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ローマ人の物語 (11) 終わりの始まり 単行本 – 2002/12/11
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- 本の長さ351ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2002/12/11
- ISBN-104103096209
- ISBN-13978-4103096207
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2002/12/11)
- 発売日 : 2002/12/11
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 351ページ
- ISBN-10 : 4103096209
- ISBN-13 : 978-4103096207
- Amazon 売れ筋ランキング: - 334,615位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 125位古代ローマ史
- - 864位ヨーロッパ史一般の本
- カスタマーレビュー:
著者について
1937年7月7日、東京生れ。
学習院大学文学部哲学科卒業後、イタリアに遊学。1968年に執筆活動を開始し、「ルネサンスの女たち」を「中央公論」誌に発表。初めての書下ろし長編『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』により1970年度毎日出版文化賞を受賞。この年からイタリアに住む。
1982年、『海の都の物語』によりサントリー学芸賞。1983年、菊池寛賞。1992年より、ローマ帝国興亡の歴史を描く「ローマ人の物語」にとりくむ(2006年に完結)。1993年、『ローマ人の物語I』により新潮学芸賞。1999年、司馬遼太郎賞。2002年、イタリア政府より国家功労勲章を授与される。2007年、文化功労者に選ばれる。2008-2009年、『ローマ亡き後の地中海世界』(上・下)を刊行。
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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マルクスの時代は、先帝アントニヌス・ピウス時代の反動もあり、数々の難問に直面した時期であった。マルクスは軍事経験も属州経験もないにもかかわらず、治世1年目にしてパルティア戦役に見舞われる。さらに蛮族進入が増加し、第1次・第2次ゲルマニア戦役を指揮することになる。徐々に広まりつつあったキリスト教に対しては、その活動を反社会的行為として処罰する。自然災害やペストの流行などにも悩まされる。
先の時代、帝国内への移住を求める蛮族の申し出に対し、先帝アントニヌスがこれを断るという一幕があったのだが、著者はこれこそが時代の変化の予兆であったと指摘する。ことの重要性に気づかなかったアントニヌスの判断は、マルクスを生涯苦しめることになる。健康に恵まれず、気質的には軍事に不向きであったにもかかわらず、マルクスの治世は結局戦争ばかりとなった。カシウス・ディオは、後年書く史書の中で、ローマ帝国の延命に成功したと彼を評する。
コモドゥスの評価はおしなべて低く、ローマ帝国の衰亡はこの皇帝から始まったという考え方が定着している。内乱を避けるために、不適格と分かっていてもマルクスは息子を後継にするしかなかった。後年側近政治に傾斜していったコモドゥスは、暗殺という結果でその治世を終える。
セプティミウス・セヴェルスは、コモドゥス暗殺後の内乱を制し、ローマ軍の強化に乗り出す。そしてこれがローマ帝国の軍事政権化のはじまりになる。軍の組織強化が軍事費の増大へとつながり、結果帝国の財政は圧迫されるようになる。セヴェルスはローマ帝国のためと確信し、帝位の世襲、軍団の優遇、そしてパルティア戦役を行っていくのだが...
ローマ帝国崩壊のカウントダウンが始まる巻が本書だが、半分はマルクスの治世にページを割いている。狩猟民族である蛮族が北東からローマに侵略し続けた理由を、文明度、人口の増加、地理的条件などを基に分かりやすく解説している箇所は、後の帝国崩壊の一因だけにとても勉強になる。ゲルマニア戦役に対するマルクスの対応をカエサルに置き換えて比較する箇所などは、著者お得意の考察で興味深い。また、マルクスが前線到着時に、皇帝の権威を使って采配を行った場面は、「リーダーシップとは権威に基づいて行うもの」ということを改めて理解することができる。この後、どのようにしてローマ帝国が崩壊していくのか。次巻も大いに楽しみだ。
だからこそ、11巻までワクワクしながら読み進めています。
五賢帝時代ということで、このローマの最盛期は平和と繁栄の時代かと
思っていましたが、時代はもっと残酷でした。
五賢帝最後の皇帝、マルクス=アウレリウスが即位した瞬間から
東西南北と蛮族が侵入し、国内では飢饉と、
前皇帝の平和が嘘のように戦乱が続きます。
豪快でパワフルな軍人肌のハドリアヌスの時代は平和で、
哲学好きな学者肌の皇帝の時代は、戦乱が続くとは歴史とは
皮肉にできているものだと感じます。
しかしその過酷な時代も軍事に関しては凡才ながらも
ローマ帝国を死守し、それを達成したことは賢帝の名に恥じないものと思います。
五賢帝時代とは、ローマが平和を謳歌した時代ではなく、
ローマの平和と繁栄のために尽力した皇帝が続いた時代という意味で捉えました。
しかし哲人皇帝の息子コモドゥスが暴君になるとは・・
カエルの子はカエル、賢帝の子は賢帝とはいかないのも
また世の摂理なのかもしれません
現実の皇帝はもっと生々しく生きているわけで、いつも遊んでいるわけではなかった。
塩野さんの本は、いつも新たな発見と解釈を与えてくれます。日本の弥生時代にローマ人は戦いの中から自分たちを見つけていく。島国と陸続きの国家の違いと言えばそれまでかもしれませんが、外敵と対峙してきたローマ人のたくましさには感服させられます。
蛮族の侵入など「終わりの始まり」が起こり、平和ボケしていたローマ帝国は衰退してゆく。
こうした時期に最も指導者に要求されたのは軍事的才能であったが
実直ではあっても軍事経験の乏しい哲人皇帝には荷が重すぎて戦役は長期化し、
帝国の制度の疲労によって矛盾や問題点が次々と顕在化する不運が重なる。
そして皇位継承の内乱を防ぐという意味はあったのせよ、
凡庸な実子コモドゥスを後継としたことにより、帝国の瓦解はさらに進み国力は疲弊する。
能力の無い皇帝に排除の論理が働くとしたら、それは悲劇的な暗殺しか選択肢が無い。
そしてさらに権力抗争の内乱により混迷は進んでいく悪循環を辿る。
読んでいて暗澹たる気持ちにさせられる時代ではあるが、
著者の描く「滅びの美学」を見届けるつもりで読み進めたい。
ある日突然「難問山積」になるなどあり得ない。著者はその原因を賢帝とされるアントニヌス・ピウスに遡って追求する。「一般の人よりは強大な権力を与えられている指導者の存在理由はいつかは訪れる雨の日のために、人々の使える傘を用意しておくことにある」。一国平和主義を謳歌していても、国外は変わってゆく。変わってないはずの自国も実は気づかぬうちに変わっているのだ。そして、そのツケを払わされたかのように見える哲人皇帝マルクス・アウレリウスに対しても「戦争というものがわかっていなかった」と手厳しい。
それでは軍人の待遇改善に努めたセヴェルスはというと、「ローマ帝国の軍事政権化」の道を開いた皇帝としてこれも切り捨てる。「死ねば誰でも同じだが、死ぬまでは同じではない、という矜持をもってローマを背負った、リーダーたちの時代は終わったのである……そして、この後のローマ帝国は、歴史家たちの言う『三世紀の危機』に突入する。魚は頭から腐る、と言われるが、ローマ帝国も、『頭』から先に腐って行くのだった」。
P26「自らに課された責務は十全に果たしたと思える最高権力者にとって、唯一残された責務は後継者を決めることだ。この重要事を充分な配慮なしに決めようものなら、いかに善政を実現できた人でも、画竜点睛を書くことになる。」
P28「人間には、他者を押しのけたり排除したりまでして昇進することが死んでもできない人がいる。」
「自己中心主義者のほうがかえって、徹頭徹尾誠実である人の効用に敏感なのである。」
P42「快晴つづきであったの次の日に雨が降ることは珍しくない。一般の市民が誰でも雨傘を用意するくらいならば、指導者などは必要ないのである。」
P43「アンドニヌスも、次期皇帝の妃には自分の一人娘をという想いでは、人の子ではあったのであった。」
P46「その育成のしかたが、外に出して経験を積ませる、のではなく、手許に置いて経験を積ませる、であったのだ。」
P60「情報とは自動的に機械的に集まってくるものではない。収集の段階ですでに、人間の介在は避けようがない。集めて送る人は、それが重要と思うから集め、送るのである。つまり、集め送るときにすでにそれを行う人の問題意識が介在する。いかに有能な部下でも、かえrと同じ問題意識を共有してくれるとは限らないのである。」
P81「カエサルのように殺されたくなかったアウグストゥスは、共和政回帰を公言しながら、裏では帝政を着々と進めていた。シマウマの皮をかぶったライオンは、百獣の王の咆哮などは絶対にしない。つまり、初代皇帝アウグストゥスにとっては、堂々たる弁明の書をものすること自体が、政治的にまずいやり方なのであった。」
P82「何もかもがうまく行く平穏な時代は、歴史著作の立場から見れば不作の時代」
「思考も筋肉と同じで、絶えざる訓練を必要とする。思考怠慢が長く続くと、カンも鈍ってくるのだった。」
P83「いかに適任者でも、二十年も、いや十年でさえも同じ地位に留まりつづけるのは私には良策とは思えないが、
P99「晴天の日に翌日に降るかもしれない雨の準備をするという、政治家ではなかったと思えてならない。」
P120「天才とは、他の多くの人に見えないことまで見ることのできる人ではなく、見えていてもその重要性に気づかない人が多い中で、それに気づく人のことなのであった。」
P144「ローマ帝国の内と外と完全に隔絶するものではなく、経済関係を共有することで内と外とはある程度の交流を保ちつづけることが、ローマ帝国の国策となっている。失うものがあれば人間は過激化しないからだ。」
P159「彼は、いつ誰に、優しい言葉をかければよいか、いつ誰に豪華な贈り物を与えればよいかを知っていた。
P160「追跡調査は不可欠であり、それらを参考にしての、裏まで読む、人の悪さも必要なのであった。人の悪い私の読みでは、元老院の決議は、それまでのローマ史でもしばしば見られた皇帝へのへつらいであり、
P172「効果を冷徹に計算する、相当なレトリックの使い手
P182「ブリリアントな人間に耐えられないのは、平凡な人間の上に立たれることなのだ。」
P183「残念ながら国家には、先祖たちが示してくれたように、剣と法が必要なのだ。
P188「公共事業への莫大な寄付などによって人々の羨望をかわすという、世間智にも長けた人である。」
P206「人間としての評価は別にして統治者としてならば、再評価はもはや定着している。」
P208「実力主義に徹して、コモドゥスを後継者にしなかったとしたら、帝国はどうなったであろうか。答えは明らかで、内乱に突入していたにちがいない。いかに善政をしいても、反対するものは必ずいる。誰もがいちように満足する統治ではないからで、必ずいつか、公憤によったにしろ私憤に駆られたにしろ、最高権力に対して不満を持つものは必ず出てくる。その場合にもしも、適当な人物がいれば、反対はその人をかつぐ。内乱はこうして起こるのだ。前皇帝の実子でありながら皇帝になれなかった者くらい、かつぐに適した存在はいない。」
P219「まずいやり方だと思うのと、そのまずいやり方を自分ならば変えられるか、それとも変える力は自分にもないか、と思うのは別の問題である。」
P222「人間社会を法で律しようと望むならば、法理でフォロワーできないことまで視野に入れてはじめて、法治民族になれると考えていた。つまり、非合理的なことまで視野に入れてこそ、合理の追求も可能になるという考え方である。。法治民族でありがなら、クリエンテスと呼ばれた人間関係、つまり縁故やコネの関係が重きをなしていたことがその証だ。両者とも、信義が根底にあることでは、変わりはなかったからだった。
P223「降ってわいたようなローマ帝国からの講話の申し出に、マルコマンにもクワディもとびついたのは当然である。だが、彼らも、長年のローマ人との接触の経験から、なぜ、それもこの時期に、ローマ側から講話を言い出してきたのかを嗅ぎつける能力は持っていた。」
「戦勝国が戦敗国と結ぶ講話ではない。急いだために有利にもっていける点も考慮せずに調印してしまったからだが、これでは、それまでのローマならば、蛮族と一時休戦する場合に結ぶ協定と同じだった。」
P224「講和の条文のうちの第二項は、一度も実地されないで反古と化す。賠償金の支払いの代わりということで、ローマ側の面目が立てば良かっただけなのだ。コモドゥスは、提供すると決まった小麦の量も、提供の時間も、提供をつづける期間も、条文中に明記することにこだわらなかった。相手側がこだわらなかったことを、律儀にやる馬鹿はいない。」
P230「強烈な自己中心主義者でもあったからだった。つまり、悪評に強かったのだ。」
P236「自分たちの存在理由を血筋にしか求められないからである。ルチっラも、この種のことに執着する女の典型であったのだろう。」
P241「庶民にとって元老院議員は恵まれた上流階級の人々であったから、この人々が皇帝によって死刑にされたり財産を没収されたりするのは、面白がりこそすれ同情まではしなかった。」
「元老院議員が失脚したり粛清されるのを、高みの見物として静観するのに慣れていた。」
「庶民でも、その琴線にふれることが一つあった。それは、肉親間の争いになったときである。ローマ人は伝統的に、家族を大切にした。
P250「自分の好みに合った世界でのみ生きるのは、老齢に達した人にとっては人生の勲章である。だが、二十代で早くも自らの世界を限定してしまうのは、明らかに病気だ。そして、悪魔のささやきが最も効果をあげるのは、このような病をもつ人に対してなのであった。」
P252「野心家ではあったが、精錬で買収の効かない男だった。あのようではなく、もっと恵まれた最後を迎える資格は充分にあった。」
P254「暴走が止まらなくなってしまったコモドゥスだが、それでも待ったをかけられる人はもう一人いた。」
迷走も極まれり
P257「二八歳の年まで何かに寄らなければ立てなかった人が、自分の脚で立つときにになってもそれができるはずはない。」
P268「元奴隷の子の選択はもっと巧妙だった。」
P270「商人であった親ゆずりの柔軟性が、妙なところで発揮されたのかもしれない。」
P275「エジブト内での最高権力者であることの他に、利権を享受しての蓄財といううま味あった。」
P276「皇帝就任への正統性をもたない自分が皇帝になった以上は、実績をあげることで正統性を認めさせるしかないという想いが、ペルティナクスから柔軟性を奪ってしまったのだった。」
「小事まで批判を受けてはならぬという想いで進めると、大事が実現できなくなる。大胆な改革を進める者には、小さなことには今のところは眼をぐらいの度量は必要であったのだが。」
P277「十人の人間を前にして、道理を説くだけで納得にもっていくのは、むずかしいことではない。だが、これが百人になるとむずかしくなる。千人になると不可能だ。近衛軍団は一万の集団だった。だからこそアジテーターが横行することになるのだが、その横行を許さないで万単位の人間を掌握するには、何か別の要素が必要になってくる。ひとはそれを、カリスマという。だが、カリスマも、時を逸しては効果がないのだった。」
P284「平俗な言い方で代弁すれば、なんであいつが皇帝で、オレはその部下でいなければならないのか、になる。」
P297「民衆とは、自分たちと似ている指導者には親近感をもつが、似てない指導者のほうに魅かれるものなのだ。この傾向はとくに、危機の到来を感じたときに顕著になるのだった。」
P298「ローマ市民たちは、言動のはっきりしない指導者に飽きていたのである。」
P326「セヴェルスによる軍団兵の優遇策ももた、善意が必ずしも良き結果につながらないという、古今東西いやというほど見出すことのできる人間社会の真実の例証であると思う。いや、もしかしたら人類の歴史は、悪意とも言える冷徹さで実行した場合の成功例と、善意あふれる動機ではじめられたことの失敗例で、おおかた埋まっていると言って良いのかもしれない。」