「この人」とは誰なのか、「閾」とは何と何の閾なのか、と考えてしまう。しかし、著者
が書いているが、カフカ『城』の「城」の意味を考える意味はあるの、と。同じ理屈で、本
作品の「題名」についても考えないようにしようと思う。内容は易しい言語で語られている
が焦点が絞りにくく難しい。平凡な言語と日常会話がどのような意味を持っているのか。風
景描写も庭しかない。それも友人が植えて帰ったハーヴと雑草が生えている庭である。飼っ
ている捨て犬の遊び場となっている。アジサイと赤いバラがあるていどの淋しい光景である。
難しい心理描写もない。著者はこの物語に何を語らせ訴えようとしたのか。考えさせられ多
様的に読ませられることが著者の意図ではないのか。のどかな昼下がり中年の男女のありき
たりな会話ではなさそうである。
ぼく(三沢君、37歳)は小田原にある先輩の家を訪問する。大学の映画サークルで一年先
輩の関根真紀である。真紀さんとよんでいる。南向きの一軒家に住み結婚後十年以上で、子
供が二人いる。ぼくと真紀さんの会話で物語が進展していく。真紀さんの長男洋平君とのサ
ッカー談義も挿入されている。真紀さんは学生時代、ぼくに「親っていうのは不思議なもの
ね」と言った。親といると何時間でもしゃべらなくても済むが、つき合っている人とはなん
だかしゃべっていないと落ち着かない、と。物語の冒頭で描写されている。親とは会話がな
くても平気だが他人だと何かと会話していないとその静寂に耐えられないということだろう。
また結末で、「おかしなところよね。家って。自分でもずっとそうしてたわけだけど、出て
いくときはまあ、いちおう『いってきます』って言うけど、帰ってくるときはフッて帰って
くるからね」。学生時代と主婦になった現在と並べている「会話」になにか鍵がありそうな
気がする。会話は真紀さんが引っ張りぼくが考え寄り道しながら進んでいく。
会話の主題は「言葉」である。物語の展開は、言葉に連環して二人を囲む友人の話題や次の
言葉へと繋がっていく。真紀さんは学生時代から恋愛より家庭のことに関心があるようだっ
た。関心と言うのは、知らない人と暮らすことによる「会話」(言葉)が続くのだろうかと
いうことである。映画の会話から思いだすのだが、友人の説子は三度目の結婚をするという。
真紀さんからしてみると三度も知らない人と結婚する「労力」を心配する。
昼下がり二人で草むしりをする。なぜ中年の男女の草むしりの話が入り込んでくるのか。
「会話」である。会話の中に様々な言葉についての表現がある。「現代的よね」「ヒュー
マニスト的ね」など漠然として十把ひとからげのような言葉、「ってものなのよ」と人の
口癖、「働くことに思想はいらない。思想がなければ怠けられない」と、ものを考えない人
間を象徴しているような言葉などについて会話が弾んでいく。洋平君とのサッカーについて
の楽しそうな会話。子どもとの会話で子どもの言葉につき合っていかなければならないしん
どさ。しかし、会話で心が通じる。会話とは、言語化された世界で一方的では成立しない。
真紀さんのダンナはどうも一方的に会社や部下のことをしゃべりまくるらしい。「生きがい
」とか「充実感」という仕事に対する言葉にも無意味なことがよくわかっているはずなのに、
と真紀さんは思う。ぼくも、モンドリアンの絵のように抽象的な世界で生活しているように
思えてくる。
読書の「言葉」はどうだろうか。真紀さんは読むのが好きである。ドストエフスキーは面
白すぎてダメだけどヘーゲルやハイデッカーのようなねちねちしている本がよい。しかし、
主婦層の間に出せる本ではない。ぼくは、真紀さんが読んで記憶しているだけで、「読後感
想文のような義務感から遠い開放感」の中での読書を楽しむのはよいが、何も「言葉」とし
て残さないのは「もったいない」と思う。
ヨハネ福音書のはじめに『初めに言葉があった』と、真紀さんは言い出す。言葉の届かない
ところは「闇」だ。言葉が届かないところはなにもないのと同じに近い。「言語化されなけ
れば人間はそこに何があるかわからない。何かがあっても理解できない」と。ぼくは、これ
は「真紀さん自身のことだろう」と思う。
読書は考えながら能動的に取り組むものだろう。しかし、感想文を出せという話ではない。
言語化されなければ何も理解できないのか、と著者は問うている。言語化されない、言葉に
ならない闇に光を当て五感を働かせて認識できる「閾」があるだろう。本を読んで言葉の届
かない「閾」に「何か」をどう感じどう表現するか、ということだろう。「閾」とは言語化
世界と非言語化世界の境目だと思う。
真紀さんの親子間や現在の家での言語化の必要のない静寂の中に、家族としての信頼感が
流れている。家族の静寂は言語化されなくても通じる世界ではないのか。静寂に向かい合い
静寂の中で語ってみよう。ぼくは平城京で昔の人々のざわめきに耳を澄ましている。真紀さ
んも静寂のなかに空白を感じないでほしい、と思う。
意識的にだす言葉、無意識からでている言葉、沈黙のなかで心がつぶやいている言葉、幼
い子どもたちの言葉、静寂のなかさまざまなつぶやきが聞こえる言葉。多様な言葉たちの態
様を追い求めた作品である。
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この人の閾 (新潮文庫 ほ 11-2) 文庫 – 1998/7/1
保坂 和志
(著)
第113回(平成7年度上半期) 芥川賞受賞
- 本の長さ247ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日1998/7/1
- ISBN-104101449228
- ISBN-13978-4101449227
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (1998/7/1)
- 発売日 : 1998/7/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 247ページ
- ISBN-10 : 4101449228
- ISBN-13 : 978-4101449227
- Amazon 売れ筋ランキング: - 100,990位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1956年、山梨県生まれ。鎌倉で育つ。早稲田大学政経学部卒業。1990年『プレーンソング』でデビュー。1993年『草の上の朝食』で野間文芸新人賞、1995年『この人の閾(いき)』で芥川賞、1997年『季節の記憶』で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞を受賞。その他の著書に『生きる歓び』『カンバセイション・ピース』『書きあぐねている人のための小説入門』『小説の自由』『小説の誕生』ほか。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年9月18日に日本でレビュー済み
初めの「この人の閾」は素晴らしい。なぜこんなに面白い小説を、もっと早く読まなかったのだろう、と激しく後悔したり、真紀さんが、遅々として進まない本を敢えて選んで、重石をして、両手を自由にして読むところに共感したり、昔の芥川賞は質が高かったと感心したり、読みながら忙しかったが、後の短編は下火で、すっかりその熱が冷めての読了だった。新作は如何に、「生きる歓び」に止めを刺されてしまうのか、見極めは保留
2022年2月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
読んでいて全ての箇所に「ああ、そうなんだ」としか思わない。これは珍しい。だいたいの小説は、感動したり反感したりする。
早く完結するカフカの『城』みたいだ。
早く完結するカフカの『城』みたいだ。
2022年9月8日に日本でレビュー済み
女性、男性読み手の受け取り方が別れるかと思われる。主人公に全く共感出来ない、男として魅力皆無。。深みがない。
2015年7月3日に日本でレビュー済み
ともすれば退屈なまでの会話劇であるが、テキストの隅々に復活の祝祭が用意されている。
本を閉じた後、読者がそれぞれの日常に戻って生きていく中で、ふと心の中に蘇るのだ。
ある意味では読んでいるときより、読んでいない時に姿を現す小説群。
「夢の中でぼくはある家に帰らなければならない。それは自分の家ではない。誰の家かわからない、というか憶えていないのだが、とにかくぼくはそこに帰らなくてはならない。けれどぼくはその家を生理的に嫌っている。嫌で嫌で仕方がない」(所収「夏の終わりの林の中」より)
本を閉じた後、読者がそれぞれの日常に戻って生きていく中で、ふと心の中に蘇るのだ。
ある意味では読んでいるときより、読んでいない時に姿を現す小説群。
「夢の中でぼくはある家に帰らなければならない。それは自分の家ではない。誰の家かわからない、というか憶えていないのだが、とにかくぼくはそこに帰らなくてはならない。けれどぼくはその家を生理的に嫌っている。嫌で嫌で仕方がない」(所収「夏の終わりの林の中」より)
2010年4月23日に日本でレビュー済み
およそ十年ぶりに会ったこの人は、すっかりおばさんの主婦になっていた。家族が構成する「家庭」という空間の、言わば隙間みたいな場所にこの人はいて、そのままで、しっくりとこの人なのだった。あらゆるものは、何かが介入していないように、何かを介入しているのではないでしょうか。
「そういうことを認めるっていうか…、なんていうか、感傷的なことが好きなヤツらっていうのは、つまりね、そういう風に失ったり奪われたりするのを、本当は心のどこかで待ってるんだよ」
「そういうことを認めるっていうか…、なんていうか、感傷的なことが好きなヤツらっていうのは、つまりね、そういう風に失ったり奪われたりするのを、本当は心のどこかで待ってるんだよ」
2005年5月14日に日本でレビュー済み
何故著者が小説家になったのかわかる気がした。
冷静に考えると奇妙な世界でやりくりしている私たちは
ふと空いた時間には、思考を深めたりする。
それはどこにもたどり着かないけど、ただその時には
存在する。その人だけに。空間を共有するものとの間だけに。
そんな時間を愛でるような小説です。
晴れた日にビールを飲みながら是非。
冷静に考えると奇妙な世界でやりくりしている私たちは
ふと空いた時間には、思考を深めたりする。
それはどこにもたどり着かないけど、ただその時には
存在する。その人だけに。空間を共有するものとの間だけに。
そんな時間を愛でるような小説です。
晴れた日にビールを飲みながら是非。
2006年8月15日に日本でレビュー済み
高橋源一郎も言っていたけれど、保坂和志の小説のスタンスというのは、『日常に隠されたものを再発見する』というものだ。
こういう小説を読めば、それが非常によくわかる。日常に隠れているものを発見するのだから、ドラマティックなものはひとっつもいらない。何気ない会話、情景から意味未満のものを発見し、それを読者に投げかけてくる。たゆたう思考のような文体がそれを手助けし、読んでいて非常に気持ちがいいし、気になる。
こういう小説を読めば、それが非常によくわかる。日常に隠れているものを発見するのだから、ドラマティックなものはひとっつもいらない。何気ない会話、情景から意味未満のものを発見し、それを読者に投げかけてくる。たゆたう思考のような文体がそれを手助けし、読んでいて非常に気持ちがいいし、気になる。