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ボヴァリー夫人 (新潮文庫 フ 3-1) ペーパーバック – 1997/5/1
ギュスターヴ フローベール
(著),
生島 遼一
(翻訳)
田舎医者ボヴァリーの妻エマが、単調な日常に退屈し、生来の空想癖から虚栄と不倫に身を滅ぼす悲劇を描くリアリズム文学の傑作。
- 本の長さ458ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日1997/5/1
- ISBN-104102085017
- ISBN-13978-4102085011
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (1997/5/1)
- 発売日 : 1997/5/1
- 言語 : 日本語
- ペーパーバック : 458ページ
- ISBN-10 : 4102085017
- ISBN-13 : 978-4102085011
- Amazon 売れ筋ランキング: - 375,115位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 591位フランス文学 (本)
- - 6,369位新潮文庫
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年9月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「ボヴァリー夫人」は1857年の出版。日本でペリー来航が恐慌をもたらして4年後。文学(殊に小説)におけるフランスと日本との落差に、今更ながら唖然とした。
2022年4月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この作品を読んでいると、ボヴァリー夫人の時代のフランスの田舎の人々の生活の様子が伝わってきます。訳が読みやすいです。
2011年3月26日に日本でレビュー済み
「フローベールはお坊ちゃん」とは太宰の有名な言葉である。本作を「リアリズム小説の傑作」と評する向きもあるようだが、実際はフローベールの頭の中に浮遊しただけの観念小説である。題名からして、ボヴァリー夫人ことエマをヒロインにした作品のようだが、実際は夫シャルルに同等以上の比重が掛かっていると思う。
作者にとってシャルルは自身と重なる現実であり、エマは自身が叶えられない放埓な夢である。だからこそ、エマの恋愛模様や我儘は自在に描ける。作者は女性に対する男の愛の力を半分程信じていた(あるいは信じたかった)ようで、それが現実的か否かを小説上で実験したのだと思う。それがラストシーンに如実に現われている。途中のストーリーの起伏は作者にとっては二の次で、ラストシーンでエマの心がシャルルに向くか否かが勝負だったのだろう。でも、結局断定的には描けなかった所を見ると......やっぱり「お坊ちゃん」だったのだろう。
作者にとってシャルルは自身と重なる現実であり、エマは自身が叶えられない放埓な夢である。だからこそ、エマの恋愛模様や我儘は自在に描ける。作者は女性に対する男の愛の力を半分程信じていた(あるいは信じたかった)ようで、それが現実的か否かを小説上で実験したのだと思う。それがラストシーンに如実に現われている。途中のストーリーの起伏は作者にとっては二の次で、ラストシーンでエマの心がシャルルに向くか否かが勝負だったのだろう。でも、結局断定的には描けなかった所を見ると......やっぱり「お坊ちゃん」だったのだろう。
2018年8月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
映画と違うところがあちこちにあり、そうだったのか〜と面白く読みました。
こちらを読んでも、映画のほうも面白く観ることは出来ます。
こちらを読んでも、映画のほうも面白く観ることは出来ます。
2017年9月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
.
作品の"書き直し"が多いことで有名な フローベルの、代表作。
古典作品と見られがちだが、内容は貞淑な人妻エマの情事を扱う、
現代的なテーマとなっている。
発表当時は、作品評価については賛否両論があったであろう。
逃れ得ぬ人間性の一面に、正面からアプローチした意欲的作品であり、
多くのフランス文学のなかにおいても、鑑賞に値する作品である。
作品の"書き直し"が多いことで有名な フローベルの、代表作。
古典作品と見られがちだが、内容は貞淑な人妻エマの情事を扱う、
現代的なテーマとなっている。
発表当時は、作品評価については賛否両論があったであろう。
逃れ得ぬ人間性の一面に、正面からアプローチした意欲的作品であり、
多くのフランス文学のなかにおいても、鑑賞に値する作品である。
2021年1月8日に日本でレビュー済み
この作品は時代を選ばない普遍的なテーマを扱った物語であり、とりわけ「これといって不幸ではないけれども、毎日が退屈で仕方がない」という問題に悩まされている人にとっては共感を呼び起こすこと必至の書である。
<腰をおろした芝生を日傘のさきでつつきながら、エマは心につぶやいた。
「ああ、なぜ結婚なんかしたんだろう」
別な偶然のめぐりあわせで、ほかの男に出会うことはできなかったか、と考えた。実際にはおこらなかったそういう出来事、いまとちがった生活、見知らぬ夫、を心に描いてみようとした。みんながみんな、こんな夫とは限らない。美男で、才気があって、上品で、魅力があったかもしれない。(略)
この自分の生活は北の窓しかない納屋のように冷たく、退屈という黙々とした蜘蛛が心の四すみに巣をはっている。(p59)>
<これからこんな日が、永久に変わらず、数かぎりなく、なに一つもたらさずにつづいて行くのか。ほかの人々の生活はどんなに平凡であるにせよ、何かが起こりうる機会はある。一つの出来事がときには無限の転変を呼び、舞台背景が変わる。だが、自分にはなに一つ起こらない。それが神意なのである。未来は真っ暗な一本の廊下で、そのつきあたりに扉がぴったりととざされていた。
音楽をやめた。弾いたってなんになる? だれがきく? 音楽会で袖の短いビロードのドレスをきて、エラール・ピアノにむかって象牙のキーを軽快な指でたたきつつ、恍惚のささやきが身のまわりに走るのを微風のように感じとることができないのなら、わざわざ骨をおって練習しないでもいい。(p83)>
エマはいわゆるドーパミン的幸福以外は「幸福」と認めない人間であり、そしてそれは毎日の平凡な生活を退屈と感じる現代人にも共通するキャラクターである。エマが現代に生きていたら、SNSの沼にどっぷりと浸かり、虚栄満載の写真を周囲に負けじとアップしまくっていただろう。
エマは本をたくさん読むものの、それをもとにいろんなことを深く考察しようとはせず、ただ物語の表面のみをなぞり、「こういう人がいたらいいな」「こういうドラマが私にも起きたら素敵だな」としか思わない。
<静かなもののありかたに慣れてきた彼女は変化に心をひかれるのだ。(略)物事から一種の自分のための利益をひき出せないと気がすまない。自分のこころがすぐそれを用に供しうるもの以外はいっさい不要として捨ててしまったー芸術家的であるより感傷的な気質で、景色をもとめず、情緒をもとめていた。(p49)>
このような価値観に縛られて振り回された結果、エマは必然的に坂道を転げ落ちるように不幸の底なし沼へと突っ込んでいく。
<なにはともあれ、彼女は幸福ではなかった。これまで一度も幸福ではなかった。人生のこの不満はどこからくる?(略)わざわざ捜しもとめる値打のあるものはなに一つありはしない。みんな偽だ。どの微笑にも倦怠のあくびがかくされている。どのよろこびにも呪いが、どの快楽にも嫌悪がかくされている。(p393-394)>
フロベールは裁判のときに「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったそうだが、読者にとっても「これは私だ」と思わせるほどにいくつかの重要な人間性を抽出し、それをエマ・ボヴァリーという一つのキャラクターとして造形したその芸術的手腕にはただ敬服するしかない。
そして、160年前にこの作品を残してくれたフロベールに、ただひたすら感謝の念を捧げるのである。
<腰をおろした芝生を日傘のさきでつつきながら、エマは心につぶやいた。
「ああ、なぜ結婚なんかしたんだろう」
別な偶然のめぐりあわせで、ほかの男に出会うことはできなかったか、と考えた。実際にはおこらなかったそういう出来事、いまとちがった生活、見知らぬ夫、を心に描いてみようとした。みんながみんな、こんな夫とは限らない。美男で、才気があって、上品で、魅力があったかもしれない。(略)
この自分の生活は北の窓しかない納屋のように冷たく、退屈という黙々とした蜘蛛が心の四すみに巣をはっている。(p59)>
<これからこんな日が、永久に変わらず、数かぎりなく、なに一つもたらさずにつづいて行くのか。ほかの人々の生活はどんなに平凡であるにせよ、何かが起こりうる機会はある。一つの出来事がときには無限の転変を呼び、舞台背景が変わる。だが、自分にはなに一つ起こらない。それが神意なのである。未来は真っ暗な一本の廊下で、そのつきあたりに扉がぴったりととざされていた。
音楽をやめた。弾いたってなんになる? だれがきく? 音楽会で袖の短いビロードのドレスをきて、エラール・ピアノにむかって象牙のキーを軽快な指でたたきつつ、恍惚のささやきが身のまわりに走るのを微風のように感じとることができないのなら、わざわざ骨をおって練習しないでもいい。(p83)>
エマはいわゆるドーパミン的幸福以外は「幸福」と認めない人間であり、そしてそれは毎日の平凡な生活を退屈と感じる現代人にも共通するキャラクターである。エマが現代に生きていたら、SNSの沼にどっぷりと浸かり、虚栄満載の写真を周囲に負けじとアップしまくっていただろう。
エマは本をたくさん読むものの、それをもとにいろんなことを深く考察しようとはせず、ただ物語の表面のみをなぞり、「こういう人がいたらいいな」「こういうドラマが私にも起きたら素敵だな」としか思わない。
<静かなもののありかたに慣れてきた彼女は変化に心をひかれるのだ。(略)物事から一種の自分のための利益をひき出せないと気がすまない。自分のこころがすぐそれを用に供しうるもの以外はいっさい不要として捨ててしまったー芸術家的であるより感傷的な気質で、景色をもとめず、情緒をもとめていた。(p49)>
このような価値観に縛られて振り回された結果、エマは必然的に坂道を転げ落ちるように不幸の底なし沼へと突っ込んでいく。
<なにはともあれ、彼女は幸福ではなかった。これまで一度も幸福ではなかった。人生のこの不満はどこからくる?(略)わざわざ捜しもとめる値打のあるものはなに一つありはしない。みんな偽だ。どの微笑にも倦怠のあくびがかくされている。どのよろこびにも呪いが、どの快楽にも嫌悪がかくされている。(p393-394)>
フロベールは裁判のときに「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったそうだが、読者にとっても「これは私だ」と思わせるほどにいくつかの重要な人間性を抽出し、それをエマ・ボヴァリーという一つのキャラクターとして造形したその芸術的手腕にはただ敬服するしかない。
そして、160年前にこの作品を残してくれたフロベールに、ただひたすら感謝の念を捧げるのである。
2018年10月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
フランス人は誰しもが必ず読むと聞いてる。
マクロン大統領夫人が人生を変えた何度読んだか分からないほどの1冊に推薦してて購入。
フランス人はこれを小学生や中学生で読むのか、と。
1度目は途中で力尽き、2度目で読破。
何度か読まないとなというかんじ。
マクロン大統領夫人が人生を変えた何度読んだか分からないほどの1冊に推薦してて購入。
フランス人はこれを小学生や中学生で読むのか、と。
1度目は途中で力尽き、2度目で読破。
何度か読まないとなというかんじ。