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日本人よ! 単行本 – 2007/6/1

3.7 5つ星のうち3.7 30個の評価

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 新潮社 (2007/6/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2007/6/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 188ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4105055712
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4105055714
  • カスタマーレビュー:
    3.7 5つ星のうち3.7 30個の評価

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イビツァ・オシム
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上位レビュー、対象国: 日本

2007年8月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「サッカーとは人生である」
サッカーの哲学、論理が好きな人、そうでない人、
サッカーを愛するすべての人に読んでもらいたい本。

オシム監督がいかに日本サッカーのことを考えてく
れているかが伝わります。

日本人が「流動性」に優れているという捉え方が
彼のチーム作りにあることがうかがえた。

監督として、そして哲学者としてのオシム氏の
魅力が溢れる本です。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2007年7月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「サッカーとは人生である」といきなり言い切られてしまう。本当にかっこいい、そして説得力がある。
サッカー見るだけの自分としては、ついつい組織論、日本人論として読んでしまうが、そういった視点からでも十分に楽しめる本だ。それは明らかに、筆者の経験と、知識がものを言っているからだ。
一章の「日本人とサッカー」三章の「監督という仕事」がとても参考になった。
タイトルの日本語的響きは、中で筆者が書いていること、そのトーンと乖離があり、いまいち。
しかし、本の内容はよくまとまっているし、読みやすいし、オシム氏の肉声として機能している。
特に、サッカー好き、代表に愛がある人、監督の哲学的な部分、理屈くさい部分が好きな人にはぜひ。
23人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2007年7月11日に日本でレビュー済み
個人的にはオシムの手腕を高く評価しているが、
正直、意図がよくわからないと感じる時もあり、
少しでも理解の助けになればと思いながら読んだ。

本書でオシムが言いたかったことを煎じ詰めれば、
結局は、「自分の頭を使って考えるのをサボるな」
ということに尽きていると思う。

日本がW杯で思うような成績を残せないのは、
技術やフィジカルの問題というよりも、
周囲に流されやすく・現状に満足しがちな日本人のメンタリティに
最大の原因があるとオシムは考えているようだ。
とはいえ、今さら「ハングリー精神」を唱えてみたところで
始まらないということも、よくわかっているのだろう。

オシム否定派が決まって口にする、
「ジェフ枠」についてはとくに書かれていないが、
短期間で自らのスタイルを浸透させるためという理由に加えて、
批判が集中するなか、あえて彼らを呼び続けることで、
ナビスコ連覇で一定の満足感を得ていた彼らに、
普通では味わえないような重圧をかけ、
その中で生き残ることで、選手として一皮剥けて欲しい、
という狙いもあったのではないか。

なぜ低迷するジェフなのか、という批判は当然あり得るが、
見た目公平なオールスター的チームを作るよりは、
よほど意味のある選択だと、個人的には考える。
(むろん、オシム自身が仄めかしていたように、
結果が出なければ、引責辞任する覚悟があってのことだろう。)

カタール戦の後で、怒りを爆発させたことについても、
まだ次のW杯までは時間があるこの段階で、
いったん選手たちに極限に近い精神状況を
経験させようという意図があったのだと思う。
言うまでもなく、オシムは3連覇を目指しているはずだが、
ぬるま湯的なメンタリティを変革しない限り、
W杯では到底勝ち抜けないのも確かだ。
今大会で一挙両得を狙っていると考えるのは、
彼に対して好意的過ぎる見方だろうか。
49人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2007年9月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
テレビの記者会見などでは、分かったような分からないような煙に巻く物言いが断片的に取り上げられますが、あれはおそらく「ジャーナリズムに従事している者ならば、子どものような質問を私にしないでほしい(p.171)」という意思表示であって、本書に書いていることは誰でもわかる筋の通った話ばかりです。このなかで強調されている考え方をごく単純化すれば、「運の要素を無視しないで、徹底して現実主義、客観主義を貫く」ということになるでしょうか。「もしミスをしない人間ならば、サッカーなどやめた方がいい。あるいは、教会に行ってくれ。そうすれば、神に仕える聖職者になれるだろう。(p.111)」「人間はできる限り客観的になる必要があるのだ。楽観主義や悲観主義、どんな方向であれ、一つの陶酔感が支配したときは危険なものだ(p.87)」。これを読むと、いつものコメンテーターのコメントがさらに薄っぺら聞こえてきます。
20人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2008年3月27日に日本でレビュー済み
オシム本はつい読んでしまう。著書ということになっているが、内容・文体からしてインタビューをまとめたものと思われる。まあ、口述本というのも沢山あることだし、訳者があげてあるだけ『セブンイヤーズ・イン・ジャパン』に比べればましだ。

内容はオシムのインタビューに普段から注目していれば、予想できる範囲だった。

・日本のサッカーは「日本のサッカー」を目指すべきで、他の強豪のマネをしても仕方ない。
・スタープレーヤーを集めても良いチームは出来ない。
・ジャーナリストもプロフェッショナルであれ。

などなど。その中に、一つ気になる言葉があった。それは、

・日本人は求められた以上のことを試そうとしない

という一文だ。確かに、日本以外では仕事が出来てなくても時間が来れば帰ってしまうとか、日本人の仕事に対する責任感はよく言われる。しかし、それは求められたことであって、それ以上に口を出すのは避ける傾向があると指摘されれば、そうだと思う。一般論ではなく、自分自身もその傾向が強いと感じている。もちろん、バランスの問題なのだが、これからは、自分の心地よいバランスより一歩踏み込むように努力してみよう。
7人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2007年8月29日に日本でレビュー済み
「いつ何が起こるかわからない。」「試合が終わるまではすべてが起こりうる。」
監督として指揮をする最後の日まで選手、スタッフを信頼し太い絆を作り上げチームをW杯の舞台に導こうとする指揮官の志が記されている。準々決勝に続き3位決定戦でもアジアのチームに敗れたオシムジャパンの行方はまだ始まったばかり。スポーツジャーナリズムも、観客の目も審判の技術も低い日本という国の選手を使って世界に立ち向う事はさぞかしやりがいのあることだろう。16ヶ月後の最終予選までに真のポリバレントに走るサッカーを見せて欲しい。
5人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2010年5月15日に日本でレビュー済み
「サッカーとは人生である。
しかも、サッカーでは、人生で起こることが、もっと早く、もっと凝縮して起こる。
人間が一生涯で経験できるものすべてが、非常に短い時間の中で起こりうるのだ。
歓喜、悲劇、絶頂、ストレス、成功、失敗、栄光、挫折、勝利、敗北。
一度の人生で起こりうる美しいこと、醜いこと、全て詰め込まれたのがサッカーである。」

強豪国の試合運びを見るのは良いだろう。そしてときにはまねするのもよいだろう。
しかし、それよりもまず自分たちの力を客観的に見て、自分たちには何が本当にできるのかを先に知らねばならない。自分たちにできることがあるのなら、それをもって発展させるよう努めることが大切。そして、それに誇りをもつことが一番大事なのだ。
ロナウジーニョがやっていることは一体何か、そして自分にはそれができるのか否か、さらには自分にロナウジーニョと異なるものがあるのかないのか、といったことを常に意識する。
そうやって、人と異なるものを追及していけば、いつかその異なるもので、他人が持っていて自分が持っていないものを、埋め合わせることが可能になるのである。

日本人でさえも、まだ自分で自分をわかっていないと私は思う。
日本人の特性は何だろう?それを客観的に知ることが他国の模倣ではない日本代表チームの「日本化」の第一歩である。肉体的な面で見ると、欧米の国々と比べて、日本はやはりハンディキャップをもっているといえる。ただし、優れた闘争心をもっている。意味もなく誰かを突き飛ばしたりするといった類のものではなく、自らコントロールできるアグレッシブさのことであり、それは現代サッカーにおいてきわめて重要なものである。さらに、機敏性と流動性。「日本人のマークを外すことは決してできない」とヨーロッパの選手に言わしめている。身体的なハンディキャップを補うにはどうするか?体の接触で勝負しない。「走る」しかないのである。もちろんそれだけでは不十分だから、テクニックももっと向上しなければならないし、もっとアグレッシブにプレイすることも必要だろう。選手間のコンビネーションをさらに高め、より、現代的にプレーすることが要求されるし、もっと相手を挑発しなくてはならない場合もある。ここにあげたものはほんの一例に過ぎない。だが、ハンディキャップを補うためには、ありとあらゆることが実践可能なのだ。日本はまだ強豪国や名門クラブの模倣に努めているように見える。
一方、大きなアドバンテージになりうるにもかかわらず、日本人選手はまだ最大限に自分の特徴やポテンシャルを活かしきれていないと、最初に私は言いたいのである。

メンタルな部分としては、自分たちがやっていることを信じる必要がある。ただ、本当に自分たちを信じきるためには、より優れた相手や強い相手に勝っていく必要がある。「自分達はまだまだこんなものじゃない。もっと可能性があるはずだ。」という確信を得る必要がある。これが何かを信じるということだ。逆に何も人事られなくなった瞬間、あらゆる可能性が不可能となり、危険に陥るだろう。だから、今はまず、自分が可能なやり方から探す必要があるのだ。他人の方がいつも優れていると考えてしまったならば、そこで進歩はなくなる。多く長く信じてきた分だけ人は戦うことができる。だから、もっとよくできる、到達できると信じなければならない。もう何もできないという態度をとってしまったら、そこで終わりなのである。

私の言うリスペクトとは、「客観的価値を見極める」という意味である。イエメンと対戦する時であれ、ブラジルと対戦する時であれ、相手が強い弱いにかかわらず、それぞれの国に対するリスペクトが必要となる。しかし、難しい。ブラジルは客観的な価値以上に過大評価しがちだし、イエメンに対してはその逆となる。しかし、どの相手も自らの長所と短所をもっているのだ。ただ、ある相手には長所以上に短所が多かったり、逆であったりするかもしれない。しかし、どんな場合においても相手の長所や短所は客観的に見なければならない。サッカーにおいては、リスペクトの方法を間違うと、しばしば失敗が訪れる。相手の力をきちんと評価しなかったばっかりに、自分で自分の歯を折ってしまうことがあるのだ。彼らに、そして自分たちに、何ができて、何ができないのか、客観的に見通す必要があるのだ。

相手が強ければ強いほど、より多くのことを分析し、観察するはずだ。しかし劣ると思われる相手に対しては、「自分たちのプレーをするだけだ」と考えてしまう。もしクレバーなチームでありたいのなら、相手は何ができるかを全て知っておかなければならない。それが何であれ、いつどこでであれ、どうやって自分たちを危機に陥れてくるかを知らねばならない。私たちは自分たちに対して誠実になる必要があるし、相手に対しても誠実になる必要がある。

日本が抱える問題は日本人が誇りにしている国力にあるのではないか?臨むと望まざるとにかかわらず、多くの分野において日本は大国である。日本は政治的、経済的に成長し、国際的地位も高いが、サッカーにおいても成功できるか、そうではないはずだ。だとしたら、世界各地を飛び回り、「なぜ私たちはそうじゃないのか」と自問するとよいだろう。その答えが決して単純ではないことを知るはずだ。現在、日本人が勤勉であるかどうかは疑問だ。日本人は非常に高い生活水準を保っているが、それは勤勉だった先代が作ってきた生活水準を今の人々が享受しているだけなのではないか。日本という国では、全てが整備され、問題は自然と解決されていく。このことは、ほとんどにおいてはプラスだろう。しかし、事サッカーに関してはマイナス面であもあるのだ。日本人は、全てが整備され、自然に解決されていくことに慣れてしまっている。あるいは、何か問題が起きると、他の誰かがそれを解決してくれるものだと思い込んでいるのではないかと思うのである。私の国では違った。もし何かを期待したとしても、決してうまくはいかない。いつもほったらかしだから、自分で解決することになる。だから、問題があった時、どうやって解決すればいいかというアイデアやイマジネーションを常に持って生きなければいけないのだ。幸か不幸か、今の日本ではそういうことがない。先進国のそういう状況が悪いわけではない。私が言いたいのは、「誰かが、選手たちが何かを考え続けるように仕向けないといけない」ということだ。日本人は、世界のサッカー界で何が起こっているか本当によく知っている。そして、それに倣い、いかにして追いつくかに、日々努力している。しかし、それは模倣以外のなにものでもない。日本人は世界最高のものを模倣している。まず、それを止めるのだ。模倣はどこまで行っても模倣にすぎず、それは日本人が本来持っているものを引き出すことを邪魔し、あるいは失わせることになる。客観的に自分の持っている特質を見極め、それを試していかなければならない。客観的に自分の力を見極め、そこから自分の道を探してほしい。

私はかつて、「日本人はプレーにおける責任感に欠けている」と口にした。おそらく日本の教育、学校システムにまつわる事柄だから、簡単に変えることはできないだろう。常に上にいるものが誰かの責任を負う。それがこの世の仕組みだが、、サッカーでは必ずしもそうではない。サッカーというゲームでは、誰のサポートも受けられない状況下で、一人で責任を背負って解決しなければならない場面もある。本当の責任とは、チームを勝利に導くために、どうやって動くべきか、どこで何をすべきか、なぜそうするのかを知ることである。日本人に責任感がないとはいえない。しかし、問題はその責任感に自分で限界を作ってしまうことだ、というのが私の印象である。誰も自分のノルマ以上の、限界以上のことをやろうとしないのだ。あるフォワードが自分の守備範囲はセンターラインだから、そこまでボールを追えばいいと思ってしまうように。だが、サッカーにおいては、それではだめなのだ。他の誰かが責任を背負っているとしても、それでゴールを奪われてしまったら負けなのである。日本人は選手間でコミュニケーションをしなさすぎるが、サッカーにはコミュニケーションをしなければならないゲームなのだ。なぜなら、ある種の危険性に対しては、ひとつの共同体であるからである。あなた、彼、ゴールキーパーに、個人的には失点の責任がなくても、負ける時は全員が一緒に負けてしまうのだ。

サッカーは結果で測るものであり、数字で測ることはできない。人生同様、サッカーとは常にそんなゲームなのだ。80分間ボールを支配したのに負けてしまった。100回もシュートを打ったのに負けてしまった。だから、何だ?パス本数、シュート本数、ボール支配率。そんなものに何の意味、価値があるのだ?99%のボール支配率があるのに、1%のボール支配率しかなかった相手が勝つことだってあるのだ。決定力こそ大事なのだ。時にはサッカーでも数字が意味をもつこともあるが、それはどこかの隅にあるちょっとした事だけで、試合を決めるものではないのだ。私はみなさんがそんな数字に振り回されないことを願っている。

私はかつて、「日本人の問題は、多くの選手があるレベルに達すると、そこに甘んじ、もう一歩先へ進もうと考えないことだ」と語ったことがある。若者は何かを達成すると、さらに先へ進みたかるのが当然だろう。しかし、日本には大きな敵がいる。それはスタンダードである。つまり、国民が一様に高いスタンダード(生活水準)をえている。すると、必要以上の挑戦は時代遅れにすら見られてしまう。日本人選手にとっての行動基準が何なのかが、ここでの問題である。日本人選手は、「サッカー選手」である前に、安定した生活水準をもち、それなりに生活の糧を得てしまった「日本人」なのではないか?あるいは「サッカーのキャリア以上に人生は長い時間が流れていくものだ」としっかり学校で教えられているのではないか?日本の国では、もし、試合に出られなかったとしても、どこかの国のように生活が根本的に危うくなることはない。ハングリーである必要がないのだ。だが、ある国では、もし試合に出られなかったら、全てがなくなる。ヨーロッパでも常にそれは起こっている。サッカー界から消えてしまった瞬間、何もかも失い、生活保護を受けることにもなるのだ。足を骨折したり、何か不幸が襲ったりしたら、もう終りなのである。だから、常にもっと高いレベルに自分を押し上げるような一歩を踏み出さなければならず、何かに到達したなら、さらに先へ進もうとするものなのだ。

今の、そして今後の問題は、日本が自分だけの小さな檻に閉じこもってはならないということである。日本は優れたリーグをもっている。しかし、これまでやってきたことが良かったのかどうかを世界レベルで見る機会が日本のサッカー界にはない。一流国のチームより強いのか弱いのかを証明する機会をもっと作る必要があるだろう。Jリーグクラブにおいての問題は、普段から本気で戦える海外のチームとの大きな対戦がほとんどないことである。また大きな対戦があるとしても、スポンサーがらみの親善試合があるだけだ。でも、それではいけない。本気で戦う本当の対戦がなくては、つまり親善性でなく、競技性の部分がなければ、チームのレベルアップは難しいのだ。自分たちの枠の中だけで満足していては、私たちは常に同じところに止まってしまうのだ。

続いて、「何のためにサッカーをやるのか」という問題だ。サッカー人生は、一見華やかに見えるが、多くの犠牲を伴う。プライベートはサッカーのために全て犠牲になると考えてもいい。つまり、そこには犠牲にしなくてはならない何かがあるのだ。しかも、それを犠牲にしたならば、もう取り戻すことはできない。青春は二度と来ないし、若かりし日日はすぐに過去となる。つまり、人生の一部分においてハンディキャップを負う事になるのだ。だが、人生の貴重な一部分と引き換えに、選手たちがサッカーで生きると覚悟を決めたからといって、何ら驚きではないのだ。誰もが自分の生き方をもっているのだから、それだけで、現在においても将来においても、十分な説明になりうる。ここで、考えなければならないのは、サッカーが日本において、どれだけの、そして、何の象徴となるかということである。例えば、イタリアではサッカーそのものが人生だ。あの国では老女ですら、ジャーナリスト並みにサッカーを語り合う。サッカーが国全体に浸透しているのである。ドイツ、イングランド、スペイン、そこでもサッカーが人生の一部分であり、サッカーがなくては人生が進まない。では、日本はどうか。残念ながら、日本ではサッカーがそこまでの重要性をもってはいない。サッカーが日本という国にさほど影響を与えていないのである。だから、みなさんに自分の頭で考えてもらいたいのだ。日本人はどれだけサッカーに対して身を捧げているのか、日本人の人生においてサッカーは何を象徴するのか、そして日本人自身がその事をどう考えているのか、ということである。その答えによって、日本と日本サッカーの進む道は決まるのだ。

人生において、ある計画を立てても、実現しないことは頻繁にある。サッカーも同じだ。更に、サッカーにおいては、相手に何が起こっているかも追っていかなければならない。そのため、こちらが何をやるかという計画は、どこが相手か、相手が何を計画しているか、に左右される。誰もが何か計画を立てている。どの相手もこちらの計画を妨げようとしている。だから、自分のことだけを考えていては、計画は立てられない。常に、相手が考えていることと、私たちには何ができるのかを関連させなければならない。上手くいかなかったときには、なぜ成功しなかったのかという原因を知ることの方が良いかもしれない。自分で自分に対する説明をもつ必要があるのだ。その後、自分の説明に向かい合い、自らが進歩するための行動を起こすことができるからだ。

どんな仕事でもそうだが、自分の相手となりうるのはどんなチームかを、しっかりと研究しなければならない。さらに審判、気候、ピッチ…。時には、メンタリティや振る舞い、考え方のせいで自分自身が最大の敵になることもある。あるいは、自分たちが本命だとむやみに宣言するならば、相手に余計なモチベーションを与えることにもなるのだ。考えるべき事柄は本当にたくさんある。しかし、監督は、すべてについて考慮しなければならないものなのだ。

この言葉だけは、絶対に忘れないでほしい。
人生では大体そうだし、サッカーでは常にそうだ。

「終わるまではすべてが起こりうる」
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2009年10月17日に日本でレビュー済み
サッカーが国際的であるにもかかわらず、
アッカー記者が国際的なセンスのなさに辟易としていた。

本書は、国際的なセンスのある日本人が協力しているところが、
サッカー記者が書く、内容のない本と一線を画することになっている。

国によって文化が違い、個人によって生い立ちが違うが、
それでも人間なのだから、「考える」ことができるはずだ。

サッカーは11人の考えが、相手の行動と一つのボールの行方を通じて、
結果がでるため、何を考えたかがいつも問われるはずである。

サッカー記事、サッカー本に、その考えが掲載されるおとは少ない。

本書は、文化、生い立ちと考えという3つの視点が備わっているよいサッカーのための本だと感じられました。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート