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坂口安吾 百歳の異端児 単行本 – 2006/7/28
出口 裕弘
(著)
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2006/7/28
- ISBN-104104102040
- ISBN-13978-4104102044
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2006/7/28)
- 発売日 : 2006/7/28
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 224ページ
- ISBN-10 : 4104102040
- ISBN-13 : 978-4104102044
- Amazon 売れ筋ランキング: - 925,327位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年5月5日に日本でレビュー済み
◯安吾のことを書いた本は最近は少ないようで、この本も面白いが、作者がフランス文学者であることを勘定に入れなければ、いささか偏りのある印象に戸惑うかも知れない。
◯今ではちくまの全集も絶版だし、角川文庫や新潮文庫からもちょろちょろ選集があるきりで、どっぷり安吾に浸ったり、ガツンと衝突することは難しいかも知れない。
◯かなり主観過多の文章だが、安吾好きにはたまらないだろう。
◯今ではちくまの全集も絶版だし、角川文庫や新潮文庫からもちょろちょろ選集があるきりで、どっぷり安吾に浸ったり、ガツンと衝突することは難しいかも知れない。
◯かなり主観過多の文章だが、安吾好きにはたまらないだろう。
2006年9月18日に日本でレビュー済み
忘れ去られるかと思われた坂口安吾が息を吹き返した。忘れられかけたのは、型にはまらない個性と透徹した眼識でセンセーションを巻き起す一方で小児的な放言をまき散らした咎であると言ってよいだろう。坂口の見識に惹きつけられて止まない一般読者にとっても坂口はとらえどころの難しい作家であった。本書の著者はその坂口の魅力に60年来まとわりつかれてきた。ここにはその必ずしも評論を本業としない著者が長年にわたって倦むことなくたくわえてきた安吾観が彼の生誕百年を機として開示されている。その手法は不即不離とでも言うべきもので著者は安吾に思いをめぐらしながら己の来し方を振り返っている。(著者による日本の詩歌の引用は見事である。)思うに読書体験とはそのようなものであろう。結果として著者は独断から自由でありその言は安吾自身によっても啓発的なものとして受け入れられるのではないだろうか。
結論らしきものは最終章に集まっている。「小説よりエッセー、時評、古代史推理、各種観戦記、風俗談義などのほうに安吾人間学の本領があると考えるのが私の主観だ」というがそれは多くの人の主観と一致するものだろう。評者の坂口作品へのエントリー・ポイントは彼の古代史観であった。しかし、本文の多くは安吾の小説と取り組んでいるような印象がある。小説こそが安吾が格闘して敗れ去った鬼神だからであろう。
結論らしきものは最終章に集まっている。「小説よりエッセー、時評、古代史推理、各種観戦記、風俗談義などのほうに安吾人間学の本領があると考えるのが私の主観だ」というがそれは多くの人の主観と一致するものだろう。評者の坂口作品へのエントリー・ポイントは彼の古代史観であった。しかし、本文の多くは安吾の小説と取り組んでいるような印象がある。小説こそが安吾が格闘して敗れ去った鬼神だからであろう。
2011年2月3日に日本でレビュー済み
坂口安吾はしばしば極論・暴論を語る。自分はそのことを,安吾の「芸のうち」と感じていたので,ここまで安吾の極論・暴論にまじめに向き合われると,正直めんくらってしまう。たとえば著者が,激情に駆られた「軽率のなせるわざ」と評価する,特攻隊に関する文言(正確を期すために要約はしない)は,自分には,安吾にしか書けない文章であって,安吾の脳,目,手をまざまざと感じられる,と思うのである。
また,著者は自らの「生活」に対する考え方を,安吾のそれになぞらえているようなのだが,安吾はともかく,著者は誰に恥じることのない大学を出て,誰に恥じることのない大学で教員を勤めてきた人物で,「相当の」文化的エリートである。エリートが非エリートに自分をなぞらえるのは,だいたい気持ちのよいものではない。加えて,他人の思考や文章を,自分の頭で理解できないから「軽率のなせるわざ」だなどと評価することこそ,エリートのエリートたるゆえんだと,言いたくもなってしまうのであった。言論は自由なのだから何を言ってもかまわないとしても,エリートこそ,後出しじゃんけんのような行為には慎重であるべきだと思う。
最後に,フランス文学者である著者らしく,坂口安吾がドストエフスキーやバルザックを,またフランス文学全般をいかに受容したかについての指摘は,なるほどと思い,たいへんよくわかった。著者の安吾に対する思い入れも,よくわかる。どうやら安吾には,高次脳機能障害の疑いがあったらしい。
また,著者は自らの「生活」に対する考え方を,安吾のそれになぞらえているようなのだが,安吾はともかく,著者は誰に恥じることのない大学を出て,誰に恥じることのない大学で教員を勤めてきた人物で,「相当の」文化的エリートである。エリートが非エリートに自分をなぞらえるのは,だいたい気持ちのよいものではない。加えて,他人の思考や文章を,自分の頭で理解できないから「軽率のなせるわざ」だなどと評価することこそ,エリートのエリートたるゆえんだと,言いたくもなってしまうのであった。言論は自由なのだから何を言ってもかまわないとしても,エリートこそ,後出しじゃんけんのような行為には慎重であるべきだと思う。
最後に,フランス文学者である著者らしく,坂口安吾がドストエフスキーやバルザックを,またフランス文学全般をいかに受容したかについての指摘は,なるほどと思い,たいへんよくわかった。著者の安吾に対する思い入れも,よくわかる。どうやら安吾には,高次脳機能障害の疑いがあったらしい。