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すばらしき愚民社会 単行本 – 2004/8/26
小谷野 敦
(著)
バカが意見を言う世の中。21世紀、日本の大衆社会は新たな段階に入った! バカを増殖させる三流大学、「ハリポタ」をリクエストする東大生、司馬遼太郎さえ読まなくなった「大衆」、遺伝と階級を認めない日本人、ポストモダンなインチキを垂れ流す左翼知識人、若者とフェミニズムに媚びる文化人、他人を嘲笑うインターネット、禁煙ファシズムの猛威……。
大衆とインテリ、左翼にフェミにマスメディア、日本の文化をダメにする、真に「愚かな民」は誰だ!? 現代社会の病根をえぐる、痛快、怒涛の大衆社会論。
- 本の長さ229ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2004/8/26
- ISBN-104104492027
- ISBN-13978-4104492022
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2004/8/26)
- 発売日 : 2004/8/26
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 229ページ
- ISBN-10 : 4104492027
- ISBN-13 : 978-4104492022
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,358,393位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,336位日本論
- - 26,899位社会学概論
- - 36,787位エッセー・随筆 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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作家、比較文学者。1962年茨城県生まれ、埼玉県育ち。海城高校卒、東大文学部英文科卒、同大学院比較文学比較文化専攻博士課程修了、学術博士。大阪大学言語文化部講師、助教授(英語)、国際日本文化研究センター客員助教授、現在は文筆家。博士論文は『<男の恋>の文学史』、1999年『もてない男』がベストセラーに。2002年『聖母のいない国』でサントリー学芸賞。2011年『母子寮前』で芥川賞候補、2014年「ヌエのいた家」で同。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年1月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
現代社会の愚かな部分を、歯に衣着せぬ言い回しで徹底的にやっつける、ある意味「自虐的で小気味よい」本である。一部、上野千鶴子氏をコケにする記述が多かったような印象が残っているが、理由は不明。「今時の学生たちは電車の中で勉強せず、携帯電話(メールorネット)ばかりやっている」とか「シェイクスピアを読んだことのない学生が“英文学史”を専攻しようとしている」(内容に間違いあるかも?)とか、言われると奇妙に思うようなことが、実際はごく普通に起こっていることに改めて気づかされる。終盤の「嫌煙ファシスト」に対抗する文章は長すぎて、少々くどいように思った。
2014年5月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
何となく・・・様々な著書からの引用ばかりで、しかもそれに屁理屈のような言い掛かりをつけているだけののような印象でした。
どこか、「俺はこんなに多くの書物をよんでいるんだぞ。だから博識なんだぞ。」と、自己顕示をしたかった時期の著書なのかな?と感じました。
どこか、「俺はこんなに多くの書物をよんでいるんだぞ。だから博識なんだぞ。」と、自己顕示をしたかった時期の著書なのかな?と感じました。
2011年4月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
『すばらしき愚民社会』という皮肉めいたタイトルが気に入った。
正直な所、私は小谷野敦という人物を知らなかった。
敬愛する岸田秀氏の本(『唯幻論物語』)に論敵として書かれていたので、小谷野氏の主張を聞いてみたかった。
それが、本書を手にした理由であった。
読んでみて、まずは著者の多読に感服した。
「これでもか」とばかりに引き合いに出す書物の量がもう半端ない。
これだけの知識を武器に理論武装されては、太刀打ちできないように思われる。
実際、どれも的を射た指摘ばかりで、自分の知識のなさを思い知った限りである。
文章からは「知識人」としてのプライドがにじみ出ている。
嫌われることを覚悟して、名指しで人を批判する姿勢は素晴らしい。
アマゾンでは、実名で読者レビューを投稿しているほどである。
だから、この毒気の多い語り口は自覚的なものである。尊敬せずにはいられない。
こんなに真面目に闘っている「知識人」がいることを知り、感激してしまった。
ただ、中には「つまみ食い」的な批判もあって、読者を説得しきれないであろう個所もある
(著者からすれば、それは勉強不足の読者のせいなのであろうが)。
「[小谷野氏は]抽象的な思考をほとんど理解できないため、いつも他人の論考を誤読し
的外れな批判を書き散らしている」(宮崎哲弥氏)と批判されているようだし、確かにそれは一理ある。
例えば、岸田秀氏に対する批判は的外れである。
著者は本書の文庫版に補論を追加し、岸田氏の反駁本『唯幻論物語』に対し、さらなる反論を試みている。
しかし、その内容は、岸田氏が持論を説明するほど「そこから一般理論は導けないということが分かるだけであり、
岸田は科学の方法を理解していないと言うほかない」(132ページ)というもので、明らかに誤読がもたらした批判である。
岸田氏は自身が神経症に罹った理由から一般論を引き出そうとしているわけではなく、
フロイトの理論に科学性を認めているわけでもないのだ。
『唯幻論物語』では、岸田氏は珍しく丁寧に説明しているのだから、
読む方も、もう少し丁寧に読めば理解できそうなものである。
ともあれ、本書のおかげでかなり啓蒙された。読みたい本が一気に増えた。
決して、あれもダメこれもダメ、というわけでもないらしい。
著者が認めるポパーなる人物に興味を持った。
ついでに、小谷野氏の著作も読んでみようと思う。
ちなみに、評判の良くない「禁煙ファシズムと戦う」であるが、
私は特に異論なく読むことができた。
正直な所、私は小谷野敦という人物を知らなかった。
敬愛する岸田秀氏の本(『唯幻論物語』)に論敵として書かれていたので、小谷野氏の主張を聞いてみたかった。
それが、本書を手にした理由であった。
読んでみて、まずは著者の多読に感服した。
「これでもか」とばかりに引き合いに出す書物の量がもう半端ない。
これだけの知識を武器に理論武装されては、太刀打ちできないように思われる。
実際、どれも的を射た指摘ばかりで、自分の知識のなさを思い知った限りである。
文章からは「知識人」としてのプライドがにじみ出ている。
嫌われることを覚悟して、名指しで人を批判する姿勢は素晴らしい。
アマゾンでは、実名で読者レビューを投稿しているほどである。
だから、この毒気の多い語り口は自覚的なものである。尊敬せずにはいられない。
こんなに真面目に闘っている「知識人」がいることを知り、感激してしまった。
ただ、中には「つまみ食い」的な批判もあって、読者を説得しきれないであろう個所もある
(著者からすれば、それは勉強不足の読者のせいなのであろうが)。
「[小谷野氏は]抽象的な思考をほとんど理解できないため、いつも他人の論考を誤読し
的外れな批判を書き散らしている」(宮崎哲弥氏)と批判されているようだし、確かにそれは一理ある。
例えば、岸田秀氏に対する批判は的外れである。
著者は本書の文庫版に補論を追加し、岸田氏の反駁本『唯幻論物語』に対し、さらなる反論を試みている。
しかし、その内容は、岸田氏が持論を説明するほど「そこから一般理論は導けないということが分かるだけであり、
岸田は科学の方法を理解していないと言うほかない」(132ページ)というもので、明らかに誤読がもたらした批判である。
岸田氏は自身が神経症に罹った理由から一般論を引き出そうとしているわけではなく、
フロイトの理論に科学性を認めているわけでもないのだ。
『唯幻論物語』では、岸田氏は珍しく丁寧に説明しているのだから、
読む方も、もう少し丁寧に読めば理解できそうなものである。
ともあれ、本書のおかげでかなり啓蒙された。読みたい本が一気に増えた。
決して、あれもダメこれもダメ、というわけでもないらしい。
著者が認めるポパーなる人物に興味を持った。
ついでに、小谷野氏の著作も読んでみようと思う。
ちなみに、評判の良くない「禁煙ファシズムと戦う」であるが、
私は特に異論なく読むことができた。
2004年10月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
小谷野敦氏のこれまでの言論活動は、なあなあになることをあくまで拒絶するその誠実さや、果敢にタブーになにほどのこともないように触れてみせる姿勢をみても、賛否はともかく注目せずにはおれないものだと思いますが、本書は、小谷野氏の著書の高い水準からすると、やや軽く流した感を個人的には強く受けざるを得ませんでした。
例えば、かつての小谷野氏の師・西部氏や、あるいは呉氏の「大衆批判」をして、実は「大衆批判」などではなく「軟弱知識人批判」だったのだ、といったくだりにしても、西部氏の「大衆」や呉氏の「愚民」の定義とその定義に基づいた言説と、ごく一般的な「大衆」という言葉の理解とが峻別されないままに語られているような気がしました。
西部氏や呉氏は「発言者」における両者の対談(明るい牢獄・民主主義)でまさに語られているように、例えば知識階級なり貴族階級なりの下に「大衆」がいるということではなく、「利口さ」や「教養」「学歴」「肩書き」の有無によって「大衆」と「非大衆」とを分けているわけでもなく、あらゆるところに点(?)在している、混在しているという前提があったはずです。逆に言えば「利口」であるから「知識人」であるからといって「大衆」であることを免れ得ない、むしろ、過去に照らして相対的に、あるいはシステム的に、そうしたところにこそ、「大衆」が多くみられるといった形での具体を伴った言及、もしくは、テレビによる世論誘導とそうした意味での「寡頭」という、そうしたところに「大衆人」がもたらす害悪の結果としての大きさこそを、例えば、西部氏などは、繰り返し論じてきたはずです。そのあたりを、西部氏のこれまでの仕事を見ても○○くらいで、といった言葉で片付けてしまわずに、仔細に論じて欲しかったという欲目があります。
例えば、かつての小谷野氏の師・西部氏や、あるいは呉氏の「大衆批判」をして、実は「大衆批判」などではなく「軟弱知識人批判」だったのだ、といったくだりにしても、西部氏の「大衆」や呉氏の「愚民」の定義とその定義に基づいた言説と、ごく一般的な「大衆」という言葉の理解とが峻別されないままに語られているような気がしました。
西部氏や呉氏は「発言者」における両者の対談(明るい牢獄・民主主義)でまさに語られているように、例えば知識階級なり貴族階級なりの下に「大衆」がいるということではなく、「利口さ」や「教養」「学歴」「肩書き」の有無によって「大衆」と「非大衆」とを分けているわけでもなく、あらゆるところに点(?)在している、混在しているという前提があったはずです。逆に言えば「利口」であるから「知識人」であるからといって「大衆」であることを免れ得ない、むしろ、過去に照らして相対的に、あるいはシステム的に、そうしたところにこそ、「大衆」が多くみられるといった形での具体を伴った言及、もしくは、テレビによる世論誘導とそうした意味での「寡頭」という、そうしたところに「大衆人」がもたらす害悪の結果としての大きさこそを、例えば、西部氏などは、繰り返し論じてきたはずです。そのあたりを、西部氏のこれまでの仕事を見ても○○くらいで、といった言葉で片付けてしまわずに、仔細に論じて欲しかったという欲目があります。
2007年2月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者の専攻は比較文学。「もてない男」の刊行で一躍論客として脚光を浴びた。本作は冒頭で著者自身が「「大衆批判」なるものは、多数を敵に回し、自らを危険に追い込む行為である」と書いてある通り、大衆からの非難を覚悟で愚民批判を展開したもの。
が、いわゆる大衆批判は冒頭の章だけで、後はエセ知識人に対する批判が中核となる。基本的な考えは「建前でなく、ホンネで語れ」という事で、偏った発想をするエセ知識人が切りまくられる。著者の作品のいつものスタイルで他者の評論等の引用・批判が多いため、やや読みずらいのが難点だが、そこを乗り越えると首骨できる部分も多い。著者が一番大事にしている概念は"中庸"であろう。そこを作品全体で強調しても良かったのではないか。ただし、最終章の「禁煙ファシズムと戦う」は単なる感情論で、評論の体を成していない。
題名から想像される「愚民をオチョクッタ」内容とは遠いものの、現代社会の諸問題に対するホンネを語って読む者に刺激を与えてくれる本。
が、いわゆる大衆批判は冒頭の章だけで、後はエセ知識人に対する批判が中核となる。基本的な考えは「建前でなく、ホンネで語れ」という事で、偏った発想をするエセ知識人が切りまくられる。著者の作品のいつものスタイルで他者の評論等の引用・批判が多いため、やや読みずらいのが難点だが、そこを乗り越えると首骨できる部分も多い。著者が一番大事にしている概念は"中庸"であろう。そこを作品全体で強調しても良かったのではないか。ただし、最終章の「禁煙ファシズムと戦う」は単なる感情論で、評論の体を成していない。
題名から想像される「愚民をオチョクッタ」内容とは遠いものの、現代社会の諸問題に対するホンネを語って読む者に刺激を与えてくれる本。
2010年12月26日に日本でレビュー済み
この著者は実名でAmazonのレビュワーになっているらしい。「
啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)
」のレビューが納得できなかったので、反論をコメントしたところ、ちょっと論争になりかけた。
それまでこの著者の本は読んだことがなかったので、論争に備えて本書を含め何冊か手にとって見た。読みやすい文章なのですぐ読める。その結果わかったことは、この人の本質は「反知性主義」なのだということである。
「『大衆批判』なるものは、多数を敵に回し、自らを危険に追い込む行為である。だが、人が多数派に迎合してばかりいたのでは、本当の衆愚政治になってしまうだろう。人には時に『嫌われる覚悟』も必要なのである。」
崇高な志である。真実を述べて誤解を恐れず。著者は本書の各所でくり返すが、本気でそういっているとはとても思えない。
なぜなら本書が批判するのは大衆そのものではなく、右翼左翼の「知識人」であり、フェミニストであり、ポストモダンの批評家であり、とにかく「小むずかしいことを述べている連中」でしかないからだ。
その批判も、必ずしも適正な批判ばかりではない。たとえば「政治と研究をごっちゃにするな」という傍らで、平気で他人の非政治的言説を政治的に解釈する。例を挙げるなら、著者がよく批判の的にする「江戸ブーム」。
「京都の祇園の舞妓、・・・、その背後には旦那と芸妓との擬似恋愛がある、徳川期的な売春文化の残滓であって、リベラルはとしては、本来否定すべきものではあるまいか。」
「江戸ブーム」の学者や文化人がすべて「リベラル」というわけでもないだろうし、それらの人々が「リベラル」な考え方を持っていたとしても、それだから祇園の舞妓を批判しなければならないというわけでもない。これなどは「政治と研究をごっちゃにする」言説の典型例である。
そのほか、著者の主張を一つ一つ検討してみると、責任を問えることではないことに責任を問うていることが多い。
たとえば日本の左翼は天皇については批判しないと著者はいう。下手に批判すると右翼に攻撃されるからだ、ところがイギリスの大衆紙はイギリス王室を徹底的に風刺し笑いものにする、少しはイギリスの大衆ジャーナリズムを見習え、と著者は息巻く。
しかしイギリスと日本とでは自ずと王室の位置づけが異なる。イギリスの現王室はハノーバー朝を起源とし、その後もドイツの王家公家と姻戚関係が深く、王室自身がナショナリストの槍玉に上がることが少なくなかった。万世一系的な日本の皇室とはちがって、イギリスでは王室そのものが国際的なのである。イエロー・ジャーナリズムの標的になるのは当然であろう。
本当に「大衆批判」をするつもりがあるなら、ニーチェのように大衆の価値観やモラルを逆なですることも辞さぬ覚悟が必要であろう。しかし著者がここで述べていることの多くは、「こいつ、えらそうなこと言ってるけど、本当はえらくも何ともないんだぜ」という、大衆的なルサンチマンに満ちたこき下ろしでしかない。
徒党を組もうというそぶりが見られないことだけは評価できるので、星3つ。
それまでこの著者の本は読んだことがなかったので、論争に備えて本書を含め何冊か手にとって見た。読みやすい文章なのですぐ読める。その結果わかったことは、この人の本質は「反知性主義」なのだということである。
「『大衆批判』なるものは、多数を敵に回し、自らを危険に追い込む行為である。だが、人が多数派に迎合してばかりいたのでは、本当の衆愚政治になってしまうだろう。人には時に『嫌われる覚悟』も必要なのである。」
崇高な志である。真実を述べて誤解を恐れず。著者は本書の各所でくり返すが、本気でそういっているとはとても思えない。
なぜなら本書が批判するのは大衆そのものではなく、右翼左翼の「知識人」であり、フェミニストであり、ポストモダンの批評家であり、とにかく「小むずかしいことを述べている連中」でしかないからだ。
その批判も、必ずしも適正な批判ばかりではない。たとえば「政治と研究をごっちゃにするな」という傍らで、平気で他人の非政治的言説を政治的に解釈する。例を挙げるなら、著者がよく批判の的にする「江戸ブーム」。
「京都の祇園の舞妓、・・・、その背後には旦那と芸妓との擬似恋愛がある、徳川期的な売春文化の残滓であって、リベラルはとしては、本来否定すべきものではあるまいか。」
「江戸ブーム」の学者や文化人がすべて「リベラル」というわけでもないだろうし、それらの人々が「リベラル」な考え方を持っていたとしても、それだから祇園の舞妓を批判しなければならないというわけでもない。これなどは「政治と研究をごっちゃにする」言説の典型例である。
そのほか、著者の主張を一つ一つ検討してみると、責任を問えることではないことに責任を問うていることが多い。
たとえば日本の左翼は天皇については批判しないと著者はいう。下手に批判すると右翼に攻撃されるからだ、ところがイギリスの大衆紙はイギリス王室を徹底的に風刺し笑いものにする、少しはイギリスの大衆ジャーナリズムを見習え、と著者は息巻く。
しかしイギリスと日本とでは自ずと王室の位置づけが異なる。イギリスの現王室はハノーバー朝を起源とし、その後もドイツの王家公家と姻戚関係が深く、王室自身がナショナリストの槍玉に上がることが少なくなかった。万世一系的な日本の皇室とはちがって、イギリスでは王室そのものが国際的なのである。イエロー・ジャーナリズムの標的になるのは当然であろう。
本当に「大衆批判」をするつもりがあるなら、ニーチェのように大衆の価値観やモラルを逆なですることも辞さぬ覚悟が必要であろう。しかし著者がここで述べていることの多くは、「こいつ、えらそうなこと言ってるけど、本当はえらくも何ともないんだぜ」という、大衆的なルサンチマンに満ちたこき下ろしでしかない。
徒党を組もうというそぶりが見られないことだけは評価できるので、星3つ。
2008年10月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
面白いタイトルですが、基本的に大衆批判、大衆に迎合する知識人批判の本です。
これまでの大衆批判知識人と違い、小谷野氏が個性的なのは、とにかく攻撃的なところだと思います。「上下左右」、全方向に攻撃的なので、誰もがある程度納得でき、ある程度納得できない本だと思います。
とは言え、日本は「和をもって尊しとなす」のうえに「金持ち喧嘩せず」で、有名知識人が論争することは、滅多にないので、小谷野氏は貴重な存在ではないでしょうか。
これまでの大衆批判知識人と違い、小谷野氏が個性的なのは、とにかく攻撃的なところだと思います。「上下左右」、全方向に攻撃的なので、誰もがある程度納得でき、ある程度納得できない本だと思います。
とは言え、日本は「和をもって尊しとなす」のうえに「金持ち喧嘩せず」で、有名知識人が論争することは、滅多にないので、小谷野氏は貴重な存在ではないでしょうか。
2007年8月5日に日本でレビュー済み
ビートたけしや呉智英も書いてるような大衆批判、似非インテリ批判のエッセイ。まあ、暇潰しにはなったが、国立大学の講師がこんな本を書いて小遣い稼ぎしてちゃ駄目だねー。
「三流大学」という言葉が出てくるが、たぶんこの人は東大は一流大学だと思っているのだろう。馬鹿だねー。大学を学問をするところだと思って入学する学生がどれだけいるか、この人、分かってんのかなー。今時の気の利いた学生は、日本の大学なんか相手にしないで、留学してますよ。その方が、箔がつくから。
本を一杯読んでる自分は、インテリで大衆ではないと思ってる、ただの愚民が著者の正体だ。
本当のインテリは、こんな本なんか相手にせずに、もっと歯ごたえのある本を読んでるんだろうと思います。司馬遼太郎を批判する人なら、司馬より良い本、良い文章を書くべきでしょう。
「三流大学」という言葉が出てくるが、たぶんこの人は東大は一流大学だと思っているのだろう。馬鹿だねー。大学を学問をするところだと思って入学する学生がどれだけいるか、この人、分かってんのかなー。今時の気の利いた学生は、日本の大学なんか相手にしないで、留学してますよ。その方が、箔がつくから。
本を一杯読んでる自分は、インテリで大衆ではないと思ってる、ただの愚民が著者の正体だ。
本当のインテリは、こんな本なんか相手にせずに、もっと歯ごたえのある本を読んでるんだろうと思います。司馬遼太郎を批判する人なら、司馬より良い本、良い文章を書くべきでしょう。