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還れぬ家 単行本 – 2013/2/28
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- 本の長さ441ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2013/2/28
- 寸法14.3 x 3.1 x 19.7 cm
- ISBN-104103814055
- ISBN-13978-4103814054
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2013/2/28)
- 発売日 : 2013/2/28
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 441ページ
- ISBN-10 : 4103814055
- ISBN-13 : 978-4103814054
- 寸法 : 14.3 x 3.1 x 19.7 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,025,884位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 266,446位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
1959年、宮城県生まれ。宮城県立仙台第一高等学校卒業。週刊誌記者、電気工等の職業につく傍 ら、創作を志す。1984年「木を接ぐ」で海燕新人賞を、1990年『ショート・サーキット』で野間文芸新人賞、1991年『ア・ルース・ボーイ』で三島由紀夫賞、1997年『遠き山に日は落ちて』で木山捷平文学賞、2004年『鉄塔家族』 で大仏次郎賞,2007年『ノルゲ Norge』で野間文芸賞を受賞。私小説作家として知られる。他に『石の肺――僕のアスベスト履歴書』『誰かがそれを』などの著書がある。
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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ごくありふれた人々の暮らしを描いて何が面白いのか。
著者の作品を読むたびにどこに魅力があるのか考えてしまいます。
目の前にある情景をHBの鉛筆で描いた細密画といえるでしょうか。
手の込んだ構成も、ひねった表現もなく、そして難しい漢字もなく、決して頁を後戻りすることなく、すらすらと読める小説です。
著者自身が企画を出版社に持ち込み、2009年から2012年まで「新潮」連載されていたようです。
当然「鉄塔家族」や「ノルゲ」の登場人物も役名を変えて登場します。
連載を続ける中で3.11を経験します。ここから単純な時系列からほんの少し時間が前後し、変調します。
震災から数日後に、東京に住む兄の許に母親を預けに行く途中の新潟で、結婚式帰りの若者たちを見かけます。
「同じ日本とは思えない。」と母親がつぶやきます。
一人のヒーローも一人のヒロインも登場することなく介護、家族、夫婦、震災を描ききります。
著者の初期の短編作品群、中期の長編小説、それらと比較して、本作は抜き出た秀作です。
日本にどのような文学賞があるかは知りませんが、なにがしかの賞を受けてしかるべき作品です。
図らずも3.11を最初に文学に昇華した作品です。
お勧めです。
厚労省の提言は、絵に描いた餅であることがわかる。
この小説は、認知症の父、介護にあたる母、妻、幼少期からの心的外傷を抱える「私」、そして、そうした事情ゆえにそれぞれにとって「還れぬ家」をテーマに、2009年4月から雑誌に連載し始めたものです。
けれども、最終形の三分の二くらいまで書き進められた時、2011年3月11日を迎えます。数か月の休載ののち再開されてからは、当初のラインに変化が生じます。認知症、介護に加えて、被災者、避難者、被災時の高齢者や施設、障害者、そして、津波が引き返した後の仙台沿岸部が描かれるようになります。
小説の最後の方には、「私」の「手記」があり、そこには、「帰るところがなくなっちまったっす」と言う体育館暮らしの知人の言葉を受けて、「家へ還れない個人的な思いをずっと綴ってきた私にとって、外からの力によって家へ戻ることが有無を言わさず不可能になった者たちの姿を前にすると、我が身のことだけにかまけてきたようで自省させられるものがありました」(p.429)とあります。
けれども、認知症とそれに伴う介護という事態の発生と継続にとまどい続ける父と「私」、配偶者を(あたかも自分の僕であり、また反対に保護者であるかのように)片時も自分から離れさせまい、家以外のどこかわからないところに連れ去られまいとし続ける父、母と兄そして暴漢により家にいたくなくなるような心の傷を受けた「私」、母の過剰な身体性、父のその欠如、けれども、すてがたいときおりの思い出、こうしたことの綿密な描写は、「私」の「我が身」だけでなく、まさに読者であるぼくのことでもありました。ぼくの父は最後の二年は徘徊や暴れさえもせず、手を握っても声をかけても目の焦点があわないような状態でしたが、その間、ぼくは数度見舞っただけで、介護で悩むことも、父の姿をじっくり見ることもしなかったにもかかわらず。
震災の写真や動画もたしかに、見るぼくたちに感情や思考を促します。けれども、写真は一秒で観たつもりになってしまいますし、動画も画面の中心だけを見て全体をわかった気になってしまいます。そういう恐れがあります。けれども、文字は書く者にも読む者にも、時間をかけることを求めます。認知症の高齢者も、津波が海に還って行った後の土地も、文字は、平面的に一瞬でではなく、線をゆっくりとたどるように、一マス一マスを埋めていきます。
この小説には、トラウマ、エイジング、被災し避難する人々、仙台沿岸部の姿が、時間をかけて描かれています。こうしたことを一過性の話題として消費してしまわず、他人のこととしてしまわないために、ぼくたちには、写真や動画に加えて、語られる言葉、そして、文字でていねいにつづられる言葉が必要なのです。
つづられるためには、読むことが前提になります。ぼくたちは読むことでつづりを促します。つづられ、読まれ、記憶され、創造されることを願います。
ある作家の視点から3.11前後の東北,仙台をメインに描いた作品というのがこの本をひと事で説明するのでしょう.
作家の父は認知症を患っており,作家自身もそれなりの年齢です.
惚れた腫れたなどの言葉とは無縁で,淡々と描かれています.
読み終えてみると「還れぬ家」というタイトルにはとても考えさせられます.
このタイトルしかなかった様にも感じられます.
最初は父親の痴呆をからめて、母親を描きたいのかと思いました。「お前なんか生まれてくるはずではなかったのだ」というセリフを主人公に吐く様な母親を、描きまくるのであろう、確かに書くに値すると期待しましたが、そうでもない。家族である兄姉を描くというより言及するのも中途半端。文章は確かに読み易いというより平板と言えます。父の痴呆、母の振る舞いを延々と、まるで日記を書いているのかと思わされましたが、途中で本当に若い頃の日記を引用し始めます。主人公が作者本人だと言うことを自ら表明する様な記述も露骨に記載されます。もううんざりさせられ、投げ出そうかと思いましたが、意地でも最後まで読んでやろうと思ったら、東日本大震災が起こったのか視点が変化し文章内容ががらりと変わります。やはり所詮は身の上話を、日記を書きたかったのでしょうか?だとすれば、著者の小説というものに対する姿勢が、読む側には不明としか思えません。
最後には「~の手記」の章まで出てきますが、ここで文章形式を変える必要が何故あるのか?誠に身の上話に突き合わされた感じで、とても小説を読んだ気にはなりませんでした。かろうじて、主人公の妻の存在だけが、小説の登場人物らしく描かれていましたが・・・・。気になる作家でありましたが、最初に読んだのがこの作品だったのが、間違いだったのでしょうか?かなりうんざりさせられ、二作目を読むのを躊躇しています。
認知症の親の介護の大変さをいやというほど分からせる内容であり、それは目を背けてはいけないことなのだろうとは思うが、正直言って読む立場からすると少々(かなり)げんなりしてくるのも事実。どうにかこうにか読み終えたが、延々と聞かされ続けた愚痴からようやく開放されたという感じであった。いや、疲れました。