐる議論にも、示唆的な内容を含んでいる。
- 本の長さ240ページ
- 言語日本語
- 出版社集英社
- 発売日2004/10/15
- ISBN-104087202623
- ISBN-13978-4087202625
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登録情報
- 出版社 : 集英社 (2004/10/15)
- 発売日 : 2004/10/15
- 言語 : 日本語
- 新書 : 240ページ
- ISBN-10 : 4087202623
- ISBN-13 : 978-4087202625
- Amazon 売れ筋ランキング: - 730,465位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年4月3日に日本でレビュー済み
この著者の本を読んだのは初めてでしたが今まで読んだどの学説とも異なるものが多く、独特の視点を持つ方だと感じました。それが正しいかどうかは自分には判断できませんが正直かなり違和感がありました。すみません長くなりますが、いくつかの点を挙げてみようと思います。
・まず「わたくしは女帝の所生皇子(実子)は立太子できず、皇位継承から除外されたと考えている」というものです。
皇極=斉明女帝の実子は中大兄皇子でしたが、彼が天皇に即位するまでに皇極の崩御から7年もかかったのは、女帝には「女帝所生の皇子は立太子できない」という条件が求められていたからとおっしゃっています。その証拠にもし中大兄の立太子が見込まれていたなら蘇我入鹿が討ったのは彼のはずだが、実際に討たれたのは山背大兄皇子だった、次期天皇とみなされていたのは山背だったから、と。
けれど、乙巳の変で蘇我本家が滅んだ後、皇極女帝は「皇位を中大兄に伝えようと思う」という詔を出しています。「実子は立太子できない」という決まりがあれば、こんな詔は出さないのではないでしょうか。
中臣鎌足が中大兄に「古人大兄皇子と軽皇子(孝徳天皇)がいるのに彼らを差し置いての即位はどんなものか」と助言したので中大兄は最初辞退したそうですが、当時は兄弟相承が普通で嫡子相承でなかったというのはありました。また、中大兄の即位に時間がかかったのは、白村江の戦いの大敗北の責任を問われたことや、同母の妹であり孝徳天皇の皇后だった間人皇女との不倫、近親相姦に対する批判が大きく、言わば人望がなかったからだと言われています。
・その後、持統女帝の時には、嫡子の草壁皇子(若くして亡くなったので即位はできなかった)→その嫡子の珂瑠皇子(文武天皇)と直系の実子が即位しています。
そのことについては著者は、養老継嗣令の皇兄弟子条に「凡そ皇の兄弟皇子を皆、親王とせよ。女帝の子もまた同じ」という文章があり、これによって女帝の実子も皇位継承の有資格者として認められるようになったとみなしています。
が、「ここに見える女帝の子について具体的な手がかりがあるわけではない」とも書いていらっしゃいますし、この一文をもってそれまでにそういう不文律=慣習があったという証拠とはできないのではないでしょうか。
・元明女帝が、自身の娘で長屋王の妻である吉備内親王の子供たちを格上げして皇孫待遇にし、子供が皇孫ならその親である長屋王も親王待遇となったことについて、内紛を避けるため長屋王を「皇家の藩屏」として位置づけることで王一家の持つ皇位継承権の凍結を図ったと書いていらっしゃいます。
「長屋王の皇位継承上の立場が強められたと考える意見もあるが正しい認識ではない。だいいち首皇子の即位を妨げるような状況を元明自らが作り出すわけがない」とも。
けれど元明は、首皇子に皇位を継承すると言いながら、次は首への譲位を見送り、娘の氷高内親王(元正女帝)に皇位を譲っています。この時、首は15歳であり、父の珂瑠皇子(文武天皇)が即位したのと同い年で即位は不可能ではありませんでした。なのになぜ氷高を即位させたのか?
これについて自分は「藤原不比等の孫でもある首皇子を即位させれば皇室は実質上藤原氏のものになってしまう。不比等が年老いて亡くなるのを待つために時間稼ぎをし、これ以上藤原氏が皇室にくい込むのを阻止、長屋王に皇位を継承させることを図った」という説の方を取ります。
・首皇子が即位し聖武天皇となった後、実母である藤原宮子を尊んで「大夫人」と称せよと勅命しましたが、長屋王が「律令では天皇の母となった「夫人」は「皇太夫人」と称することになっています」とこれを止めました。対して聖武は「文書では皇太夫人と書くが、言葉では「大御祖(おおみおや)=大夫人」と称せ」と強引に無理筋を通しました。
これを著者は「聖武にとって元明、元正が恩のある実母同然だったから、その実母を差し置いて宮子を「皇太夫人」と呼ぶわけにはいかないという思いがあった」と述べていらっしゃいます。が、むしろ、精神疾患を患いずっと会うことができなかった実母宮子への思慕が強かったからという説の方が説得力がある気がします。
・阿部内親王=後の孝謙女帝を「聖武天皇が唯一の直系男子である安積皇子の皇位継承権を否定するわけがない。直系相承だったので阿部の立太子は絶対だったが、それは阿部の後に安積が皇位継承することを見据えての中継ぎの処置だった」と断言されています。が、光明皇后の血筋が重視されていた中で、まだ若く長い間皇位にとどまるであろう阿部の後に、側室の皇子である安積を持ってくることは非現実的ではないでしょうか。
全体的に不比等、房前、聖武に対して好意的な記述が目立ちます。私などは聖武は気弱で世情に疎く、状況を客観視して聡明な判断を下すこともできなかった人物にしか見えないので、このあたりも個人的に違和感がありました。
その他、読んでみるとわかりますが「繰り返しになるが」という言葉が多すぎるのはどうもです。「もう一度確認すれば」「再三指摘したように」「繰り返し言うように」「このことについては繰り返し述べたので再言はしない(といいながらそこに同じことをもう一度書いている)」、そして次のページでまた「再三言及したように」と。
もしそこを強調したいのなら、まとめを最後に1度だけ書けばいいのではないでしょうか。
古代史に興味を持ってからわかってきたのは、資料が少ないため実際に何があったかは推測するしかない、何が史実なのか100%これが正しいということは結局わからないということです。その時代時代の傾向や主流、傍流というのはありますが、学者さんの数だけ学説があるような状態です。
たとえば戦前戦中は天皇を神格化する皇国史観であり、戦後はその反省から極端に左寄りになり、一時期共産党に参加していた網野善彦氏などはその代表でしょう。
また、津田左右吉氏が唱えた「15代応神以前の天皇は存在しない、日本書紀に描かれた日本神話は6世紀に天皇を神格化するため当時の権力者が作った完全な創作である」という説、これを引き継いだ井上光貞氏、そしてその教え子だった大山誠一氏は「日本書紀は藤原不比等によって創作されたものである」という説を唱えておられます。そうかと思えば田中英道氏のように右寄りの思想の方もいらっしゃいますし・・。
この著書では個人的には賛同できないものが多いですが、一つの説としてこれはこれで有りだと思います。もしこの本が古代史についての初読なら他にも様々な本を読んでみることをおすすめします。
・まず「わたくしは女帝の所生皇子(実子)は立太子できず、皇位継承から除外されたと考えている」というものです。
皇極=斉明女帝の実子は中大兄皇子でしたが、彼が天皇に即位するまでに皇極の崩御から7年もかかったのは、女帝には「女帝所生の皇子は立太子できない」という条件が求められていたからとおっしゃっています。その証拠にもし中大兄の立太子が見込まれていたなら蘇我入鹿が討ったのは彼のはずだが、実際に討たれたのは山背大兄皇子だった、次期天皇とみなされていたのは山背だったから、と。
けれど、乙巳の変で蘇我本家が滅んだ後、皇極女帝は「皇位を中大兄に伝えようと思う」という詔を出しています。「実子は立太子できない」という決まりがあれば、こんな詔は出さないのではないでしょうか。
中臣鎌足が中大兄に「古人大兄皇子と軽皇子(孝徳天皇)がいるのに彼らを差し置いての即位はどんなものか」と助言したので中大兄は最初辞退したそうですが、当時は兄弟相承が普通で嫡子相承でなかったというのはありました。また、中大兄の即位に時間がかかったのは、白村江の戦いの大敗北の責任を問われたことや、同母の妹であり孝徳天皇の皇后だった間人皇女との不倫、近親相姦に対する批判が大きく、言わば人望がなかったからだと言われています。
・その後、持統女帝の時には、嫡子の草壁皇子(若くして亡くなったので即位はできなかった)→その嫡子の珂瑠皇子(文武天皇)と直系の実子が即位しています。
そのことについては著者は、養老継嗣令の皇兄弟子条に「凡そ皇の兄弟皇子を皆、親王とせよ。女帝の子もまた同じ」という文章があり、これによって女帝の実子も皇位継承の有資格者として認められるようになったとみなしています。
が、「ここに見える女帝の子について具体的な手がかりがあるわけではない」とも書いていらっしゃいますし、この一文をもってそれまでにそういう不文律=慣習があったという証拠とはできないのではないでしょうか。
・元明女帝が、自身の娘で長屋王の妻である吉備内親王の子供たちを格上げして皇孫待遇にし、子供が皇孫ならその親である長屋王も親王待遇となったことについて、内紛を避けるため長屋王を「皇家の藩屏」として位置づけることで王一家の持つ皇位継承権の凍結を図ったと書いていらっしゃいます。
「長屋王の皇位継承上の立場が強められたと考える意見もあるが正しい認識ではない。だいいち首皇子の即位を妨げるような状況を元明自らが作り出すわけがない」とも。
けれど元明は、首皇子に皇位を継承すると言いながら、次は首への譲位を見送り、娘の氷高内親王(元正女帝)に皇位を譲っています。この時、首は15歳であり、父の珂瑠皇子(文武天皇)が即位したのと同い年で即位は不可能ではありませんでした。なのになぜ氷高を即位させたのか?
これについて自分は「藤原不比等の孫でもある首皇子を即位させれば皇室は実質上藤原氏のものになってしまう。不比等が年老いて亡くなるのを待つために時間稼ぎをし、これ以上藤原氏が皇室にくい込むのを阻止、長屋王に皇位を継承させることを図った」という説の方を取ります。
・首皇子が即位し聖武天皇となった後、実母である藤原宮子を尊んで「大夫人」と称せよと勅命しましたが、長屋王が「律令では天皇の母となった「夫人」は「皇太夫人」と称することになっています」とこれを止めました。対して聖武は「文書では皇太夫人と書くが、言葉では「大御祖(おおみおや)=大夫人」と称せ」と強引に無理筋を通しました。
これを著者は「聖武にとって元明、元正が恩のある実母同然だったから、その実母を差し置いて宮子を「皇太夫人」と呼ぶわけにはいかないという思いがあった」と述べていらっしゃいます。が、むしろ、精神疾患を患いずっと会うことができなかった実母宮子への思慕が強かったからという説の方が説得力がある気がします。
・阿部内親王=後の孝謙女帝を「聖武天皇が唯一の直系男子である安積皇子の皇位継承権を否定するわけがない。直系相承だったので阿部の立太子は絶対だったが、それは阿部の後に安積が皇位継承することを見据えての中継ぎの処置だった」と断言されています。が、光明皇后の血筋が重視されていた中で、まだ若く長い間皇位にとどまるであろう阿部の後に、側室の皇子である安積を持ってくることは非現実的ではないでしょうか。
全体的に不比等、房前、聖武に対して好意的な記述が目立ちます。私などは聖武は気弱で世情に疎く、状況を客観視して聡明な判断を下すこともできなかった人物にしか見えないので、このあたりも個人的に違和感がありました。
その他、読んでみるとわかりますが「繰り返しになるが」という言葉が多すぎるのはどうもです。「もう一度確認すれば」「再三指摘したように」「繰り返し言うように」「このことについては繰り返し述べたので再言はしない(といいながらそこに同じことをもう一度書いている)」、そして次のページでまた「再三言及したように」と。
もしそこを強調したいのなら、まとめを最後に1度だけ書けばいいのではないでしょうか。
古代史に興味を持ってからわかってきたのは、資料が少ないため実際に何があったかは推測するしかない、何が史実なのか100%これが正しいということは結局わからないということです。その時代時代の傾向や主流、傍流というのはありますが、学者さんの数だけ学説があるような状態です。
たとえば戦前戦中は天皇を神格化する皇国史観であり、戦後はその反省から極端に左寄りになり、一時期共産党に参加していた網野善彦氏などはその代表でしょう。
また、津田左右吉氏が唱えた「15代応神以前の天皇は存在しない、日本書紀に描かれた日本神話は6世紀に天皇を神格化するため当時の権力者が作った完全な創作である」という説、これを引き継いだ井上光貞氏、そしてその教え子だった大山誠一氏は「日本書紀は藤原不比等によって創作されたものである」という説を唱えておられます。そうかと思えば田中英道氏のように右寄りの思想の方もいらっしゃいますし・・。
この著書では個人的には賛同できないものが多いですが、一つの説としてこれはこれで有りだと思います。もしこの本が古代史についての初読なら他にも様々な本を読んでみることをおすすめします。
2013年11月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
今まで学校で教わらなかった事実、間違って教わった事について認識させられる大変面白い内容であった。
2016年11月15日に日本でレビュー済み
古代においても女帝により皇統の継承がなされることはなかった。6人・8代の女性天皇は「皇位」の継承者であっても「皇統」の継承者ではなかった、と著者はいいます。
もともと、我が国古代の皇位継承は、群臣の「衆議」による兄弟相承でした。皇太子制による安定した皇位継承が平安時代に確立されるまでの移行期にあらわれたのが、推古女帝から孝謙・称徳女帝に至るまでの女性天皇です。
ここで、嫡系男子による皇位継承の筋道をつけた「不改の常典」なる、天智天皇が定めたという皇位継承法があらわれます。天武帝と鸕野讚良(うのの・さらら、持統天皇)の子、草壁皇子の系統を嫡系とし、皇位を草壁系に限ったものです。
この後、草壁皇統は女帝の犠牲の上に無理を重ねて文武帝、聖武帝の即位をはかりますが、あえなく断絶。あとには嫡系主義の「不改の常典」のみが残されました。
さて、現代の皇位継承問題を巡る議論は何を後世に残すのでしょうか。
もともと、我が国古代の皇位継承は、群臣の「衆議」による兄弟相承でした。皇太子制による安定した皇位継承が平安時代に確立されるまでの移行期にあらわれたのが、推古女帝から孝謙・称徳女帝に至るまでの女性天皇です。
ここで、嫡系男子による皇位継承の筋道をつけた「不改の常典」なる、天智天皇が定めたという皇位継承法があらわれます。天武帝と鸕野讚良(うのの・さらら、持統天皇)の子、草壁皇子の系統を嫡系とし、皇位を草壁系に限ったものです。
この後、草壁皇統は女帝の犠牲の上に無理を重ねて文武帝、聖武帝の即位をはかりますが、あえなく断絶。あとには嫡系主義の「不改の常典」のみが残されました。
さて、現代の皇位継承問題を巡る議論は何を後世に残すのでしょうか。
2004年10月21日に日本でレビュー済み
推古から称徳に至る古代日本の女帝については、つとに「中継ぎ天皇」と説明されてきました。本書はその「中継ぎ」の中身を丁寧に分析・説明した力作だと思います。1「中継ぎ」とは基本的に、「皇位」は継承するが「皇統」の継承者ではないということ、即ち皇位を一時預かり、正統の継承者(男帝)に渡すための存在ということ。2持統は生前譲位・幼年天皇擁立などで先例を破った点においては画期を作ったといえるが、根本目的は草壁皇統の継続であり、その意味では女帝を貫いたといえること。3また孝謙(称徳)は女帝の分限を超えて「皇統」意識を持ったことにより同時代社会との軋轢を招いたなど、すっきりまとめられて明快でした。そして本書を(声高ではないが)特徴付けているのは、そうした存在であることを担った女帝たちに寄り添う、著者の繊細で人間的なまなざしです。現代の皇室典範改正論についての言及は一言だけ、「男性の有資格者がいないから女帝を認めるといった糊塗的な対処であっては、問題の先送りに過ぎず、なんら本質的な解決にはならない」。言下に、制度に身を捧げた女帝達の人生への思いが見えました。
2017年12月17日に日本でレビュー済み
新書での紹介にふさわしく、一般人の興味の範囲で、読みやすく面白く書いてある。
登場人物への評価を慎重に避けているようにみえるが、女性著者らしく、それぞれの女性天皇への共感が見て取れる。
にしては男系を当然とする価値観に疑いを持たないようで、学者らしさなのか、面白いパーソナリティだ。
客観的なようで著者の解釈が色濃いところを楽しむのがよい。
登場人物への評価を慎重に避けているようにみえるが、女性著者らしく、それぞれの女性天皇への共感が見て取れる。
にしては男系を当然とする価値観に疑いを持たないようで、学者らしさなのか、面白いパーソナリティだ。
客観的なようで著者の解釈が色濃いところを楽しむのがよい。