ヘンリージェイムズといえば幽霊、というイメージがあったので、読んでいて、「アレ? 誰が幽霊? あれ? あれ?」と戸惑いました。しかしウィンターボーンの戸惑いのさまと、イタリー人のプレイボーイっぷり、そしてタイトルロール・デイジーのコケティッシュな魅力に引きずられてあっという間に読了。
解説を読んでわかりました。これは、当時、謎に包まれた素朴な国アメリカ(当人は単純で、自分では自分のことをぜんぜん謎だと思っていない)と、何事にも思わせぶりな解釈をせずにいられないヨーロッパ(旧王国)とを人と人との係わりになぞらえた、ある種の実験小説だったんですね。
読み終わって感じ入ったのは、作品に「オチがない」ことです。ウィンターボーンの恋愛は、なんと静かに終わるのでしょうか。
最近の、「そうだったのか」と驚かせて展開・転機を作る小説と比べると、そのクラッシックな作りに、そしてオチなどなしに一冊を読ませる小説の力に、いろいろと考えさせるものがありました。
どちらが先かわかりませんが、漱石の心理小説と似た味わいがあります。
新旧の国の狭間を書いたチェスタトンなどの作品が好きな方ならはまるかも。
もっと、ヘンリー・ジェイムズを読んでみようと思います。とにかく面白いです。トリックが、じゃなくて語り口の妙と、人の心の写し出しかたが、です
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デイジー・ミラー (新潮文庫) 文庫 – 1957/11/22
ヘンリー・ジェイムズ
(著),
西川 正身
(翻訳)
全てに開放的なヤンキー娘デイジーと、その行動にとまどう青年との淡い恋を軸に、新旧二つの大陸に横たわる文化の相違を写し出す。
- ISBN-10410204101X
- ISBN-13978-4102041017
- 版改
- 出版社新潮社
- 発売日1957/11/22
- 言語日本語
- 寸法14.8 x 10.5 x 2 cm
- 本の長さ132ページ
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登録情報
- 出版社 : 新潮社; 改版 (1957/11/22)
- 発売日 : 1957/11/22
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 132ページ
- ISBN-10 : 410204101X
- ISBN-13 : 978-4102041017
- 寸法 : 14.8 x 10.5 x 2 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 617,084位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2018年12月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
読んでいる間、水晶のように硬質で透明な美しさをもったデイジー・ミラー像をイメージしていました。肉体感があまりないのですね。
とても面白い話でした。さすがH.ジェイムズ。
とても面白い話でした。さすがH.ジェイムズ。
2008年1月24日に日本でレビュー済み
非の打ちどころのない最高の小説です。あらすじを述べればありきたりだし、ヨーロッパとアメリカの対立といった文脈もとりたてて面白いわけではありません。しかし、「謎の女」をめぐる物語を、俗悪に陥る寸前で洒脱に流していく手つきは、これぞ小説としかいいようのない快楽を与えてくれます。それに比べると、のちのジェイムズの幽霊小説の類は、「謎」に深入りしすぎているような気がして、作者にとってもまれな均衡なのかもしれません。心静かに一文一文、味読したい作品です。訳文も優れています。小説を、特にその形式の美を愛する方は、ぜひ。
2004年2月16日に日本でレビュー済み
旧大陸と新大陸の対立を軸とした恋愛物語「新心理小説」だと言うが、よくわからない。可もなく、不可もなく。 しかし、ヨーロッパとアメリカは、なぜこうも対立するのかね。アメリカはイギリスから逃げたわけで、憎むでしょ。フランスはなぜかアメリカを憎む。戦争のために、ドイツはアメリカに怨念。この本にもあるように、これは歴史の問題なのか。つまり、背負っている歴史の大きさの違い。だとすれば、確かに日本は尊敬されてしかるべきだ。少なくとも、日本人がバーバリアンだといわれることがないことを考えると、アメリカの若さが、年寄りはにくいのかね。もひとつぱっとしない本でした。
2014年4月27日に日本でレビュー済み
小説とすれば、うまく書かれた好短編ということになるかもしれません。
話としてもボーイ・ミーツ・ガール的な類型にのっとった一種の恋愛小説ということになるのでしょう(とはいっても熱く燃えるような恋愛を想像してはならず、表面的には劇的なことは何も起こらない、最後まで心理の手さぐりするようなやりとりに終始するだけの恋愛小説です)。
そしてそこにヨーロッパ的なものとアメリカ的なものとの対立というような例のジェイムズ的な問題性をかさねて読むのがこの小説の批評の常套のようです。
そういう意味でこの小説は、ジェイムズの難解きわまりない後期の作品群にくらべ、内容的にも読みやすくテーマ的にも分かりやすい作品といえましょう。
小説は、ヨーロッパに長く住むアメリカ人のウィンターボーンが視点人物となっていて、かれの目で、アメリカから最近ヨーロッパにやって来た同国人の若く美しい女性デイジーがながめられ、かれの視点でそのデイジーの魅力がくりかえし語られます。
そのさい、みずからの階級や身分、ジェンダーにふさわしい立ち居ふるまいをもとめるヨーロッパ的な道徳規範をすでにある程度内面化してしまっているウィンターボーンは、アメリカの町にいたときと同じような無邪気さで自由奔放にふるまうデイジーにとまどいながらも惹かれ、惹かれつつもとまどうといった微妙な心理の揺れをみせることとなります。
その後、最初の出会いがあったスイスから、小説の舞台はイタリアへと移ってゆきます。
イタリアで見せるデイジーの行動からしかしウィンターボーンの気持ちは徐々にデイジーから離れはじめるのですが、まもなくデイジーにあるできごとが起こって物語はあわただしく幕切れとなります。
ともあれ、デイジーはあくまでウィンターボーンの視点からのみながめられ、語られるだけなので、デイジーがじっさいウィンターボーンにどのような気持ちをもっていたのかけっきょく最後までわかりません。
読者も、この小説を読むなかで、デイジーに、終始ウィンターボーンといっしょになって翻弄されつづけるというわけです。
そこにこそジェイムズの、作中人物の視点をめぐる創作上の一大工夫があったといえるのですが、いっぽうそこに小説的魅力を感じるかどうかは読者によって異なる感想をもつかもしれません(つまり、この小説は、真実や真相がややあいまいなままで終わり、ふたりの関係においても必ずしもすっきりと物語的解決がなされているわけではないので、なにかもやもやした感じが残る読者もいることと思われます)。
無垢は一面無知につうじ、天真爛漫は一面(あえていえば)バカにつうじます。
ウィンターボーンが、デイジーを最終的に受け入れられなかったのは、ヨーロッパの成熟した大人社会、階級や身分、性別にふさわしい立ち居ふるまい、いわゆるリスペクタビリティーを重んじ、それを身につけることがもとめられる大人社会に長年生きてきたためでもありましょう。
いっぽうで、美しい娘デイジーには、あのハック・フィンやホールデン・コールフィールドにもつながるアメリカ的アドレッセンスとイノセンスがいっぱいつまっているともいえます。
そのことからすると、たしかにこの短編で、ヨーロッパ的なものとアメリカ的なものとの対立というような例のジェイムズ的な問題を想起することはまちがいではないということになります。そしてこの小説でジェイムズの立場は、デイジーの無垢を認めつつも、ウィンターボーンの立場にやや近いところにあるようにみえます。
ただだからといってそうかんたんに小説家の価値観をこうだと固定的に決めつけてはならず、つまりこの短編(1878年刊)の数年後に出版された長編小説、若く自立心のつよいアメリカ人女性イザベルと長くヨーロッパはイタリアに住むアメリカ人男性との恋愛と結婚を描いた『ある貴婦人の肖像』(1881年刊)では、そういうアメリカ対ヨーロッパの問題性の観点で単純に割り切って読めないような、複雑な人間の内面をジェイムズが書くことになるからです。
この新潮文庫版はかなり昔に訳されたものなので最初読む前はどうかなと思ったのですが、予想以上に読みやすく気になるところはほとんどありませんでした。
話としてもボーイ・ミーツ・ガール的な類型にのっとった一種の恋愛小説ということになるのでしょう(とはいっても熱く燃えるような恋愛を想像してはならず、表面的には劇的なことは何も起こらない、最後まで心理の手さぐりするようなやりとりに終始するだけの恋愛小説です)。
そしてそこにヨーロッパ的なものとアメリカ的なものとの対立というような例のジェイムズ的な問題性をかさねて読むのがこの小説の批評の常套のようです。
そういう意味でこの小説は、ジェイムズの難解きわまりない後期の作品群にくらべ、内容的にも読みやすくテーマ的にも分かりやすい作品といえましょう。
小説は、ヨーロッパに長く住むアメリカ人のウィンターボーンが視点人物となっていて、かれの目で、アメリカから最近ヨーロッパにやって来た同国人の若く美しい女性デイジーがながめられ、かれの視点でそのデイジーの魅力がくりかえし語られます。
そのさい、みずからの階級や身分、ジェンダーにふさわしい立ち居ふるまいをもとめるヨーロッパ的な道徳規範をすでにある程度内面化してしまっているウィンターボーンは、アメリカの町にいたときと同じような無邪気さで自由奔放にふるまうデイジーにとまどいながらも惹かれ、惹かれつつもとまどうといった微妙な心理の揺れをみせることとなります。
その後、最初の出会いがあったスイスから、小説の舞台はイタリアへと移ってゆきます。
イタリアで見せるデイジーの行動からしかしウィンターボーンの気持ちは徐々にデイジーから離れはじめるのですが、まもなくデイジーにあるできごとが起こって物語はあわただしく幕切れとなります。
ともあれ、デイジーはあくまでウィンターボーンの視点からのみながめられ、語られるだけなので、デイジーがじっさいウィンターボーンにどのような気持ちをもっていたのかけっきょく最後までわかりません。
読者も、この小説を読むなかで、デイジーに、終始ウィンターボーンといっしょになって翻弄されつづけるというわけです。
そこにこそジェイムズの、作中人物の視点をめぐる創作上の一大工夫があったといえるのですが、いっぽうそこに小説的魅力を感じるかどうかは読者によって異なる感想をもつかもしれません(つまり、この小説は、真実や真相がややあいまいなままで終わり、ふたりの関係においても必ずしもすっきりと物語的解決がなされているわけではないので、なにかもやもやした感じが残る読者もいることと思われます)。
無垢は一面無知につうじ、天真爛漫は一面(あえていえば)バカにつうじます。
ウィンターボーンが、デイジーを最終的に受け入れられなかったのは、ヨーロッパの成熟した大人社会、階級や身分、性別にふさわしい立ち居ふるまい、いわゆるリスペクタビリティーを重んじ、それを身につけることがもとめられる大人社会に長年生きてきたためでもありましょう。
いっぽうで、美しい娘デイジーには、あのハック・フィンやホールデン・コールフィールドにもつながるアメリカ的アドレッセンスとイノセンスがいっぱいつまっているともいえます。
そのことからすると、たしかにこの短編で、ヨーロッパ的なものとアメリカ的なものとの対立というような例のジェイムズ的な問題を想起することはまちがいではないということになります。そしてこの小説でジェイムズの立場は、デイジーの無垢を認めつつも、ウィンターボーンの立場にやや近いところにあるようにみえます。
ただだからといってそうかんたんに小説家の価値観をこうだと固定的に決めつけてはならず、つまりこの短編(1878年刊)の数年後に出版された長編小説、若く自立心のつよいアメリカ人女性イザベルと長くヨーロッパはイタリアに住むアメリカ人男性との恋愛と結婚を描いた『ある貴婦人の肖像』(1881年刊)では、そういうアメリカ対ヨーロッパの問題性の観点で単純に割り切って読めないような、複雑な人間の内面をジェイムズが書くことになるからです。
この新潮文庫版はかなり昔に訳されたものなので最初読む前はどうかなと思ったのですが、予想以上に読みやすく気になるところはほとんどありませんでした。
2017年4月12日に日本でレビュー済み
本作品はヨーロッパの価値観とアメリカの価値観が衝突した(いやそこまでぶつかっているわけではないが)作品、といえばいいのか。恋愛に自由奔放なアメリカ生まれの10代の女デイジーが、ヨーロッパにおいて保守的な周りからのやぶにらみを受けつつ、恋愛をしていく作品である。
この短い作品は読んで、お上品なお菓子である、という印象を受けた。全体の雰囲気が洗練されていて、読み手は気持ちよくこの奔放なデイジーがどうなるのか最後まで読んでいくことができる。
最後、デイジーは自由奔放な恋愛が原因で病死してしまうわけだが、そこには悲劇的な要素、あるいは喜劇的な要素は含まれてはいない。少なくとも私はそのどちらも感じなかった。病死することによって崇高な、悲しみに満ちた恋愛を描いているわけではなく、また周りの圧力に屈したとかそういったこともない。要するにオチがないのである。そのため読み終えるとどこか脱力感にとらわれてしまうこともありそうだが、少なくとも私はこれはこれでありかな、と思った。
中々に興味深い作品である。名作ではないが良作といったところだろう。分量もそんなにないため最後まで読んでも時間の無駄にはなるまい。
この短い作品は読んで、お上品なお菓子である、という印象を受けた。全体の雰囲気が洗練されていて、読み手は気持ちよくこの奔放なデイジーがどうなるのか最後まで読んでいくことができる。
最後、デイジーは自由奔放な恋愛が原因で病死してしまうわけだが、そこには悲劇的な要素、あるいは喜劇的な要素は含まれてはいない。少なくとも私はそのどちらも感じなかった。病死することによって崇高な、悲しみに満ちた恋愛を描いているわけではなく、また周りの圧力に屈したとかそういったこともない。要するにオチがないのである。そのため読み終えるとどこか脱力感にとらわれてしまうこともありそうだが、少なくとも私はこれはこれでありかな、と思った。
中々に興味深い作品である。名作ではないが良作といったところだろう。分量もそんなにないため最後まで読んでも時間の無駄にはなるまい。
2013年6月8日に日本でレビュー済み
読んだことがあったとしても、読み始めてタイトルが登場人物の名前であることに気づくくらいなので、初めて読んだのも同然。ただ、やはりどうも読んだことがあったようで、記憶が甦ってきたのですが、対比の手法や、朧化と呼びたくなるような淡々とした表現、それに人物造形等、以前読んだ時、どういった感想を抱いたのかわかりませんが、随分端正な作品との印象を受けました。
2008年1月20日に日本でレビュー済み
スイスの小さな町ヴェヴェーにて、アメリカ人ウィンターボーンと、裕福なアメリカ一家であるミラー一家は出会った。ウィンターボーンは、開放的で御転婆といった典型的なアメリカ娘であるデイジーに魅力を感じる。二人は、スイスのシヨンの城に出掛けることになる。だが、上手く行きそうな手合い、ウィンターボーンは明日ジュネーヴに帰らなければならないと告げ、それに対しデイジーは酷いと罵る。ローマでデイジーは社交界に耽り、多くの男性と知り合うようになる。やがてイタリーのジョヴァネリという紳士と関係を深め、頻繁に二人きりで散歩に出るのを、噂されるようになる。コロシューム内部の演技場にて、ウィンターボーンは夜中に二人きりでいるジョヴァネリとデイジーを発見する。ウィンターボーンはデイジーが熱病にかかることを心配し、平気だというデイジーをよそに、出来るだけ早く帰る方がいいと促し、三人は馬車で帰る。しかしデイジーはマラリヤに罹り、「わたしは美男子のイタリー人と決して婚約などしなかった」「あのスイスの城にお出でになった時のことを覚えておいでだか」といった遺言を残し、亡くなった。葬式の際、ジョヴァネリは、「あの方は私と結婚して下さるようなことは、決してなかった」とウィンターボーンに打ち明ける。永くデイジーを観察してきたウィンターボーンだが、ようやく自分が彼女を誤解していたということを最後に悟る……。
この作品は、「心理主義小説」の元祖と言われているそうですが、確かにウィンターボーンの視点から見たデイジーの心理的観察眼が中心的に描かれ、揺れ動いていくのが新しかったです。背景にはかくも清楚で美しく伝統的なヨーロッパの風景や風物が描かれ、しかしそこに居座り行動するのは、若干場違いとも言える御転婆なアメリカ娘である、というデタッチメントは、筆者の生涯が、ニューヨークとヨーロッパ各地の行ったり来たりであったということからこそ為されたものでしょう。読んでいて、非常に新鮮な感覚で、文章の行間から風と光が感ぜられました。個人的には、結局デイジーはウィンターボーンのことを愛していて、スイスの城で直ぐに帰られたことへの、「他に女がいるんでしょ?」という或る種の恨みというか、ちょっとした復讐心のようなものが、敢えてローマにて必要以上に社交界を嗜み、ジョヴァネリと交際をしていたのではないかと思います。一見すると楽天的な御転婆、しかしその内には外貌とは別の闇があったのではないかと思うのです。これはその後の二十世紀におけるアメリカ文学にも通ずる視点であるように思えます。ヨーロッパに対するアメリカ文化、そしてアメリカ人への、皮肉と肯定の両方を込めた、自分で書こうとすると非常に難しい作品だと思います。
この作品は、「心理主義小説」の元祖と言われているそうですが、確かにウィンターボーンの視点から見たデイジーの心理的観察眼が中心的に描かれ、揺れ動いていくのが新しかったです。背景にはかくも清楚で美しく伝統的なヨーロッパの風景や風物が描かれ、しかしそこに居座り行動するのは、若干場違いとも言える御転婆なアメリカ娘である、というデタッチメントは、筆者の生涯が、ニューヨークとヨーロッパ各地の行ったり来たりであったということからこそ為されたものでしょう。読んでいて、非常に新鮮な感覚で、文章の行間から風と光が感ぜられました。個人的には、結局デイジーはウィンターボーンのことを愛していて、スイスの城で直ぐに帰られたことへの、「他に女がいるんでしょ?」という或る種の恨みというか、ちょっとした復讐心のようなものが、敢えてローマにて必要以上に社交界を嗜み、ジョヴァネリと交際をしていたのではないかと思います。一見すると楽天的な御転婆、しかしその内には外貌とは別の闇があったのではないかと思うのです。これはその後の二十世紀におけるアメリカ文学にも通ずる視点であるように思えます。ヨーロッパに対するアメリカ文化、そしてアメリカ人への、皮肉と肯定の両方を込めた、自分で書こうとすると非常に難しい作品だと思います。