○どなたかが恋愛小説ベスト10のひとつにこの「秘事」を挙げていた。その中には川上弘美さんの「センセイの鞄」や山田詠美さんの「風味絶佳」も入っていて、なるほどこの人の選ぶものなら間違いはないのではないかと思って読んでみた。
○夫婦間の純愛物語と言えばたしかにそうだが何か物足りないような気がする。「死ぬときに妻に感動的な一言を遺すからな」という夫の言葉は何度も繰り返されるのだが、夫婦間の気持ちの交流が案外描かれていないのではないか、と思った。夫婦の間の愛情というものは、甘さも苦さも超えたもっと複雑な味がするものなのではなかろうか。
○もう一編の「半所有者」の方は、著者が長年考えてきたテーマらしいが、私にはただ不自然で不気味なだけであった。
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秘事・半所有者 (新潮文庫) 文庫 – 2003/2/28
河野 多恵子
(著)
「幸福な結婚」に隠された秘密とは。三村清太郎と麻子は、大学で知り合った、昭和11年生まれの同級生カップル。夫は一流の商社で順調に出世し、妻は聡明で社交的な、周囲も羨む睦まじい夫婦だ。だが、この結婚にはある事故が介在していた。周到に紡がれた夫婦の日常の結晶(『秘事』)。亡くなった妻への夫の究極の愛を描き、川端康成文学賞を受賞した傑作短編『半所有者』を併録。
- 本の長さ375ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2003/2/28
- ISBN-104101161046
- ISBN-13978-4101161044
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2003/2/28)
- 発売日 : 2003/2/28
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 375ページ
- ISBN-10 : 4101161046
- ISBN-13 : 978-4101161044
- Amazon 売れ筋ランキング: - 438,891位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1926(大正15)年、大阪生れ。大阪府女専(大阪女子大学)卒。
「文学者」同人になり、1952(昭和27)年、上京。1961年「幼児狩り」で新潮社同人雑誌賞、1963年「蟹」で芥川賞を受賞。著書に、『不意の声』『谷崎文学と肯定の欲望』(共に読売文学賞)、『みいら採り猟奇譚』(野間文芸賞)、『後日の話』(毎日芸術賞、伊藤整賞)、『秘事』『河野多惠子全集』など。日本芸術院会員。コロンビア大学客員研究員。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年4月22日に日本でレビュー済み
「秘事」
麻子が信号を無視して車道に飛び出したのは俺のせいだと三村は考える。しかも、事故のために麻子は、採用が決まった会社への入社を辞退した。三村も同じ会社に採用が決まっていて、同じ職場になることに面映ゆさを感じ、それが原因で結婚申し込みをためらっていた。
入社を見合わせてほしいとの頼みを、どう切り出せばよいかと思案に暮れていた矢先の事故と入社辞退。
結婚への“障害”がなくなったための安堵、そして安堵したことへの後ろめたさ。
三村は束の間、自分の心の断層を覗いてしまったわけだ。
彼は麻子から入社辞退の意思を伝えられた夜、トリス・バーで痛飲する。
こういう微妙な感情に目を向けるのが小説の醍醐味でもある。
さて、主人公をどんな運命が待ち受けているのか。期待が高まる。
ところが、作品は破綻のない結婚生活を描き、いわばタマネギをむき続けてばらばらにしてしまうのではなく、むかれた一枚一枚がタマネギそのものだと感じて生きる夫婦の姿を提示する。
なんだか非論理的で物足らない。
作者はそういう作品を書きたかったのだから、物足らんなどと呟くのは、ない物ねだりでしかないのだが。
だが、ちょっと待てと。
三村は麻子を愛している。事故の前から、そして事故の後も。
三村はこう考える。「麻子や周囲の者は、俺が麻子と結婚するのは麻子への同情や罪責感のせいだと思うだろうが、俺は単に麻子を愛しているから結婚するのだ。だが、弁明すればするほど誤解を招くだろう」と。
同様の思考回路を通って、愛しているとことさら言明することも誤解を招きかねない、ということになる。
素朴な愛情を実現するため、ちょっとしたバイパスを迂回しているのだ。
しかし彼はトリス・バーの夜、己の心の断層を垣間見てあれほど震撼させられたはずだった。彼にとってあの経験は、半透明の小骨のように引っかかり続けるのではないだろうか。
それについて作品は触れない。作者は、せっかく半透明の小骨を設定しておきながら、自らそれを置き去りにしたかのように見受けられる。
しかし、その無視の徹底ぶりは作者の深いたくらみではないのか、とも思えてくる。
三村は事故の罪責感は結婚の動機ではないという。
それは本心だ。しかし、そもそもなぜ罪責感の有無という問題を持ち出す必要があるのか。
もしかすると彼の真実の罪責感は、麻子の事故にではなく、彼女の入社辞退を喜んだことによるものではないか。
しかし彼はそれを認めたくない。だからより負担の軽い(彼にとってそもそも存在しない)罪責感にすり替えた上で、そのすり替えた罪責感を否定する・・・
そんなふうに読むことができる。
ずいぶん手が込んでいるが、三村のような思慮深い人間ならやりかねないことだ。
というか、そのメカニズムは三村自身にも意識されてないのだ。
知らず知らずのうちに、過去に味わった強い酸のような痛い体験を、楽になるために改変した。
とすれば彼の生活には、トリス・バーの夜に垣間見た見たくない自分の心の断層から目を背けるための操作が間断なく作動する、不可視の領域が重ね合わされていることになる。
こういう読み方だと「秘事」は歴史認識をめぐる、歴史修正主義のシステムについての寓話の観を呈することになるだろう。
無理やり? こじつけ?
それが?
小説は読者が勝手に読んでいい。勝手にポリフォニーをしてみたまでだ。
あきれ返った深読みと、ヨミの国で河野先生が嘆いているだろうか。
「パソコンは ソフトなければ ただの箱」という。
確かにマザーボードに電源をつないだだけではパソコンは働かない。OSを載せ、目的に応じたソフトウエアをインストールして初めて、役立つものになる。
小説の中の夫婦が経験する、子育てや仕事上の付き合いといった種々のイベントをソフトウエアになぞらえるなら、「愛しているから結婚した」というのは、OSに相当すると言ってもいいかもしれない。
この作品ではOSのレベルまでは遡っていくが、遡行の試みはそこで止まっている。
ソフトなければただの箱とはいえ、OSやソフトはそれに見合ったハードがなければ意味をなさない。
結婚をパソコンのアナロジーで考えることができるとすれば、この作品はハードに相当する次元が描かれない。バイパスを経由せずに作動するむき出しの情念の次元は存在しない。
その次元まで遡らなければ半透明の小骨が見出されることはない。
この小説でハードのレベルもしくは半透明の小骨に一番近づいたのはトリス・バーで痛飲するシーンだが、その後一切触れられることはない。
そうだとしても、この小説を肴に思考実験をするのは読者の自由だろう。
埴谷雄高はNHKの「埴谷雄高・独白『死霊』の世界」で言っていた。
日本文学は花弁がはらはら散るという情感は捉えても、花弁1枚1枚の気持ちを書かない、非常に大まかで思索性が入れない(たぶん夏目漱石などを念頭に置いているのかもしれない)
小説は物事を上からも下からも横からも見るために、多声的に書かれねばならないというのが埴谷の意見だ。
繊細という自己イメージを持つ日本文化は、埴谷的に見れば、案外、網目が粗いのだ。
そういえば、「三村はたまらない気持であった」(p62)「自分の秘かな願いが、あたかも凶々(まがまが)しく験(げん)を成したかのようだった」(同)という書き方は大雑把すぎるようだ。
J・D・サリンジャーだったらこの半透明の小骨をもっと敏感に書いたのではないか(その場合、人生の味わいなどという大人な雰囲気はあり得ないだろうがww)
とはいえ、鼻歌はモノフォクニックと決まっている。鼻歌は親しまれている。
なぜか分からないが、人間の声帯は1人で大合唱の音を出すことができない。スピーカーは紙1枚でやっていることだが…
(これが声帯というハードウエアに原因があるのかどうか。ホーミーができるのだから、技術とか発想とかソフトウエアの問題かもしれない)
音楽の場合、対位法的な響き以外の楽しさもある。だったら小説も…
と、脱線した。
「半所有者」
最初に思ったのは、死骸の熱伝導率はそんなに高いだろうか? という疑問だ。
接触している性器の表面から熱が移動し、温度が下がりながら遺骸全体へと伝搬していくだろう。遺骸がヒートシンクとなって主人公の性器の温度を放散させていく。
捻挫に生肉を貼るという話を聞いたことはあるが、最初はひんやりしてもそのうち温度は平衡する。
平衡する時間と遺骸を熱が伝わって逃げていく時間の比の問題だろうか。それとも熱伝導率がよくて、平衡しない?
小説では結構長く接触が持続したような印象があって、最初のうちは冷たさに突き上げられる感覚はあるだろうが、そのうち生ぬるい感じになるのではなかろうか。
「俺のものだ」と強く思うのは、喪失感の強さの裏返しだろう。
日頃愛着を感じていたのか、それとも失って初めて強く愛着を感じたのかは書いてないから分からない。
所有という観念で亡妻を語るなど、あの名誉殺人に通じる由々しき妄念であるとお叱りが飛びかねない。
しかしだからといって、「失ったなんて思っちゃいけないんだ、妻を所有物とみなしていたことになってしまうから。所有という意識が前提にあって、失ったという感覚が生まれてくるのだから…」と“反省”して、言葉にできない喪失感をないものとみなすことが望ましいとも思えない。
前向きの気持ちに置き換える? それが一番望ましくないと思う。
麻子が信号を無視して車道に飛び出したのは俺のせいだと三村は考える。しかも、事故のために麻子は、採用が決まった会社への入社を辞退した。三村も同じ会社に採用が決まっていて、同じ職場になることに面映ゆさを感じ、それが原因で結婚申し込みをためらっていた。
入社を見合わせてほしいとの頼みを、どう切り出せばよいかと思案に暮れていた矢先の事故と入社辞退。
結婚への“障害”がなくなったための安堵、そして安堵したことへの後ろめたさ。
三村は束の間、自分の心の断層を覗いてしまったわけだ。
彼は麻子から入社辞退の意思を伝えられた夜、トリス・バーで痛飲する。
こういう微妙な感情に目を向けるのが小説の醍醐味でもある。
さて、主人公をどんな運命が待ち受けているのか。期待が高まる。
ところが、作品は破綻のない結婚生活を描き、いわばタマネギをむき続けてばらばらにしてしまうのではなく、むかれた一枚一枚がタマネギそのものだと感じて生きる夫婦の姿を提示する。
なんだか非論理的で物足らない。
作者はそういう作品を書きたかったのだから、物足らんなどと呟くのは、ない物ねだりでしかないのだが。
だが、ちょっと待てと。
三村は麻子を愛している。事故の前から、そして事故の後も。
三村はこう考える。「麻子や周囲の者は、俺が麻子と結婚するのは麻子への同情や罪責感のせいだと思うだろうが、俺は単に麻子を愛しているから結婚するのだ。だが、弁明すればするほど誤解を招くだろう」と。
同様の思考回路を通って、愛しているとことさら言明することも誤解を招きかねない、ということになる。
素朴な愛情を実現するため、ちょっとしたバイパスを迂回しているのだ。
しかし彼はトリス・バーの夜、己の心の断層を垣間見てあれほど震撼させられたはずだった。彼にとってあの経験は、半透明の小骨のように引っかかり続けるのではないだろうか。
それについて作品は触れない。作者は、せっかく半透明の小骨を設定しておきながら、自らそれを置き去りにしたかのように見受けられる。
しかし、その無視の徹底ぶりは作者の深いたくらみではないのか、とも思えてくる。
三村は事故の罪責感は結婚の動機ではないという。
それは本心だ。しかし、そもそもなぜ罪責感の有無という問題を持ち出す必要があるのか。
もしかすると彼の真実の罪責感は、麻子の事故にではなく、彼女の入社辞退を喜んだことによるものではないか。
しかし彼はそれを認めたくない。だからより負担の軽い(彼にとってそもそも存在しない)罪責感にすり替えた上で、そのすり替えた罪責感を否定する・・・
そんなふうに読むことができる。
ずいぶん手が込んでいるが、三村のような思慮深い人間ならやりかねないことだ。
というか、そのメカニズムは三村自身にも意識されてないのだ。
知らず知らずのうちに、過去に味わった強い酸のような痛い体験を、楽になるために改変した。
とすれば彼の生活には、トリス・バーの夜に垣間見た見たくない自分の心の断層から目を背けるための操作が間断なく作動する、不可視の領域が重ね合わされていることになる。
こういう読み方だと「秘事」は歴史認識をめぐる、歴史修正主義のシステムについての寓話の観を呈することになるだろう。
無理やり? こじつけ?
それが?
小説は読者が勝手に読んでいい。勝手にポリフォニーをしてみたまでだ。
あきれ返った深読みと、ヨミの国で河野先生が嘆いているだろうか。
「パソコンは ソフトなければ ただの箱」という。
確かにマザーボードに電源をつないだだけではパソコンは働かない。OSを載せ、目的に応じたソフトウエアをインストールして初めて、役立つものになる。
小説の中の夫婦が経験する、子育てや仕事上の付き合いといった種々のイベントをソフトウエアになぞらえるなら、「愛しているから結婚した」というのは、OSに相当すると言ってもいいかもしれない。
この作品ではOSのレベルまでは遡っていくが、遡行の試みはそこで止まっている。
ソフトなければただの箱とはいえ、OSやソフトはそれに見合ったハードがなければ意味をなさない。
結婚をパソコンのアナロジーで考えることができるとすれば、この作品はハードに相当する次元が描かれない。バイパスを経由せずに作動するむき出しの情念の次元は存在しない。
その次元まで遡らなければ半透明の小骨が見出されることはない。
この小説でハードのレベルもしくは半透明の小骨に一番近づいたのはトリス・バーで痛飲するシーンだが、その後一切触れられることはない。
そうだとしても、この小説を肴に思考実験をするのは読者の自由だろう。
埴谷雄高はNHKの「埴谷雄高・独白『死霊』の世界」で言っていた。
日本文学は花弁がはらはら散るという情感は捉えても、花弁1枚1枚の気持ちを書かない、非常に大まかで思索性が入れない(たぶん夏目漱石などを念頭に置いているのかもしれない)
小説は物事を上からも下からも横からも見るために、多声的に書かれねばならないというのが埴谷の意見だ。
繊細という自己イメージを持つ日本文化は、埴谷的に見れば、案外、網目が粗いのだ。
そういえば、「三村はたまらない気持であった」(p62)「自分の秘かな願いが、あたかも凶々(まがまが)しく験(げん)を成したかのようだった」(同)という書き方は大雑把すぎるようだ。
J・D・サリンジャーだったらこの半透明の小骨をもっと敏感に書いたのではないか(その場合、人生の味わいなどという大人な雰囲気はあり得ないだろうがww)
とはいえ、鼻歌はモノフォクニックと決まっている。鼻歌は親しまれている。
なぜか分からないが、人間の声帯は1人で大合唱の音を出すことができない。スピーカーは紙1枚でやっていることだが…
(これが声帯というハードウエアに原因があるのかどうか。ホーミーができるのだから、技術とか発想とかソフトウエアの問題かもしれない)
音楽の場合、対位法的な響き以外の楽しさもある。だったら小説も…
と、脱線した。
「半所有者」
最初に思ったのは、死骸の熱伝導率はそんなに高いだろうか? という疑問だ。
接触している性器の表面から熱が移動し、温度が下がりながら遺骸全体へと伝搬していくだろう。遺骸がヒートシンクとなって主人公の性器の温度を放散させていく。
捻挫に生肉を貼るという話を聞いたことはあるが、最初はひんやりしてもそのうち温度は平衡する。
平衡する時間と遺骸を熱が伝わって逃げていく時間の比の問題だろうか。それとも熱伝導率がよくて、平衡しない?
小説では結構長く接触が持続したような印象があって、最初のうちは冷たさに突き上げられる感覚はあるだろうが、そのうち生ぬるい感じになるのではなかろうか。
「俺のものだ」と強く思うのは、喪失感の強さの裏返しだろう。
日頃愛着を感じていたのか、それとも失って初めて強く愛着を感じたのかは書いてないから分からない。
所有という観念で亡妻を語るなど、あの名誉殺人に通じる由々しき妄念であるとお叱りが飛びかねない。
しかしだからといって、「失ったなんて思っちゃいけないんだ、妻を所有物とみなしていたことになってしまうから。所有という意識が前提にあって、失ったという感覚が生まれてくるのだから…」と“反省”して、言葉にできない喪失感をないものとみなすことが望ましいとも思えない。
前向きの気持ちに置き換える? それが一番望ましくないと思う。