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午後の曳航 (新潮文庫) ペーパーバック – 1968/7/15
フランス語版
三島 由紀夫
(著)
船乗り竜二の逞しい肉体と精神に憧れていた登は、母と竜二の抱擁を垣間見て愕然とする。矮小な世間とは無縁であった海の男が結婚を考え、陸の生活に馴染んでゆくとは……。それは登にとって赦しがたい屈辱であり、敵意にみちた現実からの挑戦であった。登は仲間とともに「自分達の未来の姿」を死刑に処すことで大人の世界に反撃する――。少年の透徹した観念の眼がえぐる傑作。
- 本の長さ208ページ
- 言語フランス語
- 出版社新潮社
- 発売日1968/7/15
- 寸法14.8 x 10.5 x 2 cm
- ISBN-104101050155
- ISBN-13978-4101050157
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登録情報
- 出版社 : 新潮社; 改版 (1968/7/15)
- 発売日 : 1968/7/15
- 言語 : フランス語
- ペーパーバック : 208ページ
- ISBN-10 : 4101050155
- ISBN-13 : 978-4101050157
- 寸法 : 14.8 x 10.5 x 2 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 363,196位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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(1925-1970)東京生れ。本名、平岡公威。
1947(昭和22)年東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。
主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月25日、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国語に翻訳され、全世界で愛読される。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年6月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
先週、横浜の関内を散策し、港の景色や赤レンガ倉庫を眺めていて、ふと『午後の曳航』を読みたくなった。三島文学に触れるのは数十年前の『金閣寺』以来である。 そして数十年の時を経て、鋭い感受性で人間の心を炙り出す三島由紀夫の圧倒的な筆の運びに、またもや純粋な狂おしさを感じてしまった。 “平凡な日常”こそ実は一番尊いものだとする風潮に真っ向から挑戦し、それは“大義の放棄”だと少年に言わしめる三島の考えに大いに刺激を受けた。
2022年11月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
主人公・登にとって、未亡人である母親の恋人・隆二は俗悪な
世間と袂を分った、<此処ではない何処か>を目指す栄光を担った
赫奕たる存在の船乗りであった。しかし、その理想を放擲し、
母と結婚することで醜怪の極みである父親という凡俗に堕する
事に絶望した登ら少年の手によって引導を渡される。
少年という時期、過剰な残酷さのサーキットに嵌まり込んで
いるのは通常のことであるが、大人になってもその過剰な残酷
さのレースの中にいることは愚鈍さの証左である。
隆二が若しも<此処ではない何処か>に行く事を断念したのでなく、
そもそも到達不能だと覚知した本物の大人だったら、少年達を犯罪
に追いやることはなく、正しい方向に導引出来たのではないかと
思われる。
しかし印象に残っているのは、畢竟、人生には何も起きぬのかも
知れないということに慄く少年達の姿だ。
若しも人生に、生そのものを革命する絶対的な答えがなく、誰にも
救済がないとはっきり分かってしまえば、俗世間を生きることも
悪くはないと思えるのだが、彼らの純潔はそれに耐えられないモノ
を匂わせており、中途半端に大人になれない者同士が生んでしまった
悲劇的な結末だったと云えるだろう。
世間と袂を分った、<此処ではない何処か>を目指す栄光を担った
赫奕たる存在の船乗りであった。しかし、その理想を放擲し、
母と結婚することで醜怪の極みである父親という凡俗に堕する
事に絶望した登ら少年の手によって引導を渡される。
少年という時期、過剰な残酷さのサーキットに嵌まり込んで
いるのは通常のことであるが、大人になってもその過剰な残酷
さのレースの中にいることは愚鈍さの証左である。
隆二が若しも<此処ではない何処か>に行く事を断念したのでなく、
そもそも到達不能だと覚知した本物の大人だったら、少年達を犯罪
に追いやることはなく、正しい方向に導引出来たのではないかと
思われる。
しかし印象に残っているのは、畢竟、人生には何も起きぬのかも
知れないということに慄く少年達の姿だ。
若しも人生に、生そのものを革命する絶対的な答えがなく、誰にも
救済がないとはっきり分かってしまえば、俗世間を生きることも
悪くはないと思えるのだが、彼らの純潔はそれに耐えられないモノ
を匂わせており、中途半端に大人になれない者同士が生んでしまった
悲劇的な結末だったと云えるだろう。
2023年9月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
フランス語版とあったので、翻訳本かと思い購入しましたが、通常の新潮文庫でした。
2018年3月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
竜二の体躯の描写、つきつめればつややかな仏塔とは三島さんそのもののお姿を描いたのではないかと。。。思春期の男子がよりによって自分の母親の裸体なんか気持ち悪くて見ません多分。その母が自らの裸体に染ませる香水は、清々しく清楚な香りで若い娘向けなので、熟女には似合わないと思いました。
2020年10月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
港町で舶来用品を扱う老舗の主人として、冴えた気品と色香を纏う熟女、未亡人である四十女、母。
白い制服に身をつつんだ貨物船のマドラス、母の若い恋人。僕の自慢のアニキ。
巣立ちの熱とでも言うべきか、青春の麻疹に侵された僕と、僕を取り囲む5人の中学生。
潮の香と、野性の男の体臭、高い憧れの存在であったものが、月並みで、分別のある、ダサい、ウザイ、自分のジェントルな「パパ」に成り下がることが分かった日、
少年審理はこの男に「死刑」を確定した。両目から白い光りを放つような不気味な少年たちが先月子猫の内臓を抉り出したとは露とも知らず、マドラスは薬入りの紅茶に口をつける。
僕は隣室母親の寝室を、クローゼットの中に潜って必死に覗見するようなニキビ面である。三島にしては俗なストーリーの作品で、しびれるような流麗な言い回しも少ない。自信作だった「鏡子の部屋」が不評で、シラケていたということでもあるのだろうか。少年たちをもっと、言語すら無意味な異星人風に、サディスティックにすれば良かったのにとか、空想を巡らせてみた。
白い制服に身をつつんだ貨物船のマドラス、母の若い恋人。僕の自慢のアニキ。
巣立ちの熱とでも言うべきか、青春の麻疹に侵された僕と、僕を取り囲む5人の中学生。
潮の香と、野性の男の体臭、高い憧れの存在であったものが、月並みで、分別のある、ダサい、ウザイ、自分のジェントルな「パパ」に成り下がることが分かった日、
少年審理はこの男に「死刑」を確定した。両目から白い光りを放つような不気味な少年たちが先月子猫の内臓を抉り出したとは露とも知らず、マドラスは薬入りの紅茶に口をつける。
僕は隣室母親の寝室を、クローゼットの中に潜って必死に覗見するようなニキビ面である。三島にしては俗なストーリーの作品で、しびれるような流麗な言い回しも少ない。自信作だった「鏡子の部屋」が不評で、シラケていたということでもあるのだろうか。少年たちをもっと、言語すら無意味な異星人風に、サディスティックにすれば良かったのにとか、空想を巡らせてみた。
2015年1月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この作品って海外では映像化もされているそうです。
世界のミシマなどと呼ばれる由縁のひとつですね。
まず始めにタイトルに痺れ、次に作品内容に痺れる。
そして最後に再びタイトルに痺れることでしょう。
中編作品ながら、三島由紀夫のエッセンスが存分に詰まった作品だと思います。
世界のミシマなどと呼ばれる由縁のひとつですね。
まず始めにタイトルに痺れ、次に作品内容に痺れる。
そして最後に再びタイトルに痺れることでしょう。
中編作品ながら、三島由紀夫のエッセンスが存分に詰まった作品だと思います。
2013年8月12日に日本でレビュー済み
竜二という船乗りが逗留する船着き場で女と知り合いその後付き合いその女の連れ子?がその逢瀬を覗き見したりし最後にその海に出なくなった興味が失せた竜二をその恋人の連れ子とその友達等でまだ未成年者なので少年法で護られているので死刑にならないので殺害するという内容です、未成年者が解釈?介錯?したのでその後が分かりませんが、記録も記憶もされず消滅消失したかもしれません。
2014年10月20日に日本でレビュー済み
「だまされやすい大柄の美人で」はないだろー(正確な引用ではないが、ほぼコレ)、
もう少しましな文章をかいてくれんと、
机の横に置いておくメモならわかるけど、そのまま書いて活字にするとは――
作者は世の中に出た経験がないようだ(日本の小説家はみんなそうみたいだ)、ぜんぶわざとっぽくて、血や肉のにおいがまるでしない、
いっぺんいっぺんパーツをこしらえて、のんびり台紙に張り付けて、描いた、表現したと思ってる、
一言でいって、文章が……遅い、
文章ってのは速くないとだめなもんだよ、
名文なのは認める、早熟な天才、
でも早熟な分、大人としての肉を体につけなければ、それは栽培ではなく、
肉体的な労働によって日々つちかわれるはず、それを外すと、見事にこける、
全部が子供向けのパズルと化してしまう、
首領と少年を書き分けられなかったのも失敗だが、少年を大人の目でとらえていないのがもっと致命的な問題、
竜二はなんと女の目線で描かれていて、変な意味で感心してしまうが、
ここの、汗がシャツに浮き出るところの比喩は、名文が滑っていなくて、いけてる、
逆に言うと、ほかは全部すべってるということ、
全編に流れてるムードは東映映画のそれで、狙っているというより、
どうしてもそうなっちゃってるようだ、
なぜかってその時代の現在の時の流れに作者がついていけていない、
少年時代の世界観が諦観としてすでに固まっており、すでに最新であっても遅くなっているはずのB級映画のムードを借りて新しさを模造しなければならない、という著者なりの悲しい定めがある、「少年時代の世界観」それをどうしても保持したいがために、現実に流れる時に身をゆだねることができず、先を越すなどできるはずもなく、「時の見本」を引っ張り出さなければならない、という本人なりの裏事情があったのだ、
著者はある時からあきらめたのだろうと思う、現実に付添い、その先頭に立ち、まわりをおいてきぼりにする、ブッチギル、ようなことは、決して自分にはできないと、
著者はとてつもない努力家で、小説の才に乏しかった、
有名な大学を出て官僚になったことと小説の素晴らしさを関連付ける論調が多いが、
むしろ作品が素晴らしくないことを裏書きしている、
この男は秀才で、だからこそ、そういうルートを途中まで歩めたのであり、
天才なら、砂漠の武器商人になったりするわけでしょう?
こんな純粋な精神にぼくは立ち会ったことがない、
努力努力努力、その足跡に一点のシミもない、
だが、そうやってつかんだ名文は、小説にはそぐわない、小説は躍動であって、名文を練っている間に先行っちゃってる、
文章が後を追っかけてる、妙なことになってる、比喩が滑って、努力の名跡しか読者に残せなくなってる、
それだと、「午後の曳航」という物語ではなく、それを書いた作者の自画像になっっちゃうのに、
この人は頭のいい人だから、そのことを知っていたんだろうと思う、
いや、知りすぎるほど、誰よりもよく、知っていた、
深沢七郎の「山と山が重なって山ばかり」この一文を読んで「コイツはすごい」と言ったらしいけど、この文の速さに驚いたのだし、自分の文の遅さにダメを出された、と思ったのだ、
その瞬間、作者の精神に巣くっている幼年期の世界観、これに徹底的にメスを入れ、肉をえぐり、内臓を引っ張り出さなければだめだと悟った、簡単にいえば――大人にならなければならない、
だが真摯に文学を追求するその時代の代表的小説家として精神的にはそれを決行できなかったようだ、
深沢の文章にはイマジネーションしかないように見える、
自分の文章にはカリキュレーションしかない、わかっていたけれど、認めたくない、
最後の場面で、少年の覗きがばれるわけだけど、この場面だけは小説になってる、
だが竜二が少年たちに引き回されるシーンに説得力がない、
人間には危険を察知する力がある、相手が子供であろうとそれは変わらない、
その場に立てばふと本心を見抜いてしまうものだ、
作者はそういう環境に育たなかったので、一方的に殺人現場まで連れられて行く設定になっている、
だが襲撃する立場にある限り、襲撃される立場にもならないと、襲撃は現実的に成立しえない、
これはあってはいけない小説の欠落であり、現実の事件の欠落要素でもあった、襲われる側が動き出して初めて絵が完成する、それは小説でも必要だったもう一枚の絵のはずだった、もし竜二が動いていたらどうなった?少年たちはひとたまりもなかった、それを想定して筆を進めていれば、この作品は失敗作にはならなかったかもしれない、作者はそういうふうに書き換えろ、といわれても、できない人だった、最期まで
もう少しましな文章をかいてくれんと、
机の横に置いておくメモならわかるけど、そのまま書いて活字にするとは――
作者は世の中に出た経験がないようだ(日本の小説家はみんなそうみたいだ)、ぜんぶわざとっぽくて、血や肉のにおいがまるでしない、
いっぺんいっぺんパーツをこしらえて、のんびり台紙に張り付けて、描いた、表現したと思ってる、
一言でいって、文章が……遅い、
文章ってのは速くないとだめなもんだよ、
名文なのは認める、早熟な天才、
でも早熟な分、大人としての肉を体につけなければ、それは栽培ではなく、
肉体的な労働によって日々つちかわれるはず、それを外すと、見事にこける、
全部が子供向けのパズルと化してしまう、
首領と少年を書き分けられなかったのも失敗だが、少年を大人の目でとらえていないのがもっと致命的な問題、
竜二はなんと女の目線で描かれていて、変な意味で感心してしまうが、
ここの、汗がシャツに浮き出るところの比喩は、名文が滑っていなくて、いけてる、
逆に言うと、ほかは全部すべってるということ、
全編に流れてるムードは東映映画のそれで、狙っているというより、
どうしてもそうなっちゃってるようだ、
なぜかってその時代の現在の時の流れに作者がついていけていない、
少年時代の世界観が諦観としてすでに固まっており、すでに最新であっても遅くなっているはずのB級映画のムードを借りて新しさを模造しなければならない、という著者なりの悲しい定めがある、「少年時代の世界観」それをどうしても保持したいがために、現実に流れる時に身をゆだねることができず、先を越すなどできるはずもなく、「時の見本」を引っ張り出さなければならない、という本人なりの裏事情があったのだ、
著者はある時からあきらめたのだろうと思う、現実に付添い、その先頭に立ち、まわりをおいてきぼりにする、ブッチギル、ようなことは、決して自分にはできないと、
著者はとてつもない努力家で、小説の才に乏しかった、
有名な大学を出て官僚になったことと小説の素晴らしさを関連付ける論調が多いが、
むしろ作品が素晴らしくないことを裏書きしている、
この男は秀才で、だからこそ、そういうルートを途中まで歩めたのであり、
天才なら、砂漠の武器商人になったりするわけでしょう?
こんな純粋な精神にぼくは立ち会ったことがない、
努力努力努力、その足跡に一点のシミもない、
だが、そうやってつかんだ名文は、小説にはそぐわない、小説は躍動であって、名文を練っている間に先行っちゃってる、
文章が後を追っかけてる、妙なことになってる、比喩が滑って、努力の名跡しか読者に残せなくなってる、
それだと、「午後の曳航」という物語ではなく、それを書いた作者の自画像になっっちゃうのに、
この人は頭のいい人だから、そのことを知っていたんだろうと思う、
いや、知りすぎるほど、誰よりもよく、知っていた、
深沢七郎の「山と山が重なって山ばかり」この一文を読んで「コイツはすごい」と言ったらしいけど、この文の速さに驚いたのだし、自分の文の遅さにダメを出された、と思ったのだ、
その瞬間、作者の精神に巣くっている幼年期の世界観、これに徹底的にメスを入れ、肉をえぐり、内臓を引っ張り出さなければだめだと悟った、簡単にいえば――大人にならなければならない、
だが真摯に文学を追求するその時代の代表的小説家として精神的にはそれを決行できなかったようだ、
深沢の文章にはイマジネーションしかないように見える、
自分の文章にはカリキュレーションしかない、わかっていたけれど、認めたくない、
最後の場面で、少年の覗きがばれるわけだけど、この場面だけは小説になってる、
だが竜二が少年たちに引き回されるシーンに説得力がない、
人間には危険を察知する力がある、相手が子供であろうとそれは変わらない、
その場に立てばふと本心を見抜いてしまうものだ、
作者はそういう環境に育たなかったので、一方的に殺人現場まで連れられて行く設定になっている、
だが襲撃する立場にある限り、襲撃される立場にもならないと、襲撃は現実的に成立しえない、
これはあってはいけない小説の欠落であり、現実の事件の欠落要素でもあった、襲われる側が動き出して初めて絵が完成する、それは小説でも必要だったもう一枚の絵のはずだった、もし竜二が動いていたらどうなった?少年たちはひとたまりもなかった、それを想定して筆を進めていれば、この作品は失敗作にはならなかったかもしれない、作者はそういうふうに書き換えろ、といわれても、できない人だった、最期まで