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決壊 上巻 単行本 – 2008/6/26
2002年10月全国で犯行声明付きのバラバラ遺体が発見された。容疑者として疑われたのは、被害者の兄でエリート公務員の沢野崇だったが……。〈悪魔〉とは誰か?〈離脱者〉とは何か? 止まらぬ殺人の連鎖。明かされる真相。そして東京を襲ったテロの嵐!“決して赦されない罪”を通じて現代人の孤独な生を見つめる感動の大作。
- 本の長さ382ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2008/6/26
- ISBN-10410426007X
- ISBN-13978-4104260072
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2008/6/26)
- 発売日 : 2008/6/26
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 382ページ
- ISBN-10 : 410426007X
- ISBN-13 : 978-4104260072
- Amazon 売れ筋ランキング: - 576,699位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 13,094位日本文学
- カスタマーレビュー:
著者について
1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。京都大学法学部卒。
1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。
以後、一作毎に変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在した。
美術、音楽にも造詣が深く、日本経済新聞の「アートレビュー」欄を担当(2009年~2016年)するなど、幅広いジャンルで批評を執筆。2014年には、国立西洋美術館のゲスト・キュレーターとして「非日常からの呼び声 平野啓一郎が選ぶ西洋美術の名品」展を開催した。同年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章。
また、各ジャンルのアーティストとのコラボレーションも積極的に行っている。
著書に、小説『葬送』、『滴り落ちる時計たちの波紋』、『決壊』、『ドーン』、『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、『マチネの終わりに』、『ある男』等、エッセイ・対談集に『私とは何か 「個人」から「分人」へ』、『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』、『考える葦』、『「カッコいい」とは何か』等がある。
2019年に映画化された『マチネの終わりに』は、現在、累計58万部超のロングセラーとなっている。
2021年5月26日、長編小説『本心』(文藝春秋社)刊行。
photo: @ogata_photo
–
[受賞歴]
『日蝕』(1999年 芥川龍之介賞)
『決壊』(2009年 芸術選奨文部大臣新人賞受賞)
『ドーン』(2009年 Bunkamuraドゥマゴ文学賞)
『マチネの終わりに』(2017年 渡辺淳一文学賞)
『ある男』(2019年 読売文学賞)
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[審査員・選考委員履歴]
三島由紀夫賞(2008年~2019年)
写真の町東川賞(2008年~2017年)
木村伊兵衛賞(2018年~)
芥川龍之介賞(2020年~)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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自分が何者かわからないのは共通しても、その深刻さは人それぞれだ。それは同時に、自分がいかに邪悪かという認識においても当てはまる。
自らにも、そして他者に対しても誠実であろうとするほど自らが悪魔であることを自覚せざるを得ず、他者はその存在を疎ましく思う。自分を保とうとすれば欺瞞に陥り、他者に対して無関心で、ときに平気に傷つけていることに気づけない。しかし、そうでなければ正気を失いかねない。
人生を肯定しようとすれば、その代償を払う羽目に陥り、それを他者は皆、無意識に望む。その死が期待され実現されることは、公然の秘密だ。そしてルサンチマンによって、幸福を語る者は生贄になる。不幸こそ格好の餌食なのだ。
果たして、我々は地獄に居るのだろうか?
登場人物のいろんなところに共感できてしまうので、
物語にスッと入り込んだ感じです。
崇やその友人との会話は難解で、
そこはついていくのがやっとなんですが。。。
智哉は「悪魔」に簡単にコントロールされてしまった感じもしますが、
智哉が学校や家庭で置かれていた環境や、「悪魔」と対峙した状況を考えると、
無理もないかなと思い直しました。
「悪魔」が簡単にコントロールできる人物として、
智哉を選んだということもできるわけで、そう考えると納得です。
すなわち、これはフィクションですが、
実際に起こりえる話ってことになります。おー恐っ。
つまり、実弟をメッタ裂きにするくらいの屈折した心の闇がある英才を生んだ背景を主軸にした展開を望むか、途中から出てくる少年を絡めたネットの闇を主軸にした展開か。
結果としては後者で、サスペンスという観点では特段目新しさを感じなかったが、およそ20年前の発刊当時読んだら、全くの第三者同士をつなげて殺人にまで至らしめるネットって恐っ!って思ったのかもしれない。
他の方もおっしゃってる通り崇=作者なんでしょう。私は嫌いなタイプではない。
崇に発言させている内容で共感した部分を自分の備忘録の為に書き留める・・・
「功利主義的に考えれば、どんな献身だって、殉死だって、みんな自分に利益のためだよ。誰も決定的には、このシニシジムからは逃れられないと思う。そうした利己的な欲望の中で、人間は他人と交わりながら生きている。」
「他者を承認せよ、多様性を認めよと我々は言うわけです。しかし、他者の他者性が、自分自身に取って何ら深刻なものでない時、他者の承認というのは、結局のところ、単なる無関心の意味でしょう」
それにしても全体を通して傍点が多すぎて、その各傍点の打たれた意味や何を強調しているのかが分からなかった。頭のいい作者のことだからこの超大量の傍点にも何かしら意図があるんでしょうが・・・
神が死んだことでドストエフスキーも死んだからだ。
ミステリ的構造をもつ巨篇である。厳密には純文学作品だ。ゆゑに、最小限のネタバレは御容赦いただきたい。無論、あらすじがわかっていても面白い物語こそ偉大である。中心人物は弟の沢野良介と兄の沢野崇および悪魔だ。弟の沢野良介はばらばら遺体として発見される。兄の沢野崇は事件当時、恋人と密会していたことから悲劇にまきこまれてゆく。一見、ひとつの殺人事件をめぐる単純なるドラマだ。後半におよぶと、弟の沢野良介の悲劇を濫觴として、連続殺人事件、模倣犯による連鎖的殺人、悪魔による都内同時多発テロというように、純文学でえがけるかぎりの壮大さをみせてゆく。
我我読者は、ドストエフスキーの模倣だと錯覚する。
たしかに形式上はドストエフスキー的だ。物語の前半で、ドストエフスキー的に、精緻に登場人物のプロフィール=横顔がえがかれる。後半で一気呵成に事件を叙述してゆく。上巻では、一見、無理矢理に挿入したドストエフスキー的議論がふたつなされる。一方は、あきらかに形而下学と形而上学の対比の問題として物語につながっている。一方は、パクス・アメリカーナ対イスラム原理主義の対峙に託した善悪の問題として物語につながる。なによりも、クライマックスとなる悪魔の動画で物語られる『神』についての議論は、一見して、ドストエフスキー文學における犯罪者の独白にそっくりだ。そのうえで、実際には、根本的に、本作はドストエフスキーと対極的だといいたい。
神の死んだのちにドストエフスキーの倫理は通用しないからだ。
二〇〇〇年代の文壇では、しきりに『ドストエフスキー文學のポリフォニー(多声音楽)性』という論点が話題になっていた。本作も、たくさんの人物が登場して会話や議論をする。ドストエフスキー文學と相違するのは、家族や親友と対照的に、『社会的な会話のほとんどがうわすべり』だということだ。多声だが音楽になっていない。なかんずく、『なんでひとを殺してはいけないのか』『自分が殺されてもいいのならひとを殺してもいいのか』と尋問する少年に、大人たちが『だれひとりとして』核心的なこたえをだせないのは致命的である。すべては偽善で、欺瞞で、金儲けのこたえでしかなかった。
ドストエフスキーならば、神学によってこたえをだしただろう。
柄谷行人は『明治維新によりインテリゲンチャとしての武士たちが武士道というアイデンティティを喪失したことから、おおくが基督教徒に転向し、これが日本人の道徳観になった』と論じていた(『日本近代文学の起源』第三版)。実際の宗教は問わず、日本人にとっての道徳とは基督教である。『なぜひとを殺してはならないのか』という問題に、日本人は無意識的にせよ旧訳聖書にそう書かれているから殺してはならないという信仰でこたえるしかない。実際に言葉にすれば、『殺してはいけないから殺してはいけない』となる。
これは、あながちまちがってはいない。
証左として、基督教徒である佐藤優は『トートロジー(同語反復)がトートロジーだからただしいというかんがえは、基督教徒でなければ理解しがたい』とのべている(《群像》2019年5月号)。無論、このこたえで現実の日本人に『ひとを殺してはいけない』と納得せしめることはできない。ドストエフスキーには可能だったろうが、平野啓一郎にはできない。
『神は死んだ』のだからだ。
小林秀雄は『「白痴」についてⅡ』を発表したのち『基督教を理解できなければドストエフスキーを理解できない』という諦念により、ドストエフスキー研究から日本古典文學研究へと転向した(「小林批評のクリティカル・ポイント」山城むつみ)。平野啓一郎もおなじだ。批評家ではなく『小説家』として、初期の題材とした基督教から転向し、『神の死んだあとのドストエフスキー』になろうとした。神が死んだあとの小説家というだけでも、ドストエフスキーと平野啓一郎は対極的だ。
ドストエフスキーの倫理は、悪魔によって蹂躙される
悪魔はいう。『神なんていない』『幸福こそ現代の神だ』と。悪魔は『不幸』だった。沢野良介は『幸福』だった。だから、殺人事件がおこった。悪魔も沢野良介も共通している。『なぜだろう』とおもうのだ。『なぜおれは不幸なのだろう』『なぜおれは幸福なのだろう』と。『この一枚の薄紙にして巨大なる壁』がふたりを乖離させた。
沢野良介は神によってではなく悪魔と対峙する。
悪魔は沢野良介にいう。『不幸だといえ』『不幸だといえば生かしてやる』と。沢野良介は本作のクライマックスであろう《愛のさけび》によって結果、殺される。たしかに『沢野良介の肉軆』は殺された。同時に、《愛のさけび》によって『沢野良介のこころは殺されなかった』のである。『沢野良介は殺されたが負けなかった』。『悪魔に勝った』のだ。
悪魔はいった。
『幸福は遺伝と環境できまる』と。『自分はシステムのバグなのだ』と。『だからおまえを殺すのだ』と。このくだりはほとんどゲーデルの不完全性定理である。『いかなる論理システムにもかならずゲーデル命題が存在するがゆゑに不完全』なのだ。
神でなければ救えない致命的なエラーだ。
沢野崇は『すべては遺伝と環境による』と悪魔の言葉を諒承する。沢野崇は『肉軆は殺されなかった』ものの『こころは殺された』。沢野崇は『悪魔に勝てなかった』『悪魔に負けて』しまった。沢野崇は最終的に発狂(ストレスによる統合失調症の陽性症状を発症)する(個人的な統合失調症体験からだが、此処の描写は非常にリアルである)。
沢野崇が悪魔に勝てなかったのは『なぜだろう』。
終盤、兄の沢野崇は弟の沢野良介の端末に電子メールをおくる。『Permanent fatal errors(永続的な致命的なエラーです)』と自動返信される。『なぜひとを殺してはいけないのか』という少年の問いに我我が沈黙せざるをえないかぎり致命的なエラーは永続的につづいてゆく。『神』という論拠は死んだのだからだ。
神は死んでも沢野良介の愛は生きていたことが救いだ。
衝撃的で感動的な巨篇といううたい文句はうそではない。
満足です。
中村文則っぽさがある作品なのですが、むしろ中村文則が平野啓一郎を模倣しているのでしょうね。
東大に行き、将来を嘱望されつつも国会図書館の調査員をしている沢野崇。
その兄に対して劣等感を持ちつつ、平凡な家庭を営む弟良介。
北九州に帰郷したさいに、どうやら父が鬱で、母も疲れ果てているのを知る。
良介は父と母のケアをすることを決意しつつ、しかし兄のことにわだかまりがある。
そんななか、大阪で会うことに。
しかし、崇と良介が大阪で会ったあとに、良介は何者かに惨殺される。
当然、崇が疑われ、警察の執拗な取り調べを受けることに。
上巻は、こんな感じでしたね。
もちろん、真犯人は崇のはずはない。真犯人は、なんというかネットの闇と現代っ子の闇って感じですね(ネタバレを避けている)。
登場人物たちの独白が長く、いささか冗長に感じますし、なんか意味ねえ会話してんなぁ、と思わないところもあるような気がしますが、
それなりに面白いです。