マスコミ、加害者、被害者という3つの立場からの、それぞれの本音がヒリヒリと伝わってくるような話でした。
とくに第1部の中盤と、第2部は生々しくて、読んでいて胸に迫ってきます。
もう、電車のなかで涙をこらえましたよ(><)
またその、被害者と加害者のどちらの側にも偏ることなく書いている作者も、
とても誠実な印象を受けます。
これは、事件から10年たって「とうに終わった」話なのではなくて、
むしろ事件から月日が過ぎた今だからこそ拾い上げることができたという、
稀有な展開なんでしょうね。
事件は悲惨そのものだったし、私も心のどこかで、自分とは関係がない特殊な出来事だと思っていましたが、
登場するそれぞれの人物の苦悩は普遍的で、決してひとごとではなかったです。
ふだん事件モノはほとんど読まないのですが(残酷な話が苦手なので)
この本は、もちろん実話ではあるのですが、
事件モノというより小説のようで読みやすく、
社会人になりたての「僕」にも共感するところが多々ありました。
また、ラストに思わぬ救いがあって、読後感は晴れやかです。
と同時に、もし自分だったら、こんな心境に至れるだろうか?とも考えてしまいました。
もし自分の娘が殺されたら。自分の兄妹が殺されたら。
・・・うーん、こんなに豊かな心をもって消化できるんだろうか。
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謝るなら、いつでもおいで 単行本 – 2014/3/26
川名 壮志
(著)
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佐世保の小学校で小6女児が仲の良い同級生に殺害された痛ましい事件から10年。
被害者家族は、どう精神のバランスをとり生きてきたのか。
子どもの心がわからない全ての人に贈る渾身のノンフィクション。
【著者プロフィール】
川名 壮志 (かわな・そうじ)
毎日新聞記者。1975年、長野県生まれ。2001年、早稲田大学卒業後、毎日新聞社入社。初任地の長崎県佐世保支局で「佐世保小6同級生殺害事 件」に遭遇。同支局離任後も、少年事件の取材を続ける。警察回りや証券取引等監視委員会なども担当し、現在は東京地方裁判所・東京高等裁判所を足 場とした司法取材に取り組んでいる。
被害者家族は、どう精神のバランスをとり生きてきたのか。
子どもの心がわからない全ての人に贈る渾身のノンフィクション。
【著者プロフィール】
川名 壮志 (かわな・そうじ)
毎日新聞記者。1975年、長野県生まれ。2001年、早稲田大学卒業後、毎日新聞社入社。初任地の長崎県佐世保支局で「佐世保小6同級生殺害事 件」に遭遇。同支局離任後も、少年事件の取材を続ける。警察回りや証券取引等監視委員会なども担当し、現在は東京地方裁判所・東京高等裁判所を足 場とした司法取材に取り組んでいる。
- 本の長さ328ページ
- 言語日本語
- 出版社集英社
- 発売日2014/3/26
- 寸法14 x 2.8 x 19.5 cm
- ISBN-104087815501
- ISBN-13978-4087815504
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登録情報
- 出版社 : 集英社 (2014/3/26)
- 発売日 : 2014/3/26
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 328ページ
- ISBN-10 : 4087815501
- ISBN-13 : 978-4087815504
- 寸法 : 14 x 2.8 x 19.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 41,215位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 11,491位ノンフィクション (本)
- - 11,506位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年2月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
出張中に一気に読み終えた。本書の特徴は以下2点である。
まず著者が被害者と被害者家族に極めて近いところにいた点が際立つ。本来のノンフィクションならば
ある程度、書く対象との距離感があるわけだが、本書の場合は距離感がないに等しい。その点で著者は
本書を書くことに大変な苦労があったろう。ノンフィクションを書く上ではある程度以上の冷静さが
必要だと思うのだが、その「冷静さ」を保つことは非常に難しかったはずだ。著者が本書を書き上げるのに
10年要したのも、その距離感によるものであったに違いない。
次に本書の最後に収められている被害者の兄の一連の言葉が非常に際立っている。
「謝るなら いつでもおいで」という書名は彼の言葉だ。彼が家族として事件に非常に苦しみながら
最後に到達した言葉である。この言葉は、かかる状況にいたことがない僕には到底わかるものではない。
憎しみの果てにかような心境が有りえるのだろうかと考え込んでしまう。これを「許し」という言葉
で安易に片づけられない。但し、きっと「許し」の一つの形なのであろう。
著者は、おそらくは、本書を執筆し、「謝るならいつでもおいで」という言葉を聞いたことで救われたのでは
ないかと思う。加害者が本書を読む機会があることを強く祈る次第だ。
まず著者が被害者と被害者家族に極めて近いところにいた点が際立つ。本来のノンフィクションならば
ある程度、書く対象との距離感があるわけだが、本書の場合は距離感がないに等しい。その点で著者は
本書を書くことに大変な苦労があったろう。ノンフィクションを書く上ではある程度以上の冷静さが
必要だと思うのだが、その「冷静さ」を保つことは非常に難しかったはずだ。著者が本書を書き上げるのに
10年要したのも、その距離感によるものであったに違いない。
次に本書の最後に収められている被害者の兄の一連の言葉が非常に際立っている。
「謝るなら いつでもおいで」という書名は彼の言葉だ。彼が家族として事件に非常に苦しみながら
最後に到達した言葉である。この言葉は、かかる状況にいたことがない僕には到底わかるものではない。
憎しみの果てにかような心境が有りえるのだろうかと考え込んでしまう。これを「許し」という言葉
で安易に片づけられない。但し、きっと「許し」の一つの形なのであろう。
著者は、おそらくは、本書を執筆し、「謝るならいつでもおいで」という言葉を聞いたことで救われたのでは
ないかと思う。加害者が本書を読む機会があることを強く祈る次第だ。
2018年9月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
被害者のお兄ちゃんの言葉。許せないはずなのに優しい。被害者のお父さん、加害者のお父さんの葛藤や心境がひしひしと伝わってきました。
2019年12月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
小6の女子生徒が同級生の女子生徒を殺したこの事件、全く納得がいかない。何が納得いかないかって、被害者遺族が全く報われないからだ。加害者は、法律で守られて、更生を目指して施設で指導を受けるなんて、この日本という国の法律は悪者に有利にできているとしか考えられない。これでは、まともに生きてきた被害者遺族がかわいそうでしょうがない。一応本は全部読んだけど、今の私は怒りに満ちている。加害者に、日本という国に。「法律って一体何なの?」
2014年5月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本著は、2004年に起きた「佐世保小6同級生殺害事件」について、被害女児の父親の部下であり、また、記者と言う立場から、事件の背景を追わざるを得なくなった筆者の川名荘志さんのルポタージュです。
「佐世保小6同級生殺害事件」のウィキペディアですら、実際の事件の感度とは異なるんだなあ、という感想を抱きました。
※それも仕方のないことです、第三者は「報道された事柄」を自分の脳内言語に落とし込み、解釈し、表現しているわけですから。
本著の巻頭言で、筆者はこのようなことを書いています。
“本当のことを書くということは、いつだって、むずかしいものだ”
ここでいう“本当のことを書くのはむずかしい”というのは、事実自体をどこまで書いていいものか、書かれたものがどのように捉えられるか、という、社会の中で受けざるを得ない評価を意識して、のことでもあり、「本当のこと」を感度まで含めて表現できているか、という、本来の真実性(とでも申しますか)を意識して、のことでもあるように思います。
そんな筆者の様々な想いの下、表現されたものですから、事件について、最も真実性を帯びた書籍だと思います。
だからこそ、読者に衝動的な感情を与えるような表現はほぼ一切なく~換言すれば、ドラマのような切迫感を生んだり、感情的ゆさぶりをかけることなく~、恐らくそれは相当に筆者が意識して無くし、まとめられた書籍になっていますので、冷静に読めます。
僕はこの本を通じて、教育の視点から、「セルフ・アイデンティティ」の形成その他について深く考えることになりました。捉え方は人それぞれなので、中身そのものについては是非、読んでいただいて、と思います。
「佐世保小6同級生殺害事件」のウィキペディアですら、実際の事件の感度とは異なるんだなあ、という感想を抱きました。
※それも仕方のないことです、第三者は「報道された事柄」を自分の脳内言語に落とし込み、解釈し、表現しているわけですから。
本著の巻頭言で、筆者はこのようなことを書いています。
“本当のことを書くということは、いつだって、むずかしいものだ”
ここでいう“本当のことを書くのはむずかしい”というのは、事実自体をどこまで書いていいものか、書かれたものがどのように捉えられるか、という、社会の中で受けざるを得ない評価を意識して、のことでもあり、「本当のこと」を感度まで含めて表現できているか、という、本来の真実性(とでも申しますか)を意識して、のことでもあるように思います。
そんな筆者の様々な想いの下、表現されたものですから、事件について、最も真実性を帯びた書籍だと思います。
だからこそ、読者に衝動的な感情を与えるような表現はほぼ一切なく~換言すれば、ドラマのような切迫感を生んだり、感情的ゆさぶりをかけることなく~、恐らくそれは相当に筆者が意識して無くし、まとめられた書籍になっていますので、冷静に読めます。
僕はこの本を通じて、教育の視点から、「セルフ・アイデンティティ」の形成その他について深く考えることになりました。捉え方は人それぞれなので、中身そのものについては是非、読んでいただいて、と思います。
2014年5月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
事件当時に小学校6年生だった女の子が同級生を殺してしまったという事件について、二部からなっている。
愛娘を失って悲嘆にくれる父親は、新聞記者だった。第一部では、亡くなった少女をよく知る立場にもあった父親の部下が「新聞には書けなかった」当時の思いを綴っている。
記者が「報道される側」になるとは、どういうことなのか。かけがえのない我が子を突然奪われて、それでも記者会見に臨み、顔写真を報道各社に提供した。自分が取材する側なら、そうお願いするだろうから・・・・・・。
その姿を見ながら、筆者は「仕事にしがみつい」た。「どんなにいびつな姿でも、記者の形をしたままがいい」と。「寄り添うことで、かなしみの底にひきずりこまれるのが怖かった」という。
通常、事件が起きると加害者や被害者の名前とともに顔写真が報道される。関係のある人から話を聞こう、様子を伺おう、と自宅周辺に記者やカメラマンが押し寄せる。メディア・スクラムと呼ばれる現象が起こることも少なくない。しかし、この事件では被害者遺族の自宅は新聞社支局の建物の上階にあったため、記者が押し寄せるというわけにはいかなかった。それでもなお、記者でもある父親は我が子が事件の被害者として名前や顔写真とともに報じられることに苦しんだ、という。
犯罪の被害者の実名を報じるか否かについては、これまでにも幾度となく論じられてきた。報じる側が報じられる側に回った時、実名が報じられるということの意味を重くかみしめたのではないだろうか。
第二部では、筆者が当時の上司である被害者の父親、兄、そして加害者の父親にインタビューした記録が収められている。ここでは、それぞれの立場から加害者への思いが綴られている。被害者の父親、兄は加害者に対して「普通に生きてほしい」という。殺人という罪を犯しながら、少年法の規定により刑事罰を科されることはなかった。しかし、一生、心の中に十字架を背負い続けて生きていくことになる。そのことを胸に刻みつつ、被害者の兄は言う。
「謝るなら、いつでもおいで」
愛娘を失って悲嘆にくれる父親は、新聞記者だった。第一部では、亡くなった少女をよく知る立場にもあった父親の部下が「新聞には書けなかった」当時の思いを綴っている。
記者が「報道される側」になるとは、どういうことなのか。かけがえのない我が子を突然奪われて、それでも記者会見に臨み、顔写真を報道各社に提供した。自分が取材する側なら、そうお願いするだろうから・・・・・・。
その姿を見ながら、筆者は「仕事にしがみつい」た。「どんなにいびつな姿でも、記者の形をしたままがいい」と。「寄り添うことで、かなしみの底にひきずりこまれるのが怖かった」という。
通常、事件が起きると加害者や被害者の名前とともに顔写真が報道される。関係のある人から話を聞こう、様子を伺おう、と自宅周辺に記者やカメラマンが押し寄せる。メディア・スクラムと呼ばれる現象が起こることも少なくない。しかし、この事件では被害者遺族の自宅は新聞社支局の建物の上階にあったため、記者が押し寄せるというわけにはいかなかった。それでもなお、記者でもある父親は我が子が事件の被害者として名前や顔写真とともに報じられることに苦しんだ、という。
犯罪の被害者の実名を報じるか否かについては、これまでにも幾度となく論じられてきた。報じる側が報じられる側に回った時、実名が報じられるということの意味を重くかみしめたのではないだろうか。
第二部では、筆者が当時の上司である被害者の父親、兄、そして加害者の父親にインタビューした記録が収められている。ここでは、それぞれの立場から加害者への思いが綴られている。被害者の父親、兄は加害者に対して「普通に生きてほしい」という。殺人という罪を犯しながら、少年法の規定により刑事罰を科されることはなかった。しかし、一生、心の中に十字架を背負い続けて生きていくことになる。そのことを胸に刻みつつ、被害者の兄は言う。
「謝るなら、いつでもおいで」
2015年7月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本はネット上では有名な「NEVADA事件」の被害者側の立場で書かれた本である。被害者の父親は毎日新聞の佐世保市局長で、筆者はその部下である。こじんまりした支局であり被害者家族は三階に住居があり、支局が二階に有ったという。勿論筆者と被害者は面識が有り殺されたという一報を受けた時から「記者」であり「取材を受ける側」かつ「取材する側」という頭のなかがおかしくなりそうな状態だったという。
何しろ加害者も被害者も「11才」という豊葦原瑞穂の国始まって以来の大事件だったし、未成年それも児童による殺人事件として悪しき前例を残した事件でも有る。
「犯人」を「患者」という名前に擦り替え、懲罰ではなく「再教育」という名前で闇から闇へ事件を葬り去る前例を作ってしまった。
これが為に「神戸連続児童殺傷事件」の「元東慎一郎」や今現在精神鑑定中の佐世保猟奇女子高生バラバラ殺人事件の徳◯◯なみをも「精神鑑定」→「対人関係障害だから治療で治る」という世迷い言をおおっぴらに言える事となった切っ掛けの事件だった。
「精神科の患者だから」加害者の氏名は絶対に未公表、代わりに被害者は家族も含め実名報道という悪しき前例も作ってしまった。
事件は 2004年6月1日午後に起きた。加害者の唯一ネットに拡散した写真で加害者が着用していたトレーナーの峡部に「NEVADA」の文字が有った事から「NEVADA事件(ネバダ事件)」とネット上で呼ばれるようになった。
あれから11年経過したが加害者が一体どうなったのか?一切闇の中に隠蔽されたまま被害者家族(母親は事件の三年前に癌で亡くなられている)にすら全く伝えられていない。
事件発生後、伝えられた情報では「加害者少女は全く反省の色もなく、詫びる言葉さえ口にしていない」という弁護士ですら困り果てる状況で、年齢の壁に阻まれ、もし精神鑑定が行われなければ 例え殺人事件であっても たったの4週間で「和やかに」審判を下される運命だったのだ。
たった4週間で心の暗闇を咀嚼する事が出来るわけがない。
現に4ヶ月掛って鑑定したが、まるっきり自閉症スペクトラムの教科書の記載に沿った鑑定しか出来なかった。
また この事件で「アスペルガー症候群(アスペルガーしょうこうぐん、Asperger Syndrome, AS)」という疾患名が独り歩きするようになった。
概念として高機能自閉症とアスペルガー症候群には強い遺伝的な要素があるとか自閉症スペクトラムについて付け焼き刃的報道がなされ、早発性の反社会性パーソナリティ障害ではないのか?という一番大事な話が何処かに消えたままになってしまった。
あくまで個人的見解だが、アスペだからと言って11才にもなって「殺人」を犯しながら反省もできないなんて絶対に変である。アスペだって反省もするし詫びもする。その前に殺人に突っ走ったりしない。
先だって死刑執行された山地悠紀夫死刑囚は16才の時に母親を金属バットで殴り殺し、成人してから美人姉妹二人を強姦し刺殺し放火し、結果、昨年死刑執行されている。
母殺しから9年、そして死刑確定から2年が経過した2009年7月28日、山地の死刑が執行された。享年25。
こいつもアスペと言われ、最後まで反省も詫びも言わず「死刑で良いです」という言葉を残している。基本的に「治った」とみなされ保護処分を終えてから 殺人事件を起こすまで、たったの二ヶ月であった。
もう司法も基本的に「治る」「治す」「再教育」等々という妄想を司法は抱くべきではない。
酒鬼薔薇を見れば解る通り「狡賢い悪党」が出来上がるだけだ。太◯出版とかいう外道出版屋とつるんで自らの犯罪を誇示し、大金を手にしたが自分のデータは一切出ないように悪賢く立ち回っている。
このままだと佐世保猟奇女子高生バラバラ殺人事件の犯人徳勝も◯みも公的に名前を変えて我々の身の回りに住んでしまう可能性がある。彼女も父親の自殺を告げられても何一つ感情に揺ぎが無かった。
これは東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤とも同じ反応である。奴も反省や詫びる言葉を一切口にしていない。
しかも再犯したところで「精神的障害」を抱えているというお墨付を持っている。再犯の対象にならない保証も無いし被害者は殺され損になる可能性が高い。
名古屋大学理学部1年生の女子大生・大内万◯亜容疑者みたいに18才を超えていれば話は簡単には済まないが、彼女も又「治療」とかいう司法の妄想によってシャバに出てくる疑い濃厚である。
この11才の恐るべき殺人者は、被害者が完全に息絶えたかどうか、足で蹴飛ばして確認したのだという。こんな恐るべき人間が「治る」かどうか?冷静に考えてみて欲しい。
あくまで個人的な考えだが、彼女は先天的な反社会性パーソナリティ障害の重篤な早発例であり、一生塀の中に置く事が大多数の一般人には必要な事なのだ。
人類10万人あたり0,1人程がこの反社会性パーソナリティ障害つまり先天性の悪人なのだ。これは人間の不良品でありサイコパスと同じ様に必ず出現する治療不可能な異常なのだ。
治すとか再教育で何とかなる、という妄想は片っ端から壊されているのだ。
司法もいい加減 目を覚まして欲しい。
今の日本に必要なのは英国の施設「ブロードムーア刑務所」のような国立の施設なのだ。
何しろ加害者も被害者も「11才」という豊葦原瑞穂の国始まって以来の大事件だったし、未成年それも児童による殺人事件として悪しき前例を残した事件でも有る。
「犯人」を「患者」という名前に擦り替え、懲罰ではなく「再教育」という名前で闇から闇へ事件を葬り去る前例を作ってしまった。
これが為に「神戸連続児童殺傷事件」の「元東慎一郎」や今現在精神鑑定中の佐世保猟奇女子高生バラバラ殺人事件の徳◯◯なみをも「精神鑑定」→「対人関係障害だから治療で治る」という世迷い言をおおっぴらに言える事となった切っ掛けの事件だった。
「精神科の患者だから」加害者の氏名は絶対に未公表、代わりに被害者は家族も含め実名報道という悪しき前例も作ってしまった。
事件は 2004年6月1日午後に起きた。加害者の唯一ネットに拡散した写真で加害者が着用していたトレーナーの峡部に「NEVADA」の文字が有った事から「NEVADA事件(ネバダ事件)」とネット上で呼ばれるようになった。
あれから11年経過したが加害者が一体どうなったのか?一切闇の中に隠蔽されたまま被害者家族(母親は事件の三年前に癌で亡くなられている)にすら全く伝えられていない。
事件発生後、伝えられた情報では「加害者少女は全く反省の色もなく、詫びる言葉さえ口にしていない」という弁護士ですら困り果てる状況で、年齢の壁に阻まれ、もし精神鑑定が行われなければ 例え殺人事件であっても たったの4週間で「和やかに」審判を下される運命だったのだ。
たった4週間で心の暗闇を咀嚼する事が出来るわけがない。
現に4ヶ月掛って鑑定したが、まるっきり自閉症スペクトラムの教科書の記載に沿った鑑定しか出来なかった。
また この事件で「アスペルガー症候群(アスペルガーしょうこうぐん、Asperger Syndrome, AS)」という疾患名が独り歩きするようになった。
概念として高機能自閉症とアスペルガー症候群には強い遺伝的な要素があるとか自閉症スペクトラムについて付け焼き刃的報道がなされ、早発性の反社会性パーソナリティ障害ではないのか?という一番大事な話が何処かに消えたままになってしまった。
あくまで個人的見解だが、アスペだからと言って11才にもなって「殺人」を犯しながら反省もできないなんて絶対に変である。アスペだって反省もするし詫びもする。その前に殺人に突っ走ったりしない。
先だって死刑執行された山地悠紀夫死刑囚は16才の時に母親を金属バットで殴り殺し、成人してから美人姉妹二人を強姦し刺殺し放火し、結果、昨年死刑執行されている。
母殺しから9年、そして死刑確定から2年が経過した2009年7月28日、山地の死刑が執行された。享年25。
こいつもアスペと言われ、最後まで反省も詫びも言わず「死刑で良いです」という言葉を残している。基本的に「治った」とみなされ保護処分を終えてから 殺人事件を起こすまで、たったの二ヶ月であった。
もう司法も基本的に「治る」「治す」「再教育」等々という妄想を司法は抱くべきではない。
酒鬼薔薇を見れば解る通り「狡賢い悪党」が出来上がるだけだ。太◯出版とかいう外道出版屋とつるんで自らの犯罪を誇示し、大金を手にしたが自分のデータは一切出ないように悪賢く立ち回っている。
このままだと佐世保猟奇女子高生バラバラ殺人事件の犯人徳勝も◯みも公的に名前を変えて我々の身の回りに住んでしまう可能性がある。彼女も父親の自殺を告げられても何一つ感情に揺ぎが無かった。
これは東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤とも同じ反応である。奴も反省や詫びる言葉を一切口にしていない。
しかも再犯したところで「精神的障害」を抱えているというお墨付を持っている。再犯の対象にならない保証も無いし被害者は殺され損になる可能性が高い。
名古屋大学理学部1年生の女子大生・大内万◯亜容疑者みたいに18才を超えていれば話は簡単には済まないが、彼女も又「治療」とかいう司法の妄想によってシャバに出てくる疑い濃厚である。
この11才の恐るべき殺人者は、被害者が完全に息絶えたかどうか、足で蹴飛ばして確認したのだという。こんな恐るべき人間が「治る」かどうか?冷静に考えてみて欲しい。
あくまで個人的な考えだが、彼女は先天的な反社会性パーソナリティ障害の重篤な早発例であり、一生塀の中に置く事が大多数の一般人には必要な事なのだ。
人類10万人あたり0,1人程がこの反社会性パーソナリティ障害つまり先天性の悪人なのだ。これは人間の不良品でありサイコパスと同じ様に必ず出現する治療不可能な異常なのだ。
治すとか再教育で何とかなる、という妄想は片っ端から壊されているのだ。
司法もいい加減 目を覚まして欲しい。
今の日本に必要なのは英国の施設「ブロードムーア刑務所」のような国立の施設なのだ。
2017年2月16日に日本でレビュー済み
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何よりも若くして亡くなってしまった被害者の無念。被害者家族の深い苦悩。別な意味で加害者家族の苦悩。これらを新聞記者として著者川名さんの絶妙な執筆タッチで読者の心に迫ります。