もし、あなたが自殺を考えていて、いますぐ死ぬ必要がないのならば、この解説文を読んでいただけないだろうか。
おそらく重大なる理由があって自殺するのだから、あなたには充分に自殺する権利があるだろうが、ここでは、生涯をかけて『自殺について』考えぬいた小説家、カミュの哲学を紹介させていただきたい。
カミュは本作で、『哲学のあつかうべき問題は自殺についてのみだ』というようにいって、自殺の是非を問うているが、いかんせん、文章が難解すぎて、いますぐ自殺しようとしているかたがたを納得させることはできないとおもわれる。
そこで、僭越ながら、愚生なりに、カミュのいわんとしているところを、いささかの誤謬を覚悟して、この解説文に簡単にまとめたい。
――
カミュがいうには、この世界は最悪である。
カミュは当時の言葉で『不条理な世界』といっているが、いってみれば『くそったれの世界』である。
人類は戦争をするし、願った夢は叶わないし、生きるためには死に物狂いで働かなければならないし、それでなくても、大自然は、大地震や大洪水や台風などで我我をおそってくる。
つまり、『我我にとって世界は究極の敵』なのである。
となると、『世界は我我に死んでほしいと考えている』のとおなじなので『我我が自殺することは、世界を否定することではなく、世界を肯定すること』になってしまう。
我我が自殺することで『くそったれの世界さん。わたしはあなたに負けました。なのでわたしは死にます。ほんとうにあなたは強いですね』と『世界と握手する』ことになってしまうのだ。
ゆえに、カミュは『よく生きなくてもいいから、ただ生きてくれ』と我我をはげます。
引きこもりでも、ニートでも、障碍者でも、生活保護受給者でも、生涯童貞でも、凶悪犯罪者になろうとも、『ただ生きていること』が『世界を否定すること』であり『世界に勝つこと』になるのだ。
たとえば、カミュは、『自殺者の対義語は死刑囚である』という。
なぜかといえば、『死刑囚はきょう死刑にされるとしても死刑にされるまで生きている(自殺しない)から』だ。
結局のところ、カミュにとって『世界がくそったれ』であることが『生きる理由になる』とおもわれた。
世界、つまり存在するすべてを『否定』すれば、世界を否定した『自分』を『肯定』することになる。
そうなると、カミュいわく『世界にふくまれている希望や未来も失う』が、宗教や道徳や、(推奨はできないが)場合によっては法律なども度外視して、『我我は自由に生きてよい』ことになる。
このようにして、『世界』という敵を『無意味』だと否定するとき、我我は『世界』と対等に闘うことになり、『世界』のすべてと同等に『強い』ことになる。
『世界は無意味だ』と意識することで、『我我ははじめて本当に生きる』ことになるわけだ。
仕事をしているとき、勉強をしているとき、家事をしているとき、我我はふと『世界の無意味さ』に気付く。
このように我我が『世界が無意味だと意識』したとき、『その真実を無視』して生存してゆくか、『意識しつづけて』生きてゆくかが問われるとカミュは論じる。
自殺志願者は、『世界は無意味だ』とたしかに『意識』している点において、『本当に生きているのだ(『不条理な人間』)』とカミュはいう。
たとえば、自殺したいとおもっている読者諸賢のようにである。
――
もっと、わかりやすく説明できればよいのだが、無知蒙昧なる愚生にはこれが限界である。
愚生の説明で納得できるかたは、50歳から漫画家を目指してもよいし、いじめっこのいる学校を中退して独自に學問をきわめるのもよいし、なにをしようと自由だ。
が、そう簡単には納得できないぞ、だまされないぞ、というかたには、本書は役に立たないだろう。
といえども、もしかしたら、本書や愚生のへたくそな解説で、あなたが自殺するのを、一時間でも先延ばしにできるかもしれない。
『生きた質ではなく、生きた量が重要なのだ』とカミュのいうとおり、一時間生きれば、一時間分の生きる意味はあたえられたのだ。
――
最後になるが、愚生自身、自閉症スペクトラムと統合失調症と軽度の鬱病に罹患しており、人生で二回、首を吊って、奇蹟的に(あるいは不幸なことに)生存した過去がある。
以来、愚生の自殺願望はなくならなかったが、偶然、本書『シーシュポスの神話』を購入し、元来、哲学がすきだったので、熟読しているうちに、上記のように内容が理解され、冗談ではなく、実際に自殺願望はほとんどなくなった。
なので、今回、おなじような境遇のかたのために本書を紹介しようとおもったのである。
が、やはり、内容がむずかしすぎて、どこまで諸賢の役に立てるかわからない。
ねがわくば、哲学の専門家によって、『自殺をかんがえているかたがた』にむけた『本書の解説書』を書いてもらいたいものだ。
そうすれば、上記の愚生の解説などより、よほどおおくのひとのこころにカミュの考えがとどくだろう。
『思い煩うことはない。人生は無意味なのだ!』
――サマセット・モーム
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シーシュポスの神話 (新潮文庫) 文庫 – 1969/7/17
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不条理を発見したものは、だれでも、
なにか「幸福への手引」といったものを書きたい気持になるものだ――。
わずか8頁の評論に全世界が感動した。天才カミュの神髄。
神々がシーシュポスに科した刑罰は大岩を山頂に押しあげる仕事だった。だが、やっと難所を越したと思うと大岩は突然はね返り、まっさかさまに転がり落ちてしまう――。
本書はこのギリシア神話に寓してその根本思想である“不条理の哲学”を理論的に展開追究したもので、カミュの他の作品ならびに彼の自由の証人としてのさまざまな発言を根底的に支えている立場が明らかにされている。用語、背景などについての詳細な注解、および作品解説を付した。
【目次】
不条理な論証(不条理と自殺/不条理な壁/哲学上の自殺/不条理な自由)
不条理な人間(ドン・ファンの生き方/劇/征服)
不条理な創造(哲学と小説/キリーロフ/明日をもたぬ創造)
シーシュポスの神話
[付録]フランツ・カフカの作品における希望と不条理
訳者あとがき
本書「訳者付記」より「不条理」について
普通のフランス語としては、absurdeとは「なんとも筋道の通らない」「意味をなさない」「荒唐無稽な」という意味である。つまり、論理や常識を破っているばかりか、それ自体として矛盾しているためとても考えられないような状態や行為について言われる言葉である。それは「不合理な」とか「非論理的な」というのともちがう。たとえていえば、水に濡れないつもりで川のなかに跳びこむ――それがabsurdeな行為なのだ。
カミュ Camus, Albert(1913-1960)
アルジェリア生れ。フランス人入植者の父が幼時に戦死、不自由な子供時代を送る。高等中学(リセ)の師の影響で文学に目覚める。アルジェ大学卒業後、新聞記者となり、第2次大戦時は反戦記事を書き活躍。またアマチュア劇団の活動に情熱を注ぐ。1942年『異邦人』が絶賛され、『ペスト』『カリギュラ』等で地位を固めるが、1951年『反抗的人間』を巡りサルトルと論争し、次第に孤立。以後、持病の肺病と闘いつつ、『転落』等を発表。1957年ノーベル文学賞受賞。1960年1月パリ近郊において交通事故で死亡。
清水徹
1931年、東京生れ。東大仏文科卒。明治学院大学教授。『廃墟について』等の著書、カミュ、ビュトール『時間割』(クローデル賞)、『ヴァレリー全集』(編・分担訳)等の訳書がある。
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わずか8頁の評論に全世界が感動した。天才カミュの神髄。
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本書はこのギリシア神話に寓してその根本思想である“不条理の哲学”を理論的に展開追究したもので、カミュの他の作品ならびに彼の自由の証人としてのさまざまな発言を根底的に支えている立場が明らかにされている。用語、背景などについての詳細な注解、および作品解説を付した。
【目次】
不条理な論証(不条理と自殺/不条理な壁/哲学上の自殺/不条理な自由)
不条理な人間(ドン・ファンの生き方/劇/征服)
不条理な創造(哲学と小説/キリーロフ/明日をもたぬ創造)
シーシュポスの神話
[付録]フランツ・カフカの作品における希望と不条理
訳者あとがき
本書「訳者付記」より「不条理」について
普通のフランス語としては、absurdeとは「なんとも筋道の通らない」「意味をなさない」「荒唐無稽な」という意味である。つまり、論理や常識を破っているばかりか、それ自体として矛盾しているためとても考えられないような状態や行為について言われる言葉である。それは「不合理な」とか「非論理的な」というのともちがう。たとえていえば、水に濡れないつもりで川のなかに跳びこむ――それがabsurdeな行為なのだ。
カミュ Camus, Albert(1913-1960)
アルジェリア生れ。フランス人入植者の父が幼時に戦死、不自由な子供時代を送る。高等中学(リセ)の師の影響で文学に目覚める。アルジェ大学卒業後、新聞記者となり、第2次大戦時は反戦記事を書き活躍。またアマチュア劇団の活動に情熱を注ぐ。1942年『異邦人』が絶賛され、『ペスト』『カリギュラ』等で地位を固めるが、1951年『反抗的人間』を巡りサルトルと論争し、次第に孤立。以後、持病の肺病と闘いつつ、『転落』等を発表。1957年ノーベル文学賞受賞。1960年1月パリ近郊において交通事故で死亡。
清水徹
1931年、東京生れ。東大仏文科卒。明治学院大学教授。『廃墟について』等の著書、カミュ、ビュトール『時間割』(クローデル賞)、『ヴァレリー全集』(編・分担訳)等の訳書がある。
- 本の長さ257ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日1969/7/17
- 寸法14.8 x 10.5 x 2 cm
- ISBN-104102114025
- ISBN-13978-4102114025
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登録情報
- 出版社 : 新潮社; 改版 (1969/7/17)
- 発売日 : 1969/7/17
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 257ページ
- ISBN-10 : 4102114025
- ISBN-13 : 978-4102114025
- 寸法 : 14.8 x 10.5 x 2 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 19,451位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 3位フランスのエッセー・随筆
- - 13位フランス文学研究
- - 452位新潮文庫
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2023年6月16日に日本でレビュー済み
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2021年6月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
カミュが不条理を追求しながら救いを求めているようで、明るくもあり、諦めているようでもあり、二律背反を抱えている人だと思いました。
2021年5月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
不条理というテーマで一冊が構成されている。シーシュポスの神話は最後の10ページほどで、前半からの不条理の論考を象徴的にとらえた物語として掲載。不条理とは訳者清水氏の註釈があり、ここでは不合理とか非論理という意味ではない。フランス語 l'absurde不条理の意味は、この世界が理性では割り切れず、さらに人間の奥底にある明晰を求める願望があり、この両者が相対峙したままの状態で、対立関係がそのままになっていることをいう。生の悦びを受けながらも、その裏には常に死の暗い影が潜んでいるという対立したものが同時にあるという意味である。
だから現代社会でよく使われる社会的な正義に反するとか、論理を無視した暴力、倫理観に反する行為などとは意味合いが違う。
カミュはこの不条理(な状態)を称揚している。逆に不条理を受け入れずに、神(宗教)にすぐに助けを求めることに批判的である。そして不可能(不条理)を可能にしようとする人間を超越した発想に疑問符をつける。
カミュはシーシュポスの神話で語られるような、人間の無益で無意味な労役、苦痛を伴う生に、粛々と立ち向かう姿勢に賛意を示す。
シェストフは人間の判断する限り突破口など存在しないと言い放ち、人間の領分を明確にしようとする。
生と自殺についても芯の強い論考がなされている。意識的であり続け反抗を貫くのは自己放棄とは真逆だという。心の中にある熱情が人生に立ち向かわせる。この反抗に和解することなく死ぬことが重要であって、すすんで死ぬことではない。不条理な人間は極限の緊張と孤独な努力の中にある(p98)。
人生の意義は本当に必要なのか、という問いかけにも不条理が関わる。不条理は対立するものが同じところにあることだが、どちらか一方に依り、どちらか一方を棄てることは、不条理から逃げることになるという。p95に人生は意義がなければないほうがよりよく生きられると言明する。力強い。対立する一方を執る(意義を見出だす)のではなく、対立したままの状態を運命として受け入れる。この発想は禅でいう両忘(りょうもう)の状態に近いだろうか。ちょっとそんな気がした。
シーシュポスの神話は『前哲学的』(内田)や『世界は贈与でできている』(近内)でも取り上げられている。
岩を山の頂上に押し上げる姿は絵画のテーマとしても多く扱われる。ティツィアーノ、フレデリック・ジョン、ベッキア、ザンキ、シュトックの絵はどれも筋骨隆々のシーシュポスが描かれている。顔が隠れ、繰り返す徒労に絶望しているような、暗澹とした表現である。フレデリック・ジョンのシーシュポスは力強い表情で自分の倍以上もある岩を背負い、絶望とは違った印象である。カミュは神の罰を前に徒労と絶望を見たのではなく、あらゆるものを受け入れ、そのすべてに「これでよし」と宣言する、不撓不屈の精神をシーシュポスに見た。特に全精力を傾けて岩を押し上げている瞬間よりも、頂上まで行って岩が再び麓に転がり落ちた後、山をくだるシーシュポスに焦点を当てる。そこで不毛な繰り返しの運命を悟り、すべてを見渡し理解する姿にシーシュポスの不条理的な精神を思うのである。つまり自己に絶望するのではなく、運命を受け入れ立ち向かう勝利者として。神々のプロレタリアートと表現しているところは当時の世相を反映しているだろうか。いやむしろ資本主義が強固になった現代の労働環境にこそよく当てはまるのは、シーシュポスへの共感からも感じられる。
『前哲学的』ではカミュのいう不条理とニーチェのいう「神は死んだ」、ハイデガーのいう「世界の無意義性の自覚」として、同じような概念であることを示してくれる(その他ヤスパースの限界状況、サルトルの吐き気など)。つまり第一次世界大戦前まで存在したヨーロッパの安定は戦争によって破壊され規範喪失(=カミュのいう不条理)となり、予定調和的な世界が失われたために、これらの思想が次々に生まれたという。『世界は贈与でできている』ではシーシュポスが岩を押し上げる行為が、世界の均衡が保たれる様にたとえる。一見無意味に見える行為(岩を押し上げ、転がり落ち、また押し上げるような)が、実は世界を保っていると示唆する。頂上の一点に(それはほんの一瞬であっても)押し上げとどまるという安定と、再び転がり落ちるという混乱。またゆっくりと押し上げ安定に向かう。シーシュポスの不断の行為は人間そのものの営みだとする。
シーシュポスはギリシャ神話では英雄オデュッセウスの実の父と云われ、また一面狡猾な性格もあわせ持つ。カミュが勝利者として高らかにうたいあげるほど、美麗な人間ではないかもしれないが、人間の本質を示しているようでおもしろい。無意味な人生に絶望するのではなく、また意味を失って絶望するのではなく、むしろその無意味なことこそ人生なのだと勇気をくれるのである。予定調和が成り立たたない世では、全力で大岩を持ち上げるように瞬間瞬間を充実させて生きることも、人間の本質の一面なのだと気づかせてくれる。
だから現代社会でよく使われる社会的な正義に反するとか、論理を無視した暴力、倫理観に反する行為などとは意味合いが違う。
カミュはこの不条理(な状態)を称揚している。逆に不条理を受け入れずに、神(宗教)にすぐに助けを求めることに批判的である。そして不可能(不条理)を可能にしようとする人間を超越した発想に疑問符をつける。
カミュはシーシュポスの神話で語られるような、人間の無益で無意味な労役、苦痛を伴う生に、粛々と立ち向かう姿勢に賛意を示す。
シェストフは人間の判断する限り突破口など存在しないと言い放ち、人間の領分を明確にしようとする。
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シーシュポスの神話は『前哲学的』(内田)や『世界は贈与でできている』(近内)でも取り上げられている。
岩を山の頂上に押し上げる姿は絵画のテーマとしても多く扱われる。ティツィアーノ、フレデリック・ジョン、ベッキア、ザンキ、シュトックの絵はどれも筋骨隆々のシーシュポスが描かれている。顔が隠れ、繰り返す徒労に絶望しているような、暗澹とした表現である。フレデリック・ジョンのシーシュポスは力強い表情で自分の倍以上もある岩を背負い、絶望とは違った印象である。カミュは神の罰を前に徒労と絶望を見たのではなく、あらゆるものを受け入れ、そのすべてに「これでよし」と宣言する、不撓不屈の精神をシーシュポスに見た。特に全精力を傾けて岩を押し上げている瞬間よりも、頂上まで行って岩が再び麓に転がり落ちた後、山をくだるシーシュポスに焦点を当てる。そこで不毛な繰り返しの運命を悟り、すべてを見渡し理解する姿にシーシュポスの不条理的な精神を思うのである。つまり自己に絶望するのではなく、運命を受け入れ立ち向かう勝利者として。神々のプロレタリアートと表現しているところは当時の世相を反映しているだろうか。いやむしろ資本主義が強固になった現代の労働環境にこそよく当てはまるのは、シーシュポスへの共感からも感じられる。
『前哲学的』ではカミュのいう不条理とニーチェのいう「神は死んだ」、ハイデガーのいう「世界の無意義性の自覚」として、同じような概念であることを示してくれる(その他ヤスパースの限界状況、サルトルの吐き気など)。つまり第一次世界大戦前まで存在したヨーロッパの安定は戦争によって破壊され規範喪失(=カミュのいう不条理)となり、予定調和的な世界が失われたために、これらの思想が次々に生まれたという。『世界は贈与でできている』ではシーシュポスが岩を押し上げる行為が、世界の均衡が保たれる様にたとえる。一見無意味に見える行為(岩を押し上げ、転がり落ち、また押し上げるような)が、実は世界を保っていると示唆する。頂上の一点に(それはほんの一瞬であっても)押し上げとどまるという安定と、再び転がり落ちるという混乱。またゆっくりと押し上げ安定に向かう。シーシュポスの不断の行為は人間そのものの営みだとする。
シーシュポスはギリシャ神話では英雄オデュッセウスの実の父と云われ、また一面狡猾な性格もあわせ持つ。カミュが勝利者として高らかにうたいあげるほど、美麗な人間ではないかもしれないが、人間の本質を示しているようでおもしろい。無意味な人生に絶望するのではなく、また意味を失って絶望するのではなく、むしろその無意味なことこそ人生なのだと勇気をくれるのである。予定調和が成り立たたない世では、全力で大岩を持ち上げるように瞬間瞬間を充実させて生きることも、人間の本質の一面なのだと気づかせてくれる。
2020年4月10日に日本でレビュー済み
私はカミュの作品は「異邦人」のみ読みました。哲学(史)の知識は教養程度です。
途中まで読みましたが、話の論理展開の飛躍が多く難解。
翻訳が酷いのかと思いましたが、“改版あとがき”を見ると、どうやらそうでもないらしい。この著書は“若書き”であり“哲学エッセー”であると書いてある。訳者の解説通り、抽象的で、論理的な飛躍が多く、叙情的。
なので"哲学書"として身構えず、"哲学者が書いたエッセー"として気軽に、しかし真摯に読んで見ようと思います。
たまには難解 ≒ 読者に不親切 な本を読むのもいいものです。世の中には頭を使わない、親切すぎる本が多いので...
途中まで読みましたが、話の論理展開の飛躍が多く難解。
翻訳が酷いのかと思いましたが、“改版あとがき”を見ると、どうやらそうでもないらしい。この著書は“若書き”であり“哲学エッセー”であると書いてある。訳者の解説通り、抽象的で、論理的な飛躍が多く、叙情的。
なので"哲学書"として身構えず、"哲学者が書いたエッセー"として気軽に、しかし真摯に読んで見ようと思います。
たまには難解 ≒ 読者に不親切 な本を読むのもいいものです。世の中には頭を使わない、親切すぎる本が多いので...
2020年8月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
カミュ若き日の激情が迸り出るような筆致の試論的作品だが、多くの哲学者、宗教者などの説を論破するために、やや机上の論理をこね回している感は否めない。しかし彼の不条理哲学や死への考察は、より具体性を帯びた小説や舞台作品に昇華されて大きく実を結ぶことになる。その意味では後半部の『ドン・ファンの生き方』以降がより理解し易い。本書はむしろカミュの他の幾つかの作品を読んでからお薦めしたい。そうでなければ理論の抽象性に振り回されて、彼の言わんとしていることを把握することが困難である筈だ。
カミュはキリスト教とも距離を保っていた。このことは『異邦人』の主人公ムルソーが死刑執行の迫る獄中で、司祭の面会を断り続けたことや、『ペスト』でのパヌルー神父と一線を画していた医師リウーの哲学に良く表れている。思考することは統一することではなく、唯一絶対の真理など存在しない、多数の真理があるだけと言い、ドストエフスキーの『悪霊』からキリーロフの想像を挙げている。つまりイエスは死んでみたら、自分が天国にはいってはいないということに気がついた、そしてイエスは自分の受難がむだだったと悟ったという空想だ。そしてイエスと同じように、ぼくらはだれでも、十字架の上で自分はいま天国にいると思いちがいをしていることがありうるということを肯定しているのだ。またカミュ自身役者として舞台に立ったこともある経験から『フランツ・カフカの作品における希望と不条理』の項で、俳優は悲劇的人物を演ずるにあたって、誇張を避ければ避けるほど、それだけその人物を力づよく表現できるとしている。運命の必然性を冷徹に、普段の日常生活の枠の中で証明されるならば、その時戦慄が決定的に襲ってくる。いずれも興味深い考察だ。
カミュはキリスト教とも距離を保っていた。このことは『異邦人』の主人公ムルソーが死刑執行の迫る獄中で、司祭の面会を断り続けたことや、『ペスト』でのパヌルー神父と一線を画していた医師リウーの哲学に良く表れている。思考することは統一することではなく、唯一絶対の真理など存在しない、多数の真理があるだけと言い、ドストエフスキーの『悪霊』からキリーロフの想像を挙げている。つまりイエスは死んでみたら、自分が天国にはいってはいないということに気がついた、そしてイエスは自分の受難がむだだったと悟ったという空想だ。そしてイエスと同じように、ぼくらはだれでも、十字架の上で自分はいま天国にいると思いちがいをしていることがありうるということを肯定しているのだ。またカミュ自身役者として舞台に立ったこともある経験から『フランツ・カフカの作品における希望と不条理』の項で、俳優は悲劇的人物を演ずるにあたって、誇張を避ければ避けるほど、それだけその人物を力づよく表現できるとしている。運命の必然性を冷徹に、普段の日常生活の枠の中で証明されるならば、その時戦慄が決定的に襲ってくる。いずれも興味深い考察だ。