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ハイスクール1968 (新潮文庫) 文庫 – 2008/3/28
四方田 犬彦
(著)
相次ぐ大学封鎖に揺れる1968年の東京。高まる反体制運動の機運のなか、時を同じくして到来した若者文化の波は、進学校の雄「教駒」に進んだ15歳の少年を瞬時に捉えた。ビートルズ、ゴダール、吉本隆明など、あらゆる価値観を熱狂と混沌に導く新しい表現者たちに、感じやすい心は何を見たのか。同時代の文化状況を仔細に再現・検討し、自ら身を投じた文化的洗礼の意味を問う批評的自伝!
- 本の長さ364ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2008/3/28
- ISBN-104101343713
- ISBN-13978-4101343716
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登録情報
- 出版社 : 新潮社; 文庫版 (2008/3/28)
- 発売日 : 2008/3/28
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 364ページ
- ISBN-10 : 4101343713
- ISBN-13 : 978-4101343716
- Amazon 売れ筋ランキング: - 484,848位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 7,475位新潮文庫
- - 83,507位ノンフィクション (本)
- - 128,038位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2022年3月29日に日本でレビュー済み
とにかくポップに、かつ自伝的な性格によってリーダブルに、1968年の文化が紹介されている。著者の四方田犬彦はこれまで自伝的な作品を数々ものしているが、この本はとくに日本のサブカル文化の源流を読者に啓蒙しようという熱情にあふれている。初学者は、まずここから、書名や著者名を覚えるところから始めよう。続編は『先生とわたし』で。
2008年12月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
高校の先輩です。教育大付属駒場での高校時代を赤裸々に書いている。当時の高校の雰囲気とか知りたくて読んでみた。(ただし、ネットで見つけたが、矢作俊彦とか鈴木晶とかが内容にクレームしているそうだ。かなり事実の改変もあるんだろう)。
ちょっと変わっているけど、こういう自意識が肥大して空回りしている人、うちの高校には学年に何人かいる。とても頭がよいのだが、うまく知性の使い道が見つけられない人とも言える。友達もあんまりいなかったようだ。
<おそらく自分にはそうした生き方(* 同級生たちを指す)はできないだろう。けれどもと、わたしは幼げな傲慢を振り翳して、自分にいい聞かせた。「この野蛮な道化芝居の鍵は、ただ一人、俺が握っている」。それはランボーの『イリュミナシオン』の一節であった。> (p. 182)
こんな同級生いたら嫌だね。それに、その後、毎年500本くらい映画を見ていたとも書いている。劇場で、一人で。孤独。
その後の学者、批評家としての四方田先輩の議論には賛成できないところも多いが、日本の言論会に歓迎すべき多様性をもたらしているのは確かだと思う。そこに至るまでに、先輩なりに、ここで描かれているような、さまざまな葛藤を経験してきたんだろう。それが、他人には理解に苦しむような些細なことだったとしても。
ちょっと変わっているけど、こういう自意識が肥大して空回りしている人、うちの高校には学年に何人かいる。とても頭がよいのだが、うまく知性の使い道が見つけられない人とも言える。友達もあんまりいなかったようだ。
<おそらく自分にはそうした生き方(* 同級生たちを指す)はできないだろう。けれどもと、わたしは幼げな傲慢を振り翳して、自分にいい聞かせた。「この野蛮な道化芝居の鍵は、ただ一人、俺が握っている」。それはランボーの『イリュミナシオン』の一節であった。> (p. 182)
こんな同級生いたら嫌だね。それに、その後、毎年500本くらい映画を見ていたとも書いている。劇場で、一人で。孤独。
その後の学者、批評家としての四方田先輩の議論には賛成できないところも多いが、日本の言論会に歓迎すべき多様性をもたらしているのは確かだと思う。そこに至るまでに、先輩なりに、ここで描かれているような、さまざまな葛藤を経験してきたんだろう。それが、他人には理解に苦しむような些細なことだったとしても。
2004年5月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
1969年生まれの私にとってこの時期起こったことに対して、非常に憧れをもってます。全て後追いで、知識として知っているだけで、経験してきた人が書いている書物でしか、知りえませんが。
本書はそういった意味では非常に興味深く読むことができました。音楽と文学と漫画と映画を愛し、まさに「知的不良」を地でいく著者の青春に焦がれに近い気持ちを持ちました。
本書はしかしながら60年代後半から70年代前半にかけての風俗を論じているだけではなく、著者自らの過去の「束縛」からの開放のために書かれている側面もあります。この部分をどう感じるかで、好き嫌いが分かれるところでしょう。私は好きです。
この時代に興味のある人は読んで損はしないと思います。
本書はそういった意味では非常に興味深く読むことができました。音楽と文学と漫画と映画を愛し、まさに「知的不良」を地でいく著者の青春に焦がれに近い気持ちを持ちました。
本書はしかしながら60年代後半から70年代前半にかけての風俗を論じているだけではなく、著者自らの過去の「束縛」からの開放のために書かれている側面もあります。この部分をどう感じるかで、好き嫌いが分かれるところでしょう。私は好きです。
この時代に興味のある人は読んで損はしないと思います。
2004年4月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
■私は四方田犬彦氏からの書簡を数通所有している。最初の手紙は1981年で、私が預金をはたいて準備していた『板坂剛の世界』(先鋭疾風社)への予約に添えられていた。その後、私のミニコミ(『ハードスタッフ』10号)で三多摩高校生闘争の資料を復刻掲載したことに関して、「自分は附属駒場のバリストに参加したことがあり、いつの日か小説か何かの形で書いておきたいと考えている」という趣旨の葉書が届いた。
■それから、約20年の歳月が流れ、ご本人にも2回ほどお目にかかる機会を得た私は、2004年2月に刊行された本書が附属駒場時代を回顧したものであることを知り、直ちに注文した。届いたそれをむさぼり読んだ。特に印象に残っているのは次の箇所だ。2学期の世界史の期末考査で、「近代欧州で生じたもっとも重要な事件について自由に記せ」という論文問題が出され、四方田氏は1789年のサド侯爵のバスティーユ獄舎からの解放について書く。当該事件が人間の快楽と権力認識の問題に関して重要なのであると。教師は、「A」の評価をつけた。30年以上のちに、その教師は四方田氏の当時を回顧するアンケート質問に対して、「現代の高校生は昔に比べて批判精神を欠いている」と答えたという。2人の精神のありようをみて、なぜかしら私の胸には熱いものがこみ上げてならなかった。本書を私は強く推薦する。四方田さん、あなたは良い本を書かれた。ありがとう!
■それから、約20年の歳月が流れ、ご本人にも2回ほどお目にかかる機会を得た私は、2004年2月に刊行された本書が附属駒場時代を回顧したものであることを知り、直ちに注文した。届いたそれをむさぼり読んだ。特に印象に残っているのは次の箇所だ。2学期の世界史の期末考査で、「近代欧州で生じたもっとも重要な事件について自由に記せ」という論文問題が出され、四方田氏は1789年のサド侯爵のバスティーユ獄舎からの解放について書く。当該事件が人間の快楽と権力認識の問題に関して重要なのであると。教師は、「A」の評価をつけた。30年以上のちに、その教師は四方田氏の当時を回顧するアンケート質問に対して、「現代の高校生は昔に比べて批判精神を欠いている」と答えたという。2人の精神のありようをみて、なぜかしら私の胸には熱いものがこみ上げてならなかった。本書を私は強く推薦する。四方田さん、あなたは良い本を書かれた。ありがとう!
2008年8月23日に日本でレビュー済み
タイトルに入ってる「1968」と、モンキー・パンチの装画に魅かれて購入。
「1968」なんだから当然当時の風俗や流行りものの話も出て来るだろうし、学生運動なんてのも大いに語られてるんだろうな・・と予想はしておりました。
しかも、「我々の時代は」的な優越感や、その当時を思い出しての高揚感、それを自慢たっぷりに語られるんだろう・・と、考えたりもしたんですが、意外と淡々としておりましたね。
ただ、著者の若者らしい反抗心や、新しい文化・芸術に対する興味を示しながらも、本能的な懐疑心を持ち、欺瞞を察知するような大人びた部分が度々描かれていますが、
読んでいるとどうも著者が、自分自身を「他者と違う特別な存在」とした上で書いてる印象を受ける。
『優等生カテゴリーにいる自分』を脱皮しようともがく、そのもがき方もかなり優等生且つナイーブ。
だけど、自分は泥を被る位置からはなるべく距離を置きたいという意識もチラホラ・・
今だとこういうのを中二病というのかな?
私、この本を読むと、自分の“生まれた年”が1968年で良かったと思うところ多々あります。
《左翼的、反○○的であることこそ正義である!》的な抑圧空気に巻き込まれず、後々まで呪縛になることもなく済んだのだから。
そういう呪縛がないからこそ凡庸な生き方しか出来ないともいえるかもしれませんが。
一方、1968年に学生だったなら、その時代でしか味わえないサブカル文化・空気をリアルに楽しめてたかもしれないな・・という惜しさも同時に感じました。
ま、こういう時代があったからこそ現代があるといえるのでしょうね。
全否定なんていたしません。
「1968」なんだから当然当時の風俗や流行りものの話も出て来るだろうし、学生運動なんてのも大いに語られてるんだろうな・・と予想はしておりました。
しかも、「我々の時代は」的な優越感や、その当時を思い出しての高揚感、それを自慢たっぷりに語られるんだろう・・と、考えたりもしたんですが、意外と淡々としておりましたね。
ただ、著者の若者らしい反抗心や、新しい文化・芸術に対する興味を示しながらも、本能的な懐疑心を持ち、欺瞞を察知するような大人びた部分が度々描かれていますが、
読んでいるとどうも著者が、自分自身を「他者と違う特別な存在」とした上で書いてる印象を受ける。
『優等生カテゴリーにいる自分』を脱皮しようともがく、そのもがき方もかなり優等生且つナイーブ。
だけど、自分は泥を被る位置からはなるべく距離を置きたいという意識もチラホラ・・
今だとこういうのを中二病というのかな?
私、この本を読むと、自分の“生まれた年”が1968年で良かったと思うところ多々あります。
《左翼的、反○○的であることこそ正義である!》的な抑圧空気に巻き込まれず、後々まで呪縛になることもなく済んだのだから。
そういう呪縛がないからこそ凡庸な生き方しか出来ないともいえるかもしれませんが。
一方、1968年に学生だったなら、その時代でしか味わえないサブカル文化・空気をリアルに楽しめてたかもしれないな・・という惜しさも同時に感じました。
ま、こういう時代があったからこそ現代があるといえるのでしょうね。
全否定なんていたしません。
2009年7月24日に日本でレビュー済み
1968年、高校1年生だった著者の自叙伝。
県立佐世保北高でのバリケード封鎖を描いた、村上龍の『69 sixty nine』のパーソナル版といったところ。
県立佐世保北高でのバリケード封鎖を描いた、村上龍の『69 sixty nine』のパーソナル版といったところ。
2009年7月8日に日本でレビュー済み
この本を「いやったらしい」と感じる人もいるようです。確かに、そう思われてもしょうがない面もあります。しかし、キレイな本です。著者が正直に書いているからです。
2008年7月19日に日本でレビュー済み
著者の『先生とわたし』の前史になる高校時代1968年4月から1971年3月までを振り返った(批評的)自伝。
多感な高校時代に、60年代後半に荒れ狂うように押し寄せた音楽や文学、映画の波を被りながら、それらを吸収し、同時に高校時代の学園紛争、バリケード事件から喪失してしまったた大きな何か。そして圧倒的に訪れる孤独の時代を生硬な文章で綴ったエッセー。1953年(昭和28年)生まれの著者の「教駒」での高校時代は、1955年生まれの私はまだ静岡の田舎の中学生である。この育った場所と環境の違い、なにより2年の差というのが、60年代後半から70年代初頭のという喧騒の時代では、いかに大きかったか今さらながら思い知る。私が上京した1974年には、東京ではほぼその時のすべてが過ぎ去り、失われていたと言ってもいいくらいだ。そして後に残っていたのは、しらけという名前の白くやけに明るい虚無感だった気がする。
多感な高校時代に、60年代後半に荒れ狂うように押し寄せた音楽や文学、映画の波を被りながら、それらを吸収し、同時に高校時代の学園紛争、バリケード事件から喪失してしまったた大きな何か。そして圧倒的に訪れる孤独の時代を生硬な文章で綴ったエッセー。1953年(昭和28年)生まれの著者の「教駒」での高校時代は、1955年生まれの私はまだ静岡の田舎の中学生である。この育った場所と環境の違い、なにより2年の差というのが、60年代後半から70年代初頭のという喧騒の時代では、いかに大きかったか今さらながら思い知る。私が上京した1974年には、東京ではほぼその時のすべてが過ぎ去り、失われていたと言ってもいいくらいだ。そして後に残っていたのは、しらけという名前の白くやけに明るい虚無感だった気がする。