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三島由紀夫・昭和の迷宮 単行本 – 2002/10/1
出口 裕弘
(著)
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- 本の長さ228ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2002/10/1
- ISBN-104104102032
- ISBN-13978-4104102037
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
バタイユ、闘牛、そして死を賭した転生物語の変貌-。昭和という時代と歳を同じくして生きた三島由紀夫、その華麗なる魂が彷徨った光と闇。三島はなぜ急いだのか-。
登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2002/10/1)
- 発売日 : 2002/10/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 228ページ
- ISBN-10 : 4104102032
- ISBN-13 : 978-4104102037
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,154,692位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 156,779位ノンフィクション (本)
- - 292,717位文学・評論 (本)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2004年12月25日に日本でレビュー済み
テクスト解釈を本領としつつ執筆活動を離れた三島にも言及している点でバランスの取れた三島像、とりわけその自決への足取りを追った三島像を浮かび上がらせているところが、澁澤龍彦と並ぶ優れた評伝となっている。なぜ三島は自決するに至ったかという謎中の謎を完全に白日のもとにできないことを断りながら、テクストの深奥に入りこみつつけっして酔いもせずあくまで誠実に冷静に解こうとしている姿勢にいつのまにか読者は引きこまれてしまう。適否はともかくレリス、バタイユなどの知見からアプローチする自決の問題もフランス文学者ならではだが、一方古典である『葉隠』の深い理解と解釈から『葉隠入門』を読み解くあたりは氏の三島へのやまない畏敬の念が感じられる部分である。また自決はすでに十代のころからその作品に萌芽という形であり、自己の破壊衝動は三島の中に不断に渦巻いていたと氏は言う。(以下私見ですが)古典主義=観念主義を究極まで押し進めていった果てに観念の限界(観念の空虚化)を自覚するに至れば、その観念の破れ目から必然的帰結として拓けてくるのはロマン主義=肉体主義ではないだろうか。そして作品が観念化してくると反動的帰結として肉体の作品化が始まる。パラドクスを駆使した三島が陥ったパラドクス。その作品=肉体はそれに相応しい場所(三島が夢見た日本?)が齎らせられるのでなければその肉体は再び観念化され、もてあました肉体は行き場なく死するほかないだろう(もちろん三島はそれを十分自覚していた)。自決への決定打というものがないのであれば、三島の作品内外にその複数の(憶測・推測による)原因(日本への絶望、小説の挫折、先んじられた川端のノーベル賞受賞等々)を求めるほかないのであり、われわれはいったん三島を読んでしまえば三島を一個の作品(迷宮)の中にその自死の必然を意図しようがしまいが読み取ってしまうのである。
2015年10月2日に日本でレビュー済み
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三島、川端ラインというのは毛嫌いして、敬遠してきたけど、まあ、暇があったら読んでみるかと思っております。出口という人は、吉本龍明と『旧約聖書』について意見が一致したという話を小耳にはさんで買ってみた。
三島はランボーになりたかた。でも、ダメだった、か?
その点では、もしかしたら成功していたのかも。だって、『我が友ヒットラー』だぜ。
『豊穣の海』は気持ち悪かったけど。
三島はランボーになりたかた。でも、ダメだった、か?
その点では、もしかしたら成功していたのかも。だって、『我が友ヒットラー』だぜ。
『豊穣の海』は気持ち悪かったけど。
2006年7月4日に日本でレビュー済み
自決に向かって傾斜していく三島は、古事記以来の自国文学、古典の真髄に溶け入ろうとしていた。自決の前年『古事記』『万葉集』について書いている。天皇家の源泉としての前者。そして後者では家持と防人の歌の違いに触れて、防人の歌は強く、家持の歌は弱いと指摘する。「防人の歌のそこここに煌めいている,倭建命の面影の片鱗すら、家持の歌には失われている」と「憂国」の人三島は、その柔弱を非難している(雅)