奏でられ縺れ合う二つの旋律、葛藤と眠りの中の夢
ひとつは、父と子の痛切な愛と憎悪の葛藤の物語、もうひとつは、眠り姫の夢の迷路の物語
彩られ舞い散る二つの色彩、赤と青
ひとつは、空中から雨のように降り注ぐ血と薔薇の花びらと心臓の赤
もうひとつは、惑星に広がり溢れ出て埋め尽くす太平洋の海の水の青
語られ暴かれる一つの事柄、秘密
世界の秘密、世界が背負う宿命の行方、そして、世界の生誕と崩壊の秘儀
二つの旋律と二つの色彩と一つの秘密が、悔恨と悲しみと喪失の歌と伴に、巨木の無数に広がる枝葉のように物語の断片となって、絡み合い撚り合い解くことのできない複雑な塊となって行く。そして、その解くことが困難と思われたその塊が、終わりにおいて、世界の秘密とその秘儀によって、解き放たれることになる。全てが、ラスト・シーンの眩い光の中の、草原を透かす波間の子供たちの姿に収斂されて行く。
これは、21世紀の始まりに作られた、萩尾望都によってなされた、世界と未来を肯定する意志に貫かれた、漫画を超えたひとつの表現の極点である。この漫画は他のどのようなものとも比較することができない。それは静かではあるけれど、激しい声を轟かせる特別な存在である。つまり、それはこの漫画が、
〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の孤高の星座であるということでもある。
(1)〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉、あるいは、漫画という呼び名を超えて
萩尾望都の漫画が、少女漫画というカテゴリを起源に持ち、萩尾望都の創作の起点が今もなお、そこにあるとしても、生み出されたその漫画がそうしたカテゴリの中に収まりきらないものであることは、明白であろう。さらに言えば、その漫画は漫画という呼び名でさえ似つかわしくないと、私は思うのである。ひとつひとつ挙げるのは無粋なことなのだが、「ポーの一族」の新作「春の夢」、「ユニコーン」、「秘密の花園」の本の表紙を見て、その凄まじい美しさに、手が震え、息が止まってしまったのは、私だけではないのではないだろうか。それは印刷という複製物ではなく、漫画でもイラストレーションでもなく、もはや、唯一、一点きりのタブロー、絵画、造形芸術なのである。だから、私は、ここにおいて、萩尾望都の漫画を〈絵画漫画〉と呼ぶことにする。そして、その萩尾望都の漫画の世界を〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉と記述することとする。その世界がひとつの宇宙を形成していることも、また、明白なことであるのだから。
(2)人の内部の血と薔薇、その描写、あるいは、イメージの結晶体
〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の中に、何かしらの存在が存在する。例えば、血と薔薇。一滴の血、溢れ返る夥しい血、あるいは、薔薇、狂ったように咲き乱れる薔薇の花園。それが何処に存在しているのか? 私の前に、あなたの前に。あるいは、遠く深い場所に。〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の中の、血は、薔薇は、私の前でもなく、あなたの前でもなく、遠い深い場所でもなく、内部に存在する。それは、人の内部に存在する。人の内部に存在する血と薔薇。
〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉に存在するものたち、ことたち、ひとたちは、人の内部に存在する。それらは人の外に存在するものたちを正確に描写したものではない。それらは人の内部に存在するものたちを精密に描写したものたちだ。そこに描かれている血と薔薇は、人の内部に存在する血と薔薇を緻密に写実したものだ。物語の結構として、ストーリーの変転として、劇の幕として、人の外と内が描き分けられているとしても、それはひとつの作法にしか過ぎない。〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉は、見掛けは、人の外の世界と人の中の世界の交錯のように見えるかもしれないが、それらは、全てが、人の内部の世界である。
「残酷な神が支配する」の無限回廊的迷路的反復、イアンもジェルミもその外と内が溶解して行く。「ポーの一族」のエドガーとアランとメリーベル、彼ら彼女らも、そしてその世界も、また、血と薔薇の赤にたゆたう永遠と瞬間という無時間の中に、その外と内が溶けて行く。
描き出す対象を捉え、その対象の外部と内部を描く、その結果が漫画、絵画とするならば、萩尾望都が描き出す絵画漫画の対象は、その全てが、その内的世界に存在する。内的世界に存在する対象の外部と内部を描き出すその絵画漫画。〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉は、夢見られた、夢見られている、閉じられた世界の内的世界となる。別の言い方をするならば、想像力によって生み出されたイメージ(像)の結晶体である。
(3)想像力、イメージ、覚醒したまま見る夢、あるいは、来るべき未来の言葉
ここで言うイメージとは、一定の輪郭と方向性を持つが、しかし、曖昧な茫漠とした感じ、印象、雰囲気という意味ではない。また、物事の大枠、概観、という意味でもない。「人の心の中に、想い(思い)、描かれた、形ある、像としての、ものごと(世界、宇宙)」という意味でのイメージである。この意味での〈イメージ〉には何一つ不定形さ、曖昧さ、茫漠さ、空隙性、概略性はない。明晰で鮮明な形と実体と実質を伴った確固たる高解像度的存在として、イメージは出現する。
従って、想像力を数式として表すならば、次のようになる。
「想像力=思考力×描写力(造形力)(=イメージ形成力)」
この数式が示すところは、思考(思う、想う)それだけではイメージは生まれないということである。強い思考を成し得る強靭な頭脳を有することだけでは、イメージは発生しない。そこに描き出す力が必要なのである。それを描写する。つまり、その思考を像としてドローイングする力、その思考を形あるものとして把握する力、その思考に相応しい形を与える力、が必要なのである。その像(形あるもの)が、光と影として、音と沈黙として、身振りとダンスとして、あるいは、言葉として、現れるかはその次の段階の別の話である。
そして、「イメージとは、形ある思考、形を有した思考、形として表れる思考、あるいは、思考としての形」と定義されることになる。そこにあるイメージは表面的には何かしらの形状をしているのだが、それは形なき思考が形を与えられ、形として表出した思考なのである。それは思考という目に見えない耳で聴き取ることができない原形質が、何かしらの形としてこの世界に、目に見えるものとして耳に聴こえるものとして、生起したものなのである。
萩尾望都は、そのイメージを絵画漫画という形式において、それを物質化する業師なのである。萩尾望都は自分の内的世界と自分の手を連携させ、そのイメージを錬成し、それをペンとインクによって、紙の上に結実させる。萩尾望都の絵画漫画は、イメージという形を持つ思考の物質なのである。ペンとインクと紙によって産出されるその絵画漫画の奇跡的美しさ。割れた先端を持つ金属片からなるシンプルな道具であるペンと、黒い液体でしかないインクと、何一つ特別なものではない白い紙、それだけであの光り輝く奇跡を生み出すことができるのだとすれば、萩尾望都のことを〈イメージの錬金術師、あるいは、呪術師〉と呼ぶことは、いささかも誇張した物言いではないと、私は思う。
思考力と描写力が掛け合わせられることによって始めて生じる、今ではなく、ここではない場所、にしか存在しないものごととしてのイメージ。今、この場所に存在し見えている光景を、世界を、記録しリプレイするのではなく、受け入れるのでもなく、柔らかに毅然として拒否すること。目を閉じることなく、目に見えないものを見ること。耳をふさぐことなく、聴こえないものを聴くこと。あるいは、夢見ることでしかそれを見ることができないものを、覚醒したまま夢見ること。現実を超越し、もうひとつの現実を出現させること。それが、イメージであり、イメージすることであり、想像であり、想像力である。
萩尾望都は、想像力を肯定する。
萩尾望都は、イメージを肯定する。
萩尾望都は、覚醒したまま夢見ることを肯定する。
萩尾望都は、イメージを夢を物質化することを肯定する。
萩尾望都は、もうひとつの「ここではないどこか」を肯定する。
形を持つ思考である、イメージの結晶体としての〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉。
出現したもうひとつの現実である、覚醒したまま見る夢としての〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉。
紙という平面上のドローイングである、物質化された夢としての〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉。
そして、それは、また、語られることを待っている言葉として、来るべき未来の言葉でもある。
(4)「バルバラ異界」、24章の物語、24個の題名から零れ落ちる、小さな音楽の断片
「バルバラ異界」は、一巻に6個の章が収められた全四巻24章からなる物語である。その各章に名付けられた題名が素晴らしく麗しい。スタイリッシュにしてエレガント。その多くが短いフレーズではなく、一つのセンテンス、あるいは、二つの対になったフレーズで構成されている。まるで小説の中の一文から切り取られたような、否定形あり疑問形あり命令形ありの多彩なセンテンス、そして、相反する意味のフレーズの組み合わせが、題名の中で共存し共鳴する。題名を読むだけで、物語が私の中で立ち上がり、音楽が奏でられ始める。24個の音楽が私の中で鳴り響き、破片のようなストレインとコードとビートが零れ出る。
「眠り姫は眠る血とバラの中」「公園で剣舞を舞ってはならない」「彼の名は絶望 彼女の名は希望」
「冷蔵庫の中のわたしを食べて」「お誕生日は同じ10月1日」「誰もあなたの名前を知らない」
「ずっとあなたを愛していた」「ぼくのキリヤをかえしてくれ」「遠い昨日から遠い明日へ」、等々。
〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の美しさのひとつである、言葉の典雅さが申し分なく表れている。
(5)「バルバラ異界」、〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の星座の舞台劇の饗宴
「バルバラ異界」は、そうした萩尾望都によるイメージの結晶体のひとつであり、〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉に存在するひとつの星座である。
物語は、息が詰まるほどの至福の光に満ち溢れた、無重力空間の中で浮遊する子供たちの姿で幕を開ける。生い茂った植物群に覆われた屋根裏部屋の、突っ張り棒で半ば開いた窓から降り注ぐ光の中に、眠っているのか目覚めているのか定かではない一匹の山羊がこちらを凝視している。その山羊の前の枯草の中に絡み付く様にして三人の小さな子供たち(ひとりの少女とふたりの少年)が昼寝をしている。それが、物語が始まる前の光景として、ファースト・シーンとして現れる。その光景はこの長大な物語の終わり、ラスト・シーンとリンクすることになる。始まりの映像と終わりの映像が結び合う。
そして、物語は一転、眠り姫の夢の迷路へ誘われる。登場人物たちの来歴と役回りが語られ、物語が始動を開始し、結末へ向かって雪崩を打つように転がって行く。そこでは、何時もながらの舞台装置の間で萩尾望都の馴染みの面々が繰り広げる、賑やかさと沈黙を孕んだ凄惨にして滑稽なる宿命の物語が、赤と青の色彩の下で壮大さと微小さの中で語られ、ラスト・シーンへと収斂されて行く。
「バルバラ異界」という漫画は〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の登場人物、背景、舞台装置、仕掛け、道具立て、プロットが勢揃いした感のある漫画となっている。御馴染みのモチーフ、御馴染みのキャラクター、御馴染みの主役と脇役と狂言回し、御馴染みのプロットとストーリーの組み立てと展開、御馴染みのシーンとショットの御馴染みのカメラ・ワーク、御馴染みの乱舞する色彩、御馴染みのガジェット、御馴染みのギミック。出し惜しみされることなく、〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の星々が明滅する。
浮遊する子供たち、少年と少女と山羊と草花、回る空、親と子の葛藤、壊れた愛、愛と憎悪と悔恨と喪失の迷路と物語、世界から遺棄され見捨てられた子供、不老不死、すり替えられる子供たち、カニバリズム(食人)、儀式、記憶の伝承、眠り姫、繭のようなカプセルの中のベッド、降り注ぐ血と薔薇、食べられる心臓、ポルターガイスト、夢、夢の中への侵入、夢の中の夢、入れ子細工の夢、夢と現実の相互侵犯、夢の中の現実と現実の中の夢、ウロボロスの如く尻尾を食べ合う夢と現実、タイム・パラドックス、火星の生命の夢、火星の古代の海の記憶、統合の夢、ジェノサイド、炎、叫び、世界の生誕の秘儀、夢と現実の転換、光、眠りの終わりと目覚め、別れと再会、希望と未来。
登場人物たちの理不尽とも思える過酷な運命と宿命、不可解な出来事の連鎖と奇妙で信じ難い一致と符合、謎が謎を呼び、謎に謎が絡みつく複雑に入り組んだ迷宮的ストーリー展開、表の話と裏の話、見えているものと見えていないもの、追う者と追われる者と逃げる者と逃げられる者、愛の原型、人物間の関係性の変貌と混乱、物語の歯止めを失ったかのような枝分かれ的拡散と収束、スケールの巨大さと微小さ、論理も倫理もかなぐり捨てた形振り構わずの序破急も驚愕の型破りの急転直下、そして、全てを飲み込む大団円。
まさに、絢爛豪華たる〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉によるオール・スター競演。人々は深深と〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の舞台劇的饗宴に酔い痴れることになる。
「バルバラ異界」は、或る意味、御贔屓筋は安心して楽しめる漫画となっている。しかし、その終わりに近付くにつれて、その様相は次々と変貌し、暗黒面が迫り出してくることになる。漫画はダークな不穏な気配が支配することになり、安心感は一挙に消え失せてしまう。物語は悲劇的な破滅的な姿をとり始め、読み手に緊張感が満ち、その佇まいと姿勢を正すことになる。そして、その終わり近くに、或る尋常ならざる奇怪な革命的転換が圧倒的な速度で行われ、物語は終末を迎えることになる。この結末への収斂に、その過程に、萩尾望都のイメージの極限が示され、〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の秘密と秘儀が開示される。
(6)魔術的逆転劇的革命の勃発、あるいは、我が儘な掟破り、雑多で複雑で強引で臆面もなく
その結末において発生する、突然の極大の竜巻のような出来事は、〈魔術的逆転劇的革命〉と大仰しい名前で呼ぶことが相応しい。
或る意味、それは我が儘な掟破りとも言える。もしかしたら、そのことを以てして、読み手によってはこの物語に対して否定的な思いを持つ方がいるのかもしれない。「酷い御都合主義ではないのか」と批判する人もいるのかもしれない。中には、「夢落ちの中の夢落ち、二重仕立ての夢落ち、重ね着された夢落ち、改変版邯鄲の枕」と呆れてしまう人もいるのかもしれない。さらには、「夢と現実の相互乗り入れという古典的アイデアに準拠したSF的夢物語版古典伝統芸」と言った揶揄もあるのかもしれない。また、そのあまりにも性急な物語の展開と収束に、大きく広げ過ぎた風呂敷を慌てて回収し取り込むような無様さを、見る人もいることだろう。この部分の捉え方によって、この物語は相当に違った別の顔を持つものとなる。然もありなん。完璧とはほど遠い雑多で複雑で強引で臆面のない作品なのかもしれない。私はそうした批判を全面的に退けるつもりはない。「バルバラ異界」は、完全無欠な作品ではない。確かに。
(7)「バルバラ異界」、その特別さ、あるいは、〈声〉を聴く、〈言葉〉を聴く
だが、しかし、そうであるならばこそ、問いたい。
この漫画を閉じてみる。一度、静かにゆっくりと。
その本の上に手を乗せ、目を閉じ、バルバラ異界のことを思ってみる。その未来のことを。
青羽のこと、キリヤのこと、タカのこと、パインのこと、渡会のこと、メリージェーンのことを想ってみる。
「バルバラ異界」のラスト・シーンを思い起こしてみる。〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の至極の優美さである、まばゆい光が凝縮された素晴らしいラスト・シーンのひとつとして。そして、〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の中で閃く数々のラスト・シーン。「百億の昼と千億の夜」、「スター・レッド」、「残酷な神が支配する」、「訪問者」、「銀の三角」、等々。比べることは、行ってはいけないことであると知りつつも、その鮮烈さと哀惜と清冽さと光の眩しさにおいて、「トーマの心臓」のラスト・シーンを想い起こさずにはいられない。それは黒々した雲の下で吹き荒れた嵐の夜の豪雨の後に、静寂の中で、夜明けとともに薄れゆく雲の間から差し込む、透徹した陽光のあたたかさときらめきと、その先に見える晴れ渡った空の青さと、頬をそよぐ風の穏やかさの中の、未来と希望と困難と戦い。
〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の最高の到達点。そのラスト・シーンから流れ出る孤高の流麗な光彩の中に足の先から頭の上まで、身体の全部を沈潜させ、空中から降り注ぐ未来のイメージの欠片の雨に打たれ濡れる。
「バルバラ異界」を読み終えた後、もたらされるその読後感の信じられないほどの透明な清々しさ、私の中に広がる倖せな気持ち。それは何処から来るのか? その不純物のない純粋で明晰な幸福感は、本物なのか、信じるに値するものなのか、それとも、偽りの贋物の逃避的陶酔にしかすぎないのか?
何なのだろうか? 晴れ晴れとした、振り切れた解き放たれた気持ちは。
何なのだろうか? ひそやかに染み渡る瑞々しいやさしさと強さと勇気は。
何なのだろうか? 私の体に、静かに満ち溢れて来る、弾む力のような気持ちは。
何なのだろうか? 柔らかく暖かく繊細な澄み切った光の風に、体を包まれるような気分は。
「バルバラ異界」が、他のものと比較することができない理由がここにある。
「バルバラ異界」は、パーフェクトではない。だが、スペシャルなのだ。
そして、
私は、その結末に、その収斂に、その過程に、そこに、鮮烈にして明確な〈声〉を聴く、〈言葉〉を聴く。世界を肯定する意志を聴く。決断と確信と、その叫びとしての〈言葉〉を聴くのだ。ここに、静かだが、疑いのない強く決然とした〈声〉と〈言葉〉を聴く。これは、ひとつの意志であり、ひとつの決意であり、ひとつの信頼であり、ひとつの〈声〉、ひとつの〈言葉〉なのである。
つまり、これは、漫画という表現を超えたものなのだ。
(8)魔術的逆転劇的革命の真の意味、二つの危機とその回避、あるいは、世界の秘密
「バルバラ異界」の第四巻の最終話の前の「バルバラ崩壊」と「ぼくのキリヤをかえしてくれ」と最終話「遠い昨日から遠い明日へ」を慎重に読み進めて行き、魔術的逆転劇的革命の真の意味を解き明かしてみたいと思う。そして、その結末に、その収斂に、その過程に、そこに、聴く〈声〉と〈言葉〉の意味を探り、「バルバラ異界」の特別さが何によってもたらされているのか、見極めたいと思う。
「バルバラ異界」は、その物語の終盤において、二つの危機を迎えることになる。一つは、バルバラの崩壊の危機、もう一つは、登場人物の死という危機。前者の危機は、バルバラという夢の中の世界の話であり、後者の危機は、現実の中の話である。何方も「バルバル異界という物語の中での」という限定されたものではあるのだけれども。物語の中の夢の中の危機と、物語の中の現実の中の危機。この二つの危機に抗い、それを迎え撃つ方法として、ひとつの世界の秘密によって、途方もない転換として魔術的逆転劇的革命が物語の中で実行される。結末へ向かって、「バルバラ異界」は決定的な方角へ舵を切ることになる。
この作品を貫く不可視の動きとしての〈入れ替わり〉、あるいは、〈転倒〉、もしくは、〈反転〉が発現し起動する。あれとこれが入れ替わり、引っ繰り返る。あれがこれになり、これがあれになり、こちらがあちらになり、あちらがこちらになる。内側が外側に、外側が内側に。夢が現実に、現実が夢に入れ替わる。彼、彼女の夢が私の夢に、私の夢が彼、彼女の夢に。転び、倒れ、入り、出て、替わる。イメージの結晶体としての〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の魔術的逆転劇的革命が勃発することになる。
この魔術的逆転劇的革命の中に世界の秘密と創造の秘密が提示されている。「バルバラ異界」の中では過去の現実と現在の現実と未来の現実が、過去の夢と現在の夢と未来の夢と、入り交じり相互作用してしまう世界である。過去、現在、未来という時間の次元と、現実と夢という世界の次元、その二つが、分離しつつ、繋がり、合流することによって、時間と世界が交換される。未来の時間と世界が夢を通して、現在の時間と世界の中に内包され、現在の時間と世界が夢に変換され、過去の時間と世界の中に内包される、変幻自在の超現実的世界。
しかし、「バルバラ異界」が何でもありの勝手気ままな都合の良い無秩序な世界なのかというと、そうではない。そこには、幾つかのルール、決まり事、禁止事項が存在する。
その1、「世界は誰かに夢見られたものである。世界は誰かの夢であるということ。」 その2、「夢は何度でもやり直せる。但し、過去は変えられない。タイム・パラドックスの存在。」 その3、「夢見る者が夢の宿命の全部を支配することはできない。一度、始まった夢の結末は夢それ自身の結末を迎える。」 その4、「誰かの夢の中に、その誰かとは別の誰かが入り込むことができる。夢の外からの夢への干渉の可能性」
そして、魔術的逆転劇的革命。
崩壊の危機に晒された夢と受け入れ難い現実、その二つの世界、夢と現実が変更される。
未来という時間を持つ現実の世界が、現在という時間を持つ夢の世界として現れる、そこから導き出される論理的逆転として、現在という時間を持つ現実の世界が、過去という時間を持つ夢の世界として、改めて、現れ直すことが実施される。未来の現実が現在の現実へ、現在の夢が過去の夢へ、それぞれスライドし、新たな現在の現実として創造される。崩壊の危機にみまわれた夢は、現実から新たな人を呼び込み、新たな夢として生き延び、現実の登場人物の死は、現実の中に夢を入れ込み、夢の中に現実を入れ込むことによって回避される。夢の中の生が、現実の中の死と入れ替わり新たな生として生き、現実の中の死が、夢の中で新たな生として生きることになる。夢と現実の改変の中で、タイム・パラドックスは避けられ、夢と世界の相互作用の決まりが守られ、その代償として、幾つかの生と死と人が入れ替えられる。さらに、その現実の改変の結果として、現実という時間を持つ危機に瀕した夢の世界も変更され、崩壊を免れ完成し、未来という時間を持つ現実の世界として実現されることになる。
この魔術的逆転劇的革命において最も重要な事柄は、それが誰のどのような意志によって成されたかである。夢見られた世界がその夢見人の夢のままその宿命を受け入れるのではなく、その世界の中の夢見られた存在が、その存在自身がその意志によって、その夢見られた世界を変更するところにある。夢見人がその夢を変えるのではなく、夢それ自身が夢を変える。夢が夢見人を選び取り、その求める夢を手に入れる。世界はその宿命を創造主に決定されるのではなく、その世界それ自身によって切り開くのである。世界がその世界を作った創造主を自ら変更し、そのことによって、世界そのものを変更するということ。世界と創造主の位置の交換、転倒。
世界は更新され、世界は生き延びる。夢の世界も現実の世界も。世界の運命はその創造主、超越者、絶対者によって定められるのではない。その理によって決定されるものではない。世界は創造主に抗い、法を退け、掟を引き破り、世界は世界それ自身によってその行方を決める。世界の宿命は、世界そのものが背負い、それを全うする。世界の始まりとその終わりは、世界の外に存在する超越者によって決められるものではない。世界は創造主の所有物として従属物として、その手の中に委ねられているのではない。その始まりと終わりは、世界そのものの意志によって、求める世界として、あるべき世界として、希望として、夢見られた世界として、世界それ自身によって成されるものなのである。世界は世界それ自身によって創造される。
世界の手の中に創造主が握られているという、魔術的逆転劇的革命。
主体と客体の転倒、主体と客体が入れ替えられ、主体の従属としての客体が、その従属から脱し、主体を退ける。主体が客体の中に取り込まれ組み込まれ、客体なき主体と主体なき客体が生まれ、主体を必要としない客体と客体を必要としない主体からなる存在となる。存在は、〈作られる存在〉から、〈出現する存在〉へと遷移する。
〈出現する存在〉としての世界。それが世界の秘密、世界の創造と崩壊の秘儀。
魔術的逆転劇的革命の真の意味が、ここに存在する。
(9)「百億の昼と千億の夜」の返歌「バルバラ異界」、あるいは、阿修羅と子供たちの後ろ姿
そうして、「バルバラ異界」が「百億の昼と千億の夜」の返歌(アンサーソング)であることが指し示され、バルバラが阿修羅とオリオナエ(プラトン)とシッタータの旅の終着点でもあることになる。転輪王、阿修羅の終わることのない戦いと問い、吹き荒れる星雲の光の満ちた空の下、杖を残し荒地を独り歩む阿修羅。その後ろ姿が「バルバラ異界」のラスト・シーンの子供たちの後ろ姿とリンクする。阿修羅、子供たち、彼ら彼女らは後ろ姿を残して、前へ向き進んで行く。
さらに、その〈出現する存在〉が何処から飛来するものなのか? という究極の根源的問いが仮に存在するとするのであれば、「スター・レッド」に既にそのひとつの答えが披露されていることに気付くことになる。「スター・レッド」の最古代遺跡の残る惑星、始祖文明のネクラ・パスタ、古代人の夢の果て、エルグ、夢魔、忌むべき存在、超次元における形のない精神生命体。「スター・レッド」に倣うならば、世界は夢魔から飛来することになる。世界はその源を夢魔とすることになる。それは、〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉のイメージの起源を示唆するものである。
〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の星座の星々が照応しながら瞬く。
(10)ポリフォニック・シンフォニア、あるいは、「バルバラ異界」を中心に世界が回る
作品の中の、物語の中の危機への抗戦としての魔術的逆転劇的革命が〈出現する存在〉というひとつの声となり、作品の外へ、物語の外へはみ出して行く。作品の外の、物語の外の、わたしたちが生きている現実の世界の中へ、この宇宙の中へ侵犯して来る。その〈声〉、その〈言葉〉が物語の枠組みの中の劇を超えて、わたしたちの世界へ向けられた〈声と言葉〉として発せられ、意味を持つことになる。それは、世界の宿命の意味、世界の生誕とその崩壊の秘密、世界の行方を決めるものの謎、世界が世界であることを生み出す秘儀、世界の秘密として。
作品の中の世界(物語)から発せられた声と言葉が作品の外の世界へ出て、反響し、木霊となり、世界の声と言葉と成って行き、世界の中の作品の声と言葉となり、再び、作品の中の世界(物語)の中へ戻り、「バルバラ異界」を中心に交差点として、声と言葉が渦を巻き世界が回る。その内と外で。作品の中の世界(物語)の声と言葉と、世界の声と言葉と、世界の中の作品の声と言葉の、三つの声と言葉が、作品の中の世界(物語)の生誕と崩壊の仕組みとして、世界の生誕と崩壊の仕組みとして、世界の中の作品の生誕と崩壊の仕組みとして、〈出現する存在〉というひとつの声によって、同一の創造の秘密、秘儀として、交錯しリンクし重ね合わされ、幾重にも多層的な相似形が象られ、巨大なハーモニーが生成される。
荘厳にして単純で静謐なる轟音としての、複層相似形・ポリフォニック・シンフォニアの誕生。
わたしたちがこの世界において、何をどのようになすべきであるかと、何をどのようになさないべきであるかが、叫びなき叫びとして、沈黙なき沈黙として、声なき声として、言葉なき言葉として、宣言される。
生誕と崩壊の秘儀の音楽を奏でる、複層相似形・ポリフォニック・シンフォニアの音楽として。そして、「バルバラ異界」の特別さの理由が明らかになる。このポリフォニック・シンフォニアの光芒が、あの「バルバラ異界」のラスト・シーンの比類なき美しさと、それを読み終わった人へもたらされる、ものたち、ことたちの解き放つような透明さとあたたかさの、根源であることが顕示される。
(11)弁明、非人称の声、あるいは、その声と言葉は、萩尾望都の声と言葉ではない。
そして、極めて重要で重大なことして、次のことを弁明しておかなければならない。
それは、その声と言葉が、萩尾望都の作品「バルバラ異界」という〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉のひとつの星座から聴こえて来るものであるのだけれども、「その声と言葉は、作者である萩尾望都自身の声と言葉ではない。」ということ。その声には人称はなく、それが非人称の声であるということ。その声と言葉が萩尾望都という固有名詞を持つ肉体から発せられたものであるとしても、それは、萩尾望都の声と言葉ではない、ということ。この禅問答めいた不可解な弁明の意味するところを誤認されることなく伝えるためには、多くの陳述が必要となる。
尚、話は前後し混乱するが、萩尾望都の作品「スター・レッド」において、その解答が暗示されている。
(12)語りえぬもの、壊れた論理の螺旋階段、あるいは、アイゼンとランタンとピッケル
あまりにもおぼつかない不確かな道行を、少しでも確かなものとするために、その地図を示しておきたい。
その声と言葉の真の発話者が誰なのかを見つけ出すためには、その声と言葉が聴こえて来る〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の由来を訪ねるしか方法はない。想像力によって生み出された、夢見られた、夢見られている、閉じられた世界の内的世界としての、イメージの結晶体である〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の誕生の瞬間を捕らえる。作品創造の震源地に足を踏み入れるしかない。作品と作者と表現と創造のオリジンを暴き出すしか方法はない。行き先は作品創造の中心地だ。
逃げることなく、迷路の中を彷徨うことなく、順を追って、その場所に辿り着きたいと思うのだが、そのために、幾つかの回り道と険しい道なき道を歩まなければならない。既存の論理と既存の概念と新しい論理と新しい概念の、周到な準備と煩雑な更新手続き。大きく迂回する論理の道筋、架橋される谷間と谷間、手摺のない細い橋、穿つられたトンネル、梯子の掛けられた壁、先の見通せない深い霧と闇。足を取られ滑落しないように、虚に体を預けることなく、その手と足でしっかりと壁と地面を掴み取り、一歩一歩、論理と概念の階段を昇り、閃光と爆音の炸裂する創造の開闢の場の中心へ進んで行く。
本来ならば、そうしなければならない。足にアイゼンを、手にはランタンとピッケルを。避けることができない不可欠な論理の道のり。しかし、それを一旦、断念することにする。何故なら、その作品創造の中心地へ辿り着く道は、長大な論理の螺旋階段の先には存在しないからだ。その中心地へは、論理の階段では辿り着くことができないのだ。作品創造の開闢の場では論理が壊れている。その場では言葉と論理が意味を失い溶解し破綻している。作品創造は論理を超越している。従って、これから私の行う陳述は、或る面、非合理であり、不合理であり、論理を欠いたものである。そこに示される出来事を論理の階段を昇ることによって、説明することは、部分的に、あらかじめ放棄されることになる。しかし、言葉と論理が失われる、そのことによって、その失われた言葉と論理の残像の記憶によって、その場を描写し尽くし、言葉なき世界の中で、語りえぬものについて、沈黙するのではなく、語りえぬことをもってして、来るべき言葉をもってして、語りえぬものに、語らしめ、語りえぬものを、語り尽くそう。
見せ掛けの作品創造の中心地という芝居小屋の中に、引き込まれないように気を付けながら、待ち伏せする秘密を隠そうとする、当たり前と暗黙の了解と既存の言葉という伏兵たちに、騙されないように惑わされないようにして、声と言葉の真の主を見つけ出す、弁明のための論理の階段を踏み外した非合理の長い旅へ、私は出発したいと思う。
(13)作品、私の中の私ならざるもの、あるいは、内部の中の外部
作品とは何か? 表現とは何か?
表現者が表現を行っているのではない。作者が作品を作っているのではない。表現者は表現そのものによって、表現を行わされているのだ。作者は作品そのものによって、作品を作らされているのだ。始まりに表現があり、その表現が宇宙に表出するために、表現者の肉体がツールとして用いられる。始まりに作品があり、その作品が宇宙に現れるために、固有名詞を持つ作者という肉体がツールとして用いられる。表現の従者としての表現者、作品の従者としての作者。表現が、作品が、宇宙の中に生み出されるために用意された子宮としての表現者、作者。表現の中に表現者が、作品の中に作者が内包され、さらに、その受け手もまた、その中に内包されている。真の作者とは、作品であり、表現なのである。真の作者の内面を語るとは、その作品を語ることなのである。作品、表現もまた、〈作られる存在〉ではなく、〈出現する存在〉なのである。
私の中にありながら、私の中でしか見出せない、私の外部、私ならざるもの。私の外に存在するのではなく、私の中にしか存在しない私ならざるもの。作者の内部に存在する外部、外部とは文字通りの作者の外部、作者ならざるもの。作者の内部の中の外部、自己の内部の中の外部、自己ならざるもの、私の内面の中の外、私の内面の中の私ならざるもの。それが作品であり表現である。作品とは、表現とは、私の内部でも、私の内面でもありながら、同時に、私の外部であり、私ならざるものである。
〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉の血と薔薇は、萩尾望都の内部の中の外部に存在し、その赤が雨のように降り注いでいる。イメージは萩尾望都の内部の中の外部から湧き出し、萩尾望都の内部である内的世界を埋め尽くす。正確に精密に描出するのであれば、「バルバラ異界」から鳴り響いて来るポリフォニック・シンフォニアの音楽の声と言葉は、萩尾望都自身の声と言葉ではない。それは萩尾望都の内部の中の外部から放たれ発せられる声と言葉である。
私の中から私の中の私ならざるものを刳り貫き摘出すること。鏡の中の私の内部に存在する私ならざるもの、私の外部を、鏡の中から見つけ出し析出させること。それが作品創造だ。その不可能の行為が、私が作品を創造するということだ。そして、その不可能性の中に創造の奥義が潜んでいる。その不可能性に身を投じて内と外を繋ぐ虚空を跳躍すること。内部から外部へ、外部から内部へ。想像力によってしかなしえない飛び越え。そのことによってしか、内部の中の外部へ到達することはできない。
だからこそ、作品は普遍性を獲得し、人間の魂の深部に届き、それを苛烈に揺り動かすことができるのだ。作品が、作者の内部の自己の投影装置でも、作者の欲望と葛藤の告白でも、記録装置でも、処理装置でも、オブセッションを断ち切るための道具でもない根拠がここにある。仮にそれが作者の何かしらの再生の希求であったとしても、作品は作者の内面に閉じ込められた存在ではなく、作者の内面であることに留まり自閉したものでもなく、開かれた存在であり、そうだからこそ、人は作品と遭遇できることになる。作品は、私の中の私を、私からカッティングし取り出し、包装したものではない。作品から聴こえて来るその声と言葉は、作者を通過し溢れ出た世界の声と言葉なのだ。その発話者は、世界、宇宙そのものなのだ。作品の声と言葉を聴くことは、世界の声と言葉、宇宙の声と言葉を聴くことなのだ。
ありていに言ってしまえば、作品とは自分語りではないのである。作品創造は自分語りから最も遠い場所にあるものである。自分語りにできることは、良くて言い訳、悪くて自慢話でしかない。さらに、それは物事の自分事化と当事者事化という欺瞞でしかない。自分語りとは、言葉でなされる私の欲望と葛藤の処理であり、自分事とは裏返された他人事でしかなく、当事者事とは逆転した無関係でしかない。自分語りは何処までも私が私をなぐさめることでしかない。私が私を語ることなどできはしないのである。人が私を語ることは他者によってしか行うことができない。それはやがて病的な過剰な自分語りに変わり、過剰な自己賛美を収めるために自己が肥大化し、自分語りと自己の相乗的で加速度的な拡大が開始する。物の怪に取り憑かれたかのような病的な熱狂的な自分語りの言葉が、大量に撒き散らされ、他者攻撃に転化し、他人を巻き込み犠牲にする暴力と成って行く。そこには、何一つ正当化されるべき理由はない。その言葉が発出される理由は、過剰な自己愛でしかない。
(14)〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉を巡る幾つかの誤解と誤謬と侮辱、あるいは、破壊せよ、愚者たちの夢を
その作品創造は、「作品を通して、作品を解釈することによって、作者の内面を解読することができる。」という〈作品・作者内的告白幻想〉とも、〈私小説的作品幻想〉とも呼ぶべき神話、あるいは、信仰を否定し拒否するものでもある。「作品が作者の内面から生まれ出たものであり、その所産であり、それは作者の内的世界の似絵である。」という認識、その認識が本質的な誤りである。作品もまた、「バルバラ異界」において開示された魔術的逆転劇的革命としての創造の秘儀によって生誕する。作品は〈出現する存在〉なのであり、〈作られる存在〉ではない。例外はない。全ての作品がそうなのである。従って、作品は創造主である作者の従属物でも似絵でもない。私の中の私ならざるものである作品を、如何に分析したところで、私の内面に到達することなどあろうはずがない。作品とは、固有名詞を持つ作者の肉体を通過点とする、〈出現する存在〉なのである。その作品に刻み込まれている刻印は、通過点としての作者の肉体の記憶なのである。人が作品と遭遇して、自前の想像力と感受性と記憶によってその扉を開け出会うものは、作者の内部に存在する、そこにしか存在しない作者の外部であり、それは作者の内部を通してしか現れることのない、宇宙の断片なのである。
〈作品・作者内的告白幻想〉とも、〈私小説的作品幻想〉とも呼ぶべき神話、あるいは、信仰とは、作品の扉を開く鍵を持たない、想像力と感受性と記憶の欠如した、自閉した反想像力者たる愚者のための愚者たちによる愚者の欲望を充足させるための虚妄的フィクションでしかない。作品を作者の似絵としか読むことができない愚鈍な彼ら彼女らに、想像力によって誕生した作品を読むことなどできるはずもない。〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉を巡る幾つかの誤解と誤謬と侮辱も、また、そうした愚劣な信仰と愚鈍な者たちによって、培養される。〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉を受け取り、解体し、作品と作者と読み手を、仮構された作者の内的葛藤劇という物語的フィクションの檻の中に閉じ込めるようなことは行ってはならない。それは、作品と作者と読み手に対する侮辱以外の何ものでもない。わたしたちは、愚者たちの夢である〈作品・作者内的告白幻想〉、あるいは、〈私小説的作品幻想〉から、作品と作者と読み手を解放し、断固として明確な意思を持って、そうした動きを打ち砕き蹴散らし、想像力を肯定する者たちを守らなければならない。
(15)〈遭遇する存在〉、宿命として人は作品と遭遇する、あるいは、鍵と鍵穴との巡り合い
欲望の処理の道具(それは、ポルノグラフィを意味する)として、作品を使い潰すという欲望の囚人の悪夢から逃走し、〈遭遇する存在〉として、作品と向き合う。作品と人が遭遇する。否応なしに。宿命として、必然として。出会うべくして、出会う。その時、あらゆる幻想と欲望を棄て、想像力を信じ、徹頭徹尾それと正面から向き合う。前置きも先入観も予備知識も偏見も、全部、棄てて。〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉が全ての人に開かれた存在であるように、全ての作品は全ての人に開かれている。
遭遇、それは、
見渡す限りの草原の中で、青い空と白い雲と騒めく草に閉ざされた広大な空間の中で、風に吹かれながら、一頭の見知らぬ異形のいきものと遭遇するようなもの、あるいは、深い黒々した森の中で道を失い、方角を見定めようと見上げた頭上を、覆い隠すように巨大な手を広げる太く細かい枝葉の網の下で、舞い立つ光の切片のように漂う一群の蝶と遭遇するようなもの、さらには、機械とアスファルトとガラスとプラスチックの巣の中で、電子の映像と音響の波に攫われながら、厳密に密閉したスペースの壁を軽々と通過し飛翔する一羽の鳥と遭遇するようなもの。作品との遭遇、それは、ひとつの驚異である。
人と作品の遭遇は、鍵と鍵穴(錠)との巡り合いでもある。鍵は人の手の中にあり、作品という部屋の扉に鍵穴(錠)が設けられている。作品が全ての人に開かれた存在であるという言葉の意味は、全ての人に遭遇する機会があるという意味である。作品という部屋の内部があらかじめ開放されているのではない。そこには扉が存在し、その扉には鍵が掛かっているのだ。部屋の窓にはカーテンが引かれ、その隙間からその中を幾分覗くことはできるが、ほんの僅かな様子しか窺い知ることはできない。だから、人は自らの手の中にある鍵を使って、その作品という部屋の扉の鍵穴にそれを差し込み回して、その扉を開けることによってしか、その部屋の中に入ることはできない。しかも、その鍵と鍵穴は相互作用し変容し合う。単一の部屋と複数の鍵と複数の鍵穴と複数の扉。そのため作品はその扉を開ける者に応じて、全く異なった相貌を見せる。時には、相反する顔を見せ、人を困惑させ、作品は賞賛と罵倒の両方を浴びることになる。何方にしても、その部屋の中に封印され存在するものに、人が相まみえ、受け入れるには、扉を開くことが不可欠なのだ。扉が開かれ、その中で、世界の声と言葉である光と音と風を浴び溺れ戯れ、人は至高の時間と空間に包まれる。
時折、作品が猛獣のように人を襲い、その人を分解し、その人を一新させてしまうことがある。蹂躙し組み付し問答無用で人を改変する作品。怪物的作品、魔物的作品、啓示的作品、電撃的作品。しかし、それは表面的な見せ掛けにしか過ぎない。よく周囲を眺めてみれば、それが了解される。「私に向かってそれは襲って来た」のではなく、「私は作品に選び取られた」からでもなく、反転し、「私がその扉を開け、その中の猛獣を呼び寄せ、自らを供物として差出し捧げた」のだと。人が扉を開けることなしに作品の中の獣が、人を襲うことはない。人が作品と遭遇することは、それが意識的なものであっても、無意識的なものであっても、受動的であるように見えて、極めて能動的なものである。作品の中の存在がどれほど猛々しい存在であっても、鍵を開くことができない人はその存在と遭遇することはない。結果として、その扉が開かれてはいないことさえ気付くことなく、何の印象もなく、傍らを通過する風のように作品と擦れ違うことになる。それは、その作品が如何に多くの人々に共感を得るものであっても、如何に時間と空間を超えて人類に普遍的なものであっても、その事態が変わることはない。
無条件に人は作品と遭遇することはできない。人はその記憶と感受性と想像力から形成されている自らの鍵を使うことなしに作品と遭遇することはできない。人の顔、人の声がひとりひとり異なるようにその鍵はひとりひとりの人生という時空の中で、全て異なった形をしている。開けることができる扉もあれば、開けることができない扉もある。それは鍵と鍵穴の関係であって、鍵だけにその理由があるのでもなく、逆に鍵穴だけにその理由があるのでもない。従って、無理矢理、鍵穴に鍵を入れ込み、開かぬ扉を開けてみたつもりになって偽りの扉を開いてみせ、そこに漂う中身の希薄な煙に巻かれ失望し、期待の裏切りと空回りに憤怒し、開かれぬ扉を前にして呪詛の言葉を吐いて嘆いても、それは詮無い話となる。結局、身の丈に合った服しか人は着ることができないのと同様に、身の丈に合った作品としか遭遇することができない。ましてや、全ての扉を開ける鍵、あるいは、全ての鍵を開ける解錠師など見果てぬ空虚な幻影でしかない。
普遍性に私が接合する行為、遭遇、それは徹底的に個別的なものである。人と作品の遭遇は、そうした意味において、痛みに似た孤独なものであるとも言える。宿命として、〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉と遭遇する者、宿命として、〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉と行き違う者。残念ながら、作品と人間の遭遇は本質的に理不尽なものなのだ。そこに人生という時間の、意味と無意味、悦楽と残酷、諧謔と悲惨、そして、喜劇と悲劇が存在する。
しかし、そのことは、一方で誰もその扉を開けることができない作品を、〈私〉だけが開くことができるという可能性を持つものでもある。その作品の扉を開けることができる唯一無二の私の鍵。そこには、既存の如何なる言葉でも表し切れない未来の来るべき言葉が詰まっている。そうであるのならば、人が行うべきことは、閉ざされた扉の前で立ち尽くすことではなく、未だ誰もその扉を開くことができない未開の作品、開かれることを待っている未踏の作品、未だ作品と呼ばれることさえない名前なき作品、そうした未来の作品と遭遇するために、世界を巡ることではないだろうか。今この瞬間も、広大で深遠な宇宙の中で、作品表現は、未知の場所で、未知の形で、生まれ続けている。
(16)不滅の存在、〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉
萩尾望都が「ポーの一族」を約四十年ぶりに再開したのは必然なのである。萩尾望都はポーの一族に招喚されたのである。萩尾望都に選択の余地はなかった。萩尾望都が「ポーの一族」を描いているのではない。ポーの一族が萩尾望都という固有名詞を持つひとつの肉体を使って、この世界に出現しているのである。エドガー、アラン、メリーベル、彼ら彼女らに呼び出された萩尾望都が、その下部として、その従者として、彼ら彼女らを描き出しているのである。何時の日か萩尾望都という固有名詞を持つ肉体が滅ぶ時が来るのかもしれない。しかし、それはポーの一族の滅亡を意味するものではない。仮にその時が訪れようとも、エドガー、アラン、メリーベル、彼ら彼女らがこの宇宙から消失することはない。彼ら彼女らはその意志によって再び、何かしらの方法によってその姿を顕わすことになる。彼ら彼女らは不滅の存在なのである。
〈萩尾望都絵画漫画宇宙〉、それは不滅の存在なのである。
(了)
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バルバラ異界 (1) (フラワーコミックス) コミック – 2003/6/26
萩尾望都
(著)
西暦2052年。他人の夢に入り込むことができる“夢先案内人”の渡会時夫は、ある事件から7年間眠り続ける少女・十条青羽の夢をさぐる仕事を引き受けることになった。そして、その夢の中で青羽が幸せに暮らす島の名<バルバラ>をキーワードに、思いがけない事実が次つぎと現れはじめ…!?
- 本の長さ189ページ
- 言語日本語
- 出版社小学館
- 発売日2003/6/26
- ISBN-104091670415
- ISBN-13978-4091670410
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登録情報
- 出版社 : 小学館 (2003/6/26)
- 発売日 : 2003/6/26
- 言語 : 日本語
- コミック : 189ページ
- ISBN-10 : 4091670415
- ISBN-13 : 978-4091670410
- Amazon 売れ筋ランキング: - 323,977位コミック
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年5月30日に日本でレビュー済み
2015年7月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
タイトルだけは知っていたが、全くの前知識無しで読み始めたので、当初は、不老不死と人が空を飛べる世界の謎にまつわるファンタジーかな?
と思っていた。
が、ゆえに、二章でいきなり近未来日本が舞台になって驚いた。
「夢」「食べる」「出生の秘密」
、そして、「バルバラ」というキーワードが、少女の現実とそして夢の世界、また夢を読み解く学者である時夫の周辺世界と、
どんどんリンクして重奏物語となっていく様は、まさに、見事としか言いようがない。
特に、
こちらは、現実世界で起こった「少女が両親の心臓を食べる」ことが象徴するもの。
まだ一巻しか読んでいないので、これからどのように物語が
繋がりあいそして終着していくのか大変楽しみだ。
と思っていた。
が、ゆえに、二章でいきなり近未来日本が舞台になって驚いた。
「夢」「食べる」「出生の秘密」
、そして、「バルバラ」というキーワードが、少女の現実とそして夢の世界、また夢を読み解く学者である時夫の周辺世界と、
どんどんリンクして重奏物語となっていく様は、まさに、見事としか言いようがない。
特に、
こちらは、現実世界で起こった「少女が両親の心臓を食べる」ことが象徴するもの。
まだ一巻しか読んでいないので、これからどのように物語が
繋がりあいそして終着していくのか大変楽しみだ。
2013年8月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
10年前の作品なのに、現代を先取りしたような内容の大作。
遺伝子治療、食物アレルギー、若返り、無意識,前世療法といった今日的なテーマがちりばめられ、
今読んでもまったく古さを感じさせません。
他人の夢のなかにはいることのできる「夢先案内人」渡会時夫が
両親の心臓を食べて眠り続ける少女青羽の夢のなかの「バルバラ」という異世界と
現実を行き来します。
時夫と離婚した元妻明美、疎遠だった息子のキリヤ、それに製薬会社の会長十条菜々美や
彼女の元夫で謎めいた科学者エズラなど、多彩な登場人物が繰り広げる複雑な
レース模様のタペストリーのようなドラマ。
舞台となる地域も東京の東池袋や花小金井、北海道の遠軽、三重県の伊勢など多様です.
萩尾先生のSF作品のなかでも、登場人物の年代が幅広く、親子の葛藤なども
十分に取り入れられ、著者の成熟を感じさせる内容です
(人間関係も筋も複雑なので、二度読んでようやく全体像が頭にはいりました)。
「他人の夢のなかにはいる」能力がいまひとつ説明不足なのが
ちょっと惜しまれますが、それ以外は魅力的な登場人物といい、
完成度の高さやスリリングで緻密な展開といい、
萩尾先生の代表作と呼べるSF作品であることは間違いありません。
遺伝子治療、食物アレルギー、若返り、無意識,前世療法といった今日的なテーマがちりばめられ、
今読んでもまったく古さを感じさせません。
他人の夢のなかにはいることのできる「夢先案内人」渡会時夫が
両親の心臓を食べて眠り続ける少女青羽の夢のなかの「バルバラ」という異世界と
現実を行き来します。
時夫と離婚した元妻明美、疎遠だった息子のキリヤ、それに製薬会社の会長十条菜々美や
彼女の元夫で謎めいた科学者エズラなど、多彩な登場人物が繰り広げる複雑な
レース模様のタペストリーのようなドラマ。
舞台となる地域も東京の東池袋や花小金井、北海道の遠軽、三重県の伊勢など多様です.
萩尾先生のSF作品のなかでも、登場人物の年代が幅広く、親子の葛藤なども
十分に取り入れられ、著者の成熟を感じさせる内容です
(人間関係も筋も複雑なので、二度読んでようやく全体像が頭にはいりました)。
「他人の夢のなかにはいる」能力がいまひとつ説明不足なのが
ちょっと惜しまれますが、それ以外は魅力的な登場人物といい、
完成度の高さやスリリングで緻密な展開といい、
萩尾先生の代表作と呼べるSF作品であることは間違いありません。
2021年10月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
発表当時はもう漫画を読んでいませんでしたが、NHK「100分で名著」の萩尾望都特集で知って読みました。
4巻まで読み通して、第3巻あたりから佳境に入ります。第1巻は複雑なストーリーにまだついていくことが難しく、登場人物が多く、何が何だか分からなくなりますが、徐々に面白くなりますので、あきらめずに読み続けることをお勧めします。
第一巻はまだ読みにくいので、星一つ減点。
本書はSFで、バルバラ(古代ギリシャ人が、異民族がバルバルバルと聞こえる異言語を話すことから異民族をバルバロイ=バルバラと読んだことから異世界、混乱を示すとWikipediaに書いてあります)パラレルワールド、タイムトラベル、遺伝子操作による長命化、脳科学といったSFや科学的な話題に加え、カニバリズム、親子関係、恋愛、加齢、アイデンティティ、成長、社会での異端者の阻害や夢判断といった、ヒューマニズムの話題を重層的に取り入れており、一読では理解しにくいものの、作者の発想が豊かであることに驚きます。ポルターガイストなど、オカルトネタもあります。
萩尾望都漫画に一貫して描かれている、親からの拒絶、親に認められないことの苦しさ、自我の阻害、孤独、そして時を経ることを考えることを本作品でも描いています。SFであることも含めて、たいへん萩尾望都らしい大作です。
Kindle版を購入したものの、Kindle Paper Weightでは画面が小さいうえページ送りがしにくく、10.1 インチ Fireを購入して読みました。大きな画面でカラーページも楽しめるので良かったです。
4巻まで読み通して、第3巻あたりから佳境に入ります。第1巻は複雑なストーリーにまだついていくことが難しく、登場人物が多く、何が何だか分からなくなりますが、徐々に面白くなりますので、あきらめずに読み続けることをお勧めします。
第一巻はまだ読みにくいので、星一つ減点。
本書はSFで、バルバラ(古代ギリシャ人が、異民族がバルバルバルと聞こえる異言語を話すことから異民族をバルバロイ=バルバラと読んだことから異世界、混乱を示すとWikipediaに書いてあります)パラレルワールド、タイムトラベル、遺伝子操作による長命化、脳科学といったSFや科学的な話題に加え、カニバリズム、親子関係、恋愛、加齢、アイデンティティ、成長、社会での異端者の阻害や夢判断といった、ヒューマニズムの話題を重層的に取り入れており、一読では理解しにくいものの、作者の発想が豊かであることに驚きます。ポルターガイストなど、オカルトネタもあります。
萩尾望都漫画に一貫して描かれている、親からの拒絶、親に認められないことの苦しさ、自我の阻害、孤独、そして時を経ることを考えることを本作品でも描いています。SFであることも含めて、たいへん萩尾望都らしい大作です。
Kindle版を購入したものの、Kindle Paper Weightでは画面が小さいうえページ送りがしにくく、10.1 インチ Fireを購入して読みました。大きな画面でカラーページも楽しめるので良かったです。
2014年1月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
とても久しぶりに萩尾望都先生の作品を読みました。
11人いる! の時からファンになってかなり夢中でよんでました。
大人になって、しばらく少女漫画を読んでなかったのですが、
ふと検索していたら見つけて、SFのようだったのでうれしくて
4巻全部あっという間に読んでしまいました。
やっぱり良いです~!
11人いる! の時からファンになってかなり夢中でよんでました。
大人になって、しばらく少女漫画を読んでなかったのですが、
ふと検索していたら見つけて、SFのようだったのでうれしくて
4巻全部あっという間に読んでしまいました。
やっぱり良いです~!
2007年2月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
久しぶりに萩尾先生の本を手に取りました。ストーリーの展開はまさに萩尾ワールド。バルバラをキーワードに織り成す多重世界、「11人いる!」や「銀の三角」をネームを覚えるほど読んだ頃のことも思い出しました。おすすめできる傑作です。
2011年7月25日に日本でレビュー済み
萩尾先生のSF物。大好きな作品の1つ。
連載1話目は話がよく見えなくてどう展開するんだろう、と思っていましたが、2話目を読んで、ああこういう風に展開していくのか、とわくわくしてきました。1巻は6話目まで収録。
ただ、普通のSFというだけではなくて、萩尾先生の作品らしい人間ドラマもあります。エキセントリックな母親、気まずい父と息子の関係などなど。
特に、キリヤの母親の明美は、人の話は受け入れず聞かず、自分の意見だけが正しくて素晴らしいと信じ込んでいる人間で、その理屈は支離滅裂でヒステリックな女。この人が出てくるシーンだけはどうしてもいらいらします。萩尾先生の作品にはよくこういった親が出てきますが、これは萩尾先生ご自身の「親という存在に対する憎悪」にしか感じられません。
でも、全体を通して謎が謎を呼ぶ第1巻。どんどん続きを読みたくなります。
連載1話目は話がよく見えなくてどう展開するんだろう、と思っていましたが、2話目を読んで、ああこういう風に展開していくのか、とわくわくしてきました。1巻は6話目まで収録。
ただ、普通のSFというだけではなくて、萩尾先生の作品らしい人間ドラマもあります。エキセントリックな母親、気まずい父と息子の関係などなど。
特に、キリヤの母親の明美は、人の話は受け入れず聞かず、自分の意見だけが正しくて素晴らしいと信じ込んでいる人間で、その理屈は支離滅裂でヒステリックな女。この人が出てくるシーンだけはどうしてもいらいらします。萩尾先生の作品にはよくこういった親が出てきますが、これは萩尾先生ご自身の「親という存在に対する憎悪」にしか感じられません。
でも、全体を通して謎が謎を呼ぶ第1巻。どんどん続きを読みたくなります。
2021年1月13日に日本でレビュー済み
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ふたつの世界が呼応してたがいに浸食を始めているらしいナゾを...のジャンルのお話
どちらの世界も自然に読者の世界に近い。そこが、[ぼく地球]や[12モンキーズ]や[高い城の男](TVの)や[世界の終わりとハードボイルドワンダーランド]なんかと違って、入り込みやすくて好き!!!
どちらの世界も自然に読者の世界に近い。そこが、[ぼく地球]や[12モンキーズ]や[高い城の男](TVの)や[世界の終わりとハードボイルドワンダーランド]なんかと違って、入り込みやすくて好き!!!