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私小説from left to right: 日本近代文学 (新潮文庫 み 28-1) 文庫 – 1998/9/1
- 本の長さ460ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日1998/9/1
- ISBN-104101338124
- ISBN-13978-4101338125
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (1998/9/1)
- 発売日 : 1998/9/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 460ページ
- ISBN-10 : 4101338124
- ISBN-13 : 978-4101338125
- Amazon 売れ筋ランキング: - 181,733位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
「『漢文を読めない人の書いた文学は読んでもつまらない』と言う人が昔は結構おられました。私はもちろん漢文が読めないのでつまらない文学を書く世代ですが、少なくとも日本近代文学は読んで育ちました。日本の近代には『こういう文学がありました』と振り返りつつ、日本近代文学の最後に来た者の一人として書いています。」
(「私は近代日本文学の最後に来た者」『公研』2020年12月号インタビューを修正)
略歴
東京に生まれる。12歳の時、父親の仕事の都合で家族と共にニューヨーク近郊のロングアイランドに移り住む。アメリカになじめず、ハイスクール時代を通じて、昭和二年発行の改造社版の「日本現代文学全集」を読んで過ごす。ハイスクールを卒業したあとは、英語と直面するのを避け、まずはボストンで美術を学ぶ。次にパリに短期滞在した後、最終的にはアメリカのイェール大学と大学院で仏文学を学ぶ。博士課程を修了したあと、日本に一度戻るが、また渡米して大学で日本近代文学を教える。東京在住。
最初に発表した小説、『續明暗』(1990年)は、夏目漱石の遺作で未完の作でもある『明暗』(1917年)を、漱石独特の文体と表記法を使って完成させた。芸術選奨新人賞を受賞した。
第二作の、『私小説 from left to right』(1995年)では、日本語に英語を交ぜた横書きの文体を用いて、自伝風にアメリカでの生活を描いた。野間文芸新人賞を受賞した。
第三作、『本格小説』(2002年)は、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を、中国の少数民族の血が半分混ざったヒースクリフを登場させながら、日本の近代史を描いた。読売文学賞を受賞した。
『日本語が亡びるとき—英語の世紀の中で』(2008年)という長い評論では、西洋に触れた日本の衝撃から近代文学の誕生までの歴史を振り返り、そのとき国語になった日本語の高みが、現在の英語の制覇によって、いかに崩れ去る危険に晒されているかが語られている。小林秀雄賞を受賞した。
『日本語で読むということ 』(2009年)と『日本語で書くということ』(2009年)の二冊は、過去にわたって書かれたエッセイや随筆を集めたものである。『日本語が亡びるとき—英語の世紀の中で』の執筆に至るまでの経緯を辿ることができる。
最近作『母の遺産−新聞小説』(2012年)は、読売新聞で毎週土曜日に連載した新聞小説に、加筆修正をほどこしたものである。母の介護に追われ、離婚を考える五十代の女性を描いた。大佛次郎賞を受賞した。
その後4冊の著書の英訳の推敲作業に追われていたが、現在は新しい小説を書いている。2021年『新潮』連載予定。
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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まさにタイトル通り「私小説」です。女流作家に多いですが柳美里や岩井志麻子など、自分の人生をほとんどそのまま書いているとしか思えない作家さんがいますが、美苗氏のこの小説はたぶん一片の創作すら入っていないと思えます。
姉妹の電話から始まります。「今日は何の日?」という姉、奈苗の問いかけ。「え!もう20年!?」「そうよ」「私たちの亡命から20年・・いえ、亡命じゃなくて脱出にしよう、その方がいいわ、脱出から20年!」と。一家がアメリカへやってきたのは次女の美苗が12歳の1963年、それからもう20年もたってしまったと姉妹はため息をつきます。日本がまだ経済的に豊かになる前の時代で、アメリカでも日本人がめずらしかった頃です。
物語はこの夜から、同じ夜に戻って終わります。その間、美苗氏が20年間を行きつ戻りつ過去を振り返り、起こった出来事や感じたことを書いていきます。
時系列的にも前後して時間や場所が飛び、一見とりとめない回想のようでわかりにくいかもしれません。が、過去から現在に至るすべてのことが現在の美苗氏を形作ったものになるので、自然にすっと入ってきました。
一家が越したのは中産階級のユダヤ系や白人が多いニューヨーク郊外の住宅地です。日本企業からの派遣なのでそれなりに恵まれた生活だったことが伺えます。それでもだんだんとわかってきたのはアメリカにいる異邦人としての立場でした。最初親切にされたのは、中国人や韓国人の区別もつかない人々から「かわいそうな貧しいアジア人」だと思われ哀れまれていたからとか、ある時、colored ”有色人種”という言葉を聞いて、黒人を指すと思っていたその言葉が、whiteにとって異質に見える人間すべてを呼ぶ言葉で日本人も含まれていると知った時のショックが印象的です。
姉の奈苗は過剰に適応しようとして肌を小麦色に焼き露出して、早く英語をおぼえ、母親が「すっかりアメリカナイズされちゃって」と嘆くくらいでした。そんな奈苗は、今でいう合コンのようなもので彼女のために呼ばれた男性が韓国人だったことにショックを受けます。漠然と来るのは”アメリカ人”の男性と思っていたら、おせじにもステキだとは言えない韓国人が奈苗のために用意されていた・・奈苗は帰宅して号泣します。
美苗は冷静に、もしかしたらお相手も日本人とセッティングされていやだったかもしれない、けれど最後までそれを出さすに紳士的に振舞ったとはたいしたものではないかと考えます。
そんな美苗は、姉とは対照的に英語に拒否反応を持ってしまい授業が理解できず、家にあった日本文学全集に浸る日々を過ごすことになります。
美苗氏は書きます。「日本が好きで日本食が好きで日本人が好きで日本語が好きで、いつの日か日本に帰り生き始めようと思っているうちに、こんなにも長い間になってしまった、アメリカ社会の成員になるのを回避しながら、日本に戻ることを先送りしてきた、今まで何をして生きてきたのか、けれど今帰っても、実際の日本はたぶん自分の頭の中にある日本とは違う、日本に帰るのが怖い」と。
ボーイフレンドは日本に帰国してしまった、父親はぼけてしまい施設にいる、母親は恋人とシンガポールへ行き、その時にあっさりと家を売り払ってしまった。帰る家はもう日本にもアメリカにもどこにもない・・。
いわゆる帰国子女の問題は知っていましたが、どうしょうもない不安とたよりなさがこんなに強烈だというのは驚きでした。常に自己分析せずにはいられない内省的な自意識とその息苦しさ、自分が立つべきところがわからないというその不安定さがひしひしと伝わってきます。
また、皮肉なことにと言うべきか、帰国子女だったからこそ保たれたかもしれない繊細な日本語が大変美しいです。
かっちりした起承転結やわかりやすいストーリーが読みたいと思うと期待はずれだと思います。決して楽しい本ではないし、むしろ暗く重いです。そしてたぶん男性にはつまらないのではないかと。ここまで自分の弱さや情けなさをさらけだすことは、男性にはただの愚痴にしか見えないかもしれません。それに、当然外から評価がくるわけですから、かなり勇気がいったことでしょう。
今は英語で話す方が自然になってしまった姉の奈苗と、英語が苦手で主に日本語で話す美苗の電話が合間合間にはさまれます。奈苗の言葉はそのまま英語で書かれているのですが、ここはやはり高校生くらいの英語力がないと意味が取れないと思います。奈苗の気持ちも大切な要素なので、ここがわからないとちょっと残念なことになります。
英語に抵抗があったり、気取っていると感じてしまうといい印象は持てないかもしれませんが、まさにこの描き方が2つの言葉どっちつかずの宙ぶらりんな状態を表していると思えます。
この後、詳しいいきさつはわかりませんが「母の遺産」では姉妹はすでに帰国し結婚しています。その間にどんないきさつと決心があったのか抜けている部分もいつかぜひ書いていただきたいです。
また、美苗氏は祖母の物語も書きたいと思っていらっしゃるそうですね。戦前に芸者で不自由な生を強いられた祖母、その娘である美苗氏の母も庶子として思うにまかせぬことが多くあり大変だったようです。女3代の物語をさらに綴っていってほしいです。
父は会社を辞めて、アメリカ永住を決意するが20年経った今、ボケが進んで施設に入っている。母は年下の男と出奔してシンガポールに住んでいる。
美苗は13歳の時にアメリカに来ているから今は30代前半か。ただ一人の姉、奈苗は離れて住んでいるが、孤独を紛らわすために長い電話をかけてくる。最初はこの長電話の会話で話が進行する。このあたりまでは、私はなんてつまらない本だと思っていた。
ところが、美苗の学校生活を通じてアメリカにおける日本人の地位と言う物が、次第に明らかになったいく。
白人の目から見れば、日本人なんて韓国人とも中国人ともとれる只の「東洋人」に過ぎない。白人と対等につきあっているつもりでも、黒人、ヒスパニックなどと同じに東洋人という枠に入れられた異人種にすぎない。
日常生活において、次々とその事実が明らかになっていく。
姉の奈苗が白人仲間とブラインドデートに誘われて,嬉々としていってみたら、醜い韓国人男性をあてがわれた悔しさ。デートから帰ってきてワンワン泣いた奈苗の悔しさは手に取るように分かる。
アメリカの日本人は日本人社会に住んでいるから日本人なのだ。白人社会に入り込もうとすると、目に見えない壁によって、被差別を認識させられる。
しかし、この孤独感は異国人だけのものではない。アメリカに住む白人でさえ、社会の不条理に対する孤独感にさいなまれている。本書はアメリカと言う社会に住む場合の孤独感をじわじわと見せ付けてくれる。
主人公の美苗の姉・奈苗は、その典型といえるだろう。自由を謳歌し、その結果、孤独になった。でも本当は自由ではなかった、自由に憧れ、自由を求めたものの、自由への渇望からは自由になれなかった。だからアメリカへの片思いはやぶれて、今度はヨーロッパへ向かい、やがては日本にすがるように戻っていくのかもしれない。そもそも、自由の国アメリカは幻想である、その自由は一部の白人のためにあり、有色人種は彼らの自由を下支えする労働者にすぎない、と言ったら言い過ぎだろうか。
奈苗には同胞がいる。自由より同胞を選べばいいのだ。実際に、奈苗は同胞と付き合ったりしている。同胞は自分の映し鏡だから、否応なく自分と向き合うことになり、自分に幻滅し失望する。そうして奈苗は同胞とも別れてしまう。それは結局、日本に帰ってもかわらない。
でも、自由を求めて孤独になるより日本に帰った方がましだとしても、それでも奈苗がアメリカに残り、へばりついて生きていこうとするなら、奈苗の生き方は頑固だが美しい。理想に生き、理想に敗れ散っていく。どうせ最後はどんな人生も散っていくのだから、とことん追い求めればいいのだ。ヘンに妥協して、人生を悟ったような顔をしてこぢんまりと生き死んでいく方が惨めだ。
だから、この小説の最後は素晴らしい。アメリカに独りで残る決心をした奈苗に感動した。奈苗には彫刻があるのだ。
姉妹の母親もまた自由を求め、自由という幻想に溺れるが、この小説を読むかぎり、この女性は他人に用意してもらった恵まれた環境で自由という幻想に溺れているにすぎないのだ。本当の過酷さは、感情を超えて、むしろ人を茫漠とさせる。好いた惚れたは相手が人にせよ、文化にせよ、所詮感情でしかない。
美苗は、まだ夢の中にいる。もちろん夢に見る日本がもう存在しない日本であることを彼女は知っているが、小説を読むかぎり、日本に帰ることに対する、またそれを奈苗に伝えることに対する、煮え切らない逡巡に酔っている。美苗に余裕を感じるのは、美苗の立場が追い詰められていないからか。むしろ選択肢があり、もう若くないと言いつつもまだ三十すぎである。美苗が自分の負の部分を語っていないのも、この小説内の公平さを欠いていると思う。美苗は優秀で、バランス感覚もあり、浮き世を生きていける人だろう。日本人(東洋人)であるためにアメリカで受けることになる日常的な差別の痛みも、アメリカに真正面からぶつかっていく奈苗に比べたらたいしたことない。やはり、主人公の美苗は余裕なのだ。それを賢いといってしまったらそれまでだが、ぼくはそうではないと思う。むしろ臆病なのだ。その臆病さに美苗は日本(近代文学)を隠れ蓑とすることで直面せずに済んできたのではないか。やっぱり、ぼくは美苗より奈苗に共感を覚える。
もし作者が「私小説」を書くために自分と厳しく向き合い、自分の醜い部分をさらけだしたなら、★五つだった。最後の方の、美苗が実は内心では奈苗に日本に戻ってきてほしくないと母親と同じように思っていたのだと告白したのは、告白としてはまだ甘いと思う。美苗は奈苗をもっと憎み、もっと嫌っていたのではないか、だからこそ愛してもいたのではないか、母親にしてもそうだ、そういう部分の描写こそを作者の豊富で巧みで優れた日本語を駆使して文学的に描くべきだったのではないか。