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顔のない裸体たち 単行本 – 2006/3/29
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- 本の長さ160ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2006/3/29
- ISBN-104104260053
- ISBN-13978-4104260058
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2006/3/29)
- 発売日 : 2006/3/29
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 160ページ
- ISBN-10 : 4104260053
- ISBN-13 : 978-4104260058
- Amazon 売れ筋ランキング: - 708,326位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 397位経済・社会小説 (本)
- - 16,304位日本文学
- カスタマーレビュー:
著者について
1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。京都大学法学部卒。
1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。
以後、一作毎に変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在した。
美術、音楽にも造詣が深く、日本経済新聞の「アートレビュー」欄を担当(2009年~2016年)するなど、幅広いジャンルで批評を執筆。2014年には、国立西洋美術館のゲスト・キュレーターとして「非日常からの呼び声 平野啓一郎が選ぶ西洋美術の名品」展を開催した。同年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章。
また、各ジャンルのアーティストとのコラボレーションも積極的に行っている。
著書に、小説『葬送』、『滴り落ちる時計たちの波紋』、『決壊』、『ドーン』、『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、『マチネの終わりに』、『ある男』等、エッセイ・対談集に『私とは何か 「個人」から「分人」へ』、『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』、『考える葦』、『「カッコいい」とは何か』等がある。
2019年に映画化された『マチネの終わりに』は、現在、累計58万部超のロングセラーとなっている。
2021年5月26日、長編小説『本心』(文藝春秋社)刊行。
photo: @ogata_photo
–
[受賞歴]
『日蝕』(1999年 芥川龍之介賞)
『決壊』(2009年 芸術選奨文部大臣新人賞受賞)
『ドーン』(2009年 Bunkamuraドゥマゴ文学賞)
『マチネの終わりに』(2017年 渡辺淳一文学賞)
『ある男』(2019年 読売文学賞)
–
[審査員・選考委員履歴]
三島由紀夫賞(2008年~2019年)
写真の町東川賞(2008年~2017年)
木村伊兵衛賞(2018年~)
芥川龍之介賞(2020年~)
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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モザイクが掛かると別人格だから
大胆になれる。
しかし現実は
画像解析ができるので本人確認出来る
しサイトに出た物は世の中から消す事は
出来ない。
この本を読んで思い出した事が
道を歩いていたら弱いチンピラに絡まれた
周りの人は携帯で撮りだした。
チンピラより撮っている奴らを殴りたくなった
事を思い出した。
平野啓一郎による新書『私とは何か』によると、本書はネットとの関わりで「本当の自分」について考えた作品だと言います。
以下、『私とは何か』からいくつか引用してみます。
ネット上で、体育の授業が行われている小学校のグラウンドに全裸で立つ女性の写真を発見した作者。
ただし顔にはモザイクがかかっている。
人に見られて恥ずかしい自身の裸でも、顔さえ出ていなければ恥ずかしくないのか。
(ここで私は昔読んだ永井豪の漫画を懐かしく思い出しました)
人に応じて、自身の人格は、無意識の変化しているものですが、それでも人があの人は〇〇だ、と認識するのは、顔が同じだから。
「あらゆる人格を最後に統合しているのが、たった一つしかない顔である。逆に言えば、顔さえ隠れていれば、私たちは複数の人格を、バラバラなまま生きられるかもしれない。」
「リアルな世界の自分が本当の自分で、ネットの世界の自分は、嘘の自分なのか、はたまた逆なのか」
このようなテーマで書かれた物語が本作『顔のない裸体たち』です。
中編だけに、長編一冊読んだときの読後感には届きません(短編集の中の一作品との印象で少し物足りなさを感じます)が、平野啓一郎が多くの作品で取り上げるテーマを、新たなシチュエーションを用いて物語を作り上げた、一連の繋がりを持つ作品の一つとして読むことができます。
本作からも、自分の持つ情報を伝える手段として読者の興味を引く題材を用いて物語を作り上げる平野啓一郎の技術の高さが感じられ、ネット世界における露出という題材を取り上げたのは正解だと感じました。
犯行に至った心理描写もなく、後日談も、さらっと流してシャットダウンするかのような最後でした。
官能文学はそもそももっと面白いし、読み応えもあり、この作品はとてもじゃ無いですがそういったレベルに至っていません。
ネット上の素人ですらもっと上手い人が山のようにいるんですよね。
作者さんは新しいことにトライしてみようと思って頑張ったけど、多分ご本人の中に「エロ」が無いんだと思います。
掘っても掘ってもご自身の中から何も出てこなくて、疲れ切って終わりにした、そんな感じの作品でした。
お金返して欲しいかも 笑
新鮮味のない変態カップルのお話です。
それにテレビのコメンテーターを務めるような紋切り型の精神科医的考察を加えて、
さらに、ネット社会に対する新聞なんかで良く見る様な批判を混ぜ合わせたらできあがったというような作品です。
独自の視点が感じられないし、ストーリーにも意外性がなく、
ポルノとして読むには即物的過ぎる。
主人公の男が変態的にしか女性と関係をもてない事の理由が過去の学校でのトラウマに求められるのも、安易過ぎる。
現在の環境なども、もっと掘り下げて描くべきだった。
批判ばかり書いたが、あえて良い点をあげるとすれば、
この小説を2,30年後の人が読めば「昔の日本の性とメディアはこんな風だったのか」と一目で分かるということぐらいだろうか。
あえて現代に読むべき小説ではないし、
平野啓一郎氏のような作家が書く必要もなかった小説だと思う。
性の快楽に浸り、ネット上でも露出を展開し、
そして事件が生じて終わる。
事件はあたかも読者の周知のことがらのように
語られ、事後の視線から、淡々と、リポートが
されていく。
三人称の語りが神の視点ではなく、あくまでも
取材をベースにするような、それでいて
感覚描写が鋭く、文学的な香りを維持していた。
性の悦楽は、多くの人々が味わうところであるが、
それが変態的な趣味になるところが、設定の
面白さではあると思うが、どことなくこの2人に
とってそれが必然であったかのようにも思わせる
来歴が示されている。
感覚描写は風景的だが、心理描写は抑えられていて、
読者はこの一見して普通ではない2人に自分を
投影することも可能な気がした。
単なるエロ小説ではなく、近著、『私とは何か』
においても、これがネットの自分とリアルの自分の
境目の本当の自分をテーマにしていたことが
書かれているが、ネット的な要素はそれほどなく、
他者との関わりにおいて自分がいかに自分であるのか
を考えたすえの小説であろうと思った。
文章がよく、テーマの割に短くまとまっていて、
私はとても好きな小説です。
女性の人物像が今ひとつわからなかった。
作家本人の公式サイトの作品解説によれば、「人格が漂流するネット空間を舞台に、顰蹙の中でしか生きられない男女の特異な性意識と暴力衝動に迫る衝撃作!」とある。意表を突く言葉遣いに驚かされるが、所謂「変態」「淫靡」「猥褻」等々の実存的内実を、作家なりに表現しなおしたものと捉えれば納得がいく。
物語は平凡な中学教師の「ミッキー(吉田希美子)」と、こちらも風采の上がらない公務員の「ミッチー(片原盈)」の男女2名が主人公となる。出会い系サイトを通して知り合った2人はたがが外れたように淫靡な世界へと突き進む。ネット空間というメディアのフィルターを通した、変態ストーリーを軸に展開されていくのだ。愛無き憎悪の変態プレイとでも云おうか。もっとありていに云えば、投稿雑誌、投稿サイト等に繰り広げられる露出趣味の性的プレイに嵌まり込んでいくという訳である。
表題の「顔のない裸体たち」というのは、モザイク処理で顔を消された写真を指している。デジカメの普及とともに、投稿サイト、投稿雑誌の類にはそうした「顔のない裸体たち」が氾濫するようにもなった。これもまた若手作家のラディカルな思いが篭った、意表を突いたネーミングだと云えるだろう。そしてそれがまた、現代社会の隠された相貌を抉り出すことにもつながっている。
ネット社会という匿名性の殻の中で演じられる変態プレイは、決してリアルと訣別した行為ではあり得ずにエスカレートしつつ、滑稽な現実とショートしていく。風俗を素材として取り上げながら風俗小説に終わらせない為に、作家は様々な仕掛けを施している。風俗を描写するのではなく、それを掻き毟っていこうとする意思の表れだと捉えることも可能である。
作品中には妙に分析的な作家の言葉が顔を出し、ところどころでストーリーの邪魔をしていくのだ。それはある意味の才気を噴出させているのだが、あまりスマートではなく、万人を納得させるものとは云い難い。幼稚さもあれば偏見も感じ取れる。ただし、実験的に様々なスタイルを取り入れようとしている姿勢には感嘆させられるものがある。決して読後感は良くはないのだが、稀有な読書体験であることを、実感した。