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科学と宗教と死 (集英社新書) 新書 – 2012/1/17
加賀 乙彦
(著)
医師として、作家として、そして信仰の徒として、「死」をめぐる思索の集大成
昭和四年に生まれ幼い時から戦争の時代を生きてきた著者。第二次大戦後も死刑囚と接する拘置所の医務技官として、また作家として、常に人間の生と死に向き合ってきた。子どもの頃は怖ろしい存在であった死が、医務技官として接した死刑囚の信仰心によって劇的な変化を遂げたこと。キリスト教の信者になってさらに死への考えを深めたこと。七九歳で突然迎えた最愛の妻の死。そして八一歳の時に心臓が停止して死の淵をさまよったこと。医師・作家・そして信仰の徒としてのこれまでの人生と、その中で続けてきた死についての思索の軌跡を率直につづる。
[著者情報]
加賀 乙彦(かが おとひこ)
一九二九年、東京生まれ。東京大学医学部医学科卒業。東京拘置所医務技官を務めた後、精神医学および犯罪学研究のためフランス留学。帰国後、東京医科歯科大学助教授、上智大学教授を歴任。日本芸術院会員。『小説家が読むドストエフスキー』『悪魔のささやき』『不幸な国の幸福論』(以上集英社新書)の他、『永遠の都』『宣告』(以上新潮文庫)、『死刑囚の記録』(中公新書)など著書多数。二〇一一年度文化功労者。
昭和四年に生まれ幼い時から戦争の時代を生きてきた著者。第二次大戦後も死刑囚と接する拘置所の医務技官として、また作家として、常に人間の生と死に向き合ってきた。子どもの頃は怖ろしい存在であった死が、医務技官として接した死刑囚の信仰心によって劇的な変化を遂げたこと。キリスト教の信者になってさらに死への考えを深めたこと。七九歳で突然迎えた最愛の妻の死。そして八一歳の時に心臓が停止して死の淵をさまよったこと。医師・作家・そして信仰の徒としてのこれまでの人生と、その中で続けてきた死についての思索の軌跡を率直につづる。
[著者情報]
加賀 乙彦(かが おとひこ)
一九二九年、東京生まれ。東京大学医学部医学科卒業。東京拘置所医務技官を務めた後、精神医学および犯罪学研究のためフランス留学。帰国後、東京医科歯科大学助教授、上智大学教授を歴任。日本芸術院会員。『小説家が読むドストエフスキー』『悪魔のささやき』『不幸な国の幸福論』(以上集英社新書)の他、『永遠の都』『宣告』(以上新潮文庫)、『死刑囚の記録』(中公新書)など著書多数。二〇一一年度文化功労者。
- 本の長さ176ページ
- 言語日本語
- 出版社集英社
- 発売日2012/1/17
- ISBN-104087206246
- ISBN-13978-4087206241
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登録情報
- 出版社 : 集英社 (2012/1/17)
- 発売日 : 2012/1/17
- 言語 : 日本語
- 新書 : 176ページ
- ISBN-10 : 4087206246
- ISBN-13 : 978-4087206241
- Amazon 売れ筋ランキング: - 60,985位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2012年3月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
帯には「医師として、作家として、そして信仰の徒として「死」をめぐる思索の集大成」とありますが、じっさいは、加賀さんのライフヒストリーに沿って、ということは、体験談を交えながら、「です・ます」で語られた、とても読みやすい本です。
軍国少年として、死刑囚と向き合う医師として、あるいは一死刑囚の友として、加賀さんが死について感じ、考えたことがわかりやすく述べられています。また、ご自身の運転していた車が事故に遭い、転がる車の中で経験した死、また、おつれあいの死についても。
おもしろいのは、精神科医である加賀さんが、「ある程度人間を、心理学用語で分類しないと診断がつきません。ところが人間にはそういう既成の概念では整理できない、海の底のような深みがある。それは「心理」という言葉では言いあらわせません。「魂」というような、もう少し複雑なものが心理を支えているのではないかと思うようになったのです」(p.79)と述べていることです。
人間は、心を落ち着かせようと思っても落ち着かせることができない、心配するまいと思っても心配してしまうように、理性によって「心理」(というか、「感情」でしょうか・・・)を手なずけることが難しいのですが、それでも、「心理」にすべて取り込まれているわけでもなく、「心配するまいと思っても心配してしまう」自分を見る目があります。
あるいは、どんなに心がずたずたになっても、ずたずたな心そのものに飲み込まれてしまわずに、「ずたずたで立ち上がれない。けれども・・・」という、もしかしたら希望になるかもしれない芽のようなものがあります。
それをわたしはキリスト教信仰の立場から「霊」と呼んできたのですが(というか、キリスト教が伝統的に使っている「霊」という語を、わたしは個人的にそのように理解しているのですが)、加賀さんがここで言う「魂」とも共通する点があるかもしれない、と思いました。
阪神淡路大震災の時、加賀さんは精神科医として東京から応援に行き(このことは中井久夫さんの著作にも出てきます)、そのことや、今回の東日本大震災や原発事故について思うことも書いておられます。
わたしは加賀さんの小説を読んだことがないのですが、加賀乙彦入門としても、そして、死や宗教、科学について考えるきっかけとしても、手軽な一冊と言えるでしょう。
軍国少年として、死刑囚と向き合う医師として、あるいは一死刑囚の友として、加賀さんが死について感じ、考えたことがわかりやすく述べられています。また、ご自身の運転していた車が事故に遭い、転がる車の中で経験した死、また、おつれあいの死についても。
おもしろいのは、精神科医である加賀さんが、「ある程度人間を、心理学用語で分類しないと診断がつきません。ところが人間にはそういう既成の概念では整理できない、海の底のような深みがある。それは「心理」という言葉では言いあらわせません。「魂」というような、もう少し複雑なものが心理を支えているのではないかと思うようになったのです」(p.79)と述べていることです。
人間は、心を落ち着かせようと思っても落ち着かせることができない、心配するまいと思っても心配してしまうように、理性によって「心理」(というか、「感情」でしょうか・・・)を手なずけることが難しいのですが、それでも、「心理」にすべて取り込まれているわけでもなく、「心配するまいと思っても心配してしまう」自分を見る目があります。
あるいは、どんなに心がずたずたになっても、ずたずたな心そのものに飲み込まれてしまわずに、「ずたずたで立ち上がれない。けれども・・・」という、もしかしたら希望になるかもしれない芽のようなものがあります。
それをわたしはキリスト教信仰の立場から「霊」と呼んできたのですが(というか、キリスト教が伝統的に使っている「霊」という語を、わたしは個人的にそのように理解しているのですが)、加賀さんがここで言う「魂」とも共通する点があるかもしれない、と思いました。
阪神淡路大震災の時、加賀さんは精神科医として東京から応援に行き(このことは中井久夫さんの著作にも出てきます)、そのことや、今回の東日本大震災や原発事故について思うことも書いておられます。
わたしは加賀さんの小説を読んだことがないのですが、加賀乙彦入門としても、そして、死や宗教、科学について考えるきっかけとしても、手軽な一冊と言えるでしょう。
2021年4月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
最高の本に出合ったと思っています。加賀乙彦の本は2冊目ですが、今後できるだけたくさん読みたくなりました。まず、著者は大変知的ですが、文章が読みやすくて分かりやすい。戦争体験があるために死の概念が若い頃から身近にあり、それが高じて死刑囚に携わる仕事を選んだとのことです。普通死刑囚とのやり取りを書いた本というのは、敬遠してしまう人が多いと思いますが、著者にかかると大変人間的な人たちなのだということが分かります。キリスト教との出会いも死刑囚から感化されたとあり、この人の本を読むと自分自身の視野が広がり、教養を増すような気がしてきます。
2012年4月28日に日本でレビュー済み
自伝のような・・・。ノンフィクションとしてもっと分析的な書きぶりでお願いしたい感じがした。幼年学校の生徒であり、軍国主義を肯定していた過去を隠していないところ、一方、戦死することに疑念を抱いていたことを素直に語っている点は良い。死刑囚と無期懲役受刑者の比較は著者の実体験からくる話で良かった。死を意識しながら今を大切に生きるということを、刑務所で学んだ。
2014年12月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者の心からの言葉があふれている。
かなりの知識人でありながら、平易な言葉で真摯に語っている。
タイトルは堅ぐるしいが、本気で人生を歩んでいるのが、ひしひしと
伝わってくる。
こういう先達がいることが有難い。
かなりの知識人でありながら、平易な言葉で真摯に語っている。
タイトルは堅ぐるしいが、本気で人生を歩んでいるのが、ひしひしと
伝わってくる。
こういう先達がいることが有難い。
2014年6月16日に日本でレビュー済み
人生の先輩の体験は、その時代を生きたことのない私たちにリアリティとディテールを教えてくれます。
そこから、何を学ぶか? ですね。
私がメモしたのは以下のような箇所です。
1)陸軍幼年学校の教育
皇軍教育を叩き込まれた。戦争がひどくなり、第一線の将校がバタバタ死んでいった。自分も死ぬんだと覚悟したという。だが、
<けれども「戦争で死ぬ」というのは考えてみると変なのです。日本語では「死ぬ」と言いますが、英語だと受動態で「殺される」という意味でしょう。日本語で「死ぬ」というと、まるで自分の意志で死ぬ、自殺するようですが、戦争の死は自殺ではなく、他者によって殺されるのです。正確には「殺される」と言うべきです>
2)幼年学校校長が聞き間違えた玉音放送
<校長は予備役の、70歳くらいの少将でしたが、放送が終わったら「ただいま玉音を拝し奉り、我々はいよいよソ連と一戦を交えることになった」と言ったのです。
(中略)
しばらくすると今度は泣きながら校長が出てきて、壇上から「日本は負けた」と言ったのです。「ただいまは天皇陛下のお言葉を聞き誤った。申しわけない。無敵皇軍は負けた。やがて敵が上陸してくるだろう。そのとき真っ先に殺されるのはおまえたちだ。そこでこれから、おまえたちの全ての痕跡を消すために、毎日、書類を焼いてしまうのだ」という話でした>
傑作なのは、書類を焼く作業中に、偶然、自分の採点表を見つけたことだった。
<ずいぶんひどいことが書いてありました。「性格ひ弱にして、軍人たる素質は皆無なり」と。私は図書館にこもって本ばかり読んでいましたし、寒いときは「風邪で熱があります」と仮病で体操や術科をサボっていました。ですから柔道もだめ、剣道もだめ。確かに軍人たる素質はなかったかもしれませんが、それにしてもずいぶんひどいことを書くもんだと思ったものです>
3)人生は偶然
<さて、私が入学したのは理科でした。だいたい、何科があるのかもよく知らずに行列に並んだものですから、もらってきたのが理科の入学申込書だったのです。考えてみれば、私の人生はみな偶然ばかり。変な人生です>
加賀さんの高校受験では「試験は口頭試問で、二つ問題が出ました」と述べている。ひとつは原子量表、もうひとつは「虹というのはどうしてああいうふうに色が変わるんですか?」。他愛もない幼稚な問題だった。
加賀さんは、父親が「文科などに入ったら餓死するぞ。生きていくには理科がいい」と言うのに従い、当時興味を持った犯罪学という精神医学の道に進んだ。
4)死刑囚の心理と臨死体験
加賀さんの死刑囚の報告は有名だが、本書では、そのエッセンスがまとめられている。つまり、人は死を目前にすると意識が変容するのだ。それを、自分の奇跡的な転落体験と重ね合わせている。
アルプスの山道をクルマで走っていて、4、50メートルも転落。即死を覚悟し、死を受け入れた。
<その時間は3秒くらいだったでしょうが、妙に長く感じられました。私は不思議と冷静で、最後に周りのきれいな景色をもういっぺん見てやろうとキョロキョロ見回す余裕までありました。黄葉した木々が朝日を浴びて、ほのかな赤みを帯びた黄金色に輝いています。何と美しいのだろう。その美しい世界の一部に微塵のような私が存在し、神の大きな手のひらに、ひらりと飛び乗ったような感じでした>
非常に率直な臨死体験であり、数々の体験記と共通している。
この体験と、死刑囚の心理が重ねられている。死刑囚も、死を受け入れると、躁状態になる、つまり脳内麻薬のエンドルフィンが出ることが読者にはわかる。
「死は苦ではなく、本当は楽なのだ」という本紙の信念を加賀さんに裏打ちしてもらえた。
5)洗礼を受ける動機は遠藤周作氏の批判
人が信仰に目覚める、あるいは洗礼を受けるのはなぜなのか? 本紙は中学高校をベルギー人神父が校長を務めるカトリックの男子高で学んだ。週に一度の宗教の時間には、校長に「神の実在を証明してください」と詰問するような嫌な生徒だった。その頃から、「人はなぜ、どんな動機で信仰に目覚めるのか」というテーマで、文献を漁ってきた。そして加賀さんの回心は非常に身近で、わかる内容だった。有り難いものだった。
<(満たされない気持ちになった)その原因の一つにこういうことがありました。「宣告」を書き終えたとき、遠藤周作氏に批判されたのです。「この作者はキリスト教についてとてもよく調べ、よく知っているけれども、本当の信仰を知らないのではないか」と。信仰というのは、魂が震えるほどの喜びがなければ出てこないものだ。「宣告」にはそれがないと。
また遠藤氏は私に向かって「あんたは無免許運転だ。洗礼を受けていないから、まだきちんと自分の信仰が定まっていない。ときには無免許運転をして、道路っぺの人をはねたりしているね」とというようなことを、彼一流のユーモアで言いました。私はそのとき、どきりとしました。そうかもしれない。彼の言うとおりかもしれないと思ったのです」
真正面からの問いかけに、真正面から答えようとするときに、信仰が生まれる。
加賀さんは、門脇佳吉神父を頼った。
イグナチオ・デ・ロヨラ自叙伝「ある巡礼者の物語」という名著の翻訳と注解を行ったのが門脇神父。素晴らしい神父さまだった。質問がたくさんあると言う加賀さんに、「それでは、4日ぐらいかかりますね」と応えたのだ。
互いのスケジュールを調整して、4日間、質問と答えが繰り返された。だが、3日目のお昼頃、「目からうろこが落ちた瞬間」が到来したという。パウロの回心と似た心境に達したのだ。
<パウロの回心とは、あんな気持ちだったのではないかと想像します。パウロというのはイエスが死んだ後でキリスト教徒になるのですが、もともとはキリスト教徒を迫害していた人物です。ところがダマスカスで「パウロよ、なぜ余を迫害するか」というイエスの声を聞く。
天からの強い光に打たれ、パウロは何も見えなくなります。それから3日間、目は見えず、飲むことも食べることもできずに過ごします。そして3日目に、パウロはキリストが「神の子」だという揺るぎない信念を得ます。その途端、目からうろこのようなものが落ちて目が見えるようになる。「目からうろこが落ちる」というのは、ここから来た言葉です>
加賀さんに訪れたのは、「わき起こるような喜び」だったという。信仰と回心の率直な体験報告は、本紙のみならず、多くの人に共感を呼ぶはずだ。
そこから、何を学ぶか? ですね。
私がメモしたのは以下のような箇所です。
1)陸軍幼年学校の教育
皇軍教育を叩き込まれた。戦争がひどくなり、第一線の将校がバタバタ死んでいった。自分も死ぬんだと覚悟したという。だが、
<けれども「戦争で死ぬ」というのは考えてみると変なのです。日本語では「死ぬ」と言いますが、英語だと受動態で「殺される」という意味でしょう。日本語で「死ぬ」というと、まるで自分の意志で死ぬ、自殺するようですが、戦争の死は自殺ではなく、他者によって殺されるのです。正確には「殺される」と言うべきです>
2)幼年学校校長が聞き間違えた玉音放送
<校長は予備役の、70歳くらいの少将でしたが、放送が終わったら「ただいま玉音を拝し奉り、我々はいよいよソ連と一戦を交えることになった」と言ったのです。
(中略)
しばらくすると今度は泣きながら校長が出てきて、壇上から「日本は負けた」と言ったのです。「ただいまは天皇陛下のお言葉を聞き誤った。申しわけない。無敵皇軍は負けた。やがて敵が上陸してくるだろう。そのとき真っ先に殺されるのはおまえたちだ。そこでこれから、おまえたちの全ての痕跡を消すために、毎日、書類を焼いてしまうのだ」という話でした>
傑作なのは、書類を焼く作業中に、偶然、自分の採点表を見つけたことだった。
<ずいぶんひどいことが書いてありました。「性格ひ弱にして、軍人たる素質は皆無なり」と。私は図書館にこもって本ばかり読んでいましたし、寒いときは「風邪で熱があります」と仮病で体操や術科をサボっていました。ですから柔道もだめ、剣道もだめ。確かに軍人たる素質はなかったかもしれませんが、それにしてもずいぶんひどいことを書くもんだと思ったものです>
3)人生は偶然
<さて、私が入学したのは理科でした。だいたい、何科があるのかもよく知らずに行列に並んだものですから、もらってきたのが理科の入学申込書だったのです。考えてみれば、私の人生はみな偶然ばかり。変な人生です>
加賀さんの高校受験では「試験は口頭試問で、二つ問題が出ました」と述べている。ひとつは原子量表、もうひとつは「虹というのはどうしてああいうふうに色が変わるんですか?」。他愛もない幼稚な問題だった。
加賀さんは、父親が「文科などに入ったら餓死するぞ。生きていくには理科がいい」と言うのに従い、当時興味を持った犯罪学という精神医学の道に進んだ。
4)死刑囚の心理と臨死体験
加賀さんの死刑囚の報告は有名だが、本書では、そのエッセンスがまとめられている。つまり、人は死を目前にすると意識が変容するのだ。それを、自分の奇跡的な転落体験と重ね合わせている。
アルプスの山道をクルマで走っていて、4、50メートルも転落。即死を覚悟し、死を受け入れた。
<その時間は3秒くらいだったでしょうが、妙に長く感じられました。私は不思議と冷静で、最後に周りのきれいな景色をもういっぺん見てやろうとキョロキョロ見回す余裕までありました。黄葉した木々が朝日を浴びて、ほのかな赤みを帯びた黄金色に輝いています。何と美しいのだろう。その美しい世界の一部に微塵のような私が存在し、神の大きな手のひらに、ひらりと飛び乗ったような感じでした>
非常に率直な臨死体験であり、数々の体験記と共通している。
この体験と、死刑囚の心理が重ねられている。死刑囚も、死を受け入れると、躁状態になる、つまり脳内麻薬のエンドルフィンが出ることが読者にはわかる。
「死は苦ではなく、本当は楽なのだ」という本紙の信念を加賀さんに裏打ちしてもらえた。
5)洗礼を受ける動機は遠藤周作氏の批判
人が信仰に目覚める、あるいは洗礼を受けるのはなぜなのか? 本紙は中学高校をベルギー人神父が校長を務めるカトリックの男子高で学んだ。週に一度の宗教の時間には、校長に「神の実在を証明してください」と詰問するような嫌な生徒だった。その頃から、「人はなぜ、どんな動機で信仰に目覚めるのか」というテーマで、文献を漁ってきた。そして加賀さんの回心は非常に身近で、わかる内容だった。有り難いものだった。
<(満たされない気持ちになった)その原因の一つにこういうことがありました。「宣告」を書き終えたとき、遠藤周作氏に批判されたのです。「この作者はキリスト教についてとてもよく調べ、よく知っているけれども、本当の信仰を知らないのではないか」と。信仰というのは、魂が震えるほどの喜びがなければ出てこないものだ。「宣告」にはそれがないと。
また遠藤氏は私に向かって「あんたは無免許運転だ。洗礼を受けていないから、まだきちんと自分の信仰が定まっていない。ときには無免許運転をして、道路っぺの人をはねたりしているね」とというようなことを、彼一流のユーモアで言いました。私はそのとき、どきりとしました。そうかもしれない。彼の言うとおりかもしれないと思ったのです」
真正面からの問いかけに、真正面から答えようとするときに、信仰が生まれる。
加賀さんは、門脇佳吉神父を頼った。
イグナチオ・デ・ロヨラ自叙伝「ある巡礼者の物語」という名著の翻訳と注解を行ったのが門脇神父。素晴らしい神父さまだった。質問がたくさんあると言う加賀さんに、「それでは、4日ぐらいかかりますね」と応えたのだ。
互いのスケジュールを調整して、4日間、質問と答えが繰り返された。だが、3日目のお昼頃、「目からうろこが落ちた瞬間」が到来したという。パウロの回心と似た心境に達したのだ。
<パウロの回心とは、あんな気持ちだったのではないかと想像します。パウロというのはイエスが死んだ後でキリスト教徒になるのですが、もともとはキリスト教徒を迫害していた人物です。ところがダマスカスで「パウロよ、なぜ余を迫害するか」というイエスの声を聞く。
天からの強い光に打たれ、パウロは何も見えなくなります。それから3日間、目は見えず、飲むことも食べることもできずに過ごします。そして3日目に、パウロはキリストが「神の子」だという揺るぎない信念を得ます。その途端、目からうろこのようなものが落ちて目が見えるようになる。「目からうろこが落ちる」というのは、ここから来た言葉です>
加賀さんに訪れたのは、「わき起こるような喜び」だったという。信仰と回心の率直な体験報告は、本紙のみならず、多くの人に共感を呼ぶはずだ。
2020年8月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
鉛筆ではありましたが、「良い」となっている割に書き込みが多くて、あれ?と思いました。残念。なかったことにして読み進めましたが・・。