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小林秀雄の流儀 (新潮文庫 や 46-2) 文庫 – 2001/4/1

4.1 5つ星のうち4.1 22個の評価

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 新潮社 (2001/4/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2001/4/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 文庫 ‏ : ‎ 339ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4101294224
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4101294223
  • カスタマーレビュー:
    4.1 5つ星のうち4.1 22個の評価

著者について

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山本 七平
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上位レビュー、対象国: 日本

2016年3月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
毎日新聞に諸表があったので、購入しました。
書いている内容は示唆にとも物で、面白いです。
発行年の古いものは、活字が小さく文字がぎっしり詰まっており、
70歳代と高齢化してくると、読みづらくなるという物理的なしんどさが増えてきます。
ということで、内容の良さが減殺されての評価点です。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2017年6月12日に日本でレビュー済み
以下、山本七平 著 「小林秀雄の流儀」より。

だが少し先へ進み過ぎたようだ。その前に、ドストエフスキーの予言が二度の大戦で現実のものとなった理由を探らねばならない。
「ヨーロッパは、外的現象に救ひを求める人にも満ちてゐる。
道徳の根本の基礎が、もう崩壊してゐるのだから、社会的理想に関する抽象的公式が、いくつも叫ばれゝば叫ばれる程、事態は悪化するのだ・・・。
総決算の時は必ず来る。誰も想像出来ないような大戦争が起るであらう・・・」
ドストエフスキーは予言など好まなかったし、言いたいことはすべて一連の大作の中で言っていたが、彼はこう予言せざるを得なかった。
「かやうに激しい調子の文章は、彼の全作品中、他にはないのであります。」(政治と文学)
と小林秀雄は記しているが、この時点で彼の予言を信じた者がいたであろうか。
ヒットラーやスターリンが権力を握ったらどうなるかと想像した者が、いたであろうか。
いや、そんなことは詩人の空想だ、第一、ドストエフスキーの小説の中の人物など現実に居るわけがない、「詩人に騙されてはいけない」そう考えるのが普通であろう。
そして、連合赤軍事件が起って、逆に『悪霊』が現実に見えてくるのと同じようなことを、われわれは何度も体験しながら忘れていたのだ。
「ヒットラァは、十三階段を登らずに自殺した。もし彼が縊死したとすれば、スタヴローギンのやうに、慎重に縄に石鹸を塗つたに違ひない。
その時の彼の顔は、やはりスタヴローギンのやうに、凡そ何物も現してはゐない仮面に似た顔であつたと私は信ずる。・・・スタヴローギンは、あり余る知力と精力を持ちながら、これを人間侮蔑のためにしか使はなかつた。彼は、人を信ぜず、人から信じられることも拒絶した。何物も信じ難い邪悪な決意が、どれほど人々を魅するものか、又どのやうな紆余曲折した道を辿り、徐々に彼自身を腐食させ、自殺とも呼べなやうな、無意味な、空虚な死をもたらすか、その悪夢のやうな物語を、ドストエフスキイは、綿密詳細に語つたが、結局、物語の傑作を出ないと高を括られた。作者のやうに、悪魔の実在を信ずる者はなかつたからである。
自分は、夢想を語つたのではない。また諸君の言ふやうに、病的心理の分析を楽しんだわけでもない。
正真正銘の或るタイプの人間を描いてお目にかけたのだ、と彼は繰り返し抗弁したが無駄だつた。」(ヒットラァと悪魔)
 彼が繰り返し抗弁しても無駄だったことを、人びとが一瞬にして覚る時が来る。
その「覚る時」とは予言が成就して現実になった時だが、それまでは決して信じようとも覚ろうともしない。
これは旧約聖書の預言者以来のこと、預言者がいかに近づいて来る破滅を警告しようと、人はそんな言葉に耳を傾けない。
傾けるとすれば預言者エゼキエルが言ったように「歌うたいの歌」に耳を傾けるような傾け方である。
そして破滅が来て覚る。来た後で覚っても、文字通り後の祭りであり、もっともらしく論評すれば馬鹿の後知恵である。馬鹿の後知恵はもうたくさんだが、小林秀雄はそうではなく、ヒットラーの『我が闘争』を読んだとき、すでにその本質を見破っていたことは、『我が闘争』への短い書評を見れば明らかである。
「私は嗅いだだけであつた」と、その二十年後に、「十三階段への道(ニュールンベルク裁判)」という実写映画を見、「ヒットラァと悪魔」を書いたとき、彼は記している。
確かに『我が闘争』の中に何かを「嗅いだだけ」であったろうが、彼が正確に「嗅ぎ分けていた」ことは否定できない。まず映画への彼の印象を、次に二十年前の「書評」を引用させていただく。
「残虐性は今や現代人の快楽の重要な様相になつた、と論ずる映画評論家の文章も何処かで読んだことがある。
しかし、『ニュールンベルク裁判』には、大ていの事には驚かぬ映画ファンも驚いた様子だ。理由は明瞭である。それはマイクから流れ出す一つの声にあつた、『この映画のすべては事実に基づくものである。事実以外の何ものも語られてはゐない。』といふ声にあつた。
 観客は画面に感情を写し入れる事が出来ない。破壊と死とは命ある共感を拒絶してゐた。
殺人工場で焼き殺された数百万の人間の骨の山を、誰に正視する事が出来たであらうか。
カメラが代わってその役目を果たしたやうである。
御蔭で、カメラと化した私たちの眼は、悪夢のやうな光景から離れることができない。私達は事実を見てゐたわけではない。が、これは夢ではない。事実である、と語る強烈な精神の裡には、たしかにゐたようである。」
「私の心にはまだマイクの声が鳴つてゐる。『事実以外の何ものも語られてはゐない』ーその中に、久しぶりに見たヒットラァの写真があつた。あのぬらりとした仮面のやうな顔があつた。チョビ髭も附け髭に似てゐる。頭も頭蓋骨にべつたりと貼り附けた鬘のやうだ。ドストエフスキイは、スタヴロウギンといふ悪魔を構想した時、その仮面のような顔附きを想像し、これを精細に描いて見せるのを忘れなかつた。彼の仮面に似た素顔は、彼の仮面に似た心をそのまゝ語つてゐる。彼は骨の髄まで仮面である。悪魔は仮面を抜いで、正体を現したといふ普通な言葉は、小悪魔にしか当てはまらない。
ドストエフスキイはさう見抜いてゐた。
これは深い思想である。
―しかし、一体事実とは何んだらう、あの一切が後の祭りの事実とは、私は幻のなかにゐるやうな気がした。幻のなかで、チョビ髭の悪魔が、マイクを通じて言つてゐた。
『事実以外の何ものにも、私は興味を寄せなかつた男だ』と」
 これが書かれる二十年前、小林秀雄はヒットラーの『我が闘争』について次のような書評を書いた。
「これは全く読者の先入観など許さぬ本だ。ヒットラァ自身そのことを書中で強調してゐる。先入観によつて、自己の関心事の凡てを検討すのを破滅の方法とさへ呼んでゐる。
 そして面白い事をいつてゐる。さういふ方法は、自己の教養に客観的に矛盾する凡てものを主観的に考へるといふ能力を皆んな殺して了うからだと言ふのである。彼はさう信じ、さう実行する。
 これは天才の方法である。僕はこの驚くべき独断の書を二十頁ほど読んで、もう一種邪悪なる天才のペンを感じた。
僕にはナチズムといふものが、はつきり解った気がした。それは組織とか制度とかいふ様なものではないのだ。寧ろ燃え上る欲望なのである。
 ナチズムの中核は、ヒットラァといふ人物の憎悪のうちにあるのだ。毒ガスに両眼をやられ野戦病院で、ドイツの降伏を聞いた時のこの人物の憎悪の裡にあるのだ。
 ユダヤ人排斥の報を聞いて、ナチのヴァンダリズムを考へたり、ドイツの快勝を聞いてドイツの科学精神をいつてみたり、みんな根も葉もない、囈言だといふことが解った。形式だけ輸入されたナチの政治政策なぞ、反故同然だというふことが解った。
 ヒットラァといふ男の方法は、他人の模倣なぞ全く許さない」
 この二つを読み比べると面白い。普通の人間なら「これが事実」だと思う映像の世界に「幻のなかにゐるような気がし」、普通の人間なら「扇動政治家のたわごと」と見るものに「憎悪」のうちにある邪悪なる天才の燃え上る欲望」の現実を見、そこにナチズムなるものの中核があることを彼は見抜いていた。彼は『我が闘争』を「二十頁ほど読ん」だだけで正確にその神髄を嗅ぎとっている。
今この書評を読んでもだれも奇異に感じまい。小林秀雄は戦前と戦後で、「ヒットラー感」を変える必要が少しもなかった。
世人はこのことをどう評価するか知らないが、当時の記憶が鮮やかに残っている私には不思議である。
というのは昭和十四、五年の、日独伊防共協定からさらに軍事同盟へと進んで行くころの日本の「ヒットラー熱」を覚えている者には、小林秀雄の嗅覚の正確さは少々信じがたい気持さえする。
と同時に、こういうことが書けたことは、戦後より当時の方が「言論の自由」があったのかな、という妙な気もする。
というのは当時の「ヒットラー熱」は、戦後の「文革熱」や「毛沢東熱」を上まわるものであったからだ。
ジャーナリズムの狂態はいずれの時代でも始末の悪いものだが、これが政府と一体化すると手におえなくなる。
確に戦後もさまざまな「熱」はあったが、騒々しかったのはジャーナリズムの世界のことで、総理乃至は総理級の人物がたとえ仮装とはいえ、人民服を着て近衛兵の腕章をつけたわけではない。
しかし当時は、近衛文麿がヒットラーに仮装をしている。
『重臣たちの昭和史』でその写真を見、小林秀雄の前述の書評を読むと、「五摂家筆頭のお公卿さん」には、結局、何もわかっていなかったのだと思わざるを得ない。もっとも私であれ、ジャーナリズムであれ同じではあったが―。
仮装するほど惚れ込んだのなら、近衛文麿も当然『我が闘争』を読んでいただろう。しかしたとえ読んだとて何も「嗅ぎとる」ことはできなかったのであろう。それが普通であり、「嗅ぎとった」小林秀雄の方がむしろ例外者であったろう。
8人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2019年8月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
小林秀雄さんのことを山本七平さんが書かれているのに惹かれて読みましましたが、
一口で言うと、難しい! キリスト教の素養がないと理解しにくいのかなと思いました。
小林秀雄さんを知るために参考になるかなと購入しましたが、通して読めば、いくらかは
良かったです。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2007年12月5日に日本でレビュー済み
人間、言いたいことを言い、したいことをしていれば、当然どこかに言っていることそれぞれの間、していることのそれぞれの間に、破綻が生じるものです。それを破綻なく小林秀雄をつないでいたものは、これこそキーワード、生活者の視点です。生活者の視点を凡人が言うと、常識とか、庶民感覚という言葉になるのですが、例えば野球をしたことのないものがバットとボールを渡されただけでは野球が出来ないように、経験というものは卵とひよこの議論のように、知識に先立つもので、それが生活者の視点なのです。そして知識は経験を導き、経験によって証明されるものなのです。野球のルールとどういう競技であるのかをを知らなければ、野球という経験はできないものなのです。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2015年12月20日に日本でレビュー済み
「あらゆる思想は実生活から生まれる。併し生れて育つた思想が遂に実生活から訣別する時が来なかつたならば、凡そ思想といふものに何の力があるか。」これは「思想と実生活」論争で小林秀雄が正宗白鳥に向けて発した言葉である。白鳥の主張は単純明快で、実生活から遊離した思想など当てにならぬという。対する小林の主張は分かりにくい。思想は実生活に基礎を持たねばならぬと言いながら、実生活を否定しないような思想は本当の思想でないというのだ。素直に読めば前段と後段は矛盾しており、論争が小林の敗北に終わったとされるのも分からぬではない。

しかし山本七平は小林のこの言葉にこだわり、本書のタイトルにもなっている最終章「小林秀雄の流儀」で繰り返し引用している。『「空気」の研究』を書いた山本は日本社会に巣食う得体の知れない「空気」を嫌悪し続けた。山本が小林の「流儀」に見出したのも、この「空気」への違和感であり、自然主義作家の描く「実生活」がともすれば「空気」に同化してしまうことへの「思想」による抵抗である。他方で小林は「思想」が往々にして「様々なる意匠」に過ぎないことも知り抜いていた。そこに小林の矛盾と不徹底を指摘するのはやさしい。だが人間とはそもそも矛盾した存在だ。その矛盾をどこまでも引き受けるのでなければ批評に一体何の意味があるか。山本が小林から学んだのはそういうことだ。

古典に沈潜した小林の後半生は「思想」より「実生活」或いは「実感」に傾斜していったようにも見えるし、そうした理解がむしろ一般的であろう。ただ、もし山本の小林理解が正しいとすれば、「思想」について多くを語らなくなった小林も、「思想」と「実生活」との緊張関係、或いは両者のぎりぎりの接点を見据えていたはずだ。丸山眞男は『日本の思想』において、時々の実感を重んじる「実感信仰」と現実との対決なしに既製理論を無限抱擁する「理論信仰」との間で右往左往する日本思想の底の浅さを厳しく批判していた。およそ共通点などなさそうな小林と丸山だが、この点については正反対の方向から同じ問題を捉えていたのではないか。
18人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2009年11月8日に日本でレビュー済み
もう会社は辞めようと思った頃だから9年前だ。
9年ぐらい前に出された小林秀雄の全集は毎月販売されるのが楽しみだったが
小林秀雄を語る本も好きでちょくちょく買った。
その中でもいつも手元に置いて読み返すのがこの小林秀雄の流儀だ。
とにかくあの山本七平がうらやましいと言うんだからどんなものだと
読み返す。小林秀雄の水先案内人でもある。

人がもし、自分に関心のあることにしか目を向けず、言いたいことしか言わず、
書きたいことだけを書いて現実に生活していけたら、それはもっとも贅沢な生活だ。

小林秀雄がこの贅沢な生活をしている人らしい。
大いに啓発される本です。
12人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2012年4月24日に日本でレビュー済み
 小林秀雄の人柄や素顔を知りたい、という向きには
まったく方向性が異なる書です。

 山本七平の思想を知るための本という方がまだ適切な
気がします。すくなくとも私には聖書がらみのくだりは
まったく理解できなかった。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2011年2月3日に日本でレビュー済み
 この書は単なる「小林秀雄」論ではない。山本氏の積年の研鑽による深い聖書への理解、ドストエフスキーへの読み込みを小林秀雄のそれに照射させて生まれてきたものである。だから、決して読み易いものではなく、というより、かなり難解な記述が続く。例えば、「プネウマティコン」と「プシュキコン」の違いの説明など目からウロコが落ちる思いがしたが理解は容易ではなかった。それでも、作者がレオナルド・ダ・ヴィンチ作「洗礼者ヨハネ」に見られているような気がして、心の中で「あ、お前はここにいたのか」と言った体験と小林秀雄を見据えた『烏のゐる麦畑』を等価なものとして説明されると納得がいく。山本七平氏の著書にも小林秀雄の著作もそして聖書やドストエフスキーにもほとんど理解の行き届かない私にはこれ以上の言説は無理なので機会があれば再評を試みたい。
9人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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