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女人源氏物語 2 (集英社文庫) 文庫 – 1992/9/18
瀬戸内 寂聴
(著)
恋しい、けれど憎い!多情な源氏への嫉妬に身を灼く葵上や紫上…。女人たちの歓喜と苦悩のモノローグで綴る王朝小説。(解説・連城三紀彦)
- 本の長さ272ページ
- 言語日本語
- 出版社集英社
- 発売日1992/9/18
- ISBN-104087498492
- ISBN-13978-4087498493
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登録情報
- 出版社 : 集英社 (1992/9/18)
- 発売日 : 1992/9/18
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 272ページ
- ISBN-10 : 4087498492
- ISBN-13 : 978-4087498493
- Amazon 売れ筋ランキング: - 563,703位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1922年、徳島生まれ。本名・瀬戸内晴美。東京女子大学入学。同大学在学中に婚約、卒業後、北京で新婚生活を送り、同地で長女を出産。敗戦後の48年、 26歳のときに家族を捨てて出奔、小説家を志す。63年『夏の終わり』で第2回女流文学賞受賞。73年に得度し、法名・寂聴となる。92年『花に問え』で 第28回谷崎潤一郎賞、96年『白道』で第46回芸術選奨文部大臣賞。98年、『源氏物語』の現代語訳を完成させる。2001年、『場所』で第54回野間 文芸賞。06年、文化勲章受章。現在は執筆活動のかたわら、名誉住職を務める天台寺(岩手県二戸市)のほか、四国「ナルトサンガ」(徳島県鳴門市)、京 都・寂庵(嵯峨野)などで定期的に法話を行なっている(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 寂聴辻説法 (ISBN-13: 978-4797672046 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年12月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
値段の安さで不安もありましたが きちんと梱包されてましたし 中も綺麗でした 満足しています
2021年3月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
単行本のつもりで購入しましたが、来たのは文庫本でガッカリ。他で、同じ単行本を購入しました。本なので、返品しにくいし、そのまま置いてます。
2011年10月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
気が付きました。モノローグの語り手の述懐の時点は基本的には物語の進行時に設定されているのです。進行のスピードは思った以上に早く第二巻の最後の時点で玉蔓が登場するほどです。六条御息所の独白は寂聴の思い入れが特にこめられた部分ではないでしょうか。源氏の本文では、おぞましい特徴が強調されていた御息所ですが、臨終直前に設定されたこのモノローグでは、そのおぞましに潜む様々な背景や状況が語られます。御息所の遺言はその皮肉な部分が従来は強調されますが、寂聴は、この部分にさえ、「産みの娘の若さ」への「死んでいく母の嫉妬」を見出すほどです。そのどうしようもない「おぞましさ」は地獄の炎とその後の清らかな灰への転嫁により昇華されるのですが。
「王の命婦」の語る「薄氷」は藤壺の君への回想を中心に語られますが、短いスペースながらも、その始まりのシーンといい、締めくくりといい、秘密の共有者による、「思い出」の見事な描写となっています。それに比較して、この「僧都」のpetty moralisingはなんというスケールの小ささでしょうか。
源氏の作品では表面上はこれほどかといわれるほど戯画化されてしまっている末摘花も、侍女の口を借りて語られると、その戯画性はすっかり脱色されて、純化というか聖化されているかのようです。
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源氏の作品では表面上はこれほどかといわれるほど戯画化されてしまっている末摘花も、侍女の口を借りて語られると、その戯画性はすっかり脱色されて、純化というか聖化されているかのようです。