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1Q84 BOOK 2 単行本 – 2009/5/29

4.1 5つ星のうち4.1 322個の評価

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Japanese novelist Murakami Haruki's long-awaited new full-length novel! Sold 2 million copies in the first six weeks of publication. Vol. 2 of 2. Distributed by Tsai Fong Books, Inc.
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登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 新潮社 (2009/5/29)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2009/5/29
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 501ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4103534230
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4103534235
  • 寸法 ‏ : ‎ 13.72 x 2.79 x 19.3 cm
  • カスタマーレビュー:
    4.1 5つ星のうち4.1 322個の評価

著者について

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村上 春樹
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1949(昭和24)年、京都府生れ。早稲田大学文学部卒業。

1979年、『風の歌を聴け』でデビュー、群像新人文学賞受賞。主著に『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(谷崎潤一郎賞受賞)、『ねじまき鳥クロニクル』(読売文学賞)、『ノルウェイの森』、『アンダーグラウンド』、『スプートニクの恋人』、『神の子どもたちはみな踊る』、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』など。『レイモンド・カーヴァー全集』、『心臓を貫かれて』、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、『ロング・グッドバイ』など訳書も多数。

カスタマーレビュー

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上位レビュー、対象国: 日本

2021年10月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
『ねじまき鳥クロニクル』で存在感を見せた牛河が登場するBOOK2。
 『ねじまき鳥』の世界も1984年を舞台としていたのですね。
 10年前に初読した際は吃驚したものです。
 BOOK1を読んでいる時点では、1Q84の世界は1984の世界のパラレルワールドだと誰もが思っていたのではないかと思いますが、この点、教祖から「それらが並列的に進行しているというようなことじゃない」と明確に否定されます(P271)。天吾の物語を語る能力によって1Q84の世界に切り替わった。これは、SF作家グレッグ・イーガンが得意とする量子論的考え方かもしれません。まあ、そういうことは本書において、それほど重要なポイントではありませんが・・。

 BOOK2ではタマルの次の言葉に重みを感じましたね。
「それは俺にとって大事な風景のひとつになっている。それは俺に何かを教えてくれる。あるいは何かを教えようとしてくれる。人が生きていくためにはそういうものが必要なんだ。言葉ではうまく説明はつかないが意味を持つ風景。俺たちはその何かにうまく説明をつけるために生きているという節がある」
 
 では、BOOK1のレビューに引き続き、BOOK2における村上春樹文学的技巧の象徴たる比喩をいくつかピックアップしてみました。

 白い百合の花について
「百合は大きく、瞑想に耽る異国の小さな動物のようにもったりしていた」

 牛河の外見(頭頂部)について
「その扁平さは、狭い戦略的な丘のてっぺんに作られた軍用ヘリポートを思い起こさせた」

 牛河の外見(着ているスーツ)について
「無数の細かいしわがよっていた。それは氷河期に浸食された大地の光景を思わせた」

 天吾が一方的に切られた受話器を見る目について
「しばらく黙って見つめた。農夫が日照りの季節に、ひからびた野菜を拾い上げて眺めるみたいに」

 坊主頭が青豆を見る目
「壁にかかった額縁が曲がっていないかどうか確かめるような目で、注意深く青豆を見ていた」

 教祖が青豆を見る目を弱めたことについて
「視線が急速に力を失っていくのを感じた。まるでホースで水を撒いているときに、誰かが建物の陰で水道の蛇口を閉めたみたいに」

 電話回線の切られかたについて
「誰もが会話の途中で好き勝手に電話を切ってしまう。まるで鉈をふるって吊り橋を落とすみたいに」

 教団の腹の立て方について
「激しく腹を立てているだろう。まるで巣をつつかれたスズメバチみたいに」

 牛河が歩いていくと
「学生たちは自然に脇によって道をあけた。村の小さな子供たちが恐ろしい人買いを避けるみたいに」

 天吾のガールフレンドは
「どこの村にも灌漑の得意な農夫が一人くらいいるのと同じように、彼女は性交が得意だった」

 青豆のことを思い出し損ねている天吾の気持ち
「靴の中に入った小石のように、ときどき彼を落ち着かない気持ちにさせていた」

 二つ目の月について
「深く考え抜かれたあとの句読点のように、あるいは宿命が与えたほくろのように、それは無言のうちに揺らぎなく、夜空のひとつの場所に自らの位置を定めていた」
2013年5月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
発売当初罵か売れした作品ですが、それは本屋業界が紙媒体として瀕死の状態であったため、ノーベル賞に近いと目されている村上春樹氏をマスコミを使って持ち上げ、この本を売ることで出版業界を救ったのだ。

だが、出版業界は、本当に村上春樹の価値を知っているのだろうか?

いくら自分たちが生きるためとはいえ、この繊細な作家をマスコミに利用させるなんて、なんて無茶なことをするのだろう。
明らかに、村上春樹はマスコミが嫌いだし、大衆化されるのだって嫌っている。
でも、物語が広く世界に必要とされている今現在を憂いているからこそ、最近は外に頑張って出ているのだ。
だから、その気持ちをくんで、もっと丁寧に扱って欲しい。
いつも思うが、なんでマスコミというものはデリカシーがないのだろう。
まるで、餓鬼のようだ。

ああ、作品の感想からズレて申し訳ないですが、今の新作もこのときの失敗を生かせてないので、つい愚痴をこぼしてしまいました。
申し訳ありません。

最後に、村上春樹の作品に大衆小説を期待して読んではいけない。
これは、人間の魂が必要としている『物語』を書こうとしている作家の意欲作なので、『小説』ではありません。
むしろ、『神話』に近いのです。
1Q84は、それに成功しかけている作品なので(まだ完成はしていない)、そう思って手にしないと失敗しますよ。

ただの暇潰しで読む代物ではありません。読みやすいから読めてしまいますが、大衆小説ではないので、それを期待していると、足元掬われます。

村上春樹を理解したいのなら、河合隼雄氏との対談を読んでください。
そうすれば、彼が目指しているものが理解できるでしょう。

日本人だからこそ、描ける神話なのです。
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2009年6月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本作が発売されて2週間近くになり、
多くの方の書評やレビューを拝読させていただきましたが、
私が、本作を最も的確に批評していると思った書評に
次のようなものがあります。

『物語としてはとても面白くできているし、
最後までぐいぐいと読者を牽引していくのだが、
空気さなぎとは何か、リトル・ピープルとは何かということになると、
我々は最後までミステリアスな疑問符のプールの中に
取り残されたままになる。あるいはそれこそが著者の意図したこと
なのかもしれないが、そのような姿勢を(作者の怠慢)と
受け取る読者は決して少なくはないはずだ。』

すでに読まれた方はお分かりだと思いますが、
この書評は、登場人物のひとりである17歳の少女ふかえりが書いた
小説(正確には原案)『空気さなぎ』に対する文中の書評で、
村上春樹は、本作が世に出る前に、読者からの批判を
あらかじめ推測し、それを受ける覚悟で書いていたのではないかと
思われます。

この書評の続きを読んでみると、

『この処女作についてはとりあえずよしとしても、
著者がこの先も長く小説家としての活動を続けていくつもりであれば、
そのような思わせぶりな姿勢についての真摯な検討を、
近い将来迫られることになるかもしれない』

と書いていますが、この文章から推測すれば、やはり村上春樹は、
ブック3、ブック4を用意しているはずです。
ブック3が<10月−12月>で、ブック4が<1月ー3月>になると、
ブック4は1Q84ではなく、1Q85になるのではないかと疑問視されて
いる方もいますが、ブック4が、ブック1の前に来る話であれば、
1Q85になる事はありません。
私は、1Q84がメビウスの輪のように、終局と始まりが繋がっている
終わりなきストーリーになる事を秘かに期待しているのです。
(BooK1 50点 BooK2 70点)
91人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2013年2月24日に日本でレビュー済み
IQ84「村上春樹 変奏曲」 第2楽章 4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて

「1Q84」が村上春樹文学の総決算としての「変奏曲 村上春樹」をイメージさせるポイントは2つある。

スタイルとしての変奏と、テーマとしての変奏である。
スタイルとしての変奏が第1楽章で見たように「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」であるならば
テーマの変奏については村上春樹自身が直接語っている。

「1Q84」は、自身の短編「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」(1981)を
ふくらませたものであるとインタビューで答えているのだ。
「男の子が女の子と出会う。二人は別れ、お互いを捜す。単純な物語。長くしただけです」

「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」のストーリーはこうだ。

四月の晴れた日、原宿の裏通りで「僕」は100パーセントの女の子とすれ違う。
しかし、僕は何もしないで「ただすれ違う」だけしかできなかった。
後に、僕はそのときに彼女に話すべき話を思いつく。

昔々あるところに少年と少女がいた。
巡り会った瞬間に、彼らはお互い100パーセントのカップルだった。
二人はもう孤独ではない。

しかし、二人の心にほんのわずかな疑念が横切る。
「ねえ、もう一度だけ試してみよう。もし僕らが100パーセントの恋人同士だったとしたら
いつか必ずどこかでまためぐり会えるに違いない」
そして、二人は別れる。

そしてお決まりの運命の波が二人を翻弄することになる。
二人は生死の境をさまよった上で記憶をなくしてしまう。
時は驚くべき速度で過ぎ去っていった。

そして四月の晴れた日に原宿の裏通りでふたりはすれ違う。
しかし彼らの記憶の光は弱く澄んでいない。
二人はことばもなくすれ違う。

悲しい話だと思いませんか。

このストーリーラインでは、二人は出逢い、別れ、そして捜し求める。

1Q84では、教室の世界で100%の契りを交わした二人は、
手をつないで、お互いの存在を確信するのだが、別れてしまう。
そして二人は永遠に相手を捜し求める。

そしてBook2では、青豆と天吾は「教室の世界」で約束された、
「隠されたメッセージ」を発見し、それに気づく。

では、そのふたりが30歳になって発見した「隠されたメッセージ」とはなんだろう。

それは我々、読者が「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」が出版された村上春樹から贈られたメッセージでもある。
そう、我々は100パーセントのカップルのようにそのメッセージを30年も忘れていたのだ。

そのメッセージを解く鍵は、物語に登場する2つのグループの対比にある。

その2つのグループは、男女で区分けするならば、

女性陣は一方に青豆がいて、

もう一方に、環、あゆみ、年上のガールフレンド安田恭子が置かれている。

男性陣は一方に天吾がいて、

もう一方のグループに天吾の父親、ふかえりのクラスメイトのトオル、牛河が配置されている。

そして2つのグループの差は「ゴムの木」と「金魚」の差でもある。

青豆は、柳屋敷で緒方夫人がつばさに買い与えた金魚が気になり、
自分も買いにいくが、どうしても金魚が買えなくて、
誰からも見捨てられたようなゴムの木を買ってしまう。

青豆はひとしきり「どうしてこんなにあのゴムの木が気になるのだろう」と考える。
が、青豆にとって、金魚が買えずに、ゴムの木だけが買えたのには意味があった。

ゴムの木は「決意した孤独」の象徴なのだ。

それは青豆と同じく、誰にも依存しない、自立した「孤独」の象徴だ。

金魚は自立していない。
金魚は一見すると悲しげで、孤独の象徴のようだが、
金魚は人から餌を与えられ、愛でられる。
自立もしていないし、決意もしていない。
孤独の状態にいるものの、自らの意思で孤独になった訳ではない。

さらに言えば、1Q84に登場する金魚は、
老婦人とつばさとの「結ばれなかった約束」の象徴になっている。
それは一方的な庇護と憐憫を含んだ、上から目線の一方的な公約だ。
結局つばさはこの約束を受け入れない。

つまり金魚は「一方的に押しつけられた救い」の象徴にしか過ぎず、
そこには、互いを認めあう共感も、決意の上で自立した孤独も存在しない。

では、この「結ばれなかった約束」の反対に位置する「約束」とはなにか?

この理解ならば、それは誰にも依存しないように
互いの自立を促す「結ばれるべき約束」に違いない。

教室の世界で二十年前に青豆が天吾の手を握ることによって、天吾に届けたメッセージは、
まさに誰にも依存しないと決意するための「約束」だったのだ。

「あなたは孤独ではない」

その当時、愛のない不幸な世界に囲まれた、10歳のふたりの子どもが、
お互いの「孤独」を感じ取ることで、共感し、互いに運命的な絆を察知したことで、手を握り、
そして孤独から抜け出した。

「あなたがいれば、もう孤独ではない」

このメッセージを交わすことで、ふたりは100パーセントのカップルになったのだ。

それはこれから先、あなたさえいれば、
ほかの人たちからの無視や周囲からの無理解や酷い仕打ちに耐えていけるという「決意」だ。

決意はどこから来るのか、それは100パーセントのカップルの間で交わされた
「いつかは結ばれるはずの約束」から来るのだ。

あゆみや環、年上のガールフレンド安田恭子、

病気の少年、天吾の父親、牛河には、天吾や青豆のように約束をした相手がいない。

2つのグループとは、「孤独」を巡るものであり、
約束をした相手がいるか、いないかであり、
その相手を待って一生の孤独に耐える決意があるかどうかなのである。

その決意が、この2つのグループを峻別している。

100パーセントの相手が見つける幸運があるかないか、
例え見つかったとして、その相手以外からの孤独に耐える決意があるかどうかが、
各々の人生を決めていたのだ。

青豆とリーダーとの間で交わされる貴重な会話の中で、青豆から突然発せられる言葉が重要だ。

「私には愛があります」

「愛があればそれで十分だと?」

「そうです」

そう青豆には「愛」がある、たとえ「孤独」でも。

30歳になった青豆や天吾には、この愛のために「孤独を耐え抜く決意」がある。

その決意は20年前に教室の世界で運命の相手と「約束」したことに起因している。

しかし悲しいかな二人が30歳になった現在では、ふたりともその「約束の意味」を忘れている。
それでも、孤独に対抗する決意だけは残った。

ではなぜ、ふたりは「約束の意味」を忘れてしまったのだろう?

青豆と天吾は20年前に教室の世界で、100パーセントのカップルとして、約束をした。
それはいつかは果たすと決めた「約束」であった。
しかし、当時の青豆と天吾にはそれがどんな「約束」なのかははっきりわからなかったのだ。

幼いふたりにはその当時、約束の意味が正確につかみ取れなかった。
ゆえに100パーセントのカップルだったにも関わらず、ふたりは別れ、
その後の20年を別々に生きていくことになる。そして長い年月の果てに
約束そのものまで忘れさられてしまう。

約束の意味がふたりにとって難解だった部分は、2つあった。
当時、二人が置かれていた子どもとしての環境の問題が一つであり、
もう一方は、子どもではわかり得ないことだった。

10歳の子どもであった二人の「日曜日の家族行動」が
二人の感情に特別な「共感」を感じさせたのだろう。
天吾はNHKの集金人の父親に連れ添って市川の街を歩き続ける。
青豆は証人会の勧誘をする家族に連れ添って同じく市川の街を歩き続ける。

10歳の子どもにとって、家族は絶対だ。生きるための最低の帰属単位である。
家族から離反して、10歳の子どもが生き続けることは不可能だ。
その年代の子どもは家族から離れて暮らす術を持たない。

しかし教室の世界の後、100パーセントの相手が
自分は「孤独ではない」ということを保証してくれた。
そして、ふたりはそれまでの「孤独の象徴」であった家族と決別するのだ。
そして決別すると引き換えに生涯に渡る「孤独」を代償として受け入れた。
だからこそ約束の相手以外ではその孤独は癒されないのである。

さてもう一方の、子どもではわかり得ない約束の意味とは「セックス」のことである。

約束をした当時、「いつか結ばれる」という曖昧な形で
「セックス」が10歳の子どもたちに提示されたのだ。

教室の世界の後に、天吾は精通を、青豆は初潮を体験した。
つまりふたりは約束した当時、セックスが出来ない状況だった。
言わんやセックスの目的としての受胎、懐妊を受容し得ない状況だった。

二人が決意して約束した「つぎにすべきこと」は、
家族からの離反であり、ふたりは別々にそれを実行した。
青豆は証人会の家族から離れ、おじの家に行き、ソフトボールの特待生になる。

天吾は父親に日曜日は自分の意志で過ごすと宣言し、担任の先生のうちに行って援護を勝ち取り、
その後、柔道の特待生で自立する。

彼らは家族から離反するだけで精一杯だったし、その後の人生は自分たちが自立するために捧げられた。
そして30歳になるまでその自立のための努力は続けられた。

ふたりの当時の状況でそれ以上のなにができたであろう。

10歳の男女が同居して、新たな家族を形成することなどあり得なかった。
経済的にも、肉体的にも、ふたりはまだ子どもだったのだ。

「いつか結ばれる」という約束は、まさに実現不能で意味不明の形で
10歳のふたりの前に提示されたである。
だからふたりは「手をにぎりしめ」ただけで、別れたのだ。

村上春樹の世界ではセックスの問題はおなじみである。
村上春樹ほどセックスを情緒的に表現しない作家も珍しい。
文章中に「セックスをした」と端的に書き始めたのも日本では村上春樹だと思う。
そこには性愛の匂いを感じさせない。感情的な要素も感じさせない。
単に行為、行動として身体を合わせるニュアンスしか存在しない。

スポーツのようなセックスを文章で実現したのが村上春樹なのである。

しかし、それ故に村上春樹は特別な領域を切り開いた。
村上春樹が男女の営みを「セックス」と書かないとき、
それは単なる性愛を越えた「交わり」を指すことになるのである。

これによって村上春樹は「純粋な愛」に非常に近い、
儀式的な、宗教的なニュアンスを持つ「性交」を表現できるのである。

今回の1Q84でいえば、運命の一夜における天吾とふかえりの「オハライ」がそれに当たる。
それらは青豆の開放なセックスライフでもなく、
天吾と年上のガールフレンドとの相性のいいセックスとも別の次元の行いである。

特にこのオハライは、肉体的には天吾はふかえりと結ばれるが、
精神的には、生涯ではじめて青豆と結ばれる。
まさに性愛を越えた「交わり」であり、儀式的な、宗教的なニュアンスを持つ「性交」だ。
そして結果、青豆は「処女懐胎」を果たす。
この「処女懐胎」の件に関しては最終楽章で検証することになるだろう。

当然のようにふたりは自立して、セックスが出来る年齢になるまで、別々に生きていくことになってしまう。
そして、「あなたは孤独ではない」というメッセージは、離れている間に次第に薄れていき、

いつの間にか思い出せなくなっていき、ついには忘れてしまうくらいになってしまう。

しかし、二人は決して約束を完全に忘れてしまった訳ではない。
何かの拍子に思い出そうと必死にきっかけを求めていた。
たとえは、ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」がそれだ。

ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」は青豆と天吾を、特定はできない「どこかの場所」に結びつけている。

何かへの導入の役目を果たしている。

どこかの場所とは「教室の世界」に他ならない。

現実の世界に生きる青豆と天吾にとって、教室の世界は通常忘れ去られている。
しかしふたりの心の深層では「渇望」されている。
偶然か必然か、ふたりともその教室の世界を思い出すために
「シンフォニエッタ」を活用していたのだ。まさにの睡眠導入剤の役割のように。

ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」は、
互いを意識的に引き寄せるための唯一の入り口として
ふたりによって、何度も再生される。
小説の中ではひとつの挿話や小道具の使用が繰り返されるほど、現実的な事象としてその世界に立ち上がる。

青豆の世界でも、天吾の世界でも「シンフォニエッタ」がこれほど繰り返されるのにはそれなりの理由があるのだ。

さらに天吾は、ふかえりの「空気さなぎ」の物語を再生したことにより、
この教室の世界に対して、より簡単にアクセスすることが可能になる。
天吾のなかのレシヴァとしての才能の開花するのだ。

運命の一夜、ふかえりと「オハライ」をすることで、天悟は教室の世界に意識的に入る能力を身につける。
教室の世界はより頻繁に現れるようになる。

そして「あなたは孤独ではない」というメッセージは、
いまや自立し、十分に成熟した天吾に対して
「大人として果たすべき約束」の形で具体的に立ち上がる。

そして、その能力が開花され、約束を果たすべき準備ができた時に
天吾は初めて「二つの月」を見る。
「あなたがいれば、もう孤独ではない」というメッセージの
「あなたがいれば」の部分を思い出すのだ。

「青豆がいれば、僕はもう孤独ではない!」と

月は相変わらず寡黙だった。しかしもう孤独ではない。

「青豆はどこにいるのだろう。青豆を捜さなければならない。」

天吾には、青豆にもこの二つの月が見えているはずだという確信があり、

だからこそ、我々は巡りあわなくてはならないと決意する。

ふかえりは天吾に予言する
「そのひとについておもいだすことがいくつかある。
やくにたつことかあるかもしれない。」

天吾は次第に思い出す、メッセージの意味を。
この1Q84は、教室の世界で約束された、
「隠されたメッセージ」を発見し、それに気づく物語なのだ。

逆に不幸にして「約束」を思い出せないパターンが
「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」である。
だとすると「1Q84」は「約束」を20年かけてでも思い出し、それを実行する物語だ。

二つの物語は同じ開始点で始まるが、
東京駅から始発する山手線と京浜東北線のように、いつしか離れ、各々の別の終着点に向かうのだ。

約束を忘れてしまい、青山すれ違うカップルと
約束を必死に思い出し、それを果たそうと様々な危難に立ち向かう「ふたつの月の世界」のカップル。

山手線のカップルは、天吾と青豆の1Q84に来るまでの姿であり、
ぐるぐると同じところを回って、逡巡するだけでめぐり会うことがない。
1Q84に来たふたりはその円環から抜け出してしまったが、まだめぐり会えない。
そして終着点はBook2ではまったくわからない。

ここまで読み解いてきて、最後の命題が残る。それは、我々読者が、1981年に村上春樹から贈られ、
30年も忘れていたメッセージの意味を問うことである。

それは「孤独」と「愛」を巡るものである。

メッセージの意味は、
人生において100パーセントの相手を見つけること
その相手を待つためには、一生の孤独に耐える決意を持つこと
にあるだろう。

そこに「愛」があれば、我々は長き孤独に耐えることができるのだから。

しかし、愛以外のものをあてはめる場合もあるのだ。
これが、1Q84の世界を複雑にしている理由だと考えられる。
答えが愛ならばシンプルだ。愛でない場合、我々はその難解さの前にたたずんでしまう。

孤独に対して、青豆と天吾には「愛」があった。
この二人は、なにものにも変えられない存在として「愛」を人生の中心においた。
もう一方で孤独に対抗しようとして「別のもの」を人生の中心に持った人々がいる。
教団さきがけや証人会、そして柳屋敷の緒方老婦人のグループである。

「1Q84」はある意味、こうした人々を描くために書かれた。
教団や証人会は孤独に対抗するものとして「宗教」を人生の中心に置いた。
緒方婦人は女性への家庭内暴力を追放する「信念」をおいた。

両者は対立しているようで、村上春樹から見れば同じキーワードで結ばれる。
「カルト」だ。

これがこの本の重要なテーマであることには間違いがない。

青豆とリーダーとの間で交わされる貴重な会話の中には続きがある
「私には愛があります」
「愛があればそれで十分だと?」
「そうです」(中略)
「非力で矮小な肉体と、翳りのない絶対的な愛・・・
 どうやらあなたは宗教を必要としていないみたいだ」

ということで、第3楽章では「カルト」というテーマに対して
「羊をめぐる冒険」を梃子にして、「変奏曲 村上春樹 第3楽章」を分析してみたい。

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IQ84「村上春樹 変奏曲」 第3楽章 羊をめぐる冒険

第三楽章では、村上春樹の初期の傑作「羊をめぐる冒険」を梃子にして、
カルトや邪悪なるものやリトルピープルをめぐる冒険をしてみよう。

海外翻訳が多い村上春樹だが、
現在、処女作の「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」の翻訳を認めていない。

作家としての技量が足りなかった時代の習作と位置づけているためであり、
結果、3作目にあたる「羊をめぐる冒険」が本来のデビュー作であると考えている。

「羊をめぐる冒険」の初版当時の僕らの受け止め方もまさに「村上春樹の本格派への転向」という印象だった。
ファッションのようなスタイルの作家であった村上春樹が、「本当の」作家になった作品と記憶している。

この本格派への転向という変化は、「羊をめぐる冒険」で今までになく、
「テーマ」がしっかりと扱われたからだと思う。

「羊をめぐる冒険」は、「羊憑き」をめぐる冒険譚だ。
物語は、主人公・僕が、失踪した友人・鼠を探すロードストーリーだ。
鼠は北海道のとある村で「星の印がある羊」にとらわれている。
星のある羊には世界を支配する霊力がある。
羊は満州で農林省の役人に乗り移り、戦後右翼の大物に乗り換え、政治と広告の世界から日本を操った。
「羊をめぐる冒険」では邪悪なる羊は、人間に取り付くことで、その人物を介して日本を操る。

そして邪悪な力を使って状況を操るカルト集団として右翼を組織化した。
一説には人物のモデルは児玉誉士夫といわれる。
児玉誉士夫亡き後の邪悪な力(羊)をめぐる後継者争いが小説の隠れたテーマであった。

この神憑きの人物と邪悪な集団という構造が、そのまま「1Q84」の世界に変奏された。
羊に憑かれた友人・鼠が1Q84では教団のリーダーとして配置され、
不思議な力をもつ存在として登場する「耳のきれいなガールフレンド」が
超能力を宿したふかえりとして配置されている。
天吾は「僕」と同じ存在であり、物語の狂言回しになる。

そして「羊をめぐる冒険」で絶大な権力を握っていた黒服の男が掌握するカルト集団が
進化した形で変奏されているのだ。
「1Q84」の世界には、邪悪なるものを推進するカルト的な集団が2つある。
リトルピープルのレシヴァたるリーダーによって運営される教団さきがけと
娘を夫の暴力によって殺された緒方婦人が立ち上げた家庭内暴力に対抗する地下組織だ。

緒方婦人やタマルの穏やかな人格から後者の地下組織は一見カルト集団に見えないが、
青豆が語るように、この組織は外部に対する敵意に満ちた暴力的なカルト集団だ。
「青豆はやりきれなくなった。緒方婦人やタマルとの密接な関係が、
暴力というかたちを通してしか結ばれないからだ。
法律に背き、人を殺し、誰かに追われ、殺されるかも知れないからこそ、この組織は団結している。
信頼の絆は殺人を介在にしか成立していない。暴力性がある種の純粋な結びつきを作り出している」

内部に向かって収斂・結束し、外部に対して攻撃的になる、それがカルトの傾向だ。

カルト的な集団を描くに当たって村上春樹が最も苦心したと思われる部分は、

オウム真理教などの特定の宗教団体に矮小化して、
読者に伝わることを防ぐことだったのだろう。
そこで「羊をめぐる冒険」の神憑きの集団の変奏だけでなく、
もうひとつのカルト集団を置くことでこのカルト的な状況を
より広く、より深く警告したのだと考えられる。

「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。
多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。
オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、
そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる。
物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。
目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。
深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」

  * 毎日新聞インタビュー、2008年5月12日 より

この「精神的な囲い込み・枠組み」を広く表現するために、村上春樹はリトルピープルなる存在を持ち出し、
太古から面々と続く「善悪を越えたものごと」としてカルトを捉え、根源的な「神」の存在を説いた。

実際、リトルピープルの存在は世界に広く流布している。
指輪物語のドワーフもホビットも、アイヌのコロボックルも、日本神話のクーナも、
ハワイのメネフネも同じく小さい人の神話である。

そしてリトルピープルだけでなく原初的な神様や神憑きの王様は、
どこの大陸、どこの地域、どんな民族にも共通して存在する。
古代史に置いては、神憑きの「王」は、民衆をとりまとめ
集団を率いる手段であり、全ての部族、村落、都市、国家の源といえる。
「1Q84」で指摘される「王殺し」の習慣ですら欧州では当たり前の風習だった。
古代ローマ以前のローマでも事例はたくさんある。

日本でも原始宗教時代、神憑りのご請託を操ってヤマト朝廷の礎を築いたヒミコ(卑弥呼)が
指導力(霊力)の低下によって、民衆によって殺されたと考えられている。
不吉な日食のなかでの女王の暗殺と王権交代劇の一部始終が
「天照大神の雨の岩戸伝説」の出所と言われる。

さらに「1Q84」の世界の「神憑きのレシヴァ」と民衆の関係は
神の言葉を迷える民衆に伝える「預言者」の存在として

エホヴァの神を戴く、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教に共通の構造である。
イエスもモーゼもモハメッドも同じく神の言葉を預かる「預言者」である。

人智を越えた神という存在は、我々人間を監視する。

そして監視するだけで事態が解決せず止むを得ず行動する場合は
預言者を通じて、行くべき方向を示唆し、
時に反抗する民に向けて事件や試練を起こして干渉する。
預言者にはある種の「奇蹟の力」を授ける。
奇蹟によって民衆を束ね、集団催眠状態を作り出す。

そしてその預言者を通じても事態が収拾できない場合、
最大の恫喝手段として「災厄」を与える。

この預言者を通じて関与する「神と人間の関係性」こそ、
リトルピープルの在り方なのだ。

ここでは神の不在性ではなく、「神の存在性」が問われている。

「多神教社会に帰属する日本人」は、自分たちが不神論者だと考え、
神の不在を中心に物事を考えやすい傾向がある。
だから人智を越え、善悪を越えた存在が実在した場合になると思考停止してしまう。

逆に、神の存在を前提にする三大宗教社会の民衆は、
絶対なる神の指導がない世界を一瞬たりとも想定し得ない。
神の指示は絶対であり、神に間違いは存在しないと、思考停止してしまう。

今回、村上春樹が用いたリトルピープル論が面白いのは、

3大宗教を信じている人々が考えるように、
神は行動を起こすべき時に行動を起こすのではなく、
人界との通路が開かれた時に行動を起こすという解釈である。
「絶対善」としての神を持ち得ない多神教の日本人作家ならではの解釈だと思う。
この神の行いには良いことも悪いこともある。村上春樹にとっては神も完全ではないのだ。

「1Q84」では、ふかえりが盲いた山羊を殺してしまった罰として
独居房にその山羊の死体と10日間閉じ込められたことで、通路が偶然開かれる。
リトルピープルたちはその山羊を仮の通路としてやってくる。
物語のなかではBook2で青豆が小説「空気さなぎ」を読む。
それはふかえりが創作し、天吾がリライトして完成した小説だ。

人智を越えた神に関するテーマは、すべてこの中で問題提起されている。
その中で「精神的な囲い込み」に関するポイントは、
ふかえりとリトルピープルの問答に隠されている。

「ドウタはマザの代理をつとめる。ドウタはあくまでマザの心の影に過ぎない。
それがかたちになったものだ。

ドウタはパシヴァの役目をする。パシヴァは知覚したことをレシヴァに伝える。

つまりドウタはわれらの通路になるぞ。
死んだ山羊は仮の通路で、生きているドウタが本当の通路だ。

マザの世話なしにドウタは完全ではなく、長生きできない。
ドウタを失えばマザは心の影をなくすことになる」

順に考えれば、山羊を仮の通路として使って人界にやってきたリトルピープルは
ふかえりと共に空気さなぎを作って、ふかえりのドウタという本物の通路を作った。
それを直感的に正しくないものとして、マザふかえりは脱走した。

偶然、ふかえりによって人界との通路が開かれる。
その偶然を利用してリトルピープルたちは行動を起こすのだ。

その後ドウタとリーダーは「多義的に交わり」、
レシヴァとしてリトルピープルと人界の通路を完成させる。
そして教団さきがけに「声」が届けられるようになった。
「預言者」が機能するようになったのだ。

この一連の「正しくないもの」に対抗するために、
脱走したふかえりは長い年月をかけて独力で反リトルピープル的モーメント活動を起動する。
物語「空気さなぎ」を立ち上げ、天吾をレシヴァに選んで、小説「空気さなぎ」として完成させた。
以降、この反リトルピープル的モーメントのユニットはふかえりが知覚し、天吾がそれを受け入れる形をとる。

「あなたはレシヴァのやくをしている。
それには特殊な資質が必要だ。

私たちはふたりでホンをかいたのだから。
わたしがパシヴァであなたがレシヴァ」

小説空気さなぎを書き上げる過程で、普通の人間だった天吾は大きく成長する。
「おなじではない。あなたはかわった。」
ふかえりが言うように、天吾は大きくレシヴァとしての覚醒の途上にある。

その後、覚醒の果てに二つの月が見え、空気さなぎが見えるようになり、
教室の世界に自由に行き来ができるようになっていく。

だとするならば、やはり第2楽章で検証したように
青豆をこの「1Q84」のふたつの月の世界に運んできたのは、
紛れもなく天吾ということになる。
青豆は、ふかえりとリーダーに最も遠い存在であり、天吾にだけ意味を持つ存在なのだから。

小説「空気さなぎ」を読み終えて、青豆は語る。
「私たちを結びつけているのは深田父子の存在だ。
この親子によって私たちは少しずつ距離を狭めているように見える。
しかしそれは致死的な渦によるものであり、致死的でないところに私たちの邂逅はなかった」

そしてBook2の中心が、致死的な事件ともよぶべき2つのカルト集団が対決する「運命の一夜」となるのだ。

この運命の一夜ではじめて、青豆と天吾、ふかえり、教団リーダーの
4人の主要登場人物が揃い、それぞれがキーアクションを起こす。

青豆はリーダー殺害を実行し、ふかえりはオハライをし、

天吾は教室の世界に戻り、リーダーは交換条件を提案して、死ぬ。

このキーアクションの後、物語は死の予感を孕んで一気にクライマックスに向かう。

この4人の人物を物語に結びつけているものがある。それは「月」だ。
天吾と青豆のリアルな世界と、
幻想の教室の世界、
ふかえりとリーダーの「空気さなぎ」の世界、
その3つの世界を結びつけているのは、月だ。

一般には、月は孤独と静謐の象徴であり、月は我々を見守る存在の象徴になる。
ジョージ・オーウェルは、月のようにわれわれを見守る存在として「ビッグブラザー」を発明し、
名作「1984年」を著した。

ビッグブラザーはどこにでもあるテレビからわれわれを見守り、監視し、
「ウォッチユー!」と指を突き刺して、糾弾する。
オーウェルはまさに「精神の囲い込み」であるカルトが定着し、
国家化してしまった監視社会の実態とその恐怖を描いたのだ。

なぜ村上春樹は「1984年」にこだわるのか。
それがジョージ・オーウェルが発明したビッグブラザーのように
人間を監視するシステムや組織の象徴記号だからだ。
精神的な囲い込みを象徴している記号が「1984」であり、
カルトに対抗する「深く広い心」を物語にするにふさわしい年号は「1Q84年」しかないのだ。

しかしこの1Q84の世界にはビッグブラザーはいなくて、リトルピープルがいる。
ただ大事なのは、神様があなたを見ているということだ。
誰もその目から逃れることは出来ない。
ビッグ・ブラザーはあなたを見ている。

リトルピープルもあなたを見ている。
月もあなたを見ているのだ。

しかし、この1Q84の世界では月はひとつではなく、ふたつある。
この世界の月は寡黙ではあるが、孤独ではない存在なのだ。

リトルピープルが月を二つに分つ。

「ドウタが目覚めたときには空の月が二つになる。それがしるしだぞ」

この長大な「1Q84」の物語は月が始まりで、
それが二つになり、やがて再び一つになる話なのだ。

天吾と青豆がすれ違うだけの元の世界の月はひとつで、

ふたりが運命を交差させる1Q84の世界では月はふたつになる。
いずれ、月は再び一つになるはずだ。

月をふたつに分つのがリトルピープルだとしたら、
ふたたびひとつに統合できるのは、どんな存在なのか?
見守り、預言者を操って指示をするだけの存在ではなく、
このふたつの月のある世界で、
実際に行動し、その世界を統合する存在とは何者なのか?
1Q84の謎は次第にそこに収斂していく。

その存在のヒントが、レシヴァにある。
神に選ばれたレシヴァの行動は「奇蹟」と呼ばれる。
奇蹟を行うことで民はレシヴァに従う。
つまり神の預言者であるレシヴァは奇蹟を行うことを運命的に求められる存在なのだ。
ではリトルピープルは、深田リーダーに対してどんな奇蹟を求めていたのだろうか?

仮にふかえりの書いた「空気さなぎ」がすべて真実だとして、

そこに記述してあることが教団の中で実際に行ったことだとする。
そこには、ひとつ重大な疑問がたち現れる。
空気さなぎからドウタふかえりがめをさます前に、
ふかえりは教団から逃げ出してしまう。

となると、「リーダーと多義的に交わったのは誰なのか?」という疑問だ。

リーダーはその「多義的に交わる」行為によって、レシヴァとして能力を開花する。
多義的な交わりなしに、リーダーの覚醒と教団の成長はあり得ない。
ではふかえりの脱走後にリーダーと交わり、
リトルピープルとの回路を広げた相手は誰なのか?
それがふかえりなのか、ドウタふかえりなのか、
1Q84の読者にはわからない。

小説「空気さなぎ」のラストもこの問題に触れて終わる。

「ときどき彼女にはわからなくなる。混乱が彼女をとらえる。
私は本当にマザなのだろうか。
私はどこかでドウタと入れ替わってしまったのではあるまいか」

果たして我々が深田夫婦の娘だと考えている「ふかえり」はマザなのか、
それとも緒方夫人のもとにきたつばさと同じくドウタなのか?

この謎を解く鍵は「オハライ」という行為にある。
東京にいるふかえりは、多義的に交わる行為を「オハライ」としているが、
それは過去の悲惨な出来事から学んだ結果として生み出された行為なのだと思われる。
小説「空気さなぎ」に登場する事件。
ふかえりが小学生のときに唯一友人になったクラスメイトのトオルを守れなかった悔恨が
リトルピープルに対抗する手段として「オハライ」を編み出した可能性は高い。

多義的な交わりについての青豆の推論がある。
「リーダーが性的関係を結んだのは、実体マザではなく、彼女たちの分身ドウタであると考えれば、
多義的に交わったという表現は腑に落ちる。
ただし、ドウタたちはリーダーの子供を受胎することを求めていたが、実体でない彼女たちに生理はない。
それでもなぜか彼女たちは受胎することを切に求めていた。なぜだろう?」

ドウタである彼女たちが受胎を求めていたのは、
それが達成されれば「奇蹟」になったからだ。
先に述べたように宗教集団において「奇蹟」は必須である。
深田リーダーが青豆の前で時計を動かして見せるのも奇蹟だが、
深田リーダーとドウタたちに課せられた奇蹟のレベルはより高次の奇蹟だった。
処女であるマザに「処女懐胎」させることが目的だったのだ。

ドウタはレシヴァと多義的に交わり、マザに神の子供の後継者を植え付ける。

イエスがマリアの「処女懐胎」で生まれたように、
ドウタたちは処女懐胎を望んでいたのだ。
ドウタの能力として、レシヴァと交わることで「他の女性に懐妊させることができる」とすれば、
ふかえりが新たなレシヴァである天吾と交わり、青豆を妊娠させる能力があったのはうなづける。

とするならば、このふかえりはドウタふかえりという考えにも及ぶ。
それを証明するかのごとく、このふかえりには生理がない。

生理のないドウタが交わり、何もしていない女性が妊娠すれば確かに奇蹟である。

1Q84における最大の謎は「処女懐胎」をめぐるものであり、
大きな秘密が青豆の妊娠には隠されている。
それについては後に考察したい。

村上春樹は初期において、世界と関わらないことを信条としていた。
しかし、ある時、世界に対してポジティブに興味を持ち、デタッチメントを開始した。
過去、村上春樹がデタッチメントしてきた事物は、
全共闘、オウム真理教、阪神淡路大震災、福島原子力発電所事故と並ぶ。
それをデタッチメントの時代と呼ぶ。
そして、その集大成として村上春樹は、1Q84で人類の根源的な問題を取り扱った。
すべてのデタッチメントの経験を踏まえて、変奏曲を奏でたのだ。

それは個人という弱い人間にとっては、宿命のような巨大なものに対する帰属意識に起因する
「精神的な囲い込み」を巡る問題であり、
「依存」という宗教の根源的な形を巡る問題でもある。
さらに過去「羊をめぐる物語」以降、何作かに渡って追い続けてきた
「邪悪なるモノ」を昇華させ、見事に変奏してみせた。

さて運命の一夜、4人はキーアクションを起こす。
彼らは彼らの世界で行動を起こし、
それぞれのキーアクションによって、デタッチするのだ。

リーダーが青豆に提案した交換条件は成立し、
天吾とふかえりはリトルピープルの危険から遠ざかり、
逆に青豆が教団から狙われる。
青豆は「10歳の時に捧げた愛」の運命に従って、
天吾を救い、自らは死を選ぶ。

「希望のあるところには必ず試練がある。
ただし希望の数は少なく、大方抽象的だが、
試練はいやというほどあって、おおかた具象的だ。」

この運命の夜から、天吾と青豆は具象的な試練に巻き込まれていく。
次の第4楽章では「ねじまき鳥クロニクル」を梃子にして、

試練に対抗する村上春樹らしい手段を解析してみよう。
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2020年11月10日に日本でレビュー済み
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本の状態も良く、配達予定日に届きました❗

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5つ星のうち5.0 Great story.
2016年3月24日にアメリカ合衆国でレビュー済み
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G'day everyone,
I thoroughly enjoyed this fascinating novel, that it was difficult to put it down.