20代に購入し手放したが、色に関する詩が再び読みたくなり購入。
若い時に自分が「良い」と思ったものは信用できるのだなと感じている今日この頃。
再び手に出来て幸福。
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手紙 単行本 – 1984/1/20
谷川 俊太郎
(著)
手紙でしか言えないことがある。そして口をつぐむしかない問いかけも もし生きつづけようと思ったら 星々と靴ずれのまじりあうこの世で――。さりげない日常風景の中に、生きている悲哀を謳う。
- 本の長さ98ページ
- 言語日本語
- 出版社集英社
- 発売日1984/1/20
- ISBN-104087724646
- ISBN-13978-4087724646
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登録情報
- 出版社 : 集英社 (1984/1/20)
- 発売日 : 1984/1/20
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 98ページ
- ISBN-10 : 4087724646
- ISBN-13 : 978-4087724646
- Amazon 売れ筋ランキング: - 455,408位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 121,542位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1931年、東京生まれ。詩人。詩集『二十億光年の孤独』を刊行以来、詩やエッセー、翻訳、脚本など幅広く活動する(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 かずのえほん いくつかな? (ISBN-13: 978-4774317434 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2003年5月10日に日本でレビュー済み
“ただ私たちだけが 本物ではなかった
隠された不安 作られた微笑”
このフレーズが、
頭に残って離れない。
隠された不安 作られた微笑”
このフレーズが、
頭に残って離れない。
2021年5月14日に日本でレビュー済み
この詩集の刊行は、1984年。
谷川俊太郎の詩は、1982年刊行の『日々の地図』で大きく変わった。
それまでの簡潔で透明なセンチメンタリズムとロマンチシズムの世界
(それは子供の純粋さともいえる)から、曖昧でざらついた現実の苦さ
(大人の生活実感)を詩にするようになった。『手紙』はその延長上にある。
いつものように、使われている言葉に、難しいものはない。しかしこの詩集、
いつもの彼の作品と何かが違う。
最初の詩は「時」。
あなたは二匹の
うずくまる猫を憶えていて
私はすり減った石の
階段を覚えている
「手紙」の冒頭は、
電話のすぐあとで手紙が着いた
あなたは電話ではふざけていて
手紙では生真面目だった
いつもの谷川俊太郎の詩だったら、読んだ瞬間から意味が頭の中で明確になった。
その行が何を意味しているか、考える必要などなかった。その清潔な分かりやすさも
魅力のひとつだった。だが、『手紙』の作品はそうではない。
ぎこちないというか、詩の歩みが普通ではない。もちろんそれは詩作技術の問題ではない。
作品自体がそれを要求している。
この「違和感」に、敏感に反応したのが、彼の同伴者である装幀家の菊地信義氏。
これは普通ではない、ということを、いつものように見事な解釈で「本化」している。
まずノンブルが普通の位置にない。通常ならば、ページの外側についているはずが、
本中央(のど)近くに置かれている。読み進むと、いつもそこにあるノンブルがないので、
詩(読者)は、そこで予定調和的な収まりを得られず、不安定に、解放されたままになる。
仕掛けは、まだある。カバーは、広げてみると、見えていたもの(予想していたもの)と、
全然違い、ひとつのバッグなのか、シャツなのか、不思議な図像になっている。
イラストレーターのクレジットはないから、菊地氏が自分で塗ったものなのだろうか。
どこか素朴で温かな味わいのカバーを取ると、まったく違うテイストの本体が現れる。
詩集のタイトルや作者名は、よく見えない。谷川氏自身が撮った受話器の写真。
それは電話機本体から外れている。表紙と裏表紙の中央に上下に貫くラインがある。
それらは本体の字に馴染んでいて、よく見えない。しかしある角度に傾けると、光って際立つ。
菊地氏は、それによって、詩集を貫く目に見えない一筋のものの存在を、可視化する。
本文ページにおいて、詩のタイトルが置かれている場所も、本文と頭揃えではない。
この作品集が、何か異質なものであることを、カバーの紙質のざらつきが暗示する。
大袈裟な身振りをしていない。そのことによって、この詩集の特質を、菊地氏の装幀が形にする。
このことは、『日々の地図』をはさんで、刊行年で対になっているような詩集『そのほかに』を
横に置いてみるとはっきりする。『そのほかに』も、カバーはテキスタイル(パッチワーク)
なのだが、その理由は作者自らが後書きに書いているので出所が明白。ノンブルも通常の位置にあり、
詩のタイトルも安定した場所にあり、揺るがない。カバーの紙質もつるりとしたもので、
手の中で普通さの範囲内に収まる。それらと『手紙』は、何かが決定的に違っている。
そうして示されたすべてが、宙に浮かんだ受話器のように、不安定な曖昧さの中にある。
それは何なのか? それは、死というものに向かって開いている人間存在、なのだろう。
自分は、誕生と死の間で、かろうじて立っている。そんな生物が生きている証として持っているもの、血。
この詩集のしおりは、血潮のような赤で染められている。そのことと呼応するように、この詩集には、
3篇の告別の詩が収められている。それらはこの詩集の中で居場所を見つけて安らいでいる。
なぜならそれらの詩の中の死は、明らかに向かうべき相手を見つけているから。
この『手紙』に収められた作品の多くは、「意味の完結系」の中にない。
以前の彼の詩なら、例えば最後の行で「遺失物係の前に立った」読者は、作者が感じた
”かなしみ”を実感することができた。
『日々の地図』以前の彼の詩は、最後の行を読むと、ある詩的なイメージや広がりや
なんらかの実感に導かれたが、この本の詩の最後の行を読むと、読者はどこか出口のない
場所に連れていかれる。
ここで詩は、意味的な句点(。)で終わることなく、これからも続いていく読点(、)
として読者の前に置かれる。ではそれで、読後感が中途半端になるのかというと、そうではない。
そこはいつもの谷川作品のような、詩的な満足感を与えてくれる。そのビターな味わいこそ、
この詩集と作品群の魅力。それは32ページから続く「未知」「水脈」「鎮魂」を読むと、
いやでも感じ取られる。
「鎮魂」の出だしは、
白い寝台の上で友人が死にかけている
最後の1行は、
荒野の力すら持っていないこの日々の土に
この間に詩人は立ち、2つの事柄を結びつける。
もうひとつ、大事なのは、詩集のタイトルだろう。この詩集の中には、「宙ぶらりん」「未知」
「終わりのない地平」「種子」「陽炎」といった作品もある。それらの方が、作者が見つめていた
ものの性質に近いのかもしれない。だが作者たちは、「手紙」を選んだ。だからあのカバーの
イラストになったのだろう。すると帯に選ばれた詩句、「サバンナに棲む鹿だったらよかったのに」の
意味も見えてくる。動物ではない生き物としての人間。そのザラザラとした苦さ、温かさを、
この詩集を手に取ると実感する。
谷川俊太郎の詩は、1982年刊行の『日々の地図』で大きく変わった。
それまでの簡潔で透明なセンチメンタリズムとロマンチシズムの世界
(それは子供の純粋さともいえる)から、曖昧でざらついた現実の苦さ
(大人の生活実感)を詩にするようになった。『手紙』はその延長上にある。
いつものように、使われている言葉に、難しいものはない。しかしこの詩集、
いつもの彼の作品と何かが違う。
最初の詩は「時」。
あなたは二匹の
うずくまる猫を憶えていて
私はすり減った石の
階段を覚えている
「手紙」の冒頭は、
電話のすぐあとで手紙が着いた
あなたは電話ではふざけていて
手紙では生真面目だった
いつもの谷川俊太郎の詩だったら、読んだ瞬間から意味が頭の中で明確になった。
その行が何を意味しているか、考える必要などなかった。その清潔な分かりやすさも
魅力のひとつだった。だが、『手紙』の作品はそうではない。
ぎこちないというか、詩の歩みが普通ではない。もちろんそれは詩作技術の問題ではない。
作品自体がそれを要求している。
この「違和感」に、敏感に反応したのが、彼の同伴者である装幀家の菊地信義氏。
これは普通ではない、ということを、いつものように見事な解釈で「本化」している。
まずノンブルが普通の位置にない。通常ならば、ページの外側についているはずが、
本中央(のど)近くに置かれている。読み進むと、いつもそこにあるノンブルがないので、
詩(読者)は、そこで予定調和的な収まりを得られず、不安定に、解放されたままになる。
仕掛けは、まだある。カバーは、広げてみると、見えていたもの(予想していたもの)と、
全然違い、ひとつのバッグなのか、シャツなのか、不思議な図像になっている。
イラストレーターのクレジットはないから、菊地氏が自分で塗ったものなのだろうか。
どこか素朴で温かな味わいのカバーを取ると、まったく違うテイストの本体が現れる。
詩集のタイトルや作者名は、よく見えない。谷川氏自身が撮った受話器の写真。
それは電話機本体から外れている。表紙と裏表紙の中央に上下に貫くラインがある。
それらは本体の字に馴染んでいて、よく見えない。しかしある角度に傾けると、光って際立つ。
菊地氏は、それによって、詩集を貫く目に見えない一筋のものの存在を、可視化する。
本文ページにおいて、詩のタイトルが置かれている場所も、本文と頭揃えではない。
この作品集が、何か異質なものであることを、カバーの紙質のざらつきが暗示する。
大袈裟な身振りをしていない。そのことによって、この詩集の特質を、菊地氏の装幀が形にする。
このことは、『日々の地図』をはさんで、刊行年で対になっているような詩集『そのほかに』を
横に置いてみるとはっきりする。『そのほかに』も、カバーはテキスタイル(パッチワーク)
なのだが、その理由は作者自らが後書きに書いているので出所が明白。ノンブルも通常の位置にあり、
詩のタイトルも安定した場所にあり、揺るがない。カバーの紙質もつるりとしたもので、
手の中で普通さの範囲内に収まる。それらと『手紙』は、何かが決定的に違っている。
そうして示されたすべてが、宙に浮かんだ受話器のように、不安定な曖昧さの中にある。
それは何なのか? それは、死というものに向かって開いている人間存在、なのだろう。
自分は、誕生と死の間で、かろうじて立っている。そんな生物が生きている証として持っているもの、血。
この詩集のしおりは、血潮のような赤で染められている。そのことと呼応するように、この詩集には、
3篇の告別の詩が収められている。それらはこの詩集の中で居場所を見つけて安らいでいる。
なぜならそれらの詩の中の死は、明らかに向かうべき相手を見つけているから。
この『手紙』に収められた作品の多くは、「意味の完結系」の中にない。
以前の彼の詩なら、例えば最後の行で「遺失物係の前に立った」読者は、作者が感じた
”かなしみ”を実感することができた。
『日々の地図』以前の彼の詩は、最後の行を読むと、ある詩的なイメージや広がりや
なんらかの実感に導かれたが、この本の詩の最後の行を読むと、読者はどこか出口のない
場所に連れていかれる。
ここで詩は、意味的な句点(。)で終わることなく、これからも続いていく読点(、)
として読者の前に置かれる。ではそれで、読後感が中途半端になるのかというと、そうではない。
そこはいつもの谷川作品のような、詩的な満足感を与えてくれる。そのビターな味わいこそ、
この詩集と作品群の魅力。それは32ページから続く「未知」「水脈」「鎮魂」を読むと、
いやでも感じ取られる。
「鎮魂」の出だしは、
白い寝台の上で友人が死にかけている
最後の1行は、
荒野の力すら持っていないこの日々の土に
この間に詩人は立ち、2つの事柄を結びつける。
もうひとつ、大事なのは、詩集のタイトルだろう。この詩集の中には、「宙ぶらりん」「未知」
「終わりのない地平」「種子」「陽炎」といった作品もある。それらの方が、作者が見つめていた
ものの性質に近いのかもしれない。だが作者たちは、「手紙」を選んだ。だからあのカバーの
イラストになったのだろう。すると帯に選ばれた詩句、「サバンナに棲む鹿だったらよかったのに」の
意味も見えてくる。動物ではない生き物としての人間。そのザラザラとした苦さ、温かさを、
この詩集を手に取ると実感する。
2010年12月23日に日本でレビュー済み
初めて書店でこの本を見たときに、帯のこの一節にとても心惹かれました。
その頃の私にはこの一節の意味がよくわからなくて、
その後に続く「手紙でしか言えないことがある そして口をつぐむしかない問いかけも」
いったい、あなたはなぜ鹿だったらよかったのにと書いたんだろう、そこばかりが気になりました。
それから谷川さんをすごく好きになって(もちろん谷川さんの事は以前から知っていました)
詩集を集めたりして、もう長い事経ちましたが、今もこの「手紙」という詩が心に突き刺さっていて、
あの頃より少し大人になった今では、理解するべきは鹿になりたい理由ではなくて、
理由を知りたいけれども、そこを問いかけることができないジレンマであり、
また、あえて問いかけない事で関係を壊さないでおこうとする願いであったり、
手紙でしか言えないことがあるという、ある意味では大人の悲しさ、ではないかと思うようになりました。
人によって解釈は様々だと思いますが、インターネットなど、世界中の人とリアルタイムでコミュニケーションが取れる今、
「手紙」という昔ながらの手段で語られたこの詩が、現代にこそ通じる、そんな気がします。
とても大好きで、とても大切な詩です。ほかにもたくさん素敵な詩が収録されているのでおすすめです!
その頃の私にはこの一節の意味がよくわからなくて、
その後に続く「手紙でしか言えないことがある そして口をつぐむしかない問いかけも」
いったい、あなたはなぜ鹿だったらよかったのにと書いたんだろう、そこばかりが気になりました。
それから谷川さんをすごく好きになって(もちろん谷川さんの事は以前から知っていました)
詩集を集めたりして、もう長い事経ちましたが、今もこの「手紙」という詩が心に突き刺さっていて、
あの頃より少し大人になった今では、理解するべきは鹿になりたい理由ではなくて、
理由を知りたいけれども、そこを問いかけることができないジレンマであり、
また、あえて問いかけない事で関係を壊さないでおこうとする願いであったり、
手紙でしか言えないことがあるという、ある意味では大人の悲しさ、ではないかと思うようになりました。
人によって解釈は様々だと思いますが、インターネットなど、世界中の人とリアルタイムでコミュニケーションが取れる今、
「手紙」という昔ながらの手段で語られたこの詩が、現代にこそ通じる、そんな気がします。
とても大好きで、とても大切な詩です。ほかにもたくさん素敵な詩が収録されているのでおすすめです!
2007年11月7日に日本でレビュー済み
“手紙でしか言えないことがある
そして口をつぐむしかない問いかけも”
言うに言えないその思いが
こらえきれないその思いが
言葉のすきまからあふれてきます
そして口をつぐむしかない問いかけも”
言うに言えないその思いが
こらえきれないその思いが
言葉のすきまからあふれてきます