読みやすい文章で物凄く自分を客観的に見られてる。
著者は女性問題が起因だったんだな。
しかしキューは人によると思う。
そしてなぜこんなに客観的に自分を分かってて薬の服用を辞めたり、幻聴幻覚を現実ではないのかと判断できないのかがこの病気に対して毎回モヤモヤする。
しかしそれが統合失調症という病気なのだろう。
また筆者は病気と対峙し仕事をする努力が感心した。今の時代みたいに障害者雇用とかメジャーではなかったのだろう。
知的な文章で読みやすく病気に対する理解が深まり良い本だと思った。
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精神病棟の二十年 単行本 – 1981/4/1
松本 昭夫
(著)
- 本の長さ208ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日1981/4/1
- ISBN-104103393017
- ISBN-13978-4103393016
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (1981/4/1)
- 発売日 : 1981/4/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 208ページ
- ISBN-10 : 4103393017
- ISBN-13 : 978-4103393016
- Amazon 売れ筋ランキング: - 632,000位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,463位ストレス・心の病気
- - 60,896位科学・テクノロジー (本)
- - 175,144位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1936年栃木県生まれ。NHK記者を経て作家活動に入る。72年『マッハの恐怖』で第3回大宅壮一ノンフィクション賞、79年『ガン回廊の朝』で第1回 講談社ノンフィクション賞、95年『犠牲(サクリファイス)わが息子・脳死の11日』などで菊池寛賞、97年『脳治療革命の朝』で文藝春秋読者賞を受賞(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 新・がん50人の勇気 (ISBN-13: 978-4163709802 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2013年12月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
小説というより手記であり、事実を作者の思い込みで書き綴っていてあまり面白いとは言えなかった。
2015年1月6日に日本でレビュー済み
うーん、タイトルから20年間、精神病棟に閉じ込められっぱなしと想像していたのに、出たり入ったり。そして、まだ入院中から再就職の活動をして、しかも、営業マンなどという、どう考えても統失に向かない職種なのに、現に何度も再就職に成功している。女性関係も華やかだし。ホントに統失ですか?と聞きたくなるくらい、症状が軽い。元松沢病院院長の金子嗣朗氏が付録で書いているように、漱石と同じく、統失と躁うつ病が重なり合った非定型精神病かもしれない。
症状が軽すぎ、色々恵まれ過ぎ、参考にはならない。こんなことをいうのも、どうしても私の兄と比較してしまうから。兄が発病したのは1964年、21歳で、東大生でした。その時は半年で退院しましたが、27歳で、商社員だった時に再発し、それ以後、詳しい事情は憚りますが、廃人になりました。私は関西の大学に行っていて滅多に帰省しなかったのですが、後で母に再発の経緯を聞いて、よくもまあ、これほど、節目節目で最悪の選択を続けたものだと、あきれ返ったものです。
その理由は、両親も東大生の筈の兄本人も文学的教養と無縁だったことにあると、詩人の手になる手記であって優れた自作の詩もいくつか収録されている本書を読みながら、今更ながら思い返されます。
兄の話に戻りますが、そもそも1964年という時代に、母は、主治医から、「今は医学が進歩しているから治るんですよ」とか、「5年たって再発しなければ治ります」などと、奇妙なことを吹き込まれて、すっかり真に受けていたらしい。そもそも、医者の言う統失が「治る」とは、「退院できる」という意味なのに、家族の方では「完全に元に戻る」という意味にとってしまって、就職にも結婚にも「人並み」を本人に強要して、結果的に再発させてしまう。そんな悲劇を、後に家族会に出たりして、散々見聞きしたものでした。兄の場合も、卒業どころじゃなかったのに、親のプレッシャーで無理やり卒業させ、挙句は就職先は大手商社などという統失者には最悪の所。もし、少しでも教養があれば、統失になった時点で、世俗的な出世コースなど問題外だと分かったでしょうに。
その点、本書の著者は、仏文科を出て詩人志望だっただけあって、世俗には半身に構えていられた。そこに余裕が生まれて、良い方に作用したのだと思いますよ。仏文科といえば、私がかつて勤めていた地方大学で同僚だった仏文学者は、ゼミでカミユの異邦人を原書で読ませる効用について、こう語っていたのを思い出します。「最初、学生たちは、世の中のために役立つ人間にならねば、という固定観念でガチガチになっているんだよ。けれども、異邦人を読んでいるうちに、あるところで、回心とでもいうものが起こる。世の中に役立つような人間にならなくていいんだ、と悟るんだよ。」
著者にあって私の兄になかったのは、このような意味での文学的素養だったのでしょう。ちなみに兄は、大学の卒論では毛沢東をやり、就職しても職場の「党細胞」に属するという、社会的正義感でガチガチの人でした。
また、この著者が、自らの病気の解釈としてフロイディズムに惹かれるのも、当然なことです。むしろこの自己解釈もまた、著者の病気の回復に役に立つ「物語」だったのでしょう。物語なき無意味な脳神話などに、人間は耐えられないのだから。著者は、病院にはカウンセリングなど全くない、といぶかっていましたが、これこそまさに、日本の精神医療が、フロイトなど一度も受け入れたことなく、一切の意味ある物語を拒否して脳神話にかじりついてきたことの、現れと思います。そのエピゴーネンみたいなレヴューも、本書の過去のレビューにはあるようですが。ちなみに、「精神疾患の生物学的要因説の普及が精神疾患のスティグマ化を改善するどころかひどくしていることが、色んな実証的調査から明らかになりつつあるという、恐らく当事者や支援団体にとって最も衝撃的な事実」が、『クレイジーライクーアメリカ』に紹介されています。参考までに。
症状が軽すぎ、色々恵まれ過ぎ、参考にはならない。こんなことをいうのも、どうしても私の兄と比較してしまうから。兄が発病したのは1964年、21歳で、東大生でした。その時は半年で退院しましたが、27歳で、商社員だった時に再発し、それ以後、詳しい事情は憚りますが、廃人になりました。私は関西の大学に行っていて滅多に帰省しなかったのですが、後で母に再発の経緯を聞いて、よくもまあ、これほど、節目節目で最悪の選択を続けたものだと、あきれ返ったものです。
その理由は、両親も東大生の筈の兄本人も文学的教養と無縁だったことにあると、詩人の手になる手記であって優れた自作の詩もいくつか収録されている本書を読みながら、今更ながら思い返されます。
兄の話に戻りますが、そもそも1964年という時代に、母は、主治医から、「今は医学が進歩しているから治るんですよ」とか、「5年たって再発しなければ治ります」などと、奇妙なことを吹き込まれて、すっかり真に受けていたらしい。そもそも、医者の言う統失が「治る」とは、「退院できる」という意味なのに、家族の方では「完全に元に戻る」という意味にとってしまって、就職にも結婚にも「人並み」を本人に強要して、結果的に再発させてしまう。そんな悲劇を、後に家族会に出たりして、散々見聞きしたものでした。兄の場合も、卒業どころじゃなかったのに、親のプレッシャーで無理やり卒業させ、挙句は就職先は大手商社などという統失者には最悪の所。もし、少しでも教養があれば、統失になった時点で、世俗的な出世コースなど問題外だと分かったでしょうに。
その点、本書の著者は、仏文科を出て詩人志望だっただけあって、世俗には半身に構えていられた。そこに余裕が生まれて、良い方に作用したのだと思いますよ。仏文科といえば、私がかつて勤めていた地方大学で同僚だった仏文学者は、ゼミでカミユの異邦人を原書で読ませる効用について、こう語っていたのを思い出します。「最初、学生たちは、世の中のために役立つ人間にならねば、という固定観念でガチガチになっているんだよ。けれども、異邦人を読んでいるうちに、あるところで、回心とでもいうものが起こる。世の中に役立つような人間にならなくていいんだ、と悟るんだよ。」
著者にあって私の兄になかったのは、このような意味での文学的素養だったのでしょう。ちなみに兄は、大学の卒論では毛沢東をやり、就職しても職場の「党細胞」に属するという、社会的正義感でガチガチの人でした。
また、この著者が、自らの病気の解釈としてフロイディズムに惹かれるのも、当然なことです。むしろこの自己解釈もまた、著者の病気の回復に役に立つ「物語」だったのでしょう。物語なき無意味な脳神話などに、人間は耐えられないのだから。著者は、病院にはカウンセリングなど全くない、といぶかっていましたが、これこそまさに、日本の精神医療が、フロイトなど一度も受け入れたことなく、一切の意味ある物語を拒否して脳神話にかじりついてきたことの、現れと思います。そのエピゴーネンみたいなレヴューも、本書の過去のレビューにはあるようですが。ちなみに、「精神疾患の生物学的要因説の普及が精神疾患のスティグマ化を改善するどころかひどくしていることが、色んな実証的調査から明らかになりつつあるという、恐らく当事者や支援団体にとって最も衝撃的な事実」が、『クレイジーライクーアメリカ』に紹介されています。参考までに。
2012年9月3日に日本でレビュー済み
単純な感覚でいうと、あまりおもしろくない。
著者の日常生活に関する記述や著者の思索の開陳がダルく感じられるためか。それは分裂病者の生活・考えについてよく知る上で貴重な内容であるはずではあるが、しかしダルく感じるのを禁じ得ない。
昭和30年〜40年代の精神病棟での(患者サイドから見た)治療の実態や、分裂病(統合失調病)者の社会生活の実態―意外と簡単に就職して普通に働いていたりする―について知ることはできるので、そういう興味があるひとにはよいのかも知れない。
著者の日常生活に関する記述や著者の思索の開陳がダルく感じられるためか。それは分裂病者の生活・考えについてよく知る上で貴重な内容であるはずではあるが、しかしダルく感じるのを禁じ得ない。
昭和30年〜40年代の精神病棟での(患者サイドから見た)治療の実態や、分裂病(統合失調病)者の社会生活の実態―意外と簡単に就職して普通に働いていたりする―について知ることはできるので、そういう興味があるひとにはよいのかも知れない。
2004年12月6日に日本でレビュー済み
統合失調症の方が、ご自分で書いた本です。
私は、大学の精神科研修や自身の入院体験を通して、
いかに精神科が未開拓な分野なのかを思い知らせれました。
今の日本でも、患者が30年も入院している事実があります。
私の疾患に対する医師不信と、そういう一連のことを考えながら、
この本を読んでいると、昔かかれた本にもかかわらず、
今も精神科がその現状であることを、改めて感じました。
私は、自分の病気に振り回されて、
人生の全ての時間を発作に費やしていたら
もったいないと言う思いが、私の中で、一層強くなりました。
いわゆる、意識改革のために、役立った本です。
これから先、どう病気と共存していくか、人生の質をあげるか・・・。
統合失調症にかかわらず、生き方を考えさせてくれる本でした。
私は、大学の精神科研修や自身の入院体験を通して、
いかに精神科が未開拓な分野なのかを思い知らせれました。
今の日本でも、患者が30年も入院している事実があります。
私の疾患に対する医師不信と、そういう一連のことを考えながら、
この本を読んでいると、昔かかれた本にもかかわらず、
今も精神科がその現状であることを、改めて感じました。
私は、自分の病気に振り回されて、
人生の全ての時間を発作に費やしていたら
もったいないと言う思いが、私の中で、一層強くなりました。
いわゆる、意識改革のために、役立った本です。
これから先、どう病気と共存していくか、人生の質をあげるか・・・。
統合失調症にかかわらず、生き方を考えさせてくれる本でした。
2001年10月21日に日本でレビュー済み
医師である専門家の解説も付け加えられ、全体として内容が豊かになっている。
本文は、著者の20年に亘る罹患・闘病と人生の記録である。様々な出来事・事件と著者の思考・感情が、平易な文章で淡々と綴られてゆく。普通の生活、再起、愛情、快楽などへの思い・こだわりといったものが、普通に伝わってくる。この点だけで、本書の価値は充分すぎるほど認められる。
本文は、著者の20年に亘る罹患・闘病と人生の記録である。様々な出来事・事件と著者の思考・感情が、平易な文章で淡々と綴られてゆく。普通の生活、再起、愛情、快楽などへの思い・こだわりといったものが、普通に伝わってくる。この点だけで、本書の価値は充分すぎるほど認められる。