1巻に引き続き魔女にまつわる物語
「魔女は知っているだけ」
作中にもあるように、魔女は本当は敵でも味方でもないのかもしれない
そんな魔女と、なにも知らない若い人間の、物語
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魔女 (2) (IKKI COMICS) コミック – 2005/1/28
五十嵐 大介
(著)
▼第3話/PETRA GENITALIX▼第4話/うたぬすびと▼ビーチ●あらすじ/宇宙空間を遊泳していた宇宙飛行士・カッセルは、小さな石との衝突事故を起こしてしまう。その一年前…街を外れた山間の家で、少女・アリシアは「大いなる魔女」と呼ばれるミラの家族となり、自然の中で生活を始める。ある日、ふたりは林の中で“ペトラ(=石)”という木々のささやきを、薪の中から“オガム(=生命)”の文字を感じ取り…(第3話)。●本巻の特徴/宇宙から持ち帰った“石”をめぐる物語「PETRA GENITALIX(ペトラ・ゲニタリクス)」と、南へ向かう船に乗った女子高生・ひなたが不思議な女性・千足に出会う「うたぬすびと」を収録した連作魔女奇譚・第2集。
- 本の長さ208ページ
- 言語日本語
- 出版社小学館
- 発売日2005/1/28
- ISBN-104091884628
- ISBN-13978-4091884626
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登録情報
- 出版社 : 小学館 (2005/1/28)
- 発売日 : 2005/1/28
- 言語 : 日本語
- コミック : 208ページ
- ISBN-10 : 4091884628
- ISBN-13 : 978-4091884626
- Amazon 売れ筋ランキング: - 142,283位コミック
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年4月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
自然と一体のような世界観が凄い^ - ^ 切り口が新しく驚きに満ちている!
2009年11月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本屋で表紙だけ見て本を買うならば、まず手に取らない種類の絵柄だと思う。
しかし、かなりクセのある独特な絵柄よりも何よりも内容があまりに素晴らしく、深い。
1巻ももちろん素晴らしいのだけれども、何かにつけて思い出すのは2巻のアリシアや
おばあさんのふと呟く言葉。
作者の人生経験と人格が顕われているのだろうが、押し付けがましくないのに心に響く。
この作者の作品はどれも好きなのだけど、その中で最も好きで永久保存したい作品です。
しかし、かなりクセのある独特な絵柄よりも何よりも内容があまりに素晴らしく、深い。
1巻ももちろん素晴らしいのだけれども、何かにつけて思い出すのは2巻のアリシアや
おばあさんのふと呟く言葉。
作者の人生経験と人格が顕われているのだろうが、押し付けがましくないのに心に響く。
この作者の作品はどれも好きなのだけど、その中で最も好きで永久保存したい作品です。
2007年8月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この地球を構成している大地と海、空、月と、不思議な能力を持った登場人物の女が交感し、共振する姿を描いた話がふたつ。どちらの話にも、トーチ(たいまつ)が手渡されるかのように、不思議な力(呪術的な能力)が人から人へ受け継がれていく様子が描かれていて、素敵でしたね。
「生殖の石」を意味する「PETRA GENITALIX(ペトラ・ゲニタリクス)」の話。大いなる魔女ミラが、少女アリシアにとってかけがえのない人に変わっていく。そこが、とてもよかった。とりわけ、最初のほうで、椅子に座った霊的な存在を描いたシーンが、ずっとあとになって効いてくる魔法が素晴らしかったなあ。何かあたたかなもので心が満たされた感じ。ラストのほうで、涙がこぼれました。
次の「うたぬすびと」は、日本の南の海と島を舞台に、主人公の少女ひなたが不思議な力に目覚める話。前の話もそうだったけれど、作者の最新刊『海獣の子供』と響き合う雰囲気、空気感みたいなものを感じましたね。ひなたの中で、こちらとあちらの境界がはじけて融け合うシーンが印象的。
おしまいに、掌篇「ビーチ」を収録。沖縄の八重山諸島が舞台かなあ。南の島の風と海の香りが、さーっと運ばれてきたみたいな。池上永一のファンタジー小説『風車祭(カジマヤー)』『バガージマヌパナス』の話に、よく似た雰囲気を感じました。
「生殖の石」を意味する「PETRA GENITALIX(ペトラ・ゲニタリクス)」の話。大いなる魔女ミラが、少女アリシアにとってかけがえのない人に変わっていく。そこが、とてもよかった。とりわけ、最初のほうで、椅子に座った霊的な存在を描いたシーンが、ずっとあとになって効いてくる魔法が素晴らしかったなあ。何かあたたかなもので心が満たされた感じ。ラストのほうで、涙がこぼれました。
次の「うたぬすびと」は、日本の南の海と島を舞台に、主人公の少女ひなたが不思議な力に目覚める話。前の話もそうだったけれど、作者の最新刊『海獣の子供』と響き合う雰囲気、空気感みたいなものを感じましたね。ひなたの中で、こちらとあちらの境界がはじけて融け合うシーンが印象的。
おしまいに、掌篇「ビーチ」を収録。沖縄の八重山諸島が舞台かなあ。南の島の風と海の香りが、さーっと運ばれてきたみたいな。池上永一のファンタジー小説『風車祭(カジマヤー)』『バガージマヌパナス』の話に、よく似た雰囲気を感じました。
2005年12月18日に日本でレビュー済み
目をそむけていたいことは多い。死、欲望、不安・・・特に自分の醜い部分には蓋をしておきたいものだ。そうやって、多くの人間はそれが自分の中で腐敗し、悪臭を放つまで気がつかないでいる。
この作品において「魔女」とは、そういった忌まわしい部分を見据え、(あるいはいやでも見てしまい)自分の意志を明確に示した女性達のことである。だからこそ、正否によらずとも、彼女達の言葉や生活には力がある。新しい風が吹いている。
著者は様々な「魔女」を登場させるが、彼女らは決して特別な存在ではない。私達が普段「何気なく」を装って、目を背けてきたことを提示しているにすぎないのだ。
しっかり読むか、あっさり読むかは、あなた次第。
この作品において「魔女」とは、そういった忌まわしい部分を見据え、(あるいはいやでも見てしまい)自分の意志を明確に示した女性達のことである。だからこそ、正否によらずとも、彼女達の言葉や生活には力がある。新しい風が吹いている。
著者は様々な「魔女」を登場させるが、彼女らは決して特別な存在ではない。私達が普段「何気なく」を装って、目を背けてきたことを提示しているにすぎないのだ。
しっかり読むか、あっさり読むかは、あなた次第。
2015年6月12日に日本でレビュー済み
五十嵐さんの描く魔法は、手から炎がでたり、稲妻が走ったり、そんな派手な魔法じゃない。
小麦粉が発酵すること、
雨が落ちると地面が濡れること、
生きてる物が死ぬこと、
そんな世界の流れを、ウサギの足あとや、吹き付ける風から感じるだけなのである。
そして、誰一人として、その世界の流れから抜け出せない様子を描いている。
だから、漫画を読み終わった後、魔法が使えたらいいなー!!
じゃなくて、当たり前の日常を、新鮮な気持ちで感じることができる。
私は、この本が、とても好きです。
小麦粉が発酵すること、
雨が落ちると地面が濡れること、
生きてる物が死ぬこと、
そんな世界の流れを、ウサギの足あとや、吹き付ける風から感じるだけなのである。
そして、誰一人として、その世界の流れから抜け出せない様子を描いている。
だから、漫画を読み終わった後、魔法が使えたらいいなー!!
じゃなくて、当たり前の日常を、新鮮な気持ちで感じることができる。
私は、この本が、とても好きです。
2011年4月23日に日本でレビュー済み
この作品と出逢った時のことは、いつまでも鮮烈に覚えていて、忘れられない。「うたぬすびと」の、ひなたの身体の中に「世界」が流れ込んでくるシーン。気がついたらレジの前に立っていた。五十嵐さんすみません。この本を最初に買ったのは古本屋でした。でもその後すぐに書店で買い直しました。永久保存版として。
五十嵐大介という漫画家の事は、ずっと前から気になっていた。しかし書店では、漫画本はビニールに包まれているので、中身が確認できない。おかげで五十嵐作品と出会うまで、長い時間がかかってしまった。あのビニールは誰が始めたか判らんが、漫画の普及に大いに妨げになっている、と自分は思うのだが。
この作品と出逢った時の感動は、何よりも「自分と同じ事を感じている人がいる」しかもその人が「現役の漫画家として創作活動をしている」事を知ることができた、という事だ。五十嵐氏は「五感」で世界を感じることの喜びを描いた稀有な漫画家だ。インタビューを読んでいると、予備校時代に近所の神社に入り浸っているうちに、御神木や自然から何かを感じるようになった、という。自分もそうなのだが、そうした、感覚が世界に対して開きすぎてしまっている人間は、しばしば社会の中では生きにくいものである。五十嵐氏はよく自らを「よその人」と表現するが、その言葉の意味が痛いほどわかってしまう。
嬉しいことに、五十嵐氏の漫画は多くの読者の共感を得ているようだ。しかし、ネットを見ていると、勘違いも甚だしい悪口を書き立てているアホもいて腹が立つ。「ニューエイジ思想にかぶれた作風」とかいう輩がいるが、それは大ハズレもいいところだ。夏目房之介氏も「BSマンガ夜話」で、カルロス・カスタネダなどに通じる「西海岸経由」のジャンル、といった表現をしていたと記憶するが、(岡田斗司夫はもっと的外れな事を言っていたが)理屈だけで漫画を分析しようとする連中は、五十嵐作品の本質はおろか足下にも到達していない、と言わせて頂こう。
五十嵐氏は、誰かの思想やスタイルに影響を受けたり、模倣をしているではない。純粋に一人の人間(生命)として感じたことを作品で表現しているのである。
四季の風の匂いが判る人と、そうでない人がいるらしい。自分も子供の頃「春の匂いがする」とつぶやいて、友人達に笑われた記憶がある。その時までは、みな自分と同じように四季の自然を感じて生きているものだと思っていたので、それが理解されないショックは大きなものだった。風の研究を永年し続けている学者も、フィールドワークの中で村人からたびたび「風の匂い」という言葉を聞き、それが理解できずに様々な実験で風の匂い、とは何なのか分析しようとしたが結局わからず、くやしい思いをした、とある本の中で書いていた。風を愛してやまない研究者でも、「感じる」ことができない人には判らないらしいのだ。
科学で説明できない事を、すぐに馬鹿にする者がいるが、実はそういう連中ほど科学を判っていなかったりするものだ。科学者は、科学の向こうにあるものをちゃんと見ている、と自分は思う。
カスパー・ハウザーという、19世紀ドイツのある町に、突如として現れた少年がいた。彼は16年もの間、暗くて狭い牢獄に幽閉され、自分が何者なのか、また外界がどんなところなのか全く知らず「ニュルンベルクの孤児」と呼ばれた。そして、感覚が普通の人間に比べて、異常に鋭敏だったという。嗅覚、夜目、そして、引き出しの中などにしまわれている金属を感知することができたという。その異常感覚は、16年に亘りパンと水しか食さなかった事が原因といわれ、人間社会で生活を送り、肉や牛乳などを食するようになって、急速にその感覚は衰えていったという。もうひとつ面白い話で、アニメ「地球少女アルジュナ」の河森正治監督が、かつて自ら1ヶ月以上、肉と白砂糖をいっさい断ったところ「身体が軽くなって五感も非常にシャープになって面白い」と思ったが、過敏になりすぎて都市生活とのギャップを感じたそうである。
食生活ひとつとってもそんな訳だから、我々は、文明と呼ぶ便利な社会で生きるうちに、いつの間にか生命としての何か大切な感覚を退化させていってしまっているのは、間違いがない、のである。9.11や3.11の時にも、興奮した愛犬に引っ張られて、危機一髪難を逃れた、という話があるが(阪神淡路の時も、震災直前に犬たちがけたたましく吠えた、という話がある)人間はそうした本能が麻痺してしまっている、のである。
そして、五十嵐氏の漫画は、そうした、現代社会がともすれば見失ってしまう大切なものを思い出させてくれる、実に稀有な作品、なのである。
混迷の世紀の道端に、毅然として立つ道標。それに気づき初めている人たちも、増えている。しかし、その存在意義を理解しない人たちの方が、いまだに多い。
これからも、その圧倒的な表現力で、人類の閉じかけた扉を「開いて」いって下さい、五十嵐さん。
五十嵐大介という漫画家の事は、ずっと前から気になっていた。しかし書店では、漫画本はビニールに包まれているので、中身が確認できない。おかげで五十嵐作品と出会うまで、長い時間がかかってしまった。あのビニールは誰が始めたか判らんが、漫画の普及に大いに妨げになっている、と自分は思うのだが。
この作品と出逢った時の感動は、何よりも「自分と同じ事を感じている人がいる」しかもその人が「現役の漫画家として創作活動をしている」事を知ることができた、という事だ。五十嵐氏は「五感」で世界を感じることの喜びを描いた稀有な漫画家だ。インタビューを読んでいると、予備校時代に近所の神社に入り浸っているうちに、御神木や自然から何かを感じるようになった、という。自分もそうなのだが、そうした、感覚が世界に対して開きすぎてしまっている人間は、しばしば社会の中では生きにくいものである。五十嵐氏はよく自らを「よその人」と表現するが、その言葉の意味が痛いほどわかってしまう。
嬉しいことに、五十嵐氏の漫画は多くの読者の共感を得ているようだ。しかし、ネットを見ていると、勘違いも甚だしい悪口を書き立てているアホもいて腹が立つ。「ニューエイジ思想にかぶれた作風」とかいう輩がいるが、それは大ハズレもいいところだ。夏目房之介氏も「BSマンガ夜話」で、カルロス・カスタネダなどに通じる「西海岸経由」のジャンル、といった表現をしていたと記憶するが、(岡田斗司夫はもっと的外れな事を言っていたが)理屈だけで漫画を分析しようとする連中は、五十嵐作品の本質はおろか足下にも到達していない、と言わせて頂こう。
五十嵐氏は、誰かの思想やスタイルに影響を受けたり、模倣をしているではない。純粋に一人の人間(生命)として感じたことを作品で表現しているのである。
四季の風の匂いが判る人と、そうでない人がいるらしい。自分も子供の頃「春の匂いがする」とつぶやいて、友人達に笑われた記憶がある。その時までは、みな自分と同じように四季の自然を感じて生きているものだと思っていたので、それが理解されないショックは大きなものだった。風の研究を永年し続けている学者も、フィールドワークの中で村人からたびたび「風の匂い」という言葉を聞き、それが理解できずに様々な実験で風の匂い、とは何なのか分析しようとしたが結局わからず、くやしい思いをした、とある本の中で書いていた。風を愛してやまない研究者でも、「感じる」ことができない人には判らないらしいのだ。
科学で説明できない事を、すぐに馬鹿にする者がいるが、実はそういう連中ほど科学を判っていなかったりするものだ。科学者は、科学の向こうにあるものをちゃんと見ている、と自分は思う。
カスパー・ハウザーという、19世紀ドイツのある町に、突如として現れた少年がいた。彼は16年もの間、暗くて狭い牢獄に幽閉され、自分が何者なのか、また外界がどんなところなのか全く知らず「ニュルンベルクの孤児」と呼ばれた。そして、感覚が普通の人間に比べて、異常に鋭敏だったという。嗅覚、夜目、そして、引き出しの中などにしまわれている金属を感知することができたという。その異常感覚は、16年に亘りパンと水しか食さなかった事が原因といわれ、人間社会で生活を送り、肉や牛乳などを食するようになって、急速にその感覚は衰えていったという。もうひとつ面白い話で、アニメ「地球少女アルジュナ」の河森正治監督が、かつて自ら1ヶ月以上、肉と白砂糖をいっさい断ったところ「身体が軽くなって五感も非常にシャープになって面白い」と思ったが、過敏になりすぎて都市生活とのギャップを感じたそうである。
食生活ひとつとってもそんな訳だから、我々は、文明と呼ぶ便利な社会で生きるうちに、いつの間にか生命としての何か大切な感覚を退化させていってしまっているのは、間違いがない、のである。9.11や3.11の時にも、興奮した愛犬に引っ張られて、危機一髪難を逃れた、という話があるが(阪神淡路の時も、震災直前に犬たちがけたたましく吠えた、という話がある)人間はそうした本能が麻痺してしまっている、のである。
そして、五十嵐氏の漫画は、そうした、現代社会がともすれば見失ってしまう大切なものを思い出させてくれる、実に稀有な作品、なのである。
混迷の世紀の道端に、毅然として立つ道標。それに気づき初めている人たちも、増えている。しかし、その存在意義を理解しない人たちの方が、いまだに多い。
これからも、その圧倒的な表現力で、人類の閉じかけた扉を「開いて」いって下さい、五十嵐さん。
2006年9月18日に日本でレビュー済み
魔女連作の完結作品を読んで、ものすごい画力に改めて感服した。
そして、画力を徹底的に描き込む力業に向けるのは魔女2巻目の途中で卒業して、
もっととんでもない方向に進化させているようだ。
魔女見習いの少女アリシアはいう。
「いちども空をみたことがない人が『晴れた空が青い』と言ったら、言葉はまちがってなくても、それはウソ」
そのウソをさけるために、作者はモノクロ線画の絵で、
絵を見た人自身の類似の記憶を呼び覚まし、その人にとっての
「本当」の色のある風景を脳内で合成させる方法に進んでいるのではないか。
いろんな景色を、海を、いろんなときに見てきた私の記憶の中の
「色」が「青」が、五十嵐作品の一コマ一コマで、鮮やかに呼び戻される。
なかなか幸福な体験である。
そして、画力を徹底的に描き込む力業に向けるのは魔女2巻目の途中で卒業して、
もっととんでもない方向に進化させているようだ。
魔女見習いの少女アリシアはいう。
「いちども空をみたことがない人が『晴れた空が青い』と言ったら、言葉はまちがってなくても、それはウソ」
そのウソをさけるために、作者はモノクロ線画の絵で、
絵を見た人自身の類似の記憶を呼び覚まし、その人にとっての
「本当」の色のある風景を脳内で合成させる方法に進んでいるのではないか。
いろんな景色を、海を、いろんなときに見てきた私の記憶の中の
「色」が「青」が、五十嵐作品の一コマ一コマで、鮮やかに呼び戻される。
なかなか幸福な体験である。