タイトルの「草の竪琴 The Grass Harp」とは、秋風に吹かれて草原の草が奏でる葉ずれの音のことだ。語り手の16歳の少年コリンは、この「草の竪琴」という詩的な呼び名をドリー・タルボーから教わった。ドリーは、南部アメリカの田舎町に住む60歳の独身女性で、同じ独身の妹ヴェリーナと暮らしていて、みなし児のコリンを引き取ってくれた遠縁の女性だった。彼女は、草原を回想してこういう、「風は私たちなの。風はわたしたちみんなの声を集めて憶えるのよ。そして、木の葉を震わせ、野原を渡ってお話を聞かせるの。あたし、パパの声をはっきり聞いたもの。」(p34)と。ドリーは、内向的な性格で、長年、家に引き籠もっているが、妹のヴェリーナは、幅広く事業を手がける町一番の資産家で、出張先のシカゴから職業不詳の紳士を連れて帰ってくる。物語は、この対照的なタルボー姉妹を軸として、新事業の件で二人が口論となり、ドリーが家から出て行き、草原の彼方の森にある古い「樹の家」(作者の子ども時代に裏庭にあったツリーハウスがモデルだという)で一夜を過ごし、また自宅に戻るまでを描く。
ドリーは、樹の家で、「コリン、いまこの機会に知っておいた方がいいわ。わたしみたいに年をとらないうちにね。世界は悪いところ、いやなところなのよ」(p99)と忠告する。彼女にとって、樹の家とは、悪に染まった地上よりも「五、六ヤードだけ」神様に近い場所だった(p51)。ドリーと行動をともにしたコリンは、控えめな物腰と古風な倫理を身につけた頭のよい少年だったが、事実上、狂言回しの役割を担うにすぎないから、この小説の真の主人公はドリーだったといえよう。彼女は、自分の部屋を好きなピンク色に塗り上げ、水腫薬を鉄の釜で調合する秘法に熟練し、屋根裏の箱に大切な品物を隠している。その大切な品物とは、「からからになった蜜蜂の巣、空っぽの熊蜂の巣、それから、丁子の蕾(つぼみ)を差したオレンジや、カケスの卵なんか」(p78)といった金銭的な価値のない物ばかりだった。そんな彼女に対し、同じ町に住む男やもめのクール判事は、「ドリーさん、あなたを知ってからずいぶん長くなるが、あなたがどんな人間なのか、今やっとわかりましたよ、妖精なんだ、それとも異教徒かな?」(p68)と冗談めかしていう。クール判事は、なぜこんな発言をしたのか。彼もまたハーバード大学卒のインテリという外面の下に、アラスカの13歳の少女と文通するようなエキセントリックな素顔を隠していたからだ(以下、この小説の結末に触れるのでご注意ください)。
ドリーが家を出たとき、コリン以外に、彼女の幼馴染みのみなし児で、いつも金魚鉢を手放さないキャサリンが同伴したが、さらに、クール判事と、18歳の青年ライリーが樹の家での宿泊に加わる。ライリーは、母親から風変わりな虐待を受けた過去を持ち、自宅の壁の棚に、「アルコール漬けの蛇、蜜蜂、蜘蛛、瓶の中で形の崩れかけた蝙蝠、あるいは船の模型など」(p169)を飾るような青年だった。クール判事は、5人が揃って同じような「本性」を隠し持っていることを見抜き、「ああ、自分の本性を見すかされまいと、お互いに身を隠すのに費やすエネルギーときたら! でも、ここでは大丈夫、みんなお互いをよくわかっている。樹上の五人の愚者だ。」(p69)と発言する。おそらく、この「愚者」とは、一般社会の規範に抵触することがあっても、神に祝福され、世俗的な欲望とは無縁に生きるキリスト教的なholy fool(聖なる愚者)を意味する。この逆説的な思考は、新約聖書の「この幼な児のように、自分を低くする者が天国で一番偉いのである」というイエスの言葉と連動する。ドリーは「あたしは愛したことなんてないんですもの。人を…」(p77)と告白するが、彼ら5人の「本性」とは、不幸な生い立ちを抱え、母親の愛を求めてしまう「幼な児」的な性向だといってよいだろう。物語は、ドリーとクール判事の恋愛に発展するが、最終的に、タルボー姉妹の共依存的な関係性が明らかにされ、宿命的な悲しい結末を迎える。
出世作の『遠い声、遠い部屋』以来、カポーティが生涯追い求めたテーマは、おとなの論理と子どもの素朴な欲求との不幸な対立関係であり、その原因となった母親の愛の不在だったが、その構図は、この小説にも精密かつ叙情的に描かれている。不幸な対立関係なのに、叙情的だって? そうなのだ、あのドリーが語る「草の竪琴」のエピソードが象徴するように、カポーティの作品はどれも叙情的なのだ。母親の愛に執着するあまり、作者はいつもイノセントな子どもの側にいて、不幸の代償のような美しい叙情詩を紡ぎ続けた。ドリー・タルボーのモデルは、両親の離婚により少年カポーティを引き取って育てた年上の従姉(いとこ)だったとされるが、母親代わりだった彼女を作中で過剰に美化することもなく、第三者的で冷静な描写に徹しており、また、タルボー姉妹の共依存的な関係性も創作だったのだろうから、20代の小説家・カポーティの力量には敬服するしかない。妹のヴェリーナは自らの宿命に抗おうとしたが、ドリーは、彼女らしく信念に忠実な一生を送ったのだと思いたい。
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草の竪琴 (新潮文庫) 文庫 – 1993/3/30
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幼な児のような老嬢ドリーの家出をめぐる、ファンタスティックでユーモラスな事件の渦中で成長してゆく少年コリンの内面を描く。
- 本の長さ193ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日1993/3/30
- 寸法14.8 x 10.5 x 2 cm
- ISBN-104102095047
- ISBN-13978-4102095041
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (1993/3/30)
- 発売日 : 1993/3/30
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 193ページ
- ISBN-10 : 4102095047
- ISBN-13 : 978-4102095041
- 寸法 : 14.8 x 10.5 x 2 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 166,128位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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DeepBlue213
少年時代の終わりを瑞々しい感性で書き上げた小説だった。
両親を亡くして親戚の家にひきとられた少年コリンは、その家に住む少女のまま老女となったドリーに恋をする。
そしてドリーの友人キャサリンと三人での生活が、孤独な少年の心を埋めていく。
しかしドリーの妹のヴェリーナは実業家タイプで権力を好む女性で、彼女と仲違いしたドリーとキャサリン、それにコリンは家出して木の上の小屋へ落ち着いた。
そこへコリンの憧れでもあった少年ライリーと、引退した元判事が加わって短くとも楽しい奇妙な日々が過ぎていく。
コリンの少年時代はドリーの突然の病死で終わった。
その日々を秋の風が乾いた草の葉をならす竪琴が伝えていく。
切なくもじっとその竪琴に耳を傾けたいと思わせる小説だった。
両親を亡くして親戚の家にひきとられた少年コリンは、その家に住む少女のまま老女となったドリーに恋をする。
そしてドリーの友人キャサリンと三人での生活が、孤独な少年の心を埋めていく。
しかしドリーの妹のヴェリーナは実業家タイプで権力を好む女性で、彼女と仲違いしたドリーとキャサリン、それにコリンは家出して木の上の小屋へ落ち着いた。
そこへコリンの憧れでもあった少年ライリーと、引退した元判事が加わって短くとも楽しい奇妙な日々が過ぎていく。
コリンの少年時代はドリーの突然の病死で終わった。
その日々を秋の風が乾いた草の葉をならす竪琴が伝えていく。
切なくもじっとその竪琴に耳を傾けたいと思わせる小説だった。
猫町
物語は、語り手であるコリンが回想する16歳のときの「僕」の視点で語られています。
いうまでもなく少年「僕」によるこの一人称体の語りはアメリカ文学によく見られるものです。
この小説では、16歳の「僕」の住むアメリカ南部の小さな町とその町の外にひろがる草原や森が舞台となっていて、そこでなされた楽しく、またときに怖い、そして悲しい経験が、呼びもどされた少年時の視点と感受性でもってみずみずしくかつノスタルジックに語られています。
そのあたりはアメリカ文学ならではの読書体験ができます。
そして、物語では絡み合う2本の大きなムクロジの木と木に渡されたツリーハウス(「木の葉の海に漂う筏」という比喩で語られ、大雨でも葉の茂みで雨に濡れないとあって、たぶん低い柵はあっても屋根がなく、木の上に床だけが設えられているようなので正確にはツリーデッキというべきなのでしょう)が重要な舞台となっていて、同じく少年たちが主人公で、ツリーハウスが出てくる、スティーブン・キング原作の映画『スタンド・バイ・ミー』が想い出されたりもします。
まあツリーハウスは秘密基地のようなものとして少年が抱く永遠の夢でもあるわけです。小説にはさらに、コリンが慕う、ほんの少し年上ながら大人っぽいライリーは、河辺に捨てられたハウスボートを「隠れ家」にしていて、こういう「隠れ家」も少年が憧れるものです。
いっぽう、コリンが住むドリーとヴェリーナの姉妹の家にはキャサリンという黒人メイド(?)がいて、コリンらとほとんど同等の関係、家族同然の関係にあるかのように描かれています。
このような関係は、昔読んだ同じ作者の『遠い声 遠い部屋』にもたしかあったと記憶しているし、また数年前に読みかえしたカポーティと同じ南部出身のカースン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』にも見られるもので、南部の町が舞台ながらもあたかもそこには黒人差別がないかのような描かれかたがなされていて(キャサリンが住む家は別になっているようですが)、このあたり以前より不思議な感じがしています。
南北戦争前にアメリカを見聞したフランスの政治家トクヴィルは、アメリカでは南部よりも北部のほうが黒人差別がひどいと書いていますが、まあ北部のひとたちは、ふだん見なれない、当然話したこともない黒人へのある種ゼノフォビア(異人恐怖)的なものがたぶんあったのにたいして、南部では小さいときからの長い関係もあって家族の一員のように見なされるということがあったのかもしれません。
それにしても、主人公が少年であるとか文体が詩的情趣に富んでいるとか、あるいは登場人物のなかのひとりが死ぬなどの点で『遠い声 遠い部屋』(1948年)とよく似たところがあります。
どちらもカポーティが文壇デビューしたばかりの時代の創作なので当然作風とか文体で共通するものがあるのでしょうが、『遠い声』のほうは何やら謎めいていて暗い雰囲気をたたえた物語であるのにたいして、こちら『草の竪琴』(1951年)は、光と風、草と水そして色や匂いにあふれ、明るく、いくらかユーモアさえふくんだ小説です。
また、16歳のコリンが恋する(!)ドリーは、60歳くらいの老嬢ながら、魔女のように薬草に通じていて、しかもどこか妖精のような、また少女のような存在として描かれているなど、物語じたいがどこか軽くファンタジーめいたところもあります。
そしてドリー、コリン、キャサリン、判事そしてライリーの5人が集うムクロジの木の上に、いっとき魔法のように楽しく幸福な時間が訪れるのですが、いくつかの暴力めいた出来事が木のもとに押しよせ、魔法がとけてしまうように木の上の幸福は吹きはらわれてしまいます。
そして最後、ひとつの死という厳粛で重いエピソードが物語をしめくくり、主人公のアドレッセンスに終わりを告げます。
(軽いものにとても重いものを対置ないし並置させるのは、まあ村上春樹がカポーティなどのアメリカ文学に学んだ小説手法にもなっていますね)
いうまでもなく少年「僕」によるこの一人称体の語りはアメリカ文学によく見られるものです。
この小説では、16歳の「僕」の住むアメリカ南部の小さな町とその町の外にひろがる草原や森が舞台となっていて、そこでなされた楽しく、またときに怖い、そして悲しい経験が、呼びもどされた少年時の視点と感受性でもってみずみずしくかつノスタルジックに語られています。
そのあたりはアメリカ文学ならではの読書体験ができます。
そして、物語では絡み合う2本の大きなムクロジの木と木に渡されたツリーハウス(「木の葉の海に漂う筏」という比喩で語られ、大雨でも葉の茂みで雨に濡れないとあって、たぶん低い柵はあっても屋根がなく、木の上に床だけが設えられているようなので正確にはツリーデッキというべきなのでしょう)が重要な舞台となっていて、同じく少年たちが主人公で、ツリーハウスが出てくる、スティーブン・キング原作の映画『スタンド・バイ・ミー』が想い出されたりもします。
まあツリーハウスは秘密基地のようなものとして少年が抱く永遠の夢でもあるわけです。小説にはさらに、コリンが慕う、ほんの少し年上ながら大人っぽいライリーは、河辺に捨てられたハウスボートを「隠れ家」にしていて、こういう「隠れ家」も少年が憧れるものです。
いっぽう、コリンが住むドリーとヴェリーナの姉妹の家にはキャサリンという黒人メイド(?)がいて、コリンらとほとんど同等の関係、家族同然の関係にあるかのように描かれています。
このような関係は、昔読んだ同じ作者の『遠い声 遠い部屋』にもたしかあったと記憶しているし、また数年前に読みかえしたカポーティと同じ南部出身のカースン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』にも見られるもので、南部の町が舞台ながらもあたかもそこには黒人差別がないかのような描かれかたがなされていて(キャサリンが住む家は別になっているようですが)、このあたり以前より不思議な感じがしています。
南北戦争前にアメリカを見聞したフランスの政治家トクヴィルは、アメリカでは南部よりも北部のほうが黒人差別がひどいと書いていますが、まあ北部のひとたちは、ふだん見なれない、当然話したこともない黒人へのある種ゼノフォビア(異人恐怖)的なものがたぶんあったのにたいして、南部では小さいときからの長い関係もあって家族の一員のように見なされるということがあったのかもしれません。
それにしても、主人公が少年であるとか文体が詩的情趣に富んでいるとか、あるいは登場人物のなかのひとりが死ぬなどの点で『遠い声 遠い部屋』(1948年)とよく似たところがあります。
どちらもカポーティが文壇デビューしたばかりの時代の創作なので当然作風とか文体で共通するものがあるのでしょうが、『遠い声』のほうは何やら謎めいていて暗い雰囲気をたたえた物語であるのにたいして、こちら『草の竪琴』(1951年)は、光と風、草と水そして色や匂いにあふれ、明るく、いくらかユーモアさえふくんだ小説です。
また、16歳のコリンが恋する(!)ドリーは、60歳くらいの老嬢ながら、魔女のように薬草に通じていて、しかもどこか妖精のような、また少女のような存在として描かれているなど、物語じたいがどこか軽くファンタジーめいたところもあります。
そしてドリー、コリン、キャサリン、判事そしてライリーの5人が集うムクロジの木の上に、いっとき魔法のように楽しく幸福な時間が訪れるのですが、いくつかの暴力めいた出来事が木のもとに押しよせ、魔法がとけてしまうように木の上の幸福は吹きはらわれてしまいます。
そして最後、ひとつの死という厳粛で重いエピソードが物語をしめくくり、主人公のアドレッセンスに終わりを告げます。
(軽いものにとても重いものを対置ないし並置させるのは、まあ村上春樹がカポーティなどのアメリカ文学に学んだ小説手法にもなっていますね)
するめいか
あんまりおもしろくない? いや、文章はめちゃくちゃうまいですよ。おもしろくないわけがないし、でもカポーティは「誕生日の子供」みたいな短編のほうがうまいんじゃないか、と思えなくもない。
カポーティを全部読んでいるわけじゃないし、この作品の欠点もわからない。というか、人物が多すぎると思うのは僕だけか。何がそんなに気にいらないのかよくわからない。つまらないはずないのに。カポーティが天才だということはわかる、「冷血」も「夜の樹」もこれから読もうと思っているが、きっとこっちはそういう話じゃないはず。
草の竪琴には、詩的な文体のなかに漂う悪夢のような感傷とリアリズムと絶望感を感じられなかったのは、僕だけか?
カポーティを全部読んでいるわけじゃないし、この作品の欠点もわからない。というか、人物が多すぎると思うのは僕だけか。何がそんなに気にいらないのかよくわからない。つまらないはずないのに。カポーティが天才だということはわかる、「冷血」も「夜の樹」もこれから読もうと思っているが、きっとこっちはそういう話じゃないはず。
草の竪琴には、詩的な文体のなかに漂う悪夢のような感傷とリアリズムと絶望感を感じられなかったのは、僕だけか?
羽後燦樹
多才という形容はトルーマン・カポーティにこそ用意された言葉かもしれない。
日本での代表作「ティファニーで朝食を」に始まり、世界的ベストセラー「冷血」、初期の短編たち、様々なスケッチもの…。
そのいずれもが、それぞれ異なる特異な作風(雰囲気、言葉の選択、文体、扱うテーマ等々)をもっている。
一人の作家がこれほどまでに多様な引き出しをもっているというのはちょっとない。
その中で本書。
よく言われるように自伝的要素を持ち、登場人物の造形にも実在の人物が色濃く投影されているという。
カポーティ27歳に世に出た作品で、このノスタルジックさは年齢からしてちょっと老成しすぎかな、とも思うが、そこは「早熟の天才」のなせる技でしょう。
主人公の、俗世間にうまく馴染めぬ人々との暮らしと、そこを捨てて社会に船出していくまでを描いた「旅立ちの物語」とも解釈できて、こうしたテーマもカポーティの持ちネタの一つ。
詩情溢れる文体と相俟って比較的馴染みやすい一作。
個人的にはカポーティの中長編では一番面白いんじゃないかなぁ。■
日本での代表作「ティファニーで朝食を」に始まり、世界的ベストセラー「冷血」、初期の短編たち、様々なスケッチもの…。
そのいずれもが、それぞれ異なる特異な作風(雰囲気、言葉の選択、文体、扱うテーマ等々)をもっている。
一人の作家がこれほどまでに多様な引き出しをもっているというのはちょっとない。
その中で本書。
よく言われるように自伝的要素を持ち、登場人物の造形にも実在の人物が色濃く投影されているという。
カポーティ27歳に世に出た作品で、このノスタルジックさは年齢からしてちょっと老成しすぎかな、とも思うが、そこは「早熟の天才」のなせる技でしょう。
主人公の、俗世間にうまく馴染めぬ人々との暮らしと、そこを捨てて社会に船出していくまでを描いた「旅立ちの物語」とも解釈できて、こうしたテーマもカポーティの持ちネタの一つ。
詩情溢れる文体と相俟って比較的馴染みやすい一作。
個人的にはカポーティの中長編では一番面白いんじゃないかなぁ。■