プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
体の贈り物 (新潮文庫) 文庫 – 2004/9/29
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥693","priceAmount":693.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"693","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"r0WX4eQICm6rN3JR6z9QWFUfReV4loCM0hnUaUPBK%2BR91gRcu2Uwu5oE0uLqxWz2aEUKl%2FkFQLgC1%2BFycUSUx%2BwxK0Y%2FE4qf%2BIS6wvp0ZZmuUF4wp3OAjy0CczH%2BWbp1","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}]}
購入オプションとあわせ買い
食べること、歩くこと、泣けること……重い病に侵され、日常生活のささやかながら、大切なことさえ困難になってゆくリック、エド、コニー、カーロスら。私はホームケア・ワーカーとして、彼らの身のまわりを世話している。死は逃れようもなく、目前に迫る。失われるものと、それと引き換えのようにして残される、かけがえのない十一の贈り物。熱い共感と静謐な感動を呼ぶ連作小説。
- 本の長さ228ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2004/9/29
- 寸法14.8 x 10.5 x 2 cm
- ISBN-104102149317
- ISBN-13978-4102149317
よく一緒に購入されている商品
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2004/9/29)
- 発売日 : 2004/9/29
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 228ページ
- ISBN-10 : 4102149317
- ISBN-13 : 978-4102149317
- 寸法 : 14.8 x 10.5 x 2 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 197,310位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年8月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
dearにっぽんで紹介された本を購入。読みやすくてドラマを観ているみたいでした
2005年4月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
無駄のない文章ってこういうことをいうのだろうか。
話としてはエイズ患者の支援をしているヘルパーの日常。
相当重い話であることは間違いないのだけれど。
それを一切の無駄を省き書き連ねている。
そして、こういう状態で日々を過ごしている人たちがいることも教えてくれている。
病んだ人とそれを支援する人。
残り少ない時間をそれぞれの人がそれぞれの過ごし方をしている。
ここにもコミュニケーションがある。
話としてはエイズ患者の支援をしているヘルパーの日常。
相当重い話であることは間違いないのだけれど。
それを一切の無駄を省き書き連ねている。
そして、こういう状態で日々を過ごしている人たちがいることも教えてくれている。
病んだ人とそれを支援する人。
残り少ない時間をそれぞれの人がそれぞれの過ごし方をしている。
ここにもコミュニケーションがある。
2021年4月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
・本書は、1994年刊行の短篇小説集で、当時、まだよい治療薬がなかった感染症・AIDSにまつわる11のエピソードをつないでゆく。物語の語り手は、あるボランティア団体に所属するホームケア・ワーカーで、彼女は、どんなにシビアな状況にも冷静に行動する。ホームケア・ワーカーは、小説中でホームケア・エイドとも呼ばれ、身体介護、掃除・洗濯、調理、服薬管理などの援助を行うボランティアのホームヘルパーのことらしい。物語の11のエピソードは、死と隣り合わせの人生という深刻なテーマを扱っていて、クライアントの身の処し方を巡り、普通の人の叡智を目撃したかのような静謐な感銘を与える。
・第1番目の短篇「汗の贈り物」で、ホームケア・ワーカーの「私」は、クライアントのリックを訪問する際、事前に、彼に電話をかけて、途中で買って来てほしいものを聞くようにしている。「私」がよく買って行ったものは、リックのアパートの近所の<ホステス>という店のシナモンロール。リックの大好物の柔らかくて粘りっ気のあるシナモンロールだ。ある朝、リックは、電話で「今日は要らないんだ!」「君が手ぶらで来てくれればいいんだ。びっくりさせるものがあるんだよ!」と元気そうにいう。けれど、「私」がアパートを訪問すると、リックは体調が急変していて、リビングルームで横になり、「寒い」と体を丸めていた。「私」の同僚のマーガレットが車で迎えに来てくれて、リックを病院へ連れて行く。「私」がマーガレットに一緒に行こうかと聞くと、彼女は、大丈夫とその申し出を断る(以下、文頭に「・」の記号がないものが引用文)。
「あとで電話する」とマーガレットは言った。そして片手を上げて、私の頬に触った。「濡れてる」と彼女は言った。
私は自分の顔に触ってみた。濡れていた。「あとで話、聞かせてね」と私はマーガレットに言った。
・この「濡れてる」という描写の部分で、レビュアーは、最初に、おやと思った。ここには、「汗」や「涙」といった文字が見当らないが、頬が濡れていたのは何のせいなのだろうか。後日、短篇「希望の贈り物」のラストで、「私」は、この何気ないワンシーンを回想することになるが、本書には、この手の肝心な部分が描写されないことが多い。そして、そういう肝心な部分が描写されない文体といえば、おそらく、ヘミングウェイが手本だったに違いない。作者のレベッカ・ブラウンは、アメリカ西海岸のシアトル在住の作家で、効果的な「省略」を駆使した簡潔な文体を志向しているようだ。
私はリックの部屋に戻っていった。なかに入ってドアを閉めると、その匂いがわかった。それはかすかな、すっぱい匂いだが、少し甘くもある。リックの汗の匂いだ。
私は掃除をはじめた。いつもならキッチンからやるのだが、キッチンに足を踏み入れて、キッチンテーブルを見たとたん、駄目だ、と思った。回れ右して、少しのあいだ廊下に立って息を止めていた。しばらくして、息を吐き出した。
・これはリックの部屋のようすと彼の汗の匂いを感じたときの描写。「駄目だ、と思った」というだけで、「私」の内心が説明されないので、うっかりすると、「私」はリックの汗の匂いが我慢ならないみたいだ。このあと、「私」が手際よく行う部屋の掃除に関する描写が続く。この掃除の作業が一段落したあとに、キッチンテーブルのようすがやっと描写されて、ああそうだったのかと、「私」の突然の反応の意味が腑に落ちる。
キッチンテーブルにあったのはこんな物だった。彼の一番お気に入りのコーヒーマグ二つ(自分用のと、かつてバリーのだったもの)。一方のマグに、挽いた豆がたっぷり入ったメリタが載せてあり、いつでもいれられるようになっている。デザート皿が二つ、その上にシナモンロール二つ。<ホステス>で買ってきた、焼き皿の真ん中にあった柔らかくて粘りっ気のあるやつだ。
・つまり、先ほどの引用文の、「キッチンテーブルを見たとたん、駄目だ、と思った。」というのは、リックの電話の「びっくりさせるもの」の正体と、その準備がどれだけ大変だったかが瞬時にわかり、「私」の気持ちが揺さぶられたということだ。リックの体調の急変は、彼が体をきれいにしようとシャワーに入ろうとしたときに起こったのだったのだけど、そもそもなぜ彼が汗をかいたのかといえば、自分の体の動作がままならないのに、近所の店へシナモンロールを買いに行くという無謀な冒険をやってのけたからだ。タイトルの「汗の贈り物」とは、直接的には、重症患者のリックがしつらえた「心づくしの食卓」を意味する。
・主人公の「私」は、クライアントの状態をいつも注意深く観察している。そのとき、「私」の内心は最小限の言葉でしか説明されないし、「私」の態度も相手と距離を置いたもののようにみえる。でも、そういう冷静な「私」のイメージが、ヘミングウェイ的な文体のせいだけかというと、それは少し違うようだ。たとえば、第2番目の短篇「充足の贈り物」で、クライアントの老婦人のミセス・リンドストロムは、夫に先立たれて、3人の子どもたちも独立し、いまは一人暮らしをしている。輸血でウイルスに感染したらしく、だんだん体の自由が利かなくなっている(ところで、本書には、主人公の「私」の性別に関する説明がどこにも見当たらない。でも、女性のクライアントへの介助は「同性介助」が原則だろうから、ミセス・リンドストロムを介助している「私」も当然女性のはず)。主人公の「私」は、そんなミセス・リンドストロムの、体の状態だけでなく、心の状態も観察している。
お湯が沸くと、彼女(注:ミセス・リンドストロム)は立ち上がった。手がやかんをぎゅっとつかむのが見えた。血管が何本も浮き上がっている。持ち上げようとして、苦労していた。手伝いましょうか、といいたかったが、まだ口を出すべきではないことはわかっていた。彼女は私をお客として扱いたがっているのだ。
・ミセス・リンドストロムは、現にホームケア・ワーカーが自宅を訪問しているという、この期に及んでも、「私をお客として扱いたがっている」。それでも、「私」は、クライアントの意思を尊重し、自己決定を側面から支援しようとして、決して出しゃばらない。本人がまだ自分の体の変化を否認し、適応できていない(いわゆる「障がい受容」が難しい段階)と判断すると、介入のタイミングが到来するのを辛抱強く待ち続ける。いま、いわゆる「障がい受容」が難しい段階、と簡単に書いたが、その人の知識・教養、ステイタスなどとは無関係な、本当に難しい問題が「障がい受容」だ。人によっては、一生かかっても解決できない難問になる。作者のキャリアには、主人公の「私」のようなホームケア・ワーカーの経験があるのだそうで、次のような描写からすると、援助の実際をよく心得た人のようだ。
そういったこと(注:プライベートな過去)をいろいろ話してくれたあと、彼女は私に、ミセス・リンドストロムではなくコニーと呼んでくれと言った。そう呼ぶのに私が慣れるには少し時間がかかったが、やがてそれも慣れた。
そして、私が彼女のことをコニーと呼ぶようになってからしばらくして、お風呂に入るのを手伝ってもらえるかと彼女が言った。これだけは最後まで自分でやってきたのだ。「ええ、もちろん」と私は言った。
・ミセス・リンドストロムには、入浴時の介助を拒むに至った、ある悲しい事情(ウイルスへの感染もその事情のためだろう)があったのだけれど、結果的に、「私」による入浴時の介助を受け入れ、久しぶりの入浴が、彼女にとって心地よい「充足の贈り物」となる。彼女は、入浴中、「ああ、気持ちいい」という言葉を漏らす。「私」は、入浴後、ミセス・リンドストロムがベッドに横になるのを手伝うと、「毛布を首まで引き上げ、小さかったころ母がしてくれたみたいに彼女の体をすっぽり包んだ」のだった。この「私」が行った一連の介助は、人が人にすることができる最高の贈り物の一つといってもよいだろう。
・レビュアーは、本書の11のエピソードのいずれにも心を打たれたが、長くなるので、ストーリーの紹介はこれくらいにしよう。ただ、補足しておきたいのは、主人公の「私」が知っている同僚は、たいてい、身近な人をAIDSで亡くした体験を持ち、それがこのタフな仕事に従事しようとした動機だったということだ。主人公の「私」の献身的・意思的な援助には、もしかすると、キリスト教的なモチーフが隠されているのかと想像しながら読んでいたが、どうやら、もっと素朴な家族愛・隣人愛のようなものだったらしい。本書の各短篇のタイトルは、「汗の贈り物」「充足の贈り物」のように、必ず「〇〇の贈り物」というパターンになっていて、「汗」「充足」のほかにも、「涙」「肌」「飢え」「動き」「死」「言葉」「姿」「希望」「悼み」といった言葉が並んでいる。タイトルに込められた作者のメッセージは、死期の迫った重症患者であっても何か贈り物をすることができるし、残される人々の受け止め方次第で心のこもった贈り物になりうるというものだと解釈したい。だから、だれかのために、ただ泣く、ということも立派な贈り物になる。死に至る病いという重たいテーマを扱う小説だが、訳者の柴田氏がいうように、「そういうのパス」「それってちょっと」と敬遠するのがもったいないくらい素晴らしい贈り物、それが本書だと思った。
・第1番目の短篇「汗の贈り物」で、ホームケア・ワーカーの「私」は、クライアントのリックを訪問する際、事前に、彼に電話をかけて、途中で買って来てほしいものを聞くようにしている。「私」がよく買って行ったものは、リックのアパートの近所の<ホステス>という店のシナモンロール。リックの大好物の柔らかくて粘りっ気のあるシナモンロールだ。ある朝、リックは、電話で「今日は要らないんだ!」「君が手ぶらで来てくれればいいんだ。びっくりさせるものがあるんだよ!」と元気そうにいう。けれど、「私」がアパートを訪問すると、リックは体調が急変していて、リビングルームで横になり、「寒い」と体を丸めていた。「私」の同僚のマーガレットが車で迎えに来てくれて、リックを病院へ連れて行く。「私」がマーガレットに一緒に行こうかと聞くと、彼女は、大丈夫とその申し出を断る(以下、文頭に「・」の記号がないものが引用文)。
「あとで電話する」とマーガレットは言った。そして片手を上げて、私の頬に触った。「濡れてる」と彼女は言った。
私は自分の顔に触ってみた。濡れていた。「あとで話、聞かせてね」と私はマーガレットに言った。
・この「濡れてる」という描写の部分で、レビュアーは、最初に、おやと思った。ここには、「汗」や「涙」といった文字が見当らないが、頬が濡れていたのは何のせいなのだろうか。後日、短篇「希望の贈り物」のラストで、「私」は、この何気ないワンシーンを回想することになるが、本書には、この手の肝心な部分が描写されないことが多い。そして、そういう肝心な部分が描写されない文体といえば、おそらく、ヘミングウェイが手本だったに違いない。作者のレベッカ・ブラウンは、アメリカ西海岸のシアトル在住の作家で、効果的な「省略」を駆使した簡潔な文体を志向しているようだ。
私はリックの部屋に戻っていった。なかに入ってドアを閉めると、その匂いがわかった。それはかすかな、すっぱい匂いだが、少し甘くもある。リックの汗の匂いだ。
私は掃除をはじめた。いつもならキッチンからやるのだが、キッチンに足を踏み入れて、キッチンテーブルを見たとたん、駄目だ、と思った。回れ右して、少しのあいだ廊下に立って息を止めていた。しばらくして、息を吐き出した。
・これはリックの部屋のようすと彼の汗の匂いを感じたときの描写。「駄目だ、と思った」というだけで、「私」の内心が説明されないので、うっかりすると、「私」はリックの汗の匂いが我慢ならないみたいだ。このあと、「私」が手際よく行う部屋の掃除に関する描写が続く。この掃除の作業が一段落したあとに、キッチンテーブルのようすがやっと描写されて、ああそうだったのかと、「私」の突然の反応の意味が腑に落ちる。
キッチンテーブルにあったのはこんな物だった。彼の一番お気に入りのコーヒーマグ二つ(自分用のと、かつてバリーのだったもの)。一方のマグに、挽いた豆がたっぷり入ったメリタが載せてあり、いつでもいれられるようになっている。デザート皿が二つ、その上にシナモンロール二つ。<ホステス>で買ってきた、焼き皿の真ん中にあった柔らかくて粘りっ気のあるやつだ。
・つまり、先ほどの引用文の、「キッチンテーブルを見たとたん、駄目だ、と思った。」というのは、リックの電話の「びっくりさせるもの」の正体と、その準備がどれだけ大変だったかが瞬時にわかり、「私」の気持ちが揺さぶられたということだ。リックの体調の急変は、彼が体をきれいにしようとシャワーに入ろうとしたときに起こったのだったのだけど、そもそもなぜ彼が汗をかいたのかといえば、自分の体の動作がままならないのに、近所の店へシナモンロールを買いに行くという無謀な冒険をやってのけたからだ。タイトルの「汗の贈り物」とは、直接的には、重症患者のリックがしつらえた「心づくしの食卓」を意味する。
・主人公の「私」は、クライアントの状態をいつも注意深く観察している。そのとき、「私」の内心は最小限の言葉でしか説明されないし、「私」の態度も相手と距離を置いたもののようにみえる。でも、そういう冷静な「私」のイメージが、ヘミングウェイ的な文体のせいだけかというと、それは少し違うようだ。たとえば、第2番目の短篇「充足の贈り物」で、クライアントの老婦人のミセス・リンドストロムは、夫に先立たれて、3人の子どもたちも独立し、いまは一人暮らしをしている。輸血でウイルスに感染したらしく、だんだん体の自由が利かなくなっている(ところで、本書には、主人公の「私」の性別に関する説明がどこにも見当たらない。でも、女性のクライアントへの介助は「同性介助」が原則だろうから、ミセス・リンドストロムを介助している「私」も当然女性のはず)。主人公の「私」は、そんなミセス・リンドストロムの、体の状態だけでなく、心の状態も観察している。
お湯が沸くと、彼女(注:ミセス・リンドストロム)は立ち上がった。手がやかんをぎゅっとつかむのが見えた。血管が何本も浮き上がっている。持ち上げようとして、苦労していた。手伝いましょうか、といいたかったが、まだ口を出すべきではないことはわかっていた。彼女は私をお客として扱いたがっているのだ。
・ミセス・リンドストロムは、現にホームケア・ワーカーが自宅を訪問しているという、この期に及んでも、「私をお客として扱いたがっている」。それでも、「私」は、クライアントの意思を尊重し、自己決定を側面から支援しようとして、決して出しゃばらない。本人がまだ自分の体の変化を否認し、適応できていない(いわゆる「障がい受容」が難しい段階)と判断すると、介入のタイミングが到来するのを辛抱強く待ち続ける。いま、いわゆる「障がい受容」が難しい段階、と簡単に書いたが、その人の知識・教養、ステイタスなどとは無関係な、本当に難しい問題が「障がい受容」だ。人によっては、一生かかっても解決できない難問になる。作者のキャリアには、主人公の「私」のようなホームケア・ワーカーの経験があるのだそうで、次のような描写からすると、援助の実際をよく心得た人のようだ。
そういったこと(注:プライベートな過去)をいろいろ話してくれたあと、彼女は私に、ミセス・リンドストロムではなくコニーと呼んでくれと言った。そう呼ぶのに私が慣れるには少し時間がかかったが、やがてそれも慣れた。
そして、私が彼女のことをコニーと呼ぶようになってからしばらくして、お風呂に入るのを手伝ってもらえるかと彼女が言った。これだけは最後まで自分でやってきたのだ。「ええ、もちろん」と私は言った。
・ミセス・リンドストロムには、入浴時の介助を拒むに至った、ある悲しい事情(ウイルスへの感染もその事情のためだろう)があったのだけれど、結果的に、「私」による入浴時の介助を受け入れ、久しぶりの入浴が、彼女にとって心地よい「充足の贈り物」となる。彼女は、入浴中、「ああ、気持ちいい」という言葉を漏らす。「私」は、入浴後、ミセス・リンドストロムがベッドに横になるのを手伝うと、「毛布を首まで引き上げ、小さかったころ母がしてくれたみたいに彼女の体をすっぽり包んだ」のだった。この「私」が行った一連の介助は、人が人にすることができる最高の贈り物の一つといってもよいだろう。
・レビュアーは、本書の11のエピソードのいずれにも心を打たれたが、長くなるので、ストーリーの紹介はこれくらいにしよう。ただ、補足しておきたいのは、主人公の「私」が知っている同僚は、たいてい、身近な人をAIDSで亡くした体験を持ち、それがこのタフな仕事に従事しようとした動機だったということだ。主人公の「私」の献身的・意思的な援助には、もしかすると、キリスト教的なモチーフが隠されているのかと想像しながら読んでいたが、どうやら、もっと素朴な家族愛・隣人愛のようなものだったらしい。本書の各短篇のタイトルは、「汗の贈り物」「充足の贈り物」のように、必ず「〇〇の贈り物」というパターンになっていて、「汗」「充足」のほかにも、「涙」「肌」「飢え」「動き」「死」「言葉」「姿」「希望」「悼み」といった言葉が並んでいる。タイトルに込められた作者のメッセージは、死期の迫った重症患者であっても何か贈り物をすることができるし、残される人々の受け止め方次第で心のこもった贈り物になりうるというものだと解釈したい。だから、だれかのために、ただ泣く、ということも立派な贈り物になる。死に至る病いという重たいテーマを扱う小説だが、訳者の柴田氏がいうように、「そういうのパス」「それってちょっと」と敬遠するのがもったいないくらい素晴らしい贈り物、それが本書だと思った。
2019年2月11日に日本でレビュー済み
1994年、米国の作家、レベッカ・ブラウンの作品です。
ラムダ文学賞、ボストン書評家賞、太平洋岸北西地区書店連合賞、受賞。
原題「The Gifts of the Body」。
邦訳版は、柴田先生の訳で2001年刊、文庫版2004年刊。
商品の説明(文庫版裏表紙と同じ文章)にある通り、
エイズ患者の世話をするホームケアワーカーのお話です。
ストーリー云々について語るより、まず読んでもらいたい、というのが本音ですが、
メロドラマ的なウェットなものをイメージして敬遠されそうなので、少し書いておきます。
著者レベッカ・ブラウンの文章はシンプルで、語り過ぎず語るスタイル。
ノイズの少ない透明感のある文章は、読んでて心地いい。 客観性もある。
また、主人公は、患者ではなく、その家族やパートナーというわけでもなく、医師でもない。
ホームケアワーカーというサイド的なポジションで、ちょっとした距離がある。
このような、客観性やちょっとした距離感に、
熱くはないが温かい、風通しはいいが寒くない、といった感触があり、
多くの読者にとって、読みやすい、ストーリーの世界に入りやすいものになっていると思う。
私が本書を買ったのは、文庫版が出たとき。
「エイズとかホスピスとか、自分には全然関係ないし・・・」とあまり気が進まなかったのですが、
「柴田訳だし、English Journalにも出てたし、安いし、薄いし・・・ま、いっか」という、
結構いい加減なノリで買いました。
そして、読んでみて・・・これほど読書による疑似体験を感じさせられるとは。
自分には全然関係ないと思ってたからこそ、
自分の中の「ゼロ」の部分が「1」に変わったという感覚がある。
10や100ではなく、たった「1」であっても、
人間観や心の持ちようといった根底部分が確実に変わったと思う。
それは、エイズ患者たちが、死という根源的なものに真正面から向き合っているからだと思う。
(死と向き合うのに、男も女も同性愛者もない。)
そもそもあまり気が進まなかっただけに、本書の読書体験は、まさしく青天の霹靂でした。
思い出深い1冊です。
久々読み返してみても、やっぱり素晴らしい。 出会えて良かったと思う。
色んな人にオススメですが、
自身の経験から「興味ない」「関係ない」という人に、手に取ってもらいたい。
天邪鬼の効用が感じられるのではないか、と思う。
あと、読書での疑似体験の大切さについて
「頭では理解するけど、あまり実感がない。(俯瞰で理解してない)」という人にもいいと思う。
本書は、テキスト云々、作品云々というより、読書体験そのものに最大の価値がある。
ラムダ文学賞、ボストン書評家賞、太平洋岸北西地区書店連合賞、受賞。
原題「The Gifts of the Body」。
邦訳版は、柴田先生の訳で2001年刊、文庫版2004年刊。
商品の説明(文庫版裏表紙と同じ文章)にある通り、
エイズ患者の世話をするホームケアワーカーのお話です。
ストーリー云々について語るより、まず読んでもらいたい、というのが本音ですが、
メロドラマ的なウェットなものをイメージして敬遠されそうなので、少し書いておきます。
著者レベッカ・ブラウンの文章はシンプルで、語り過ぎず語るスタイル。
ノイズの少ない透明感のある文章は、読んでて心地いい。 客観性もある。
また、主人公は、患者ではなく、その家族やパートナーというわけでもなく、医師でもない。
ホームケアワーカーというサイド的なポジションで、ちょっとした距離がある。
このような、客観性やちょっとした距離感に、
熱くはないが温かい、風通しはいいが寒くない、といった感触があり、
多くの読者にとって、読みやすい、ストーリーの世界に入りやすいものになっていると思う。
私が本書を買ったのは、文庫版が出たとき。
「エイズとかホスピスとか、自分には全然関係ないし・・・」とあまり気が進まなかったのですが、
「柴田訳だし、English Journalにも出てたし、安いし、薄いし・・・ま、いっか」という、
結構いい加減なノリで買いました。
そして、読んでみて・・・これほど読書による疑似体験を感じさせられるとは。
自分には全然関係ないと思ってたからこそ、
自分の中の「ゼロ」の部分が「1」に変わったという感覚がある。
10や100ではなく、たった「1」であっても、
人間観や心の持ちようといった根底部分が確実に変わったと思う。
それは、エイズ患者たちが、死という根源的なものに真正面から向き合っているからだと思う。
(死と向き合うのに、男も女も同性愛者もない。)
そもそもあまり気が進まなかっただけに、本書の読書体験は、まさしく青天の霹靂でした。
思い出深い1冊です。
久々読み返してみても、やっぱり素晴らしい。 出会えて良かったと思う。
色んな人にオススメですが、
自身の経験から「興味ない」「関係ない」という人に、手に取ってもらいたい。
天邪鬼の効用が感じられるのではないか、と思う。
あと、読書での疑似体験の大切さについて
「頭では理解するけど、あまり実感がない。(俯瞰で理解してない)」という人にもいいと思う。
本書は、テキスト云々、作品云々というより、読書体験そのものに最大の価値がある。
2015年1月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
初めて翻訳を読みました、柴田さんは名訳者ですね。
英語のペーパーバック版もお勧めします。
かなり平易な英語で書かれていますよ。
英語のペーパーバック版もお勧めします。
かなり平易な英語で書かれていますよ。
2020年11月13日に日本でレビュー済み
多くの人に読んで欲しい一冊には変わりは無い。
誰かが死ぬと、いつもそこに穴がひとつできた。
穴はいつも人々の真ん中にあった。
誰かが死ぬと、いつもそこに穴がひとつできた。
穴はいつも人々の真ん中にあった。
2006年5月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まずはとにかく読んでみてください。
いつ死んでもおかしくない末期患者と
ケアワーカーの心の交流という
ような陳腐な言葉では決して表せない深いものを
感じられるはず。
死にゆく人たちはかわいそうなのではない、
同情して介護するのではない、
彼らからいろんなことをもらい、
生と死について考えさせられます。
あまりに人の命を粗末にする事件が多い昨今、
できるだけ多くの人たちに
読んでもらいたい本です。
いつ死んでもおかしくない末期患者と
ケアワーカーの心の交流という
ような陳腐な言葉では決して表せない深いものを
感じられるはず。
死にゆく人たちはかわいそうなのではない、
同情して介護するのではない、
彼らからいろんなことをもらい、
生と死について考えさせられます。
あまりに人の命を粗末にする事件が多い昨今、
できるだけ多くの人たちに
読んでもらいたい本です。
他の国からのトップレビュー
B. Halsey
5つ星のうち5.0
Captures the essence of compassion in caregiving.
2016年12月24日にアメリカ合衆国でレビュー済みAmazonで購入
i love this book! This writers description of her journey as a hospice caregiver is so touching and well written. She sensitively and lovingly captures what it means to care not just for the body of someone dying, but also for their soul. She understands the patients need for dignity at a time when they need it the most. She captures the essence of compassion.
I am a hospice aide and I have read this book numerous times and given copies away to other caregivers. It should be mandatory reading for anyone who wants to work in hospice.
I am a hospice aide and I have read this book numerous times and given copies away to other caregivers. It should be mandatory reading for anyone who wants to work in hospice.
Fay Thompson
5つ星のうち1.0
not satisfied
2012年1月23日に英国でレビュー済みAmazonで購入
I read a chapter it did not grab me so, this has failed for me. I was expecting more from this book, maybe later on i may go back to reading it; right now it has not met the standards of the authors other books
Babyruth
5つ星のうち5.0
A heart for the elderly
2013年5月9日にアメリカ合衆国でレビュー済みAmazonで購入
It was s very good book, hard to put down , my heart went out to each individual that was in the book, helped me to be very thankful for each day I have being healthy , and being able to take care of myself
Aimee Dars
5つ星のうち4.0
so I admit I was predisposed to like this book
2018年9月14日にアメリカ合衆国でレビュー済みAmazonで購入
I have a keen interest in the early days of the AIDS epidemic, so I admit I was predisposed to like this book, and I was not disappointed. It is certainly of that time and therefore may seem dated, but it's a valuable lens into the final months, weeks, and days of individuals who died from the disease.
The narrative follows an unnamed home health care aide who assists people with AIDS with cooking, cleaning, and chores but also provides necessary companionship. Her patients have some diversity. Though most are white men, she also aids an elderly woman who contracted HIV through a blood transfusion during a mastectomy and an African-American patient who was a well-traveled professor before becoming ill.
As the book charts the deteriorating health of the patients and presents a vivid depiction of end-of-life issues for AIDS patients and their friends and families, it also documents the relationships that develop between care workers and patients as well as the emotional strain that can come from loving a person who is near death. It is a realistic and heart-wrenching account.
The narrative follows an unnamed home health care aide who assists people with AIDS with cooking, cleaning, and chores but also provides necessary companionship. Her patients have some diversity. Though most are white men, she also aids an elderly woman who contracted HIV through a blood transfusion during a mastectomy and an African-American patient who was a well-traveled professor before becoming ill.
As the book charts the deteriorating health of the patients and presents a vivid depiction of end-of-life issues for AIDS patients and their friends and families, it also documents the relationships that develop between care workers and patients as well as the emotional strain that can come from loving a person who is near death. It is a realistic and heart-wrenching account.