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川端康成・三島由紀夫往復書簡 (新潮文庫) 文庫 – 2000/10/30
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昭和四十五年まで交わされた二十五年に渡る九十余通の往復書簡を収録。
東大在学中の三島由紀夫は、処女小説集『花ざかりの森』を川端康成に送り、昭和二十年三月八日付の川端の礼状をもって、二人の親交が始まった。文学的野心を率直に認(したた)めてきた三島は、川端のノーベル賞受賞を機に文面も儀礼的になり、昭和四十五年、衝撃的な自決の四ヶ月前に出された永訣の手紙で終止符を打つ……。
「小生が怖れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です」(三島) 「老衰もぬかりなくとりついてゐる事です」(川端)
恐るべき文学者の魂の対話。注釈、対比年表を付す。
目次
はじめに…佐伯彰一
川端康成・三島由紀夫 往復書簡
恐るべき計画家・三島由紀夫…佐伯彰一・川端香男里
ノーベル賞推薦文(三島由紀夫)
略年譜
本書について
川端・三島のほぼ生涯にわたる「師弟関係」そのものは、以前から知られていた。(略)
三島さんにとって、川端康成が、いかに身近で、大切な存在であるかを改めて思い起して頂きたい。それにしても、三島さんが、これほど熱っぽく、ほとんど純真無垢に自身をさらけ出した手紙を、これ程たっぷりと、川端宛に書き送りつづけていた、とは!
――佐伯彰一(「はじめに」より)
【川端康成から三島由紀夫への最初の書簡(『花さかりの森』拝受のお礼)】
昭和二十年三月八日付
鎌倉市二階堂三二五より東京都渋谷区大山町十五平岡公威様方あて
今日野田君より御高著花ざかりの森難有(ありがたく)拝受致しました。文芸文化で一部拝見して御作風にかねて興味を寄せて居りましたのでまとめての拝受を楽しみに致します。
義尚ハ私も書いてみたく少し調べても居ります事とて先日中河君あてに手紙出したい程でした。
花ざかりの森ハ今日北鎌倉の某家で島木君より受け取りましたが、疎開荷造中の物を見に行きましたところで、宗達、光琳、乾山、また高野切石山切、それから天平推古にまでさかのぼり、あるのが嘘のような物沢山見せてもらつて、近頃の空模様すつかり忘れました。紅梅も咲いて居りました。
とりあへず右御礼まで。
三月八日 川端康成
三島由紀夫様
【三島由紀夫から川端康成への返信】
昭和二十三年三月十六日付
東京渋谷大山一五平岡梓内より鎌倉市二階堂三二五あて(はがき)
先日は野田氏を通じ突然拙著を差上げました無躾をお咎めなきのみか、御丁寧な御手紙たまはり、厚く御礼申上げます。
都もやがて修羅の衢(ちまた)、こおり返る寒さに都の梅は咲くかと思へばしぼみながら、春の魁(さきがけ)らしい新鮮さを失つてゆきます。当分の閑暇をたよりに、頼政と菖蒲前の艶話を書いてみたいと思つてをりますが、如何なりますか。ーーきのふ青山の古本屋で「雪国」をみつけもとめてまゐりました。何卒御身御大切に。御礼まで。
三月十六日 平岡公威
川端康成様
川端康成(1899-1972)
1899(明治32)年、大阪生れ。東京帝国大学国文学科卒業。一高時代の1918(大正7)年の秋に初めて伊豆へ旅行。以降約10年間にわたり、毎年伊豆湯ケ島に長期滞在する。菊池寛の了解を得て1921年、第六次「新思潮」を発刊。新感覚派作家として独自の文学を貫いた。1968(昭和43)年ノーベル文学賞受賞。1972年4月16日、逗子の仕事部屋で自死。著書に『伊豆の踊子』『雪国』『古都』『山の音』『眠れる美女』など多数。
三島由紀夫(1925-1970)
東京生れ。本名、平岡公威(きみたけ)。1947(昭和22)年東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月25日、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国語に翻訳され、全世界で愛読される。
- 本の長さ258ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2000/10/30
- 寸法14.8 x 10.5 x 2 cm
- ISBN-10410100126X
- ISBN-13978-4101001265
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【新潮文庫】川端康成 作品 | 雪に埋もれた温泉町で、芸者駒子と出会った島村──ひとりの男の透徹した意識に映し出される女の美しさを、抒情豊かに描く名作。 | 伊豆の旅に出た旧制高校生の私は、途中で会った旅芸人一座の清純な踊子に孤独な心を温かく解きほぐされる──表題作など4編。 | 円熟期の著者が、人生に対する限りない愛情をもって筆をとった名作集。秘かに愛を育てる娘ごころを描く「母の初恋」など9編を収録。 | 優れた抒情性と鋭く研ぎすまされた感覚で、独自な作風を形成した著者が、四十余年にわたって書き続けた「掌の小説」122編を収録。 | 敗戦後、経済状態の逼迫に従って、徐々に崩壊していく”家”を背景に、愛情ではなく嫌悪で結ばれている舞踊家一家の悲劇をえぐる。 | 得体の知れない山の音を、死の予告のように怖れる老人を通して、日本の家がもつ重苦しさや悲しさ、家に住む人間の心の襞を捉える。〈野間文芸賞受賞〉 |
女であること | 虹いくたび | みずうみ | 名人 | 眠れる美女 | 古都 | |
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恋愛に心奥の業火を燃やす二人の若い女を中心に、女であることのさまざまな行動や心理葛藤を描いて女の妖しさを見事に照らし出す。 | 建築家水原の三人の娘はそれぞれ母が違う。みやびやかな京風俗を背景に、琵琶湖の水面に浮ぶはかない虹のような三姉妹の愛を描く。 | 教え子と恋愛事件を引き起こして学校を追われた元教師の、女性に対する暗い情念を描き出し、幽艶な非現実の世界を展開する異色作。 | 悟達の本因坊秀哉名人に、勝負の鬼大竹七段が挑む……本因坊引退碁を実際に観戦した著者が、その緊迫したドラマを克明に写し出す。 | 前後不覚に眠る裸形の美女を横たえ、周囲に真紅のビロードをめぐらす一室は、老人たちの秘密の逸楽の館であった──表題作等3編。〈毎日出版文化賞受賞〉 | 捨子という出生の秘密に悩む京の商家の一人娘千重子は、北山杉の村で瓜二つの苗子を知る。ふたご姉妹のゆらめく愛のさざ波を描く。 |
千羽鶴 | 川端康成・三島由紀夫 往復書簡 | 川端康成初恋小説集 | 少年 | |
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商品の説明
商品説明
登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2000/10/30)
- 発売日 : 2000/10/30
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 258ページ
- ISBN-10 : 410100126X
- ISBN-13 : 978-4101001265
- 寸法 : 14.8 x 10.5 x 2 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 145,422位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 366位日本文学(日記・書簡)
- - 3,234位新潮文庫
- カスタマーレビュー:
著者について
(1899-1972)1899(明治32)年、大阪生れ。東京帝国大学国文学科卒業。
一高時代の1918(大正7)年の秋に初めて伊豆へ旅行、旅芸人の一行と知り合う。以降約10年間毎年、伊豆湯ヶ島湯本館に長期滞在する。菊池寛の了解を得て1921年、第六次「新思潮」を発刊。新感覚派作家として独自の文学を貫いた。1968(昭和43)年ノーベル文学賞受賞。1972年4月16日、逗子の仕事部屋でガス自殺を遂げた。著書に『伊豆の踊子』『雪国』『古都』『山の音』『眠れる美女』など多数。
(1925-1970)東京生れ。本名、平岡公威。
1947(昭和22)年東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。
主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月25日、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国語に翻訳され、全世界で愛読される。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
一部だけになってしまったのは三島の未亡人、瑤子氏がきっぱりと公開を断ったからだそうです。この方は三島の写真集やネイサン著の評伝など、特に同性愛に関するものはすべて出版禁止にしてしまいましたが、この書簡集が完全な形で公開されたのもこの方が亡くなられた後で、単行本としての出版は1997年でした。
三島から川端への手紙の方が長く数も多く、川端から三島へはいただきもののお礼状などわりと簡潔です。親子くらいの年齢差がありますが、意外にも三島が心を開いて本音で語り甘えている印象を受けました。
作風も違いますがお互い作品を認め合っていたことがわかり、出版にあたってお互いに序文やあとがきを書いてほしいとたのむことも多かったようです。
三島が結婚して子供ができてからは家族ぐるみのつきあいになり、川端が三島の子供にプレゼントを贈ったりしています。
三島がもしノーベル賞を取れていたら自決しなかったのでは・・というのはいろんな人が語っています。川端は三島にノーベル賞推薦の文書いてほしいとたのみ、その英文と翻訳もここに収録されていますが、三島はどんな気持ちでこれを書いたのだろうと思いました。その後昭和43年10月に川端が受賞してから三島の自決までの2年間に、三島からの手紙がたった2通しかないことについて、編者の佐伯彰一氏は「やはり相当のショックを受けられたんでしょう。三島さんは次々と出てくるベストセラーまで気にかけずにいられない人一倍競争心の強い人だったから」と述べておられます。
何よりも印象的なのは最後から2通目、自決1年と3か月前の手紙で「小生が恐れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です。(中略)生きている自分が笑われるのは平気ですが、死後、子供たちが笑われるのは耐えられません」「すべてが徒労に終わり、あらゆる汗の努力は泡沫に帰し、けだるい倦怠のうちにすべてが納まってしまうということも十分考えられ、常識的判断ではその可能性の方がずっと多いのに、小生はどうしてもその事実に目をむけるのがイヤなのです」と書かれています。
ネイサンとストークスの三島評伝でも書かれていましたが、三島は1年間かけて自決の準備をし、そのサインを何度も出していたのに、また三島が何かおかしなことを言っているともう誰も気にかけていなかった、と。ここでも明らかなサインを出していますが、川端もやはりそこまで深刻にはとらえていなかったのでしょうか。ただ、この頃は川端も睡眠薬の副作用や高齢で体調があまりよくなかったようです。
最後に佐伯彰一氏と川端香男里氏(川端の娘婿)の対談が収録されいます。興味深いのは実は三島の自決直前に”鉛筆書きの非常に乱暴な手紙”が送られてきて、三島の名誉に係わるからと燃やされてしまったことがあったそうです。この対談はとても興味深いです。
他の文人についての話題もあり、三島が菊池寛を評価しているのは意外でした。「氏の世俗的な序文が世俗的な自信から出たものでなく、ああまで文学的自信から出た世俗的な文章であり、その強さに感銘」と書いています。太宰治の「斜陽」については「滅亡の叙事詩に近く、見事な芸術的完成が予見される」、軽井沢へ一緒に行った吉田健一氏が朝から晩までずっと酒を飲んでいて「仕様のない人」だと言っているのはおもしろかったです。
また、琵琶湖ホテルに泊まった時、プールで「最新流行の水着を着た美女たちが京都弁を使うのはちょっと幻滅」だと書いているのは、京都生まれの自分としては残念で苦笑してしまいました。「愛の渇き」が大阪舞台なのに関西弁は一切出てこないのですが、三島は谷崎と違って関西はあまり好きではなかったのでしょうか。
川端、三島のいろんな側面がわかる書簡集です。2人の作品が好きな人には必読と思います。
三島の米国からの便りに:アメリカの食事がまづいといふのはウソです。高いものをたべたり、家庭料理をごちそうになってゐれば、絶対にまずくありません。とあります。これはその通りでしょう。
自決する前年(1969年)8月の手紙:ここ4年ばかり、人から笑はれながら、小生はひたすら1970年に向かって、少しづつ準備を整へてまゐりました。(中略)こんなに真剣に実際運動に、体と頭とカネをつぎ込んできたことははじめてです。1970年はつまらぬ幻想でないものに賭けてゐるつもるではじめたのです。(中略)
ますますバカなことを言ふとお笑ひでせうが、小生が怖れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です。小生にもしものことがあったら、早速そのことで世間は牙をむき出し、小生のアラをひろひ出しメチャクチャにしてしまふように思われるのです。生きてゐる自分が笑はれるのは平気ですが、死後、子供達が笑はれるのは耐へられません。それを護って下さるのは川端さんだけだと、いまからひたすら頼りにさせて頂いております。(後略)
実際、三島由紀夫自決事件の直後は三島を非難する意見が多数でした。その後、三島の自決についてその真底を探る種々の意見が出て、彼を考え続ける「憂国忌」は今も続いており、三島の研究書は現在も出版が続いております。
往復書簡からは手紙のやりとりの他、相互に夥しい贈り物があったことが記されています。食品、高価な物品、川端康成からは三島由紀夫の子供達への折々の適切な贈り物など、二人の交流には物心両面(?)の深い気遣いがあったようです。いま日本人のお中元、お歳暮は旧来の重要性を失っているように見えますが、心の籠もった贈り物は極めて重要な意味を持つもの、と感じいりました。
最初の手紙は昭和20年3月8日付の平岡公威宛て川端康成の「花ざかりの森難有拝受」という礼状。(3月10日東京大空襲をはさんで)3月16日付の川端康成宛て平岡公威の「都もやがて修羅の衢,冴返る寒さに都の梅は咲くかと思へばしぼみながら、春の魁らしい新鮮さを失ってゆきます。当分の閑暇をたよりに、頼政と菖蒲前の艶話を書いてみたい」「青山の古本屋で『雪国』をみつけもとめてまゐりました」という長閑な礼状。
三島・川端の霊的感応、深まっていく師弟関係はありながら、昭和43年、川端がノーベル賞前後から、三島の手紙は儀礼的になり、精神的に乖離していくことになる。45年11月25日の自決に関しては鉛筆書きの「最後の手紙」が川端宅にあったが、本人の名誉のために焼却されたとのこと。今、保存公表されている最終書簡は、昭和45年7月6日付の「時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました」と死の予感される末文がある。一般には奇異に受け取られている三島の自決も四部作『豊饒の海』を書いた後の必然であったかもしれない。「自分には後一つだけ残されていることがある。それは自殺だ」とドナルド・キーンにもらしていたとも書かれている。最期に川端との濃密な対話・書簡は交わされなかったらしい(雅)