マイケル・カニンガムは、多角的な視線を持ち、
ウルフの主観的な意識の流れを、
マクロにもミクロにも鳥瞰する優れた才能を持つ人だと思いました。
カニンガムは、カミングアウトされた方だったと記憶しておりますが、
女性の私からみると、女性よりも女性的な文章を書かれていると思いました。
こういうのは、偏見になってしまうかもしれませんけど、とても細やかというか。
悪く言えば、面倒くさいことによく気づくというか。
だからこそ、ダロウェイ夫人を三人も描けたのかも…と、思いました。
ひとつの物語をここまで深化させた作品は、なかなかないと思います。
小説の技法としても読まれると、面白いのではないでしょうか。
ぜひ、ご一読を。
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THE HOURS―めぐりあう時間たち 三人のダロウェイ夫人 単行本 – 2003/4/4
マイケル・カニンガム
(著),
高橋 和久
(翻訳)
V・ウルフの『ダロウェイ夫人』をめぐる三人の物語は、時を超えて運命的にからみあい、予想もつかぬ結末へと…。ピューリッツァ賞&PEN/フォークナー賞受賞。全米ベストセラー1位。映画原作。
- 本の長さ288ページ
- 言語日本語
- 出版社集英社
- 発売日2003/4/4
- ISBN-104087733793
- ISBN-13978-4087733792
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
時を超えてめぐりあう三人のダロウェイ夫人。異なる時代を生きる三人の「時間」はいつしか運命的に絡み合い、本流のように予想もつかぬ結末へ…。同名映画の原作。ピュリッツア賞、ペン/フォークナー賞受賞作品。
登録情報
- 出版社 : 集英社 (2003/4/4)
- 発売日 : 2003/4/4
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 288ページ
- ISBN-10 : 4087733793
- ISBN-13 : 978-4087733792
- Amazon 売れ筋ランキング: - 280,568位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年6月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2020年7月20日に日本でレビュー済み
同名の映画を見に行ったのは、ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」がとても好きだったからだ。「ダロウェイ夫人」は、簡単に言うとある上流階級の婦人がパーティを催す一日を描いたものなのだが、その一日に人生がすっぽり収まってしまうような話である。「今」と言う時間が、何となく満たされないように、違う人生もあるように感じ、「死」を意識するが、過去を追体験するかのような一日が終わった時、彼女はそれを肯定し、受け入れる。ふと、私もいつか年老いたある六月の晴れた日に、これと同じ一日を過ごすのではないかと思わされる、そういう本である。
映画は、その雰囲気を壊すことなく、更にそれを広げて現代を生きる人々の共感を引き出すことに成功していた。
以後、原作であるこの本のことが気になっていたが、何しろハードカバーの本は高価いし嵩張るしというので、たまに本屋に立ち寄った際に棚の中に見つけると、そっと背表紙に触れてみる、そういう存在になっていたのだ。けれど近くの図書館で見つけたときは躊躇わなかった。この、ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフェーリア」を用いた美しい表紙。その表紙に手を置いた途端、私達はこの芳醇な物語世界に引き込まれる。
主題は、ヴァージニア・ウルフが、あるいはM・カニンガムが意図したかは別にしてキリスト教的救済にある。
この本の主人公は三人の女性。「ダロウェイ夫人」を書いた1923年のヴァージニア・ウルフ本人。クラリッサという名前ゆえに、ダロウェイ夫人と綽名される20世紀の編集者。第二次世界大戦の英雄と結婚し何一つ不自由がないはずの主婦、1949年のローラ・ブラウン。彼女たちのそれぞれの一日が代わる代わる描かれ、それらはまったく別の物のはずなのに、どこかで影響し合い、リンクしていく。
彼女たちは、立場は皆違うが、ある日突然自分の人生に疑問を抱く。自分が自分の人生を生きていない感じ、自分が臨んだ場所にいるのではないという感覚に戸惑う。彼女たちはそれがどこから来るのかはっきりと理解することはできない。ただ、自分の中にいるもう一人の自分を救わなくては、とおぼろげに理解する。なぜなら、人に囲まれ、日常という服を着て、何の問題もないように振舞っている彼女たちの中にいるのは、彼女たち自身が安定を、安全を選んだが故に大きくなれなかった彼女たち自身の子供時代の姿なのだから。
だれでも、そんな気分になる事があるのではないだろうか。電車で隣り合わせた見知らぬ誰かと自分を重ね、自分の生きてこなかったどんな人生の幸せも、どんな人生の苦しみも、自分のことであったかのように感じて切なくなるということは。
そこで彼女たちは少なからず「死」を意識する。それが閉じ込められた子供にとって、自分を取り戻す方方のように思われる。しかし、そこに、「いや、これが私なのだ」という肯定に戻ってくる鍵がある。「ダロウェイ夫人」の中で描かれた詩人の「死」、それは十字架上のイエス・キリストのように、三人のダロウェイ夫人たちを自分自身に立ち返らせる。
そのとき彼女たちは気付く。自分が生きているのは紛れもなく自分自身の人生なのだということに。誰か他の人やものが置かれていた自分の心の真ん中に、自分自身を受け入れて生きることに。
それはもしかしたら最大の祝福かもしれない。そんなことを思った。
映画は、その雰囲気を壊すことなく、更にそれを広げて現代を生きる人々の共感を引き出すことに成功していた。
以後、原作であるこの本のことが気になっていたが、何しろハードカバーの本は高価いし嵩張るしというので、たまに本屋に立ち寄った際に棚の中に見つけると、そっと背表紙に触れてみる、そういう存在になっていたのだ。けれど近くの図書館で見つけたときは躊躇わなかった。この、ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフェーリア」を用いた美しい表紙。その表紙に手を置いた途端、私達はこの芳醇な物語世界に引き込まれる。
主題は、ヴァージニア・ウルフが、あるいはM・カニンガムが意図したかは別にしてキリスト教的救済にある。
この本の主人公は三人の女性。「ダロウェイ夫人」を書いた1923年のヴァージニア・ウルフ本人。クラリッサという名前ゆえに、ダロウェイ夫人と綽名される20世紀の編集者。第二次世界大戦の英雄と結婚し何一つ不自由がないはずの主婦、1949年のローラ・ブラウン。彼女たちのそれぞれの一日が代わる代わる描かれ、それらはまったく別の物のはずなのに、どこかで影響し合い、リンクしていく。
彼女たちは、立場は皆違うが、ある日突然自分の人生に疑問を抱く。自分が自分の人生を生きていない感じ、自分が臨んだ場所にいるのではないという感覚に戸惑う。彼女たちはそれがどこから来るのかはっきりと理解することはできない。ただ、自分の中にいるもう一人の自分を救わなくては、とおぼろげに理解する。なぜなら、人に囲まれ、日常という服を着て、何の問題もないように振舞っている彼女たちの中にいるのは、彼女たち自身が安定を、安全を選んだが故に大きくなれなかった彼女たち自身の子供時代の姿なのだから。
だれでも、そんな気分になる事があるのではないだろうか。電車で隣り合わせた見知らぬ誰かと自分を重ね、自分の生きてこなかったどんな人生の幸せも、どんな人生の苦しみも、自分のことであったかのように感じて切なくなるということは。
そこで彼女たちは少なからず「死」を意識する。それが閉じ込められた子供にとって、自分を取り戻す方方のように思われる。しかし、そこに、「いや、これが私なのだ」という肯定に戻ってくる鍵がある。「ダロウェイ夫人」の中で描かれた詩人の「死」、それは十字架上のイエス・キリストのように、三人のダロウェイ夫人たちを自分自身に立ち返らせる。
そのとき彼女たちは気付く。自分が生きているのは紛れもなく自分自身の人生なのだということに。誰か他の人やものが置かれていた自分の心の真ん中に、自分自身を受け入れて生きることに。
それはもしかしたら最大の祝福かもしれない。そんなことを思った。
2017年9月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私の好きなメリルストリープ出演の映画を観ましたし、原書を買って読んだ処(途中迄)、とても良い英文だと思いましたので、もっと速く読みたいと思い、買い求め、読み進めました。それで気が付いたのは、やはり日本人と欧米人とは生き方や他人との関わり方がとても違うようだ、という事でした。一言で言えば、欧米先進国の人達の個人尊重という事になると思います。これは夏目漱石以来の日本人の課題でしょうが、最近私は日本だけでなく、アジアなど広く発展途上国の多くの人達の課題でもあるのだろうと考えています。
2008年1月12日に日本でレビュー済み
この本は映画を観る前に読んだ。
登場人物たちの中で一番感情移入したのがローラだ。彼女は自分の感情を殺さずに生きることを選んで家を飛び出してしまう。私もそうだが、日々人々は自分の感情をどこかで飼い殺しながら生きているのだと思う。
ローラとは反対に、ヴァージニアは自分の感情を押し通すことが出来ずにその感情に押しつぶされて自殺してしまう。
いろいろな要素が絡み合った女性たちのある一日を描いた作品。文章が流暢に流れ、まれに見る傑作だと感じた。この本と映画を見れたことを感謝したい位だ。
この作品は私の心の中に一生残ると思う。
映画も原作も一般受けしないのは重々承知だが、共感する人は物凄く好きになると思う。
お薦めです。
登場人物たちの中で一番感情移入したのがローラだ。彼女は自分の感情を殺さずに生きることを選んで家を飛び出してしまう。私もそうだが、日々人々は自分の感情をどこかで飼い殺しながら生きているのだと思う。
ローラとは反対に、ヴァージニアは自分の感情を押し通すことが出来ずにその感情に押しつぶされて自殺してしまう。
いろいろな要素が絡み合った女性たちのある一日を描いた作品。文章が流暢に流れ、まれに見る傑作だと感じた。この本と映画を見れたことを感謝したい位だ。
この作品は私の心の中に一生残ると思う。
映画も原作も一般受けしないのは重々承知だが、共感する人は物凄く好きになると思う。
お薦めです。
2007年9月26日に日本でレビュー済み
人にとって時間は一直線上に進んでいるのではなく、まるで流れのように思い出が押し寄せる。
ヴァージニア・ウルフの無意識の時間の流れをそのまま、でも作者独自の世界観をあわせて現代のNYによみがえらせた。
時間の流れに加えて、命、ということに執着しているようだ。声高に命の尊さを叫ぶのではないけど、あまりにも生を真正面から受け止めた故、生のもつ残酷さに耐えられなくなって行く人々と、時に傲慢なまでに生を選ぶ人々の対比させている。それは『ダロウェイ夫人』の構造を踏襲したものだと思うが、原作より、それはビビッドにうつる。
ふと頭に浮かんだのが、複数の人間で共有するひとつの命の流れだった。傲慢な命がか弱く消え入りそうな命を自分の中に取り込む。
リチャードはクラリッサの為に生き、彼女の目の前でで自殺した。
その後クラリッサは自分の中にはいってきたリチャードの人生も歩むのだろう。
冒頭、ヴァージニア・ウルフが川で入水自殺を図る場面は、時間、命、水の流れがリンクする。死を目前に想い出があふれ出し、死を目前に命の思い出が瞬間的に押し寄せるその時、体は逆らいのようのない水の流れと一体になる。
今ここに生きていることが不思議に思えた。
作者のマイケル・カニンガムはアメリカ小説界の実力派という。人の無意識に入りこんだ縦横無尽な想像力で、複数人の一生をたった1日で描ききっている。すごいな、と思った。
ヴァージニア・ウルフの無意識の時間の流れをそのまま、でも作者独自の世界観をあわせて現代のNYによみがえらせた。
時間の流れに加えて、命、ということに執着しているようだ。声高に命の尊さを叫ぶのではないけど、あまりにも生を真正面から受け止めた故、生のもつ残酷さに耐えられなくなって行く人々と、時に傲慢なまでに生を選ぶ人々の対比させている。それは『ダロウェイ夫人』の構造を踏襲したものだと思うが、原作より、それはビビッドにうつる。
ふと頭に浮かんだのが、複数の人間で共有するひとつの命の流れだった。傲慢な命がか弱く消え入りそうな命を自分の中に取り込む。
リチャードはクラリッサの為に生き、彼女の目の前でで自殺した。
その後クラリッサは自分の中にはいってきたリチャードの人生も歩むのだろう。
冒頭、ヴァージニア・ウルフが川で入水自殺を図る場面は、時間、命、水の流れがリンクする。死を目前に想い出があふれ出し、死を目前に命の思い出が瞬間的に押し寄せるその時、体は逆らいのようのない水の流れと一体になる。
今ここに生きていることが不思議に思えた。
作者のマイケル・カニンガムはアメリカ小説界の実力派という。人の無意識に入りこんだ縦横無尽な想像力で、複数人の一生をたった1日で描ききっている。すごいな、と思った。
2005年4月24日に日本でレビュー済み
映画で見た後、原作を読んでみました。映画では話が交錯しているので
わかりづらい部分もありましたが、本作ではそれぞれの時代を充分に描かれています。
偶然ですが、たまたま『マダムダロウィ』もビデオで観てあったので
現代に書き下ろすとこうなるのかと関心いたしました。
非常に文学的価値が高い作品だと思います。
わかりづらい部分もありましたが、本作ではそれぞれの時代を充分に描かれています。
偶然ですが、たまたま『マダムダロウィ』もビデオで観てあったので
現代に書き下ろすとこうなるのかと関心いたしました。
非常に文学的価値が高い作品だと思います。
2005年8月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
何のために生き続けているか。どうして死んでしまわないのか。
狂気にふみむことを認識しながら、創作し表現することで自分を壊していくウルフ。
自分の居場所はここではないと強く強く意識しながらも、妊娠・出産を経て母を演じている自分を傍観し、そこから脱出するローラ。
パーティを、楽しい時間を、誰かのために生きている実感を、そして失った過去を求めながら生きているクラリッサ。
死ぬことはいとも簡単。でも生きていく、いろんな形で。
ウルフには敬意を。
ローラには羨望を。
クラリッサには共感を。
すばらしい小説。すばらしいストーリー。
狂気にふみむことを認識しながら、創作し表現することで自分を壊していくウルフ。
自分の居場所はここではないと強く強く意識しながらも、妊娠・出産を経て母を演じている自分を傍観し、そこから脱出するローラ。
パーティを、楽しい時間を、誰かのために生きている実感を、そして失った過去を求めながら生きているクラリッサ。
死ぬことはいとも簡単。でも生きていく、いろんな形で。
ウルフには敬意を。
ローラには羨望を。
クラリッサには共感を。
すばらしい小説。すばらしいストーリー。
2011年9月10日に日本でレビュー済み
星1つですが、本当はマイナスをつけたいくらいです。
三人ともみな、今の状況から逃げ出しさえすれば自由になれると思っている。内省も何もあったもんじゃないですね。
ウルフ作「ダロウェイ夫人」のクラリッサは、パーティについて、「自分がやりたいからやる」という明確な意思と自分なりの目的を持っていましたが、この小説のクラリッサは、自分の行動の理由さえ「リチャードのため」と人に依存している。「あなたのため」と言いながら子供に自分の願望を押し付けるタイプの親と一緒。支配的依存です。
なぜこの小説がベストセラーになったのでしょうか?
それは多分、ローラとリチャード(恐らくクラリッサも)がAC(アダルトチルドレン。親に適切な愛を受けられずに育った人)であり、同じ境遇に苦しんでいる人達の共感を得たことと、それに加えてその苦しみが、主婦の閉塞感やアイデンティティの抑圧と取り違えられたからではないかと思うのですが。
AC連鎖の悲劇としてなら理解できなくもないですが。
でもそこにウルフを絡める必要はないのでは?
ウルフのネームバリューを利用しておきながら、巧妙に引用や事実を織り交ぜ、ウルフやその作品を負のイメージへ持っていく作者のやり方に怒りを禁じえません。
同性愛傾向と病的な部分ばかり強調しないでほしい。その方がストーリー上都合がいいからといってあんまりです。考察もてんでなってなくて呆れてしまいます。(ウルフは精神が安定している時期に小説を書いたそうです。でもこの本で小説執筆中のウルフの精神状態は…)
ウルフは確かに複雑ですが、もっと明るく愛とユーモアに溢れた作家です。自分を深く見つめる勇気と知性を持った人だとも思います。
この小説におけるウルフの描写の薄っぺら加減には、ほとんど悪意さえ感じます。カニンガム氏が幼い頃家を出て行ったという母親も読書好きで、「ダロウェイ夫人」に傾倒していたそうですが、逆恨みもほどほどにしてほしいです。
カニンガム氏は個人的な思い入れを小説にしたのでしょうが、小説は世に出れば作者の手を離れてしまいます。
それが読者にどんな影響を与えるのか、実際の人物の印象に対して妙な色眼鏡をかけてしまわないか。作家としての影響力と責任をもっとよく考えるべきでは?
ACはありのまま愛されることを知らずに育ったため、「完璧でなければ愛されない」と思い込んでいます。そして同時に「自分の本当の居場所はここではない」という感覚にも悩まされます。
ローラは母親の愛を求めてくる息子を見るたび、いつも放っておかれた自分の子供時代を見るようで苦しかったでしょう。(何もかも放り出し、読書に依存しないではいられないほどに)
でもその苦しみから逃げ出すため子供を置き去りにし、根本的な問題から目を反らし続けたローラには、生涯本当の自由は訪れなかったのではないでしょうか?
三人ともみな、今の状況から逃げ出しさえすれば自由になれると思っている。内省も何もあったもんじゃないですね。
ウルフ作「ダロウェイ夫人」のクラリッサは、パーティについて、「自分がやりたいからやる」という明確な意思と自分なりの目的を持っていましたが、この小説のクラリッサは、自分の行動の理由さえ「リチャードのため」と人に依存している。「あなたのため」と言いながら子供に自分の願望を押し付けるタイプの親と一緒。支配的依存です。
なぜこの小説がベストセラーになったのでしょうか?
それは多分、ローラとリチャード(恐らくクラリッサも)がAC(アダルトチルドレン。親に適切な愛を受けられずに育った人)であり、同じ境遇に苦しんでいる人達の共感を得たことと、それに加えてその苦しみが、主婦の閉塞感やアイデンティティの抑圧と取り違えられたからではないかと思うのですが。
AC連鎖の悲劇としてなら理解できなくもないですが。
でもそこにウルフを絡める必要はないのでは?
ウルフのネームバリューを利用しておきながら、巧妙に引用や事実を織り交ぜ、ウルフやその作品を負のイメージへ持っていく作者のやり方に怒りを禁じえません。
同性愛傾向と病的な部分ばかり強調しないでほしい。その方がストーリー上都合がいいからといってあんまりです。考察もてんでなってなくて呆れてしまいます。(ウルフは精神が安定している時期に小説を書いたそうです。でもこの本で小説執筆中のウルフの精神状態は…)
ウルフは確かに複雑ですが、もっと明るく愛とユーモアに溢れた作家です。自分を深く見つめる勇気と知性を持った人だとも思います。
この小説におけるウルフの描写の薄っぺら加減には、ほとんど悪意さえ感じます。カニンガム氏が幼い頃家を出て行ったという母親も読書好きで、「ダロウェイ夫人」に傾倒していたそうですが、逆恨みもほどほどにしてほしいです。
カニンガム氏は個人的な思い入れを小説にしたのでしょうが、小説は世に出れば作者の手を離れてしまいます。
それが読者にどんな影響を与えるのか、実際の人物の印象に対して妙な色眼鏡をかけてしまわないか。作家としての影響力と責任をもっとよく考えるべきでは?
ACはありのまま愛されることを知らずに育ったため、「完璧でなければ愛されない」と思い込んでいます。そして同時に「自分の本当の居場所はここではない」という感覚にも悩まされます。
ローラは母親の愛を求めてくる息子を見るたび、いつも放っておかれた自分の子供時代を見るようで苦しかったでしょう。(何もかも放り出し、読書に依存しないではいられないほどに)
でもその苦しみから逃げ出すため子供を置き去りにし、根本的な問題から目を反らし続けたローラには、生涯本当の自由は訪れなかったのではないでしょうか?