『21世紀 ドストエフスキーがやってくる』(大江健三郎ほか著、集英社)に収められている大江健三郎と沼野充義の対談「ドストエフスキーが21世紀に残したもの」から、多くのことを学ぶことができました。小説家の大江がドストエフスキーという作家をどう捉えていたのか、興味が尽きません。
●私は、ドストエフスキーに限らず、小説を思想的にあるいは哲学的に読むことは、ほとんどしないできました。それよりもむしろ、文学の好きな人間として、たとえばドストエフスキー作品の対話の進め方を楽しみながら読んでゆくという読み方でした。
●私が考えてきたのは、いわば「明るくもあり暗くもある」ドストエフスキーです。
●かれ(鹿島茂)がいうには、大江の外国文学の読み方というのは素人の読み方だ、と。・・・子供が世界文学を読む読み方と同じだといわれるんです。つまり、自分の好きなものを読んで、自分の好きなような形で取り込んでいく読み方をしている。すなわち子供の読み方、自己愛的な読み方なんだ、と。
●(『罪と罰』は)ソーニャへの愛に目覚めて、そこから新世界が始まる、というところで終わるわけですね。そのソーニャの愛に目覚めてラスコーリニコフが改心するというところがなにより重要なんだとしみじみ考えるようになった。・・・ところが今度もう一度読み返すと、あそこは小説としてあのままでいいのだろうかという疑問が出てきました。つまり、ドストエフスキーは、あのラストのシーンから出発して小説を書くべきだったのではないだろうか、という子供じみた疑問です。・・・(ソーニャのラスコーリニコフに対する)説得はその時点では成功しないけれど、その成功しない説得をやるところに、ソーニャという女性の強さ、難しさがある。ソーニャはラスコーリニコフをどんどん追い詰めていくのだけれども、かれはそれでも納得しない。ソーニャもじつは納得していない。この互いに相交わらない男と女との議論の場面が、私は一番好きなんです。
●ドストエフスキーという小説家が、私ら普通の人間には及びもつかない小説の手練れ、小説の名手であるということの証拠が、スタヴローギンとシャートフ、スタヴローギンとキリーロフの議論の場面です。
●日本の哲学的な読み取りの名手たちは『カラマーゾフの兄弟』における『大審問官』の章を、過大評価していると私は思います。・・・仮に「大審問官」の章を除いてみると、イワンは、ドミトリイとその婚約者であるカテリーナの間や、アレクセイと女性との間をちょこちょこ走り回るだけの、あまり大した人間ではないことがわかると思います。ともかく、書いてないことを誇大化してはいけない。それから、小説の中のある一部分を哲学的に誇大化することはつねに間違っているというのが私の小説についての考え方で、それがドストエフスキーを読む上で、私が埴谷(雄高)さんや高橋和巳さんたちに抱いてきた違和感の根本にあります。
●ドストエフスキーの真の主人公ということを考えていくなら、『罪と罰』の場合はソーニャですね。ソーニャがシベリアからラスコーリニコフと一緒にペテルブルクに帰ってきて再出発することになる。そのうちにソーニャはどんどん嫌な人間になっていってラスコーリニコフを苦しめる。そういうストーリーを考え続けてしまうほど、ソーニャはおもしろい人物です。・・・『カラマーゾフの兄弟』で一番重要な人物はだれかというと、私は兄弟たちの父親フョードルだと思います。まだ六十一かそこいらで、なかなか男らしく精力もある。おもしろい人物ですが、殺されてしまう。そうなると、小説が小さくなってしまうと私は感じる。あの父親ほどの人物は後に残っていないのじゃないか。かれを殺したスメルジャコフも、私の考えでは重要な人物ではない。長兄のドミトリイはあの程度の人物にすぎない。次兄のイワンも過大評価されているだけ。そうすると、やはり三男のアレクセイというところにいきますね。かれが子供たちに話しかける、あの「少年たち」の章はとても好きです。しかし、あれだけ魅力があり、年寄りの女性たちからも若い娘からも愛され、聖職者たちからも評価されているアレクセイが、それだけの人物であったとしたら、私は小説の人物として不満なんです。おそらく第二部でアレクセイがどれだけ大きい逸脱を展開するかにドストエフスキーの主眼はあったのではないか。第二部には、もう一人本当に重要な人物が出てきそうな気もします。
●私はドストエフスキーが、自分はディケンズと肩を並べる作家だと考えたんじゃないかと思う。実際に『虐げられた人々』のネリは、ディケンズの『骨董屋』のネルをモデルにしたようですし、とにかくドストエフスキーはディケンズを小説家の一つの典型として考えていただろう。そしてディケンズは人間のオプティミズムを押し立てて小説を終わるということを原理としていた作家です。その意味でもドストエフスキーは、人類の教師としてオプティミスティックな展望を示して死にたかった大作家だと思います。トルストイとは違った意味で。
●私はドストエフスキーもまた、あの困難な時代において、「意志的な楽観主義」をもって死んでいったのだろう、と思う。もし第二部が引き続き書かれていたとしたら、アレクセイは二十一世紀の私たちが希望を託しうるような人物として書かれただろうと考えています。
大江に『カラマーゾフの兄弟』の第二部を書き継いでもらいたかった、そう思うのは私だけでしょうか。
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21世紀 ドストエフスキーがやってくる 単行本 – 2007/6/5
大江 健三郎 他
(著)
読み進めれば、ヤメラレないおもしろさ!
いまどきドストエフスキー? そんな疑問を一挙に払拭する。大江健三郎、金原ひとみ、島田雅彦、角田光代氏ら各界の“ドストエフスキー好き”が、その魅力を余すところなく披露。新しき入門書。
いまどきドストエフスキー? そんな疑問を一挙に払拭する。大江健三郎、金原ひとみ、島田雅彦、角田光代氏ら各界の“ドストエフスキー好き”が、その魅力を余すところなく披露。新しき入門書。
- 本の長さ360ページ
- 言語日本語
- 出版社集英社
- 発売日2007/6/5
- ISBN-104087748618
- ISBN-13978-4087748611
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登録情報
- 出版社 : 集英社 (2007/6/5)
- 発売日 : 2007/6/5
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 360ページ
- ISBN-10 : 4087748618
- ISBN-13 : 978-4087748611
- Amazon 売れ筋ランキング: - 479,156位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,032位ロシア・東欧文学研究
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著者について
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1935年愛媛県生まれ。東京大学仏文科卒。大学在学中の58年、「飼育」で芥川賞受賞。以降、現在まで常に現代文学をリードし続け、『万延元年のフット ボール』(谷崎潤一郎賞)、『洪水はわが魂に及び』(野間文芸賞)、『「雨の木」を聴く女たち』(読売文学賞)、『新しい人よ眼ざめよ』(大佛次郎賞)な ど数多くの賞を受賞、94年にノーベル文学賞を受賞(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 「伝える言葉」プラス (ISBN-13: 978-4022616708 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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5 星
大江健三郎はドストエフスキーをどう捉えていたのか
『21世紀 ドストエフスキーがやってくる』(大江健三郎ほか著、集英社)に収められている大江健三郎と沼野充義の対談「ドストエフスキーが21世紀に残したもの」から、多くのことを学ぶことができました。小説家の大江がドストエフスキーという作家をどう捉えていたのか、興味が尽きません。●私は、ドストエフスキーに限らず、小説を思想的にあるいは哲学的に読むことは、ほとんどしないできました。それよりもむしろ、文学の好きな人間として、たとえばドストエフスキー作品の対話の進め方を楽しみながら読んでゆくという読み方でした。●私が考えてきたのは、いわば「明るくもあり暗くもある」ドストエフスキーです。●かれ(鹿島茂)がいうには、大江の外国文学の読み方というのは素人の読み方だ、と。・・・子供が世界文学を読む読み方と同じだといわれるんです。つまり、自分の好きなものを読んで、自分の好きなような形で取り込んでいく読み方をしている。すなわち子供の読み方、自己愛的な読み方なんだ、と。●(『罪と罰』は)ソーニャへの愛に目覚めて、そこから新世界が始まる、というところで終わるわけですね。そのソーニャの愛に目覚めてラスコーリニコフが改心するというところがなにより重要なんだとしみじみ考えるようになった。・・・ところが今度もう一度読み返すと、あそこは小説としてあのままでいいのだろうかという疑問が出てきました。つまり、ドストエフスキーは、あのラストのシーンから出発して小説を書くべきだったのではないだろうか、という子供じみた疑問です。・・・(ソーニャのラスコーリニコフに対する)説得はその時点では成功しないけれど、その成功しない説得をやるところに、ソーニャという女性の強さ、難しさがある。ソーニャはラスコーリニコフをどんどん追い詰めていくのだけれども、かれはそれでも納得しない。ソーニャもじつは納得していない。この互いに相交わらない男と女との議論の場面が、私は一番好きなんです。●ドストエフスキーという小説家が、私ら普通の人間には及びもつかない小説の手練れ、小説の名手であるということの証拠が、スタヴローギンとシャートフ、スタヴローギンとキリーロフの議論の場面です。●日本の哲学的な読み取りの名手たちは『カラマーゾフの兄弟』における『大審問官』の章を、過大評価していると私は思います。・・・仮に「大審問官」の章を除いてみると、イワンは、ドミトリイとその婚約者であるカテリーナの間や、アレクセイと女性との間をちょこちょこ走り回るだけの、あまり大した人間ではないことがわかると思います。ともかく、書いてないことを誇大化してはいけない。それから、小説の中のある一部分を哲学的に誇大化することはつねに間違っているというのが私の小説についての考え方で、それがドストエフスキーを読む上で、私が埴谷(雄高)さんや高橋和巳さんたちに抱いてきた違和感の根本にあります。●ドストエフスキーの真の主人公ということを考えていくなら、『罪と罰』の場合はソーニャですね。ソーニャがシベリアからラスコーリニコフと一緒にペテルブルクに帰ってきて再出発することになる。そのうちにソーニャはどんどん嫌な人間になっていってラスコーリニコフを苦しめる。そういうストーリーを考え続けてしまうほど、ソーニャはおもしろい人物です。・・・『カラマーゾフの兄弟』で一番重要な人物はだれかというと、私は兄弟たちの父親フョードルだと思います。まだ六十一かそこいらで、なかなか男らしく精力もある。おもしろい人物ですが、殺されてしまう。そうなると、小説が小さくなってしまうと私は感じる。あの父親ほどの人物は後に残っていないのじゃないか。かれを殺したスメルジャコフも、私の考えでは重要な人物ではない。長兄のドミトリイはあの程度の人物にすぎない。次兄のイワンも過大評価されているだけ。そうすると、やはり三男のアレクセイというところにいきますね。かれが子供たちに話しかける、あの「少年たち」の章はとても好きです。しかし、あれだけ魅力があり、年寄りの女性たちからも若い娘からも愛され、聖職者たちからも評価されているアレクセイが、それだけの人物であったとしたら、私は小説の人物として不満なんです。おそらく第二部でアレクセイがどれだけ大きい逸脱を展開するかにドストエフスキーの主眼はあったのではないか。第二部には、もう一人本当に重要な人物が出てきそうな気もします。●私はドストエフスキーが、自分はディケンズと肩を並べる作家だと考えたんじゃないかと思う。実際に『虐げられた人々』のネリは、ディケンズの『骨董屋』のネルをモデルにしたようですし、とにかくドストエフスキーはディケンズを小説家の一つの典型として考えていただろう。そしてディケンズは人間のオプティミズムを押し立てて小説を終わるということを原理としていた作家です。その意味でもドストエフスキーは、人類の教師としてオプティミスティックな展望を示して死にたかった大作家だと思います。トルストイとは違った意味で。●私はドストエフスキーもまた、あの困難な時代において、「意志的な楽観主義」をもって死んでいったのだろう、と思う。もし第二部が引き続き書かれていたとしたら、アレクセイは二十一世紀の私たちが希望を託しうるような人物として書かれただろうと考えています。大江に『カラマーゾフの兄弟』の第二部を書き継いでもらいたかった、そう思うのは私だけでしょうか。
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2023年4月13日に日本でレビュー済み
『21世紀 ドストエフスキーがやってくる』(大江健三郎ほか著、集英社)に収められている大江健三郎と沼野充義の対談「ドストエフスキーが21世紀に残したもの」から、多くのことを学ぶことができました。小説家の大江がドストエフスキーという作家をどう捉えていたのか、興味が尽きません。
●私は、ドストエフスキーに限らず、小説を思想的にあるいは哲学的に読むことは、ほとんどしないできました。それよりもむしろ、文学の好きな人間として、たとえばドストエフスキー作品の対話の進め方を楽しみながら読んでゆくという読み方でした。
●私が考えてきたのは、いわば「明るくもあり暗くもある」ドストエフスキーです。
●かれ(鹿島茂)がいうには、大江の外国文学の読み方というのは素人の読み方だ、と。・・・子供が世界文学を読む読み方と同じだといわれるんです。つまり、自分の好きなものを読んで、自分の好きなような形で取り込んでいく読み方をしている。すなわち子供の読み方、自己愛的な読み方なんだ、と。
●(『罪と罰』は)ソーニャへの愛に目覚めて、そこから新世界が始まる、というところで終わるわけですね。そのソーニャの愛に目覚めてラスコーリニコフが改心するというところがなにより重要なんだとしみじみ考えるようになった。・・・ところが今度もう一度読み返すと、あそこは小説としてあのままでいいのだろうかという疑問が出てきました。つまり、ドストエフスキーは、あのラストのシーンから出発して小説を書くべきだったのではないだろうか、という子供じみた疑問です。・・・(ソーニャのラスコーリニコフに対する)説得はその時点では成功しないけれど、その成功しない説得をやるところに、ソーニャという女性の強さ、難しさがある。ソーニャはラスコーリニコフをどんどん追い詰めていくのだけれども、かれはそれでも納得しない。ソーニャもじつは納得していない。この互いに相交わらない男と女との議論の場面が、私は一番好きなんです。
●ドストエフスキーという小説家が、私ら普通の人間には及びもつかない小説の手練れ、小説の名手であるということの証拠が、スタヴローギンとシャートフ、スタヴローギンとキリーロフの議論の場面です。
●日本の哲学的な読み取りの名手たちは『カラマーゾフの兄弟』における『大審問官』の章を、過大評価していると私は思います。・・・仮に「大審問官」の章を除いてみると、イワンは、ドミトリイとその婚約者であるカテリーナの間や、アレクセイと女性との間をちょこちょこ走り回るだけの、あまり大した人間ではないことがわかると思います。ともかく、書いてないことを誇大化してはいけない。それから、小説の中のある一部分を哲学的に誇大化することはつねに間違っているというのが私の小説についての考え方で、それがドストエフスキーを読む上で、私が埴谷(雄高)さんや高橋和巳さんたちに抱いてきた違和感の根本にあります。
●ドストエフスキーの真の主人公ということを考えていくなら、『罪と罰』の場合はソーニャですね。ソーニャがシベリアからラスコーリニコフと一緒にペテルブルクに帰ってきて再出発することになる。そのうちにソーニャはどんどん嫌な人間になっていってラスコーリニコフを苦しめる。そういうストーリーを考え続けてしまうほど、ソーニャはおもしろい人物です。・・・『カラマーゾフの兄弟』で一番重要な人物はだれかというと、私は兄弟たちの父親フョードルだと思います。まだ六十一かそこいらで、なかなか男らしく精力もある。おもしろい人物ですが、殺されてしまう。そうなると、小説が小さくなってしまうと私は感じる。あの父親ほどの人物は後に残っていないのじゃないか。かれを殺したスメルジャコフも、私の考えでは重要な人物ではない。長兄のドミトリイはあの程度の人物にすぎない。次兄のイワンも過大評価されているだけ。そうすると、やはり三男のアレクセイというところにいきますね。かれが子供たちに話しかける、あの「少年たち」の章はとても好きです。しかし、あれだけ魅力があり、年寄りの女性たちからも若い娘からも愛され、聖職者たちからも評価されているアレクセイが、それだけの人物であったとしたら、私は小説の人物として不満なんです。おそらく第二部でアレクセイがどれだけ大きい逸脱を展開するかにドストエフスキーの主眼はあったのではないか。第二部には、もう一人本当に重要な人物が出てきそうな気もします。
●私はドストエフスキーが、自分はディケンズと肩を並べる作家だと考えたんじゃないかと思う。実際に『虐げられた人々』のネリは、ディケンズの『骨董屋』のネルをモデルにしたようですし、とにかくドストエフスキーはディケンズを小説家の一つの典型として考えていただろう。そしてディケンズは人間のオプティミズムを押し立てて小説を終わるということを原理としていた作家です。その意味でもドストエフスキーは、人類の教師としてオプティミスティックな展望を示して死にたかった大作家だと思います。トルストイとは違った意味で。
●私はドストエフスキーもまた、あの困難な時代において、「意志的な楽観主義」をもって死んでいったのだろう、と思う。もし第二部が引き続き書かれていたとしたら、アレクセイは二十一世紀の私たちが希望を託しうるような人物として書かれただろうと考えています。
大江に『カラマーゾフの兄弟』の第二部を書き継いでもらいたかった、そう思うのは私だけでしょうか。
●私は、ドストエフスキーに限らず、小説を思想的にあるいは哲学的に読むことは、ほとんどしないできました。それよりもむしろ、文学の好きな人間として、たとえばドストエフスキー作品の対話の進め方を楽しみながら読んでゆくという読み方でした。
●私が考えてきたのは、いわば「明るくもあり暗くもある」ドストエフスキーです。
●かれ(鹿島茂)がいうには、大江の外国文学の読み方というのは素人の読み方だ、と。・・・子供が世界文学を読む読み方と同じだといわれるんです。つまり、自分の好きなものを読んで、自分の好きなような形で取り込んでいく読み方をしている。すなわち子供の読み方、自己愛的な読み方なんだ、と。
●(『罪と罰』は)ソーニャへの愛に目覚めて、そこから新世界が始まる、というところで終わるわけですね。そのソーニャの愛に目覚めてラスコーリニコフが改心するというところがなにより重要なんだとしみじみ考えるようになった。・・・ところが今度もう一度読み返すと、あそこは小説としてあのままでいいのだろうかという疑問が出てきました。つまり、ドストエフスキーは、あのラストのシーンから出発して小説を書くべきだったのではないだろうか、という子供じみた疑問です。・・・(ソーニャのラスコーリニコフに対する)説得はその時点では成功しないけれど、その成功しない説得をやるところに、ソーニャという女性の強さ、難しさがある。ソーニャはラスコーリニコフをどんどん追い詰めていくのだけれども、かれはそれでも納得しない。ソーニャもじつは納得していない。この互いに相交わらない男と女との議論の場面が、私は一番好きなんです。
●ドストエフスキーという小説家が、私ら普通の人間には及びもつかない小説の手練れ、小説の名手であるということの証拠が、スタヴローギンとシャートフ、スタヴローギンとキリーロフの議論の場面です。
●日本の哲学的な読み取りの名手たちは『カラマーゾフの兄弟』における『大審問官』の章を、過大評価していると私は思います。・・・仮に「大審問官」の章を除いてみると、イワンは、ドミトリイとその婚約者であるカテリーナの間や、アレクセイと女性との間をちょこちょこ走り回るだけの、あまり大した人間ではないことがわかると思います。ともかく、書いてないことを誇大化してはいけない。それから、小説の中のある一部分を哲学的に誇大化することはつねに間違っているというのが私の小説についての考え方で、それがドストエフスキーを読む上で、私が埴谷(雄高)さんや高橋和巳さんたちに抱いてきた違和感の根本にあります。
●ドストエフスキーの真の主人公ということを考えていくなら、『罪と罰』の場合はソーニャですね。ソーニャがシベリアからラスコーリニコフと一緒にペテルブルクに帰ってきて再出発することになる。そのうちにソーニャはどんどん嫌な人間になっていってラスコーリニコフを苦しめる。そういうストーリーを考え続けてしまうほど、ソーニャはおもしろい人物です。・・・『カラマーゾフの兄弟』で一番重要な人物はだれかというと、私は兄弟たちの父親フョードルだと思います。まだ六十一かそこいらで、なかなか男らしく精力もある。おもしろい人物ですが、殺されてしまう。そうなると、小説が小さくなってしまうと私は感じる。あの父親ほどの人物は後に残っていないのじゃないか。かれを殺したスメルジャコフも、私の考えでは重要な人物ではない。長兄のドミトリイはあの程度の人物にすぎない。次兄のイワンも過大評価されているだけ。そうすると、やはり三男のアレクセイというところにいきますね。かれが子供たちに話しかける、あの「少年たち」の章はとても好きです。しかし、あれだけ魅力があり、年寄りの女性たちからも若い娘からも愛され、聖職者たちからも評価されているアレクセイが、それだけの人物であったとしたら、私は小説の人物として不満なんです。おそらく第二部でアレクセイがどれだけ大きい逸脱を展開するかにドストエフスキーの主眼はあったのではないか。第二部には、もう一人本当に重要な人物が出てきそうな気もします。
●私はドストエフスキーが、自分はディケンズと肩を並べる作家だと考えたんじゃないかと思う。実際に『虐げられた人々』のネリは、ディケンズの『骨董屋』のネルをモデルにしたようですし、とにかくドストエフスキーはディケンズを小説家の一つの典型として考えていただろう。そしてディケンズは人間のオプティミズムを押し立てて小説を終わるということを原理としていた作家です。その意味でもドストエフスキーは、人類の教師としてオプティミスティックな展望を示して死にたかった大作家だと思います。トルストイとは違った意味で。
●私はドストエフスキーもまた、あの困難な時代において、「意志的な楽観主義」をもって死んでいったのだろう、と思う。もし第二部が引き続き書かれていたとしたら、アレクセイは二十一世紀の私たちが希望を託しうるような人物として書かれただろうと考えています。
大江に『カラマーゾフの兄弟』の第二部を書き継いでもらいたかった、そう思うのは私だけでしょうか。
このレビューの画像
2007年10月3日に日本でレビュー済み
まず、堂々とした表紙に惹かれました。白地に赤、21世紀という仰々しさ、「やってくる」という期待を抱かせる言葉も魅力的です。
作家、ロシア文学者たちが語るドストエフスキー像は一つに定まっていません。謎の人物について多くの人たちが語っている推理小説を読んでいる気持ちになりました。ぞくぞくするのです。
加賀乙彦氏と亀山郁夫氏、大江健三郎氏と沼野充義氏の対談が特に面白かったです。
巻末に執筆陣の薦める作品名が載っています。
作家、ロシア文学者たちが語るドストエフスキー像は一つに定まっていません。謎の人物について多くの人たちが語っている推理小説を読んでいる気持ちになりました。ぞくぞくするのです。
加賀乙彦氏と亀山郁夫氏、大江健三郎氏と沼野充義氏の対談が特に面白かったです。
巻末に執筆陣の薦める作品名が載っています。
2012年9月20日に日本でレビュー済み
大江健三郎と沼野充義の対談が印象深い。
大江は「・・・・・読んでも結論は出ないかもしれないけれども、結論に対する過程というものを生き生きと魅力的に書いている。深く誠実に書いている小説家として、これから文学に向かう人たちにも大きな種子だろうと信じている。」と言っている。
加賀乙彦と亀山郁夫の対談も刺激的。
加賀氏が小林秀雄は間違っていると批判する場面がある。キリスト教信者でもないくせに、分かったような口をきくな!って感じで、まことに手厳しい。因みに加賀氏は58歳になって、洗礼を受けている・・・・・
斉藤美奈子は、「カラキョウ」(「カラマーゾフの兄弟」の事である!)の10種類にならんとする日本語訳の比較を局所的に行っているが、これはこれでなかなかの労作。今や、なかなか手に入らない古い翻訳まで持ち出してきて、ごくろうさま。
大江は「・・・・・読んでも結論は出ないかもしれないけれども、結論に対する過程というものを生き生きと魅力的に書いている。深く誠実に書いている小説家として、これから文学に向かう人たちにも大きな種子だろうと信じている。」と言っている。
加賀乙彦と亀山郁夫の対談も刺激的。
加賀氏が小林秀雄は間違っていると批判する場面がある。キリスト教信者でもないくせに、分かったような口をきくな!って感じで、まことに手厳しい。因みに加賀氏は58歳になって、洗礼を受けている・・・・・
斉藤美奈子は、「カラキョウ」(「カラマーゾフの兄弟」の事である!)の10種類にならんとする日本語訳の比較を局所的に行っているが、これはこれでなかなかの労作。今や、なかなか手に入らない古い翻訳まで持ち出してきて、ごくろうさま。