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ウィステリアと三人の女たち 単行本 – 2018/3/30
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真夜中、解体されゆく家に入りこんだわたしに、女たちの失われた時がやってくる。三月の死、愛おしい生のきらめき、ほんとうの名前、めぐりあう記憶……。人生のエピファニーを鮮やかに掬いあげた著者の最高傑作。
- 本の長さ177ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2018/3/30
- ISBN-104103256257
- ISBN-13978-4103256250
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2018/3/30)
- 発売日 : 2018/3/30
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 177ページ
- ISBN-10 : 4103256257
- ISBN-13 : 978-4103256250
- Amazon 売れ筋ランキング: - 626,320位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 103,527位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について

大阪府生まれ。2007年、デビュー小説『わたくし率イン 歯ー、または世界』で第1回早稲田大学坪内逍遥大賞奨励賞受賞。2008年、『乳と卵』で第138回芥川賞を受賞。2009年、詩集『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』で第14回中原中也賞受賞。2010年、『ヘヴン』で平成21年度芸術選奨文部科学大臣新人賞、第20回紫式部文学賞受賞。2013年、詩集『水瓶』で第43回高見順賞受賞。短編集『愛の夢とか』で第49回谷崎潤一郎賞受賞。2016年、『あこがれ』で渡辺淳一文学賞受賞。「マリーの愛の証明」にてGranta Best of Young Japanese Novelists 2016に選出。村上春樹との共著『みみずくは黄昏に飛びたつ』、『すべて真夜中の恋人たち』など著書多数。
2019年、第73回毎日出版文化賞受賞した『夏物語』は、20年ニューヨーク・タイムズが選ぶ「今年読むべき100冊」やTIMEの「今年のベスト10冊」などにも選ばれ、現在40カ国以上で刊行が進められている。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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全編にたちこめる迷路的なるもの。
全編にたちこめる悪霊的なるもの。
彼女たちは、この世界の不安定さを象ったかのような終わりのない迷路の中をひたすら歩き続ける。
好むと好まざるを問わず、彼女たちはその中を歩き続けることしかできないように。
その何処かに身を潜め、彼女たちが来ることを待っている悪霊的なるものがあるとしても。
この迷路の何処にも出口が無いとしても。
「ウィステリアと三人の女たち」は4つの短編小説を収めた作品集。
そのどれもで、何らかの形の「悪霊的なるもの」が登場する。それは小説を構成する要素の一つというものでは
なく、それ自身が自らを語るのである。
それは、まるで、「悪霊的なるもの」がこの世界の必然であるかのように、まるで、それが、この世界を支えて
いるかのように、それが、まるで、この世界を形作っているかのように、振る舞うのだ。
(1)軽くて速く機敏な、小鳥のような文体
文体は、加速度はあるのだが、その密度(のようなもの)は小さい。そのため文の質量(のようなもの)は小さく、
強度はやや弱く、波を切り開き前へ進む力はこころもとない。しかし、その分、スピードは速く、敏捷であり、
すばやく機敏にコーナーを曲がることができ、細かいステップを踏むこともできる。
イメージにおいては、突出したものが影をひそめ、調和的で、単純である。
たたみかけるように、文が繰り出されるのだが、それは小さな翼で羽ばたく鳥のように、せわしなく、小さな風を
引き起こすのみで、大きく深く複雑のものを、支え浮かし動かし運ぶことは、困難だ。
軽さと俊敏さを取るか、それとも、力と強度とイメージを取るか。
これは、
軽快なのか、それとも、空疎なのか。
単純なのか、それとも、純粋なのか。
陳腐なのか、それとも、「ありきたり」なのか。
これは、
進化なのか、それとも、退化なのか。
(2)「彼女と彼女の記憶について」、不可避的に
ふと、気が付くと、いつのまにか迷路の中の袋小路の中にいて、その場に立ちすくむ。
迷路の中の袋小路(?)(はたして、そんなものが、存在するのか。)
遠くの方で雷の鳴り響く音が聞こえる。
空を見上げると、一面、黒い雲が覆っている。
やがて、ぽつり、ぽつりと雨滴が地面を濡らし始め、彼女たちは足早に駆け出す。
雨は激しくなり、行き場を失った地面の水は細い水流となって地面に無数の河を作り始める。それは徐々に集まり、
巨大な水の塊となって、洪水のように、迷路の中の全てを押し流し蹂躙してゆく。
彼女たちがそのことに気が付くのは、もう少し、後のことだ。
「彼女と彼女の記憶について」は、そんな感じの、不穏な予感に満ちた話だ。
この世界の暴力的なるもの、悪霊的なるものから、誰も逃れることができないということ。
どれほど準備し、どれほど気を付けていても、逃れられないということ。
不可避的に、無防備に、
(3)「シャンデリア」天国か、地獄か
残酷さを孕んだ鮮烈さ。
この非情なまでの酷薄さ。
一滴の血でさえ乾き切っている。
彼女が、行き着くところは天国か、地獄か。(たぶん、地獄)
いや、すでに、この世界そのものが、地獄か。
もはや、付け加えることは何もない。
(4)「マリーの愛の証明」、映画のスープ
これは私がずいぶん前に見た映画だ。
いや、正しくは「見たと錯覚した映画」だ。
シーンもカットも私の記憶の中に鮮明に残っている。錯覚とは理解しているのが、錯覚とは思えないほど、
くっきりとした映像なのだ。
マリーもカレンもアンナも、私は、「知っている」。
カレンがマリーに愛について問い詰める場面も、マリーのコップに何かが溜まってゆく場面も、ピクニックの
帰り道、「草原のゆるやかな斜面」を下る女の子たちの場面も、私は見た記憶がある。
監督は確か、ルイ・マルか、ラース・フォン・トリアーか、
題名が喉元まで出掛っているのだが、出てこない。(題名が不明なのは当然のことながら明らかなのだが)
この既視感とも錯覚ともつかぬ、不可解な気分。
これは、まるで、映画の記憶を凝縮して固形化した「スープの素」のような小説なのだ。
濃厚にして懐かしくもあるフレッシュな映画のスープ。
湯で溶かして、ゆっくり、召し上がれ。
(5)「ウィステリアと三人の女たち」、花を全身にまとい覚醒するわたし、そして、道しるべ
ウィステリアとは「藤色」のこと。
藤の花びらの藤色(ウィステリア)の渦によって、主人公は、身を投げ出すように、身を浮上させるかのように
覚醒する。
覚醒する。その時を得て。
本編では、これまで、立ちすくんでいた主人公が、闇の中で、「花を全身にまとう」というトリガーが引かれ、
体を震わせ熱を帯びて痛みとともに、覚醒する。
その荒々しく猛々しいまでの覚醒ぶりに、私は思わずたじろいでしまった。
その覚醒の過程で、藤の花びらが世界を覆い、藤色に世界が染まり、一転、世界が変わり、花びらが散る。
花びらが、まるで、舞台の幕のように、世界を回す。
さて、順を追って、話を進めるとする。
まず、この「ウィステリアと三人の女たち」では、それまでその姿を見せようとしなかった迷路的なるものが、
「夫」という装いで、その姿を現す。ぬっとしたのっぺらぼうの灰色の塊のような「夫」。
「夫」は、迷路そのものとして登場し、その存在の捉えどころの無さとは裏腹に、その存在の圧倒性を禍々しいまで
に見せつける。「夫」は、迷路の壁のように、棘のように「わたし」の前に立ちはだかり、「わたし」を刺し、取り
囲み、閉じ込め、押し潰そうとする。
そうした「わたしと夫」の間に解体される家が出現し、事態は様相を一変させてゆく。
「腕の長い女」に誘われるようにして、「わたし」は夜の闇の中、解体され半ば壊れた家の中に忍び込む。
そこで、ウィステリアと英語教師に会う。ひとつの幻影を見るかのように。
そこでは「わたしと夫」の関係を反転するかのように、「ウィステリアと英語教師」の関係が提示される。
何もかもが「わたしと夫」の裏返しなのだ。「わたしと夫」が物質的、現実的で、動物的な存在で生々しいのとは
対照に、「ウィステリアと英語教師」は陽炎のように非物質的、非現実的で、植物的な存在で淡くはかない。
そして、2つの関係をリンクするかのように、赤ん坊が、その不在の形で、宙に浮く。
一方では、手の中にとらえられないものとして、一方では、手の中からすべりおちたものとして。
わたしと夫、半ば壊れた家、ウィステリアと英語教師、宙に浮く赤ん坊、2つの関係と壊れた家、そして闇。
その重層した構造の中を、藤の花びらが渦巻き、「わたし」は、闇の中で、藤の花びらの渦の中に沈み、
藤の花びらを全身にまとい、
「わたし」は覚醒する。
そして、「声」を発見する。
そこでこの小説は終わる。
彼女がはたして、何処に辿り着いたのか、あるいは、辿り着けなかったのか。
その後日譚は、読者にゆだねられている。
覚醒した後、見つけた「声」こそが、迷路的なるものからの唯一の出口を指し示す道しるべだと、
私は思うのだが。その道しるべの指し示す意味を知るのは、彼女以外に誰もいない。
(6)ヴァージニア・ウルフと三人の女たち、そして、映画「めぐりあう時間たち」
ヴァージニア・ウルフと三人の女たち
「ヴァージニア・ウルフ」と「三人の女たち」という2つの言葉が組み合わさると、私の目の前には、たちどころに、スティーヴン・ダルドリー監督の映画「めぐりあう時間たち」が現れる。
この映画「めぐりあう時間たち」と小説「ウィステリと三人の女たち」は直接的には、何ら関係ないのだが、それは、もう私自身では、どうにも止めようがないことである。
「花はわたしが買いに行くわ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」)
(もちろん、ヴァージニア・ウルフ、花、女性と女性とのつながり、異なる時間と場所での女たちの人生の交錯、
めぐりあう記憶など、符合する箇所がないわけではないが、それが特段の意味を持つことではないと、私は思う。)
映画「めぐりあう時間たち」は、2002年、アメリカ・イギリス制作、第53回ベルリン国際映画祭にて、
ニコール・キッドマン、ジュリアン・ムーア、メリル・ストリープの3人が銀熊賞を受賞した傑作だ。
三人の女たちが、異なった3つの時間と場所で生きる様が描かれるのだが、それが、やがてヴァージニア・ウルフの
作品を通して、「ひとつ」になってゆく映画。
ヴァージニア・ウルフを演じているのは、ニコール・キッドマン。彼女の映画作品の中でも「ドッグヴィル」と並んで、最高の作品と言ってもいい映画だ。
結果として、ヴァージニア・ウルフは、河に身を投じるのだが、映画はその残酷かつ、怖ろしいほどの美しい
光景を何一つ余すことなく克明に映し描き出す。
限りなく透明な水と揺れる水草、その中をヴァージニア・ウルフがゆっくりと沈み流れる。
ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」のように。
(7)連鎖反応的に、次々と、そして、大きなものの一部
なぜだか、理由はわからないが、川上未映子の小説を読むと、つい、別の何かを思い起こしてしまうのだ。
それも連鎖反応的に、次々と。
(しかし、そのことが川上未映子の小説のオリジナリティを、否定し損なうことにならないのは言うまでもない
ことである。)
ヴァージニア・ウルフ、めぐりあう時間たち、オフィーリア、メランコリア、ラース・フォン・トリアー
ドッグヴィル、ニコール・キッドマン、ヴァージニア・ウルフ(振り出しに戻る)
私の頭の中を記憶とイメージが呼び掛け合い、それが反響して、ぐるぐる回るのである。
なんだか、「大きなものの一部」がちらちらと一瞬だけ姿を現し、すぐに消える、そんな感じなのである。
まるで、私の中に、これまで単独で存在していたものたちが互いに呼応し合い、未知の新しい星座が形作られ、
見い出されたかのような気分になるのである。
でも、それは、はっきり、言って、「ここちよい」のだ。
つまり、その「大きなものの一部」を再び見たいがために、私は、川上未映子の最新の作品集を手に取り
読むのだ。
年代の相違から来るものでしょうか、理解できない部分もたくさんありました。時を置いて再読してみたら
違う感じが起こるかもしれません。
『真夜中』がそうであったように、川上作品でもっとも素晴らしい箇所は、ほとんど光のない暗闇の中に、僅かな光があって、身体の微細な感覚をみずから楽しむ場面である。それは人間の生命の根源に触れる、きわめて切なく、儚い場面でもある。本作では、それは闇の中で身体にまとわりつく藤の花びらにも象徴されている。本作から一つ引用してみよう。「わたしは誰もいない空家を想像してみた。家具も、誰の息遣いもなく、暗闇以外は何もない部屋。夜のどこかにある光が窓をそっと通過して、やがて部屋を侵食しはじめ、だんだん青味が増してくる。するとさっきまで何もなかった床の真ん中が濃い青に膨らみはじめ、曖昧な輪郭が盛りあがるように現れる。しばらくじっと目を凝らしていると、それが仰向けになった女の体だということに気がつく」(p136)。私たちの身体感覚の中心にある愛は、このように現象するのだ。
他の方のレヴューで思ったのですが、村上春樹に似ているというのは、マイナスにはならないと思います。シェイクスピアなんか筋はほぼ全部パクリですし、文学作品は、その人にしかできない優れた表現によってその価値が決まるのです。川上未映子は、『先端で』で分かるように、第一級の表現者です。ただ、小説技法に未熟さがあるのも事実で、『真夜中』は脇役の記述が雑で類型的。でも、本作はそういう欠陥はないのでは。
「シャンデリア」
「マリーの愛の証明」
「ウィステリアと三人の女たち」
の4編からなる短編集。
どこかで出会ったような、出会わなかったようなあいまいな状況と登場人物たち。
妙な感じな文章で綴られるあいまいさが意外と心地いい。
好き嫌いはあるのだろうが、私は気にいった。
「シャンデリア」
が特に気に入った。