終戦間際に生を受け、2015年に69歳で世を去った私(わたくし)小説作家・車谷長吉さんの読書遍歴(助けられ感動して来た本)・生き様やその諦観を知れる良書だと思います。
慶応卒業後、作家を夢見、30歳で夢破れて無一文で実家に帰り、頭陀(ずだ)袋一つで京阪神の料理場の下働きとして9年働き、38歳で意を決して再上京し、47歳で三島賞を、53歳の時、『赤目四十八瀧心中未遂』でやっと直木賞を受賞。
決定的な挫折、大失恋、晩婚。車谷さんの読書遍歴とその生き様から、大くの学びを得ました。以下文中より。
・近代日本小説のベストスリーは、1.夏目漱石の『明暗』、2.幸田文の『流れる』、3.深澤七郎の『楢山節考』
・松本清張の伝記小説はもっと高く評価されてもよいのではないか
・山本周五郎の世界は基本的に諦めた辛苦の生活の先に、一筋の光を見るものである。
・松本清張の世界は、才能がありながら、学歴がないが故に、世の底に埋もれて生きざるを得ない人達の恨みと憤りの物語である。つまり、順調に栄達を遂げた人への反権力の文学である。
・司馬遼太郎の書いたものの中では、『坂の上の雲』が最も優れたものであろう。
・作家などというものは一番下等な人種である。文学は本来独学でやるものである。
・小説の醍醐味は短編小説にあると思うている。
・安岡章太郎の『伯父の墓地』は「文学とは何か。」「小説とは何か。」をおしえられる上においては、出色の短篇。
・短篇小説の名手と言えば、まず一番に永井龍男に指を屈するに如くはないだろう。
・もう一人の短篇小説の名手阿部昭から下働き時代のある日、1通のハガキが届いた。「書くことをあきらめないで、も一度、書き続けて欲しい」と記されてあった。私はありがたいと思うた。
・小説を小説足らしめる「虚点」というもの、それを発見するのが作家の目である。私はこういうことを近松門左衛門から学んだ。
・これらの歌に現れた西行の心の苦痛が、私の心に取り憑いた。それがその後の私の物の考え方に決定的に作動した。
・今日においては、も早誰も、「私(わたくし)小説」という「神」を信じている阿呆はいない。けれども、私はそれを頑なに信じる阿呆として生きたい。たとえ「反時代的」と後ろ指をさされようと。いや、そもそも文士とは反時代的な毒虫ではないか。
・谷崎潤一郎の「異端者の悲しみ」は谷崎の私(わたくし)小説であるが、私は驚いた。自分のことを藝術的天才と信じている男がいて、それをそのまま忌憚なく告白する人がいたことに。
・近代日本の歴史小説の中で、森鴎外の『阿部一族』は恐らく最高の小説であろう。
・私は恐怖の生々しさこそ、人間の精神のもっとも深い部分であるという感想を得た。
・中島敦の『山月記』は、恐れく近代日本隋一の比類のない名文であろう。
・太宰治の『晩年』という作品集の魅力は私小説だけでなく、太宰治の文学的才能が万華鏡の如く凝縮している。
・私小説は才能のないものでも書けるが、『山月記』などの伝記小説は、溢れる文学的想像力を駆使しなければ書けない。
・私は今日までに姦通事件を三度やらかして来た。二度目と三度目の時は私の身勝手で女を捨てた。当然、後ろめたい罪悪感を持った。罪悪感とは日々、より深化して来るものである。この深化が、事件のあと十余年を経て、私に「赤目四十八瀧心中未遂」という作品を書かせた。9分9厘が作り話であるが、併しそれでも私の心に膿のごとく溜まっている罪悪感が書かせたものだった。
・三十八歳の夏、ふたたび小説原稿を書く決心をして東京へ出て来た。そして二年かけ、口から血を吐く思いで「吃りの父が歌った軍歌」という私(わたくし)小説を書いた。他社に対して、また自分に対しても、情け容赦なく書くのでなければ、よい原稿は生まれない。それはつまり小説原稿を書くことは「悪しきこと」であるという認識を私にもたらした。
・世には一読戦慄に鳥肌が立つような悪の小説があるが、大岡昇平の「沼津」は三島由紀夫の「怪物」と共に、まさにそういう作品だった。悪、それは文学にとって神(悪魔)の媚薬である。
・悪夢の小説化はフランツ・カフカの『変身』『審判』『城』が有名だが、日本の小説では内田百閒の『件(くだん)』が一番凄い。
・昭和四十五年六月二十日、塙谷雄高の『闇のなかの黒い馬』を求めた。まだ三島由紀夫が生きた時分のことである。その頃は日本の近代文学が最後の光芒を放った時代だった。いまは精神のかけらもない人間ばかりが、文藝雑誌に名を連ねている時代である。
・夏目漱石から弟子の鈴木三重吉宛ての書簡より。「苟(いやしく)も文学を以て生命とするものならば単に美という丈(だけ)では満足が出来ない。丁度維新の当士勤王家が困苦をなめたような了見にならなくては駄目だろうと思ふ。間違った神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれないと思ふ。~略~僕は一面に於ては俳諧的文学に出入りすると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをするような維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい。」
・文学とは本来、人の苦痛が一ト時の慰めを求めて手を伸ばすものである。
・高い自尊心、強い虚栄心、深い劣等感は人間精神の三悪である。
・芥川龍之介は昭和二年七月二十四日、死を賛美する遺書を残して薬物自殺した。享年三十五。「大道寺信輔の半生」「点鬼簿」「河童」「或る阿呆の一生」「歯車」など、その晩年に書いた芥川の一連の自伝小説には鬼気迫るものがある。近代的自我の悲惨が連綿と書き綴られている。
・莫大な財産を相続し、預金の金利で妾を囲った永井荷風は「好きごころ(好色の魂)」に生きた人だった。自分の妾・関根歌の歯を全部抜かせるようなことまでしている。
・宗教者とは実践者なのだ。それに較べれば、文学者は人生の傍観者である。そこに文学者の悲しみもあれば、小狡さもある。文学作品を読んで得られるのは、せいぜい『医(いや)し』である。だが「近代化の終焉」を迎えた今、人々の心は文学では医されなくなって来た。そこに今日の文学不振の原因がある。
・三島由紀夫が死の数年前に書き残した短篇『仲間』(中公文庫「荒野より」所収)は、幻想小説の白眉である。
・私は夏目漱石の『夢十夜』のような、出来るだけ短い小説を書くことにこだわっている。俳句を読む時も、五七五の十七文字で小説を作るように詠む。
・私はいまでも樋口一葉のこの三冊『一葉日記(抄)』『一葉青春日記』『一葉恋愛日記』を大事に持っている。樋口一葉の後半生は、極度の貧乏の中で一筋ぴんと張り詰めた魂を貫いたものだった。これを読んで以来、私は困窮するたびにこの三冊を読み返して来た。そうすると、また粘り強く生きて行こうという気持ちが生まれるのだった。
・純愛物語の白眉は川端康成の『伊豆の踊子』である。何度読んでも泪が出る。
・その後の私の生きて来た道を振り返って見れば、「恩讐」だけで生きて来たように思う。ご恩を受けた人への忠誠と、私を小馬鹿にした人を見返してやるのだ、という執念と。何と言う悲しい経験だろう。
・崋山渡邊登は江戸時代後期の高名な画家であり、三河田原藩江戸詰め家老だった人である。無実の罪によって蛮社の獄に繋がれ、のち田原の幽居に蟄居を申し付けられ、その幽居の物置小屋で自刃した。石川淳は渡邊崋山の一生と次のように書いている。「略~自分だけの幸福のことなど一生に一度も考える暇がなかったほど、ひどく忙しい運動で、この人物の精神は生活の各面を貫き通した。おまけに、藝術と云ふもう一つの世界で、神に召された仕事があった。」
・大学生の当時、私は一途に文学とは「良きもの」だと信じていた。そう信じる一助となったのが、この加藤周一の『三題噺』だった。ところが、四十歳の時、「吃りの父が歌った軍歌」を書くに及んで、文学とは実は「悪しきもの」ではないか、という疑惑に憑かれるようになった。この疑惑はいまも拭い切れない。けれども私はこの『三題噺』を再読する時、また元の、文学とは「良きもの」だという感慨に打たれるのである。加藤周一の志の高さだろう。
・生涯を文藝批評家として生きた江藤淳はこの「小組曲」を発表した直後に、卒然と堀辰雄的なものを捨て、以後、小説を書かなかったことになる。
・翌春、私は慶応義塾に入学した。七年後、明治屋の前で私の爪を踏んだ女性と、偶然再会した。たがいにその小事件をよく覚えていた。それからその女が三十六歳で嫁に行くまでの苦悩は、言葉に尽くしがたい。
・小説は人間存在のはかなさ・淋しみ・凄まじさ・哀愁・無常・悲しみを書くものだということが少し分かって来た。
蛇足
本書を手渡して下さった四谷荒木町『美舟』オーナーの志賀さんに感謝申し上げます
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文士の魂・文士の生魑魅 (新潮文庫) 文庫 – 2010/7/28
車谷 長吉
(著)
人の苦痛が一ト時の慰めを求めて手を伸ばすもの、それが文学。毒蛇になって人に咬みつくもの、それが作家。「文学の魔」に憑かれた著者が自らの読書遍歴を披瀝、作品百篇を取り上げその魅力を縦横無尽に語る。近代日本ベスト・スリーは「明暗」「流れる」「楢山節考」。そして青春小説、伝記小説、エロ小説の傑作とは? 反時代的小説作家による文学の秘密と毒に満ちた危険な読書案内。
- 本の長さ349ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2010/7/28
- 寸法10.5 x 1.4 x 15 cm
- ISBN-104101385157
- ISBN-13978-4101385150
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登録情報
- 出版社 : 新潮社; 文庫版 (2010/7/28)
- 発売日 : 2010/7/28
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 349ページ
- ISBN-10 : 4101385157
- ISBN-13 : 978-4101385150
- 寸法 : 10.5 x 1.4 x 15 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 170,348位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 3,544位新潮文庫
- - 36,012位ノンフィクション (本)
- - 48,131位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1945(昭和20)年、兵庫県飾磨生れ。
広告代理店に勤務のかたわら、執筆した短篇の文芸誌掲載が機となり、以後20年余にわたって私小説を書き継ぐ。うち6篇を収めた『鹽壺の匙』(1992年刊)により芸術選奨文部大臣新人賞、三島由紀夫賞を受賞。他の作品に『漂流物』(1996年刊、平林たい子文学賞)、『赤目四十八瀧心中未遂』(1998年刊、直木賞)、「武蔵丸」(2000年発表、川端康成文学賞)など。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年11月3日に日本でレビュー済み
2011年1月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
車谷長吉の処女作品集「業柱抱き」を読んだ時にはその迫力に圧倒されたものだ。その真剣さはこの読書遍歴にも如実に表れている。とにかく小説と向き合う姿勢が真剣そのもの。その上-才能があるから当たり前なのだが‐小説の評価眼も実に正確だ。三島由紀夫の『金閣寺』よりも『愛の渇き』の方が完成度は高いと断言するあたりも実に炯眼だ。これだけ「マジ」だと相当に神経をすり減らす。実際小説化もしているが、強迫神経症にかかり、幻覚や幻聴に苦しめられたあたりも「糞真面目」ゆえの事だろう。
だが、車谷長吉は「真面目」過ぎる。本書でも触れられる森敦さんについてだが、彼は私の母方の祖父と旧制一校時代の同級生で書簡もかわし、僕自身も幾度かお会いした事がある。が、森さんは残念ながら、単なる野心家の俗物だった・・・・。しかし、作家は作品がすべてなので、どうでもいい事でもあるのだが....。
だが、車谷長吉は「真面目」過ぎる。本書でも触れられる森敦さんについてだが、彼は私の母方の祖父と旧制一校時代の同級生で書簡もかわし、僕自身も幾度かお会いした事がある。が、森さんは残念ながら、単なる野心家の俗物だった・・・・。しかし、作家は作品がすべてなので、どうでもいい事でもあるのだが....。
2011年6月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
よく読んでるんだなあと素朴に思う。章題の本だけではない。本文中には太宰治全13巻を読んだとか、これはよいにしても佐藤春夫全36巻を読んだらしいに至っては驚かされる。これが文士というものなのだろうか。
それにしても、幅広く読んでいる。森鴎外の「澁江抽齋」や「伊澤蘭軒」など退屈でとても読み切れなかった。
本書を読書ガイドとして使うとすると、不思議なことに読んでみたいと思うのは、岸田今日子や、吉行理恵、富岡多恵子と女性ばかりになる。「反時代的毒虫」的要素が女性には多分にあるのかもしれないと思った。
それにしても、幅広く読んでいる。森鴎外の「澁江抽齋」や「伊澤蘭軒」など退屈でとても読み切れなかった。
本書を読書ガイドとして使うとすると、不思議なことに読んでみたいと思うのは、岸田今日子や、吉行理恵、富岡多恵子と女性ばかりになる。「反時代的毒虫」的要素が女性には多分にあるのかもしれないと思った。
2011年11月28日に日本でレビュー済み
文字どおり身を削って私小説を書き、読者を驚嘆させてきた著者の書評集。
単なる本の評価ではなく、その本にどんな影響を受けたか、地べたを這う
ような生活の中でどう救いとなったかなど、著者の人生との関わりが濃密に
綴られている。
それだけに、読者を惹きつける力は極めて強く、読んでみたい、ぜひ手に
入れたいと、リストアップした本は20冊を優に超えた。
なお、本書のなかで「小説になる」とはどういうことか、というテーマが
頻繁に出てくる。
答えは「虚点」の存在だそうである。
虚点を探し、何が小説たらしめているかを探すのも、これからの読書の
楽しみの一つとなった。
単なる本の評価ではなく、その本にどんな影響を受けたか、地べたを這う
ような生活の中でどう救いとなったかなど、著者の人生との関わりが濃密に
綴られている。
それだけに、読者を惹きつける力は極めて強く、読んでみたい、ぜひ手に
入れたいと、リストアップした本は20冊を優に超えた。
なお、本書のなかで「小説になる」とはどういうことか、というテーマが
頻繁に出てくる。
答えは「虚点」の存在だそうである。
虚点を探し、何が小説たらしめているかを探すのも、これからの読書の
楽しみの一つとなった。
2011年12月25日に日本でレビュー済み
反時代的「私的」私小説評。村上春樹『若い読者のための短編小説案内』(文春文庫)の真っ向裏街道。
かつて私小説は貧しさと表裏一体だった。いまは豊かさの裏通りを申し訳なさそうに歩いている。と思っていたら、経済も精神も貧しいこの10年。「いまこそ私小説が読まれるべき時代」などとは私も思わないし、車谷さんだって思わないだろう。豊かな時代であれ、貧しい時代であれ、私小説あるいは私小説家の書くものを読もうとする輩の精神など貧しいに決まっている。
時代は車谷さんに様々のことを要請するかもしれない。が、ご本人はどこ吹く風。涼しげに見えなくもない。
ところで、丸谷才一さんの名言に「ビジネスマンは哲学書を読め」というのがある。意欲の高い就活生は本書を手にして人生の意義や目的を考えるといいと思います。反時代的精神だけが常に生き残る。面従腹背。わからんだろうなあ…。
追伸:車谷さんが山本周五郎を好きらしいというのがわかってうれしい。
かつて私小説は貧しさと表裏一体だった。いまは豊かさの裏通りを申し訳なさそうに歩いている。と思っていたら、経済も精神も貧しいこの10年。「いまこそ私小説が読まれるべき時代」などとは私も思わないし、車谷さんだって思わないだろう。豊かな時代であれ、貧しい時代であれ、私小説あるいは私小説家の書くものを読もうとする輩の精神など貧しいに決まっている。
時代は車谷さんに様々のことを要請するかもしれない。が、ご本人はどこ吹く風。涼しげに見えなくもない。
ところで、丸谷才一さんの名言に「ビジネスマンは哲学書を読め」というのがある。意欲の高い就活生は本書を手にして人生の意義や目的を考えるといいと思います。反時代的精神だけが常に生き残る。面従腹背。わからんだろうなあ…。
追伸:車谷さんが山本周五郎を好きらしいというのがわかってうれしい。
2015年6月27日に日本でレビュー済み
著者の書評のコレクションです。多くの作品が取り上げられていますが、今ではもうそのほとんどが忘れられた作者と作品です。おそらく今後もそれぞれの作品が描いた時代への歴史的な関心以外では読み返されることもない作品です。著者はこれらの作品をもう一度現代に蘇らせます。その蘇らせ方は一種独特のアプローチです。「文士」というターミノロジーです。「文士」という先鋭化した日本独特の存在、彼らが抱いた夢と焦燥、そして自己顕示欲、これらが一体となって生み出されたのが、日本文学だとすると、その混合は時代的な色合い色濃くにじませているのはいうまでもありません。この雑多な集合の解剖と抽出に乗り出すのが、昭和の色を色濃く残す著者なのです。これらの作品はほとんど読者にとっては未読なのですから、ここで必然的に焦点になるのが著者であるのはいうまでもありません。「東京の昔」、「近代的自我の滑稽と悲惨と著者」「病者の文学」など、どれもどれも著者の思いが明確に表れた作品です。でも車谷長吉を根源で突き動かした思いは今後とも共鳴可能なのか?
2010年8月8日に日本でレビュー済み
この軽薄な現代現在において、“文士”を自認し、文士的作家人生を敢行するかに見える車谷長吉の読書指南。一読、現在の知にとって、いまだに読書が第一義の意味を持っていることを前提とするなら、こういう指南こそが最も必要だったと思わせられる。ただし、毒虫に変身するための読書指南。
取り上げられる100点程度の小説は、いずれもプラグマティックな実用性とは反極にあり、これらを読み過ぎると、おそらくは車谷の言う“反時代的毒虫”に何らかの形で変身してしまうことになるだろう。読書、特に小説を読むことは、何かの実用のために行なう行為ではないのである。それは純粋な愉しみでもあろう。すなわち消費の一形態に過ぎないのであるが、時間と僅かなカネを費消するほかに、自らの心身を削る“魂の消尽”“蕩尽”でもある筈なのだ。
これがいかに反時代的であるかは・・・。
小説とは癒しや明日に希望を語る夢物語なんぞではない。
一節、特に個人的に共感した文章を引いておく。
《私は「夢」という言葉を、・・・・、将来への希望と結び付けて使うのが何より嫌いである》(p136)
日本人宇宙飛行士が、アメリカの宇宙飛行事業に手を貸したうえで“夢”を云々することに対する苦々しい感想を綴った文脈の一節。
何用あって月世界へ???
取り上げられる100点程度の小説は、いずれもプラグマティックな実用性とは反極にあり、これらを読み過ぎると、おそらくは車谷の言う“反時代的毒虫”に何らかの形で変身してしまうことになるだろう。読書、特に小説を読むことは、何かの実用のために行なう行為ではないのである。それは純粋な愉しみでもあろう。すなわち消費の一形態に過ぎないのであるが、時間と僅かなカネを費消するほかに、自らの心身を削る“魂の消尽”“蕩尽”でもある筈なのだ。
これがいかに反時代的であるかは・・・。
小説とは癒しや明日に希望を語る夢物語なんぞではない。
一節、特に個人的に共感した文章を引いておく。
《私は「夢」という言葉を、・・・・、将来への希望と結び付けて使うのが何より嫌いである》(p136)
日本人宇宙飛行士が、アメリカの宇宙飛行事業に手を貸したうえで“夢”を云々することに対する苦々しい感想を綴った文脈の一節。
何用あって月世界へ???
2010年12月19日に日本でレビュー済み
車谷長吉の「文士の魂・文士の生魑魅」を読む。「文士」車谷の読書案内。興味深い書が並ぶ。その中で彼の「私小説論」を始め、彼の半生を語りながらその中で出逢った書について、彼独自の文学論を展開していく。その中から彼のどの著作でも貫かれている、文士車谷の強烈な生き様が浮かび上がる。
ある意味かなり危ない読書案内かもしれない。本書で紹介されている書を読み続けることは、ある意味読者の人生を変えてしまう危険性がある。その強力な力をどう感じ、どう取り込んでいくか読者が問われている。「反時代的毒虫」になる覚悟がある方は、紹介されている書と車谷の解説をあわせて読み進めていくことをオススメします。
ある意味かなり危ない読書案内かもしれない。本書で紹介されている書を読み続けることは、ある意味読者の人生を変えてしまう危険性がある。その強力な力をどう感じ、どう取り込んでいくか読者が問われている。「反時代的毒虫」になる覚悟がある方は、紹介されている書と車谷の解説をあわせて読み進めていくことをオススメします。