哲学の流れが とてもわかりやすく書かれています。
木田氏の語り口は しろうとにも 読みやすくどんどん読めます。
何度も繰り返して 読みたいと思います。
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反哲学入門 (新潮文庫) 文庫 – 2010/5/28
木田 元
(著)
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哲学はわからなくて当たり前! 記念碑的名著。
「形而上学」「私は考える、ゆえに私は存在する」「超越論的主観性」──。
哲学のこんな用語を見せられると、われわれは初めから、とても理解できそうにもないと諦めてしまう。だが本書は、プラトンに始まる西洋哲学の流れと、それを断ち切ることによって出現してきたニーチェ以降の反哲学の動きを区別し、その本領を平明に解き明かしてみせる。
現代の思想状況をも俯瞰した名著。
本文より
よく日本には哲学はなかったと言われますが、わたしもそう思いますし、哲学がなかったということを別に恥ずかしいことだとは思いません。「哲学」というのは、やはり西洋という文化圏に特有の不自然なものの考え方だと思うからです。
ですから、自分のやっていることは、強いて言えば、そうした「哲学」を批判し、そうしたものの考え方を乗り越えようする作業ではないかと思い、それを「反哲学」などと呼ぶようになりました。
(「まえがき」)
目次
まえがき
第一章 哲学は欧米人だけの思考法である
〈自分の死をどう考えるかは、哲学上の大問題です〉
〈もともと「哲学」という言葉自体が、西周による明らかな誤訳なんです〉
〈哲学の根本問題は、「存在とはなにか」を問うことだ〉
第二章 古代ギリシアで起こったこと
〈西洋を西洋たらしめた人はソクラテスとプラトンです〉
〈ソクラテスは極めつきの皮肉屋、というぐらいに考えておいた方がいい〉
〈プラトンは自分の思想、つまり「つくる」論理の芯になるものを見つけた〉
第三章 哲学とキリスト教の深い関係
〈「キリスト教は民衆のためのプラトン主義にほかならない」〉
〈プラトン主義とアリストテレス主義とは覇権の交替を繰りかえしていた〉
〈学生時代も教師になってからもわたしはデカルトが苦手でした〉
第四章 近代哲学の展開
〈「啓蒙とはなにか。それは人間がみずから招いた未成年状態を脱け出すこと」
〈近代の哲学書の文体はカントのあたりで大きく変わります〉
〈ヘーゲルは世界史を、人間にとっての自由の拡大の道程と――〉
第五章 「反哲学」の誕生
〈ニーチェ以前と以後を、同じ哲学史に一線に並べるのは、おかしい〉
〈ニヒリズムはプラトン以来すでにはじまっていたことになります〉
〈肉体を手引きとする新たな世界解釈をニーチェは提唱しようとしている〉
第六章 ハイデガーの二十世紀
〈ハイデガーの思想は、ナチズムと切り離して考えることはできない〉
〈『存在と時間』は未完成の書であり、肝腎の本論をふくむ下巻が出されないでしまった〉
〈世界史を領導するような一つの民族がその生き方を変えるということになれば〉
あとがき
解説 三浦雅士
木田元
1928(昭和3)年~2014(平成26)年。山形県出身。哲学者。東北大学文学部哲学科卒。中央大学名誉教授。マルティン・ハイデガー、エドムント・フッサール、モーリス・メルロ=ポンティなどの現代西洋哲学者の主要著作を分かりやすい日本語に翻訳したことで知られる。終戦直後、闇屋で暮らしを立てていたエピソードも有名。主な著書に、『現象学』『反哲学史』『現代の哲学』『ハイデガーの思想』『メルロ=ポンティの思想』『闇屋になりそこねた哲学者』『ピアノを弾くニーチェ』『哲学は人生の役に立つのか』などがある。
「形而上学」「私は考える、ゆえに私は存在する」「超越論的主観性」──。
哲学のこんな用語を見せられると、われわれは初めから、とても理解できそうにもないと諦めてしまう。だが本書は、プラトンに始まる西洋哲学の流れと、それを断ち切ることによって出現してきたニーチェ以降の反哲学の動きを区別し、その本領を平明に解き明かしてみせる。
現代の思想状況をも俯瞰した名著。
本文より
よく日本には哲学はなかったと言われますが、わたしもそう思いますし、哲学がなかったということを別に恥ずかしいことだとは思いません。「哲学」というのは、やはり西洋という文化圏に特有の不自然なものの考え方だと思うからです。
ですから、自分のやっていることは、強いて言えば、そうした「哲学」を批判し、そうしたものの考え方を乗り越えようする作業ではないかと思い、それを「反哲学」などと呼ぶようになりました。
(「まえがき」)
目次
まえがき
第一章 哲学は欧米人だけの思考法である
〈自分の死をどう考えるかは、哲学上の大問題です〉
〈もともと「哲学」という言葉自体が、西周による明らかな誤訳なんです〉
〈哲学の根本問題は、「存在とはなにか」を問うことだ〉
第二章 古代ギリシアで起こったこと
〈西洋を西洋たらしめた人はソクラテスとプラトンです〉
〈ソクラテスは極めつきの皮肉屋、というぐらいに考えておいた方がいい〉
〈プラトンは自分の思想、つまり「つくる」論理の芯になるものを見つけた〉
第三章 哲学とキリスト教の深い関係
〈「キリスト教は民衆のためのプラトン主義にほかならない」〉
〈プラトン主義とアリストテレス主義とは覇権の交替を繰りかえしていた〉
〈学生時代も教師になってからもわたしはデカルトが苦手でした〉
第四章 近代哲学の展開
〈「啓蒙とはなにか。それは人間がみずから招いた未成年状態を脱け出すこと」
〈近代の哲学書の文体はカントのあたりで大きく変わります〉
〈ヘーゲルは世界史を、人間にとっての自由の拡大の道程と――〉
第五章 「反哲学」の誕生
〈ニーチェ以前と以後を、同じ哲学史に一線に並べるのは、おかしい〉
〈ニヒリズムはプラトン以来すでにはじまっていたことになります〉
〈肉体を手引きとする新たな世界解釈をニーチェは提唱しようとしている〉
第六章 ハイデガーの二十世紀
〈ハイデガーの思想は、ナチズムと切り離して考えることはできない〉
〈『存在と時間』は未完成の書であり、肝腎の本論をふくむ下巻が出されないでしまった〉
〈世界史を領導するような一つの民族がその生き方を変えるということになれば〉
あとがき
解説 三浦雅士
木田元
1928(昭和3)年~2014(平成26)年。山形県出身。哲学者。東北大学文学部哲学科卒。中央大学名誉教授。マルティン・ハイデガー、エドムント・フッサール、モーリス・メルロ=ポンティなどの現代西洋哲学者の主要著作を分かりやすい日本語に翻訳したことで知られる。終戦直後、闇屋で暮らしを立てていたエピソードも有名。主な著書に、『現象学』『反哲学史』『現代の哲学』『ハイデガーの思想』『メルロ=ポンティの思想』『闇屋になりそこねた哲学者』『ピアノを弾くニーチェ』『哲学は人生の役に立つのか』などがある。
- 本の長さ302ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2010/5/28
- 寸法14.8 x 10.5 x 2 cm
- ISBN-104101320810
- ISBN-13978-4101320816
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年10月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
口述ということで、分かりやすくポイントを押さえている。
ギリシャ哲学からハイデガーまでの西洋哲学思想の流れが理解できたような気がする。
ギリシャ哲学からハイデガーまでの西洋哲学思想の流れが理解できたような気がする。
2018年2月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書に「解説」を寄せる文芸評論家の三浦雅士氏は、本書のことを次のように語る。「『反哲学入門』の特色を一言でいえば、西洋の思想の歴史、とりわけその根幹であるいわゆる哲学の歴史が、鷲づかみにされていることです。まとまったひとつのものとして鷲づかみにされている」。
読後感はまさにそのとおり。「哲学」が生まれ、そして辿ってきた道が、ものの見事に鷲づかみにされている。それは一言でいえば、「哲学」から「反哲学」へという構図だが、それを“鷲づかみ”にすることを可能にしているのが、<つくられてある>か<なりいでてある>かという、<存在>の理解の仕方に関する巧みな概念設定だといえる。
哲学から反哲学へ――。本書で描かれる構図における「哲学」とは、「第1章 哲学は欧米人だけの思考法である」の表題にも示されるように、西洋という文化圏に生まれた<存在>に関するある特定な考え方。具体的には、プラトン、アリストテレスを起源にカント、ヘーゲルに至るまで脈々と承け継がれてきた「プラトニズム」のことをいう。
プラトンが登場する以前の古代ギリシアの人々は、万物は生きて生成してきたもの、自然に<なりいでてある>ものと考えていた。ところが、プラトン/アリストテレスによって<ある>ということ<存在する>ということが、<つくられてある>ことと受けとられることになり、この存在概念が以降「西洋」という文化圏の文化形成を規定してきたのだと著者はいう。
「わたしは「哲学」を勉強し、大学でも「哲学」を教えてきたわけですが、以前から自分のやっている思考作業は、「西洋」という文化圏で伝統的に「哲学(フィロソフィ)」と呼ばれてきたものの考え方とは、決定的に違うところがあると思っていました。よく日本には哲学はなかったと言われますが、わたしもそう思いますし、哲学がなかったことを別に恥ずかしいことだとは思いません。「哲学」というのは、やはり西洋という文化圏に特有の不自然なものの考え方だと思うからです」
「ですから、自分のやっていることは、強いて言えば、そうした「哲学」を批判し、そうしたものの考え方を乗り越えようとする作業ではないかと思い、それを「反哲学」などと呼ぶようになりました」
上記が、著者が「まえがき」で語る「反哲学」の意味だが、こうした「反哲学」の狼煙は、ご当地西洋でもさまざまに上げられてきた。それを代表するのがニーチェとハイデガーだ。
ニーチェは、プラトン以降のいわゆる西洋哲学・道徳・宗教はすべてプラトニズムであり、これを克服する「プラトニズムの逆転」を最大の課題と考えた。プラトニズムは「イデア」(プラトン)、「純粋形相」(アリストテレス)、「神」(キリスト教神学)、「理性」(デカルト、カント)、「精神」(ヘーゲル)といった超自然的原理をその根幹に持つことを共通の特徴とするが、そうした構造の下に<つくられてある>超越的な最高価値が力を失ったことが、人々をして、この世界を無価値無意味なものとしか思えない状況(=ニヒリズム)を招来した根源的な原因と考えたからだ。
ニーチェは、プラトニズムにおける超自然的原理に代わる新たな価値定立の原理を、この生きた自然ともいうべき感性的世界の根本性格、つまり「生(レーベン)」に求めるしかないと考え、それを「力への意志」と呼んだ。超自然的原理がことごとく否定されたいま、自然はふたたび自分自身のうちに生成力をとりもどし、おのずから生きいきと生成していくものになっている、と考えたからだ。
「おのずから生きいきと生成していくもの」。それはレビュアーが、いきいきとした組織経営を行うための原理として追い続けてきたものに他ならない。そしてまた、それは<存在する>ということを元来<なりいでてある>ものと捉えてきた私たち日本人の肌感覚にしっくり馴染む原理だともいえる。
社会、とりわけ現代社会はもちろん、<なりいでてある>原理だけで回るものではないが、<存在する>ことの本質はここにこそあるということを、私たちは決して忘れることのないよう、「反哲学」の心構えを持ち続けることが大切だと思う。それが、ニヒリズムを克服するための唯一の途だと思うから。
読後感はまさにそのとおり。「哲学」が生まれ、そして辿ってきた道が、ものの見事に鷲づかみにされている。それは一言でいえば、「哲学」から「反哲学」へという構図だが、それを“鷲づかみ”にすることを可能にしているのが、<つくられてある>か<なりいでてある>かという、<存在>の理解の仕方に関する巧みな概念設定だといえる。
哲学から反哲学へ――。本書で描かれる構図における「哲学」とは、「第1章 哲学は欧米人だけの思考法である」の表題にも示されるように、西洋という文化圏に生まれた<存在>に関するある特定な考え方。具体的には、プラトン、アリストテレスを起源にカント、ヘーゲルに至るまで脈々と承け継がれてきた「プラトニズム」のことをいう。
プラトンが登場する以前の古代ギリシアの人々は、万物は生きて生成してきたもの、自然に<なりいでてある>ものと考えていた。ところが、プラトン/アリストテレスによって<ある>ということ<存在する>ということが、<つくられてある>ことと受けとられることになり、この存在概念が以降「西洋」という文化圏の文化形成を規定してきたのだと著者はいう。
「わたしは「哲学」を勉強し、大学でも「哲学」を教えてきたわけですが、以前から自分のやっている思考作業は、「西洋」という文化圏で伝統的に「哲学(フィロソフィ)」と呼ばれてきたものの考え方とは、決定的に違うところがあると思っていました。よく日本には哲学はなかったと言われますが、わたしもそう思いますし、哲学がなかったことを別に恥ずかしいことだとは思いません。「哲学」というのは、やはり西洋という文化圏に特有の不自然なものの考え方だと思うからです」
「ですから、自分のやっていることは、強いて言えば、そうした「哲学」を批判し、そうしたものの考え方を乗り越えようとする作業ではないかと思い、それを「反哲学」などと呼ぶようになりました」
上記が、著者が「まえがき」で語る「反哲学」の意味だが、こうした「反哲学」の狼煙は、ご当地西洋でもさまざまに上げられてきた。それを代表するのがニーチェとハイデガーだ。
ニーチェは、プラトン以降のいわゆる西洋哲学・道徳・宗教はすべてプラトニズムであり、これを克服する「プラトニズムの逆転」を最大の課題と考えた。プラトニズムは「イデア」(プラトン)、「純粋形相」(アリストテレス)、「神」(キリスト教神学)、「理性」(デカルト、カント)、「精神」(ヘーゲル)といった超自然的原理をその根幹に持つことを共通の特徴とするが、そうした構造の下に<つくられてある>超越的な最高価値が力を失ったことが、人々をして、この世界を無価値無意味なものとしか思えない状況(=ニヒリズム)を招来した根源的な原因と考えたからだ。
ニーチェは、プラトニズムにおける超自然的原理に代わる新たな価値定立の原理を、この生きた自然ともいうべき感性的世界の根本性格、つまり「生(レーベン)」に求めるしかないと考え、それを「力への意志」と呼んだ。超自然的原理がことごとく否定されたいま、自然はふたたび自分自身のうちに生成力をとりもどし、おのずから生きいきと生成していくものになっている、と考えたからだ。
「おのずから生きいきと生成していくもの」。それはレビュアーが、いきいきとした組織経営を行うための原理として追い続けてきたものに他ならない。そしてまた、それは<存在する>ということを元来<なりいでてある>ものと捉えてきた私たち日本人の肌感覚にしっくり馴染む原理だともいえる。
社会、とりわけ現代社会はもちろん、<なりいでてある>原理だけで回るものではないが、<存在する>ことの本質はここにこそあるということを、私たちは決して忘れることのないよう、「反哲学」の心構えを持ち続けることが大切だと思う。それが、ニヒリズムを克服するための唯一の途だと思うから。
2015年9月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
(著作の内容に触れています)
本書で詳述されている哲学者・歴史に限っていえば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスに代表される
古代ギリシア哲学から、中世キリスト教神学、デカルトの「近代的自我~コギト・エルゴ・スム」を経、
カント、ヘーゲルらのドイツ観念論までを通常の意味での「哲学」と著者の木田さんは呼んでいる。
いわば、超自然的原理の何たるかを追求する形而上学で、存在とは制作されたものにほかならない
(もっともこれは、木田さんではなく、ハイデガーが主張していたことである)。
ハイデガーのフィルターが多少かかっているにせよ、この部分だけでも、私のような哲学音痴にもよくわかる
格好の入門講義になっている。
ただ、カントは「純粋理性批判」だけでなく、「実践」「判断力」もくわしくやって欲しかった。
道徳において人間はカテゴリーを超越できる、「判断力」は美についても記されている、とどこかで聞きかじったからだ。
もちろん、その思想は、ニーチェと似ても似つかないことくらい素人にでもわかるが、どう違うのか知りたかった。
ソクラテス以前の古代ギリシアおよびニーチェ、ハイデガーの思想を「反哲学」と名付け、どうやらこちらが眼目らしい
(ただし、ハイデガーはニーチェの思想を従来の形而上学と見做していたそうである)。
ニーチェの「力への意志」の講義はわかりやすかった。まずはソクラテス以前の古代ギリシア思想に立ち返り、
超自然的原理を否定し、存在を生起するものと捉える。すると新たな価値を定立しなけばならなくなる。
現段階が設定される価値が「真理」、その働きが「認識」である。しかし、人間は現段階にとどまっているわけにはいかない、
高揚することが大事である。その高揚のための価値定立作用こそ「芸術」で、定立される価値が「美」である。
もっとも、「永劫回帰」の部分はハイデガーの引用に終始しており、著者自身の言葉があまりみられず、惜しいところだ。
ハイデガーの項目は、伝記や書物・講義録の関係にページが割かれ、肝心な思想のほうは後回しになっている傾向だが、
従前の超自然的原理を否認し、ソクラテス以前の古代キリシア思想に着目した点では、ニーチェと同様である。
ソクラテス以前の人々は、生起する自然に包み込まれているだけで満足だったのであり、「それがなんであるか」と
問うた時点で「哲学」が始まり、ヨーロッパ精神文化の堕落も然りだというのだ。自然はたんなる材料と死し、人間中心の、
おそらく科学技術の進歩発展などを危惧し、アンチ・ヒューマニズムを標榜したのかもしれない。
※ 写真・自己紹介は無視して下さい
本書で詳述されている哲学者・歴史に限っていえば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスに代表される
古代ギリシア哲学から、中世キリスト教神学、デカルトの「近代的自我~コギト・エルゴ・スム」を経、
カント、ヘーゲルらのドイツ観念論までを通常の意味での「哲学」と著者の木田さんは呼んでいる。
いわば、超自然的原理の何たるかを追求する形而上学で、存在とは制作されたものにほかならない
(もっともこれは、木田さんではなく、ハイデガーが主張していたことである)。
ハイデガーのフィルターが多少かかっているにせよ、この部分だけでも、私のような哲学音痴にもよくわかる
格好の入門講義になっている。
ただ、カントは「純粋理性批判」だけでなく、「実践」「判断力」もくわしくやって欲しかった。
道徳において人間はカテゴリーを超越できる、「判断力」は美についても記されている、とどこかで聞きかじったからだ。
もちろん、その思想は、ニーチェと似ても似つかないことくらい素人にでもわかるが、どう違うのか知りたかった。
ソクラテス以前の古代ギリシアおよびニーチェ、ハイデガーの思想を「反哲学」と名付け、どうやらこちらが眼目らしい
(ただし、ハイデガーはニーチェの思想を従来の形而上学と見做していたそうである)。
ニーチェの「力への意志」の講義はわかりやすかった。まずはソクラテス以前の古代ギリシア思想に立ち返り、
超自然的原理を否定し、存在を生起するものと捉える。すると新たな価値を定立しなけばならなくなる。
現段階が設定される価値が「真理」、その働きが「認識」である。しかし、人間は現段階にとどまっているわけにはいかない、
高揚することが大事である。その高揚のための価値定立作用こそ「芸術」で、定立される価値が「美」である。
もっとも、「永劫回帰」の部分はハイデガーの引用に終始しており、著者自身の言葉があまりみられず、惜しいところだ。
ハイデガーの項目は、伝記や書物・講義録の関係にページが割かれ、肝心な思想のほうは後回しになっている傾向だが、
従前の超自然的原理を否認し、ソクラテス以前の古代キリシア思想に着目した点では、ニーチェと同様である。
ソクラテス以前の人々は、生起する自然に包み込まれているだけで満足だったのであり、「それがなんであるか」と
問うた時点で「哲学」が始まり、ヨーロッパ精神文化の堕落も然りだというのだ。自然はたんなる材料と死し、人間中心の、
おそらく科学技術の進歩発展などを危惧し、アンチ・ヒューマニズムを標榜したのかもしれない。
※ 写真・自己紹介は無視して下さい
2019年1月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
反哲学史と併せて読みました。大学生のころデカルトやカントの岩波文庫の哲学書を同じ岩波の哲学小辞典を傍らに読もうと読み出しましたがどれもが数ページで意味不明(と言うより日本語なのか)で挫折しました。遊びに来ていた小学校の恩師(当時身近いる唯一の大学卒)がこんなのは言葉遊びだといって哲学小辞典を放り投げました(恩師は親鸞を熱心に研究していました)。反哲学というタイトルにつられて一読して、全てのもやもやが吹っ飛びました(著者は哲学の大学教授で何回も何回も読んで得た知見だそうです)。キリスト教神学といっても、天地創造だの処女懐妊だの聖書の非現実の伝説や作り話にもっともらしい理屈をつけていたわけで、初めから結論ありきの理論なので、まともに考えるのもばかばかしかった訳ですね(三位一体説で何のことだろうと一生懸命悩んでいた自分がばかばかしい)。木田先生ありがとう。
2021年11月23日に日本でレビュー済み
哲学というものが何なのか、プラトン以前の古代ギリシャから始まり、デカルト、ニーチェ、ハイデガーに至るまでのヨーロッパの思想の歴史を実に明快に解説してくれている本です。いままで哲学について高校授業以来知る機会がなかったので、このような本に出会えて実に嬉しく思います。
全体を通してみると、プラトンが考えた「自然は何か偉大な存在が創造したもの」という発想が最初の大きな起点になっていて、それがキリスト教につながり、やがて人間による文明の進歩とともに、神頼みだったのが人間の力をより信じるようになっていき、資本主義の搾取や世界戦争を経験して、人間の力を過信する愚を悟るといった流れでしょうか。
ダーウィン以前は人間というのは特別な存在であり、コペルニクス以前は星や太陽は空に浮かんでいるものであったわけで、「何故、自然は存在しているんだろう?」「人間と自然のかかわりって何だろう?」と誰もが考えたのは想像に難くありませんが、そこから「神>自然」「神>人間」「人間>自然」という図式になった欧米文化が日本も含め欧米以外の国と比較していかに特殊な文化かと思います。そんな欧米文化を必死で真似しようとしている日本に無理が生じているのも納得できます。
いまや自然と人間については「何故存在しているのか?」という問いには大体答えられるくらいに人間の文明は進歩しましたが、まだ、宇宙の起源については解明されていません。やはりプラトンの言うように、何かの偉大な存在が造ったのか?それともニーチェの言うように、モコモコ湧いてきたのか?それともハイデガーの言うように、そんなことを考えること自体が間違っているのか?興味深いところです。
私が特に気に入ったのはニーチェの話で、真実とは現状認識に過ぎず、重要なのは未来への展望であり、その役割を担っているのは芸術であり、未来は美によって描かれるという下りです。現代は芸術はエンターテイメント的な位置づけになっていますが、芸術なくして人間の未来はないのだなと改めて感得するものがありました。
本を読んで、超簡単にまとめてみました。バカな素人の仕業なので信憑性ゼロですが。
ヘラクレイトス(ソクラテス以前) 「自然は素晴らしいなぁ」
ソクラテス 「政治家達はダメ、弟子もダメ。みんなダメ」
プラトン 「偉大なる存在が自然を造ったのだ」
アリストテレス 「そうですけど、自然が自然を産むこともありますよ」
アウグスティヌス(4世紀) 「プラトンの言うの偉大なる存在がまさしく神のことだ」
トマスアキュナス(13世紀) 「アリストテレスの言う通り教会は神からつながるもの」
デカルト(17世紀) 「神から人間は絶対精神を受け継いでいる」
カント(18世紀) 「神だけでなく、人間が自分で精神を作り出すことも出来る」
ヘーゲル(18/19世紀) 「人間の精神はどんどん成長し絶対精神に近づく」
ニーチェ(19世紀) 「絶対精神なんて存在しない。自然は自然に成長する」
ハイデガー(20世紀) 「人間は自然の上に立たず、調和せよ」
全体を通してみると、プラトンが考えた「自然は何か偉大な存在が創造したもの」という発想が最初の大きな起点になっていて、それがキリスト教につながり、やがて人間による文明の進歩とともに、神頼みだったのが人間の力をより信じるようになっていき、資本主義の搾取や世界戦争を経験して、人間の力を過信する愚を悟るといった流れでしょうか。
ダーウィン以前は人間というのは特別な存在であり、コペルニクス以前は星や太陽は空に浮かんでいるものであったわけで、「何故、自然は存在しているんだろう?」「人間と自然のかかわりって何だろう?」と誰もが考えたのは想像に難くありませんが、そこから「神>自然」「神>人間」「人間>自然」という図式になった欧米文化が日本も含め欧米以外の国と比較していかに特殊な文化かと思います。そんな欧米文化を必死で真似しようとしている日本に無理が生じているのも納得できます。
いまや自然と人間については「何故存在しているのか?」という問いには大体答えられるくらいに人間の文明は進歩しましたが、まだ、宇宙の起源については解明されていません。やはりプラトンの言うように、何かの偉大な存在が造ったのか?それともニーチェの言うように、モコモコ湧いてきたのか?それともハイデガーの言うように、そんなことを考えること自体が間違っているのか?興味深いところです。
私が特に気に入ったのはニーチェの話で、真実とは現状認識に過ぎず、重要なのは未来への展望であり、その役割を担っているのは芸術であり、未来は美によって描かれるという下りです。現代は芸術はエンターテイメント的な位置づけになっていますが、芸術なくして人間の未来はないのだなと改めて感得するものがありました。
本を読んで、超簡単にまとめてみました。バカな素人の仕業なので信憑性ゼロですが。
ヘラクレイトス(ソクラテス以前) 「自然は素晴らしいなぁ」
ソクラテス 「政治家達はダメ、弟子もダメ。みんなダメ」
プラトン 「偉大なる存在が自然を造ったのだ」
アリストテレス 「そうですけど、自然が自然を産むこともありますよ」
アウグスティヌス(4世紀) 「プラトンの言うの偉大なる存在がまさしく神のことだ」
トマスアキュナス(13世紀) 「アリストテレスの言う通り教会は神からつながるもの」
デカルト(17世紀) 「神から人間は絶対精神を受け継いでいる」
カント(18世紀) 「神だけでなく、人間が自分で精神を作り出すことも出来る」
ヘーゲル(18/19世紀) 「人間の精神はどんどん成長し絶対精神に近づく」
ニーチェ(19世紀) 「絶対精神なんて存在しない。自然は自然に成長する」
ハイデガー(20世紀) 「人間は自然の上に立たず、調和せよ」