やはり原著は読むべきだと思います。とは言っても翻訳後ですが。
ミシェル・フーコーの「狂気の歴史」はそもそも狂気とは何か。ということや、時代によって狂気の人がどう扱われていたのかが述べられています。「監獄の誕生」とともに手に入れたい本です。狂気をキーワードに扱う論文を書くなら読むべき本だと思います。
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狂気の歴史: 古典主義時代における 単行本 – 1975/2/1
- ISBN-104105067028
- ISBN-13978-4105067021
- 出版社新潮社
- 発売日1975/2/1
- 言語日本語
- 本の長さ649ページ
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (1975/2/1)
- 発売日 : 1975/2/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 649ページ
- ISBN-10 : 4105067028
- ISBN-13 : 978-4105067021
- Amazon 売れ筋ランキング: - 337,774位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 940位ストレス・心の病気
- - 17,419位医学・薬学・看護学・歯科学
- - 33,698位科学・テクノロジー (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2011年9月1日に日本でレビュー済み
20世紀は、イデオロギーを問わず大量虐殺を経験しました。
我々(特に欧米人)は啓蒙の先端を走っていたのではないのか?
なぜこんなことをしてしまったのか。
フーコーは、この現実を受け止め、
「われわれは皆、狂ってる」ないし「狂気を十分に残している」
と判断せざるえなかったのだと思います。
そしてフーコーは、言語に尽くしがたい大量虐殺を真摯に受け止め、
自分たちはいったどこで間違えてしまったのか、という問題を突きつめようとし、
それをこの『狂気の歴史』でまず明らかにしたのだと思います。
もちろんこのような意図は同書の序論にもありません。
いわば、同書のさらなる文脈はこうじゃないかと思うわけです。
さて、フーコーは、その発端を、
輝かしい理性の勝利の時代とされる17世紀(新古典主義の時代)の後半の
「狂人の画一的な監禁」、に見出します。
そして、その原因の探求にも力を注ぎます。
その時代に狂人の扱いが一変することを明らかにするため、
本書は「狂気の歴史」を描いたわけです。
ただ、狂人への対応が間違っていたことが最終的な問題ではなく(もちろん問題ですが)、
真の問題はそのときの理性のあり方であり、
それが現在まで引きずられていること、だと思います。
本書は、細かい活字の二段組みで600ページを超える大冊ですが、
これはこの問題の解明に向けられたフーコーの情熱を表しています。
権力を糾弾せず、政府や大企業に批判の矢を向けることもなかった
フーコーが、サルトルの後継者のような知識人とみなされたのも、
彼のこういった根本的な姿勢のためでしょう。
右だ左だということに本質的な問題を見ていなかったのです。
この本では、フーコー思想のキーワード(知、権力、主体、等々)は、
まだ前面に出てきませんが、それらがどういった文脈で捉えられているのか、
ということがよく見えてきます。もともと歴史家的側面の強い方ですから、
いつくかの概念だけに彼の思想を分解することはあまり賢明ではないと思います。
※なお「狂人」は差別用語ですが、本書で使用されているため、
この感想文でも使用させていただきました。
我々(特に欧米人)は啓蒙の先端を走っていたのではないのか?
なぜこんなことをしてしまったのか。
フーコーは、この現実を受け止め、
「われわれは皆、狂ってる」ないし「狂気を十分に残している」
と判断せざるえなかったのだと思います。
そしてフーコーは、言語に尽くしがたい大量虐殺を真摯に受け止め、
自分たちはいったどこで間違えてしまったのか、という問題を突きつめようとし、
それをこの『狂気の歴史』でまず明らかにしたのだと思います。
もちろんこのような意図は同書の序論にもありません。
いわば、同書のさらなる文脈はこうじゃないかと思うわけです。
さて、フーコーは、その発端を、
輝かしい理性の勝利の時代とされる17世紀(新古典主義の時代)の後半の
「狂人の画一的な監禁」、に見出します。
そして、その原因の探求にも力を注ぎます。
その時代に狂人の扱いが一変することを明らかにするため、
本書は「狂気の歴史」を描いたわけです。
ただ、狂人への対応が間違っていたことが最終的な問題ではなく(もちろん問題ですが)、
真の問題はそのときの理性のあり方であり、
それが現在まで引きずられていること、だと思います。
本書は、細かい活字の二段組みで600ページを超える大冊ですが、
これはこの問題の解明に向けられたフーコーの情熱を表しています。
権力を糾弾せず、政府や大企業に批判の矢を向けることもなかった
フーコーが、サルトルの後継者のような知識人とみなされたのも、
彼のこういった根本的な姿勢のためでしょう。
右だ左だということに本質的な問題を見ていなかったのです。
この本では、フーコー思想のキーワード(知、権力、主体、等々)は、
まだ前面に出てきませんが、それらがどういった文脈で捉えられているのか、
ということがよく見えてきます。もともと歴史家的側面の強い方ですから、
いつくかの概念だけに彼の思想を分解することはあまり賢明ではないと思います。
※なお「狂人」は差別用語ですが、本書で使用されているため、
この感想文でも使用させていただきました。
2021年10月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は、
狂気の排除、精神病の制定、監禁の歴史を辿り分解しながら、
その構造の裏面で風化してゆく、
「歴史の裏面のにぶい音」に耳を傾け
「目に見えぬ営み」である狂気経験を浮き上がらせようとする、
反歴史主義的な歴史の焙り出しの試みの書である。(あとがき)
(狂気と理性の関係、「排除されるもの」の関係の歴史、文化の階層構造の解読)
(復元と構造の分解、沈黙についての考古学をつくりだすことが意図)
「狂気」の概念とは、
己自身の真理と関連をもつ理性と共存関係のもとの、
諸精神(=本性)である。
「第1部の ”阿呆船”」において
『阿呆船』『痴愚神礼讃』など書物から、
狂気経験と理性の構造を分解して諸概念化をする。(p46)
・狂気と理性は相関的な相互関係であり置換できる関係
・一方が他方の尺度であり、相互に根拠をおくもの
→狂気が優位(狂気=本性>理性、深淵のごとき根本的)
→理性が優位(理性>狂気、とるに足らぬもの)
(狂気の概念の歪曲については、後に記載)
<善悪相克図>(p38)
・人間の中にある悪のすべては狂気が支配している。
だがそれは、人間なしうる一切の善、
たとえば政治上の賢者を生み出す野心、
臣を増加させる貪欲、
哲学者や科学者に活力をあたえるぶしつけな好奇心
こうしたものを間接的に支配していないだろうか。(理性という名の狂気)
「第1部の ”阿呆船”」以降は、
権力支配構造の社会における「狂気」の概念の書き換えと置き換え(概念の歪曲化)と、
排除の構造化によるヨーロッパの歴史を辿っていく。
(16世紀以前) 狂気と理性の認知
(16世紀) 独占排他的な特権による狂気の隠蔽(=恣意的な概念化、監禁)
(17世紀、パリ) 狂気経験の追放と閉じ込め(=監禁、排除)
(18世紀末~) 精神病理学による精神病の概念化(=監禁、排除)
(西洋の悲劇的な構造=悲劇の拒否、忘却、歴史の弁証法と結びつけ限界境界をつくる)
この流れにおいて、
「狂気」の概念は姿かたちを変えて、
最終的には排除すべく客体として監禁され、
恣意的な概念化によって病気と位置付けられるようになる。
(利害中心の掟に人間を服従させる)
・人間の理性、土地に対して危険とされるものを排除(優生思想)
・規格外排除とその概念化(理性の永遠を保証する条件)
・狂気の概念の磨き上げ実務の組織化
・<狂気>→<異端者>→<病理学的なもの>→<精神病者、狂人>
・恣意的な分類での医学上の断定的見解(ドグマ)によって排除対象となる
・自己の自由を奪う(客体として拘束、禁治産)
・規格外の恣意的な概念化による自己統制化(恥辱、躓き(スキャンダル))
・精神医学の言語(=理性)によって沈黙(=狂気)に置き換えられる
・現代人は狂人と交流していない(より距離が離れる構造、理性と非理性の断絶)
・規定によって言語活動(法刑罰といった規定の中での秩序、診断、標準語)
・理性の民主主義、共同生活によって、非理性を排除する
<監視><裁定><共同生活><幽閉><一般施療院>
<自己拘束=客体化に仕向ける仕組>
現代に至るまでの、
異端排除の階層秩序の構造化は以下となる。
(階層秩序=利益至上主義社会の利益のための客体として狂気、異端を排除)
・利益至上主義に監禁、幽閉(資本主義社会)
・法刑罰によって従属化(禁忌の設定、政治)
・収容所での矯正(病院、学校)
・監視(地域、部落)
以上から、
理性と狂気との関係性によって、
権力支配側による恣意的な精神病の規定や、
狂気ならびに異端排除は、
己の首を絞めることになるであろう、
といった諸帰結に至り、
束縛は己の束縛、排除は己の排除にそのまま形を変えることとなる。
「狂気」と「排除」の概念化の歴史は、
背後に潜むユートピア思想なるものと、
敗者と失墜者の苦悩と悲しみから構成されていると、
本書から、その構造を考察できる。
私自身は、
私自身が肌で感じた非言語の存在を、
フーコーさん、訳者の田村俶さんを通じて一部復元される形となり、
自身の考古学の一部掘り起こしと、
その考察の下地ができる型の知見を本書から得ることができた。
・精神病はますます制御される技術的空間の中に入ろうとしている。(病院、病理学)
・狂気と精神病は同じ人間学的統一性への帰属関係を断つのです。
その統一性自体は一時的な公準たる人間とともに消滅する。
病気の抒情的な光暈である狂気は消えることをやめない。
だが、病理学的なものから離れて、言語の傍らで、
それがまだ何も述べずに自分を折り曲げる場所で、
一つの経験が生まれつつあるのであって、
われわれの至高が関与するのはその経験に対してである。
すでに可視的な、だが絶対にうつろな、その切迫さは、
まだ命名されることができない。(p587)
・人間の剥き出しの真理である狂気と、
それが作ってきた文化(個人発話)はもう、
痕跡を判読するは不可能になるであろう(言語的禁忌、癇症病)
----------------------------------------------------------------------------------
第1部(“阿呆船”/大いなる閉じ込め/感化院の世界/狂気の諸経験/気遣いたち)
第2部(種の園における狂人/妄想の超越性/狂気の形象/医師と病者)
第3部(大いなる恐怖/新しい分割/自由の正しい使途について/狂人保護院の誕生
/人間論上の円環)
付録 (《一般施療院》の歴史/狂気、営みの不安/私の身体、この紙、この炉)
------------------------------------------------------------------------------------
【狂気と理性の関係性(狂気と非狂気)】
・人間が狂気じみていることは必然的であるので、
狂気じみていないことも、別種の狂気の傾向からいうと、
やはり狂気じみていることになるだろう(パスカル、p51)
・人間のもっとも欠陥が生まれるのも、この種の狂気の中であり、
どんな人の心にもある、自分との想像上の関係である(p53)
・画家、詩人、音楽家の思い付き値は、
彼らの狂気を言い表すために礼儀上、
手加減が加えられた名称にほかならぬ。
・狂気の理性にとって内的であり、いっそうよく自分を確保するための
理性の一形態、一つの力、いわば一つの必要である、
という点である。(狂気の現存、理性の狂気の現存の認知)
・正気と狂気は、
どちらの姿をとることもできたのであり、
よって分割をもうけることは不可能である。(p120)
・「しかし、自分にやすりをかければかけるほど、
自分にかんなをかければかけるほど、自分の考えでは、
世間の人がたわごとを言っているような気がする 」
(偽りの絶望に陥っている皮肉さの明瞭性の中で概念を再構成する)
・よく考えてみると、
私たちの人生すべては、一つの作り話にすぎず、
私たちの認識は一つの無知、私たちの信念はでたらめにすぎない。
要するに、この世の中は、
一つの笑劇、永遠の喜劇に他ならない。
・この世の人間の数だけ痴愚の彫像がある
・もっともよく統治され、思慮深い都市をちょっと眺めるだけで、
毎日毎日新しい狂気沙汰が生まれてくる~
充分に愚弄しきれないくらい
・「このように理性は奇異な獣である」
・古典主義にとっての狂気は、
生存のみじめさを耐え忍ぶことができると認識されていた。
(無分別な自然から借用する鈍重さで飢えや寒さを耐え忍ぶことができる p173)
(関与、依存するべきものを持たず、みずからの動物性と無媒介な関係を結んでいる人間)
(自然な狂暴さに悩まされている動物=正気を失っているというわけではない)
(人間の相貌そのものが理性と共に生まれるはずの領域)
(狂気に独特の言語お狂気にしゃべらせる熟慮=狂気と理性の共存)
・彼が狂人〔=道化〕であるのは、単に他人からそう言われ、扱われた為である
・「人は、私が馬鹿げたまねをするのを見たがりました。
だから、わたしはそうしたまでです。」というわけである。
・《あんたはわしが無学で、<馬鹿>で気違いで、無策法で怠け者だってことを知っておいでです》
・「思考するこの私は、狂人ではありえない」(一元論、機械の世界)
----------------------------------------------------------------------------------
【諸テーマ】
1 狂気と理性、ユートピア歴史を知る
2 脱離(距離をおく、去なす、敗北する、失墜する)
3 死、虚無(犬儒、冷笑、厭世)
----------------------------------------------------------------------------------
1 狂気と理性、ユートピア歴史の構造を知る
(狂気と理性の相互関係、対称性)
・狂気の認知(狂気=情熱、暴力、犯罪、責任能力を欠く決定論など)
・日常的真実として心理的主体のなかへ導入(受容、寛容)
・構造論的な研究(復元、構造の分解、沈黙についての考古学)
・言語活動をもたぬ空間の復元、正体不明の領域の曖昧さ
・意味が黒焦げ化している根、歴史の裏面のにぶい物音
・より無価値なもの、沈黙、空白、虚しさに対して問いを投げる
・理性の言語活動の下で隠されている〔理性と非理性〕この対決はなんであろうか
・歴史の欠如の中の沈黙の空間、自分の真理、無、
・最後の残りかす、忘れ去られるうつろな刻印しか遺していない砂のごときのもの
・狂人と概念化されるものにとって、理性は戯言であり狂人である
・昼の幻想に満ちた反映、虚偽に満ちたおしゃべり(理性)
・視覚の停止、精神世界の解放
(ユートピア歴史の構造を知る)
・法刑罰(政治)
・監禁、監視、収容所(社会、会社)
・矯正(病院)
・入信儀式(学校)
(媒介物=造物、媒体を介して理想郷への狂信化を謀る権力)
・利害中心の掟に人間を服従させる
・規格外排除(理性の永遠を保証する条件)
・《テキスト化》に隠される形而上学一般(ニュースピーク、ダブルシンク)
・排除目的での法刑罰包含である命題形式(狂気という概念を誤魔化し、狂気を排除する)
・普遍的な錯誤の概念の構成の構造化urasim(概念の誤謬化、欺し手による)
・洗脳、口実(既知のコードを別のコードに置き換え、従属へ導く)
・恣意的な法刑罰のもとの<退化>の概念
2 脱離(距離をおく、去なす、敗北する、失墜する)
・怠惰、無為の空間を作る
・離れた位置から狂気を見ている
3 死、虚無(犬儒、冷笑、厭世)
・哄笑によって狂気を笑うことができるからである
・笑いの力を借りることによって、諸世界と一定の距離を保てる
・死の冷笑的な画像
・孤独からの心の抒情—無媒介な皮肉に満ちた客観性と主観性
・自然界—われわれを平等な姿で生んだのである
・自然界—したがって、もし運命が好んで、
一般法則に則っているこの計画を狂わせようとする場合は、
最強なるものが行う侵害を埋め合わせをしなければならない
--------------------------------------------------------------------------------------------------
狂気の排除、精神病の制定、監禁の歴史を辿り分解しながら、
その構造の裏面で風化してゆく、
「歴史の裏面のにぶい音」に耳を傾け
「目に見えぬ営み」である狂気経験を浮き上がらせようとする、
反歴史主義的な歴史の焙り出しの試みの書である。(あとがき)
(狂気と理性の関係、「排除されるもの」の関係の歴史、文化の階層構造の解読)
(復元と構造の分解、沈黙についての考古学をつくりだすことが意図)
「狂気」の概念とは、
己自身の真理と関連をもつ理性と共存関係のもとの、
諸精神(=本性)である。
「第1部の ”阿呆船”」において
『阿呆船』『痴愚神礼讃』など書物から、
狂気経験と理性の構造を分解して諸概念化をする。(p46)
・狂気と理性は相関的な相互関係であり置換できる関係
・一方が他方の尺度であり、相互に根拠をおくもの
→狂気が優位(狂気=本性>理性、深淵のごとき根本的)
→理性が優位(理性>狂気、とるに足らぬもの)
(狂気の概念の歪曲については、後に記載)
<善悪相克図>(p38)
・人間の中にある悪のすべては狂気が支配している。
だがそれは、人間なしうる一切の善、
たとえば政治上の賢者を生み出す野心、
臣を増加させる貪欲、
哲学者や科学者に活力をあたえるぶしつけな好奇心
こうしたものを間接的に支配していないだろうか。(理性という名の狂気)
「第1部の ”阿呆船”」以降は、
権力支配構造の社会における「狂気」の概念の書き換えと置き換え(概念の歪曲化)と、
排除の構造化によるヨーロッパの歴史を辿っていく。
(16世紀以前) 狂気と理性の認知
(16世紀) 独占排他的な特権による狂気の隠蔽(=恣意的な概念化、監禁)
(17世紀、パリ) 狂気経験の追放と閉じ込め(=監禁、排除)
(18世紀末~) 精神病理学による精神病の概念化(=監禁、排除)
(西洋の悲劇的な構造=悲劇の拒否、忘却、歴史の弁証法と結びつけ限界境界をつくる)
この流れにおいて、
「狂気」の概念は姿かたちを変えて、
最終的には排除すべく客体として監禁され、
恣意的な概念化によって病気と位置付けられるようになる。
(利害中心の掟に人間を服従させる)
・人間の理性、土地に対して危険とされるものを排除(優生思想)
・規格外排除とその概念化(理性の永遠を保証する条件)
・狂気の概念の磨き上げ実務の組織化
・<狂気>→<異端者>→<病理学的なもの>→<精神病者、狂人>
・恣意的な分類での医学上の断定的見解(ドグマ)によって排除対象となる
・自己の自由を奪う(客体として拘束、禁治産)
・規格外の恣意的な概念化による自己統制化(恥辱、躓き(スキャンダル))
・精神医学の言語(=理性)によって沈黙(=狂気)に置き換えられる
・現代人は狂人と交流していない(より距離が離れる構造、理性と非理性の断絶)
・規定によって言語活動(法刑罰といった規定の中での秩序、診断、標準語)
・理性の民主主義、共同生活によって、非理性を排除する
<監視><裁定><共同生活><幽閉><一般施療院>
<自己拘束=客体化に仕向ける仕組>
現代に至るまでの、
異端排除の階層秩序の構造化は以下となる。
(階層秩序=利益至上主義社会の利益のための客体として狂気、異端を排除)
・利益至上主義に監禁、幽閉(資本主義社会)
・法刑罰によって従属化(禁忌の設定、政治)
・収容所での矯正(病院、学校)
・監視(地域、部落)
以上から、
理性と狂気との関係性によって、
権力支配側による恣意的な精神病の規定や、
狂気ならびに異端排除は、
己の首を絞めることになるであろう、
といった諸帰結に至り、
束縛は己の束縛、排除は己の排除にそのまま形を変えることとなる。
「狂気」と「排除」の概念化の歴史は、
背後に潜むユートピア思想なるものと、
敗者と失墜者の苦悩と悲しみから構成されていると、
本書から、その構造を考察できる。
私自身は、
私自身が肌で感じた非言語の存在を、
フーコーさん、訳者の田村俶さんを通じて一部復元される形となり、
自身の考古学の一部掘り起こしと、
その考察の下地ができる型の知見を本書から得ることができた。
・精神病はますます制御される技術的空間の中に入ろうとしている。(病院、病理学)
・狂気と精神病は同じ人間学的統一性への帰属関係を断つのです。
その統一性自体は一時的な公準たる人間とともに消滅する。
病気の抒情的な光暈である狂気は消えることをやめない。
だが、病理学的なものから離れて、言語の傍らで、
それがまだ何も述べずに自分を折り曲げる場所で、
一つの経験が生まれつつあるのであって、
われわれの至高が関与するのはその経験に対してである。
すでに可視的な、だが絶対にうつろな、その切迫さは、
まだ命名されることができない。(p587)
・人間の剥き出しの真理である狂気と、
それが作ってきた文化(個人発話)はもう、
痕跡を判読するは不可能になるであろう(言語的禁忌、癇症病)
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第1部(“阿呆船”/大いなる閉じ込め/感化院の世界/狂気の諸経験/気遣いたち)
第2部(種の園における狂人/妄想の超越性/狂気の形象/医師と病者)
第3部(大いなる恐怖/新しい分割/自由の正しい使途について/狂人保護院の誕生
/人間論上の円環)
付録 (《一般施療院》の歴史/狂気、営みの不安/私の身体、この紙、この炉)
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【狂気と理性の関係性(狂気と非狂気)】
・人間が狂気じみていることは必然的であるので、
狂気じみていないことも、別種の狂気の傾向からいうと、
やはり狂気じみていることになるだろう(パスカル、p51)
・人間のもっとも欠陥が生まれるのも、この種の狂気の中であり、
どんな人の心にもある、自分との想像上の関係である(p53)
・画家、詩人、音楽家の思い付き値は、
彼らの狂気を言い表すために礼儀上、
手加減が加えられた名称にほかならぬ。
・狂気の理性にとって内的であり、いっそうよく自分を確保するための
理性の一形態、一つの力、いわば一つの必要である、
という点である。(狂気の現存、理性の狂気の現存の認知)
・正気と狂気は、
どちらの姿をとることもできたのであり、
よって分割をもうけることは不可能である。(p120)
・「しかし、自分にやすりをかければかけるほど、
自分にかんなをかければかけるほど、自分の考えでは、
世間の人がたわごとを言っているような気がする 」
(偽りの絶望に陥っている皮肉さの明瞭性の中で概念を再構成する)
・よく考えてみると、
私たちの人生すべては、一つの作り話にすぎず、
私たちの認識は一つの無知、私たちの信念はでたらめにすぎない。
要するに、この世の中は、
一つの笑劇、永遠の喜劇に他ならない。
・この世の人間の数だけ痴愚の彫像がある
・もっともよく統治され、思慮深い都市をちょっと眺めるだけで、
毎日毎日新しい狂気沙汰が生まれてくる~
充分に愚弄しきれないくらい
・「このように理性は奇異な獣である」
・古典主義にとっての狂気は、
生存のみじめさを耐え忍ぶことができると認識されていた。
(無分別な自然から借用する鈍重さで飢えや寒さを耐え忍ぶことができる p173)
(関与、依存するべきものを持たず、みずからの動物性と無媒介な関係を結んでいる人間)
(自然な狂暴さに悩まされている動物=正気を失っているというわけではない)
(人間の相貌そのものが理性と共に生まれるはずの領域)
(狂気に独特の言語お狂気にしゃべらせる熟慮=狂気と理性の共存)
・彼が狂人〔=道化〕であるのは、単に他人からそう言われ、扱われた為である
・「人は、私が馬鹿げたまねをするのを見たがりました。
だから、わたしはそうしたまでです。」というわけである。
・《あんたはわしが無学で、<馬鹿>で気違いで、無策法で怠け者だってことを知っておいでです》
・「思考するこの私は、狂人ではありえない」(一元論、機械の世界)
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【諸テーマ】
1 狂気と理性、ユートピア歴史を知る
2 脱離(距離をおく、去なす、敗北する、失墜する)
3 死、虚無(犬儒、冷笑、厭世)
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1 狂気と理性、ユートピア歴史の構造を知る
(狂気と理性の相互関係、対称性)
・狂気の認知(狂気=情熱、暴力、犯罪、責任能力を欠く決定論など)
・日常的真実として心理的主体のなかへ導入(受容、寛容)
・構造論的な研究(復元、構造の分解、沈黙についての考古学)
・言語活動をもたぬ空間の復元、正体不明の領域の曖昧さ
・意味が黒焦げ化している根、歴史の裏面のにぶい物音
・より無価値なもの、沈黙、空白、虚しさに対して問いを投げる
・理性の言語活動の下で隠されている〔理性と非理性〕この対決はなんであろうか
・歴史の欠如の中の沈黙の空間、自分の真理、無、
・最後の残りかす、忘れ去られるうつろな刻印しか遺していない砂のごときのもの
・狂人と概念化されるものにとって、理性は戯言であり狂人である
・昼の幻想に満ちた反映、虚偽に満ちたおしゃべり(理性)
・視覚の停止、精神世界の解放
(ユートピア歴史の構造を知る)
・法刑罰(政治)
・監禁、監視、収容所(社会、会社)
・矯正(病院)
・入信儀式(学校)
(媒介物=造物、媒体を介して理想郷への狂信化を謀る権力)
・利害中心の掟に人間を服従させる
・規格外排除(理性の永遠を保証する条件)
・《テキスト化》に隠される形而上学一般(ニュースピーク、ダブルシンク)
・排除目的での法刑罰包含である命題形式(狂気という概念を誤魔化し、狂気を排除する)
・普遍的な錯誤の概念の構成の構造化urasim(概念の誤謬化、欺し手による)
・洗脳、口実(既知のコードを別のコードに置き換え、従属へ導く)
・恣意的な法刑罰のもとの<退化>の概念
2 脱離(距離をおく、去なす、敗北する、失墜する)
・怠惰、無為の空間を作る
・離れた位置から狂気を見ている
3 死、虚無(犬儒、冷笑、厭世)
・哄笑によって狂気を笑うことができるからである
・笑いの力を借りることによって、諸世界と一定の距離を保てる
・死の冷笑的な画像
・孤独からの心の抒情—無媒介な皮肉に満ちた客観性と主観性
・自然界—われわれを平等な姿で生んだのである
・自然界—したがって、もし運命が好んで、
一般法則に則っているこの計画を狂わせようとする場合は、
最強なるものが行う侵害を埋め合わせをしなければならない
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2012年9月30日に日本でレビュー済み
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主に15世紀から18、19世紀にかけての“狂気”の位置の変化を考察した本である。
訳語は難解であるが、含まれる歴史的事実は豊富で、これ以上の資料はなかなか見つからないように思われる。
ルネサンス、宗教改革、隔離、ピネル・テュークによる解放の4点を転機として、自己と狂気の位置関係、神聖さとその喪失、法律・経済・医学と狂気の関係、精神医学が思いがけず秘教的な雰囲気をまとってしまった経緯などが語られる。
ルネサンス、宗教改革によるプロテスタントの出現が、ヨーロッパの思想や現実にどのような影響を与えたのかもよくわかった。
「多分、人々は狂気がどんなものであり得たかが、もうはっきりわからなくなるだろう」と著者はいうが、まさに私たちも、今狂気の変化の中を知らぬうちに過ごしているのだろう。
フーコーについて批判はあるが、それらの批判も、最終的には、フーコーは何らかの真実が含まれているという論調になっているようだ。
狂気について論じる際には、この本に含まれる資料や考察が、いずれにせよ役に立つと思われる。
翻訳が読み易ければ、間違いなく☆5つだが、私にとっては読みづらかった。訳書として☆4つ。
訳語は難解であるが、含まれる歴史的事実は豊富で、これ以上の資料はなかなか見つからないように思われる。
ルネサンス、宗教改革、隔離、ピネル・テュークによる解放の4点を転機として、自己と狂気の位置関係、神聖さとその喪失、法律・経済・医学と狂気の関係、精神医学が思いがけず秘教的な雰囲気をまとってしまった経緯などが語られる。
ルネサンス、宗教改革によるプロテスタントの出現が、ヨーロッパの思想や現実にどのような影響を与えたのかもよくわかった。
「多分、人々は狂気がどんなものであり得たかが、もうはっきりわからなくなるだろう」と著者はいうが、まさに私たちも、今狂気の変化の中を知らぬうちに過ごしているのだろう。
フーコーについて批判はあるが、それらの批判も、最終的には、フーコーは何らかの真実が含まれているという論調になっているようだ。
狂気について論じる際には、この本に含まれる資料や考察が、いずれにせよ役に立つと思われる。
翻訳が読み易ければ、間違いなく☆5つだが、私にとっては読みづらかった。訳書として☆4つ。
2013年2月19日に日本でレビュー済み
原文が難解だとしても、この翻訳は日本語になっていないところが多い。ほんの一例をあげると、ポジティーヴを積極的、ネガティヴィテを消極性と訳しているが、これは肯定的、否定性と訳さないと意味がとれない。もっと誤訳に近いものもあるようだ。版権の問題があるにしても、速やかに新訳が出ることを強く望む。
2003年5月27日に日本でレビュー済み
フーコー最初の主著。フーコーは常に先行する著作を位置づけて後続の著作を書いているので、フーコー理解にはまず最初にこれに取り付くのが順当ではないかと思われる。
「テキストの外部には何もないと教え込む教育学」だとしてデリダを批判して決定的決裂を迎えた補遺がある。
「テキストの外部には何もないと教え込む教育学」だとしてデリダを批判して決定的決裂を迎えた補遺がある。