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ビヨンド 大型本 – 2004/12/22
- 本の長さ319ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2004/12/22
- ISBN-104105451014
- ISBN-13978-4105451011
登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2004/12/22)
- 発売日 : 2004/12/22
- 言語 : 日本語
- 大型本 : 319ページ
- ISBN-10 : 4105451014
- ISBN-13 : 978-4105451011
- Amazon 売れ筋ランキング: - 741,885位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 310位各種の天体
- - 1,186位宇宙学・天文学(一般)関連書籍
- カスタマーレビュー:
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2013年5月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本を開くたびにすごい写真があるものだ驚嘆の思いでいつも読んでいます。
2010年4月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ため息が出るような、
吸い込まれるような、
宇宙の写真集です。
技術的なことは解りませんが
地球に近いほど、やはり鮮明に撮れるのでしょうか、
身近な星ほど信じられないくらい美しく、くっきりとしています。
対して背景はどこまでも深くて暗い宇宙の闇。
きっと宇宙飛行士が肉眼で見る宇宙とはこういうものなんだろうなぁ…。
地球や月の写真集は数多くありますが、
木星や土星、その他の衛星までをとらえた大判の写真集というのは
この値段ではなかなか手に入らないのではないかと思います。
どっしりとしたかなり大きな本なので
普段は本棚の片隅に鎮座していますが、
宇宙にトリップしたくなると引っ張り出しています。
吸い込まれるような、
宇宙の写真集です。
技術的なことは解りませんが
地球に近いほど、やはり鮮明に撮れるのでしょうか、
身近な星ほど信じられないくらい美しく、くっきりとしています。
対して背景はどこまでも深くて暗い宇宙の闇。
きっと宇宙飛行士が肉眼で見る宇宙とはこういうものなんだろうなぁ…。
地球や月の写真集は数多くありますが、
木星や土星、その他の衛星までをとらえた大判の写真集というのは
この値段ではなかなか手に入らないのではないかと思います。
どっしりとしたかなり大きな本なので
普段は本棚の片隅に鎮座していますが、
宇宙にトリップしたくなると引っ張り出しています。
2014年3月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
とても美しい写真です。印刷のレベルも高い。宇宙の神秘、生命の神秘にせまる写真とテキスト。何度見てもあきません。これを見た後空を見上げると宇宙の一部であることを感じ、エネルギーをもらえます。
2011年12月25日に日本でレビュー済み
この本は、普通の写真集とは、一つの点で決定的な違いがある。
それは、一枚を除いて、すべての写真が、人間によって撮影されたものでない、ということである。
本書に収められた画像は、8頁のアポロ15号の宇宙飛行士が撮影した一枚と、ハッブル宇宙望遠鏡などの天文衛星が撮影した数枚を除くと、ほとんどが惑星探査機によって撮影されている。
この事実が何を意味するのか最初は気づかなかった。ページをめくるたびに信じられないほど美しい宇宙の姿が次々に現れるのに息を呑みながら見続け、そして170頁に達した。
そこには火星の赤茶けた大地と、淡い褐色にかすむ地平線の山々があった。そこから4ページ分の、火星探査車スピリットが写した火星地表の画像は、それまで見てきた、冷たい美しさをたたえた星々とは全く異なる印象を与えるものだった。
この違和感がどこから来たのか、分からないままにさらに先へ読み進むと、ボイジャーやガリレオが撮影した、耐え難いほどに美しい木星や土星の光景が再び繰り広げられていったが、あの4ページ分と同じ印象を与える写真が再び現れることはなかった。
それでようやく気づいた。この本のすべての写真の中で、スピリットが写した数枚だけが、「人間の息づかい」を感じさせたのだ。それは異星の姿というより、地球のどこかの砂漠で、旅行者が撮ったスナップ写真のようだった。
違いが生まれた理由は単純だ。スピリットは火星の地表にあって、人間の目の高さと大体同じ高さから水平に周囲の風景を写し取っていた。つまりその「視線」のありようが人間の肉体のスケールときわめて似通っていたから、写した画像も「人間の肉体を感じさせる」ものになったのだ。
逆に言うと、それ以外の探査機による画像は、人間の肉体性とは異質な、機械という存在の視線が刻印されたものであったのだ。それに気づいた時、この本が今までに世に出た写真集とは全く異質な本であることが理解できた。
この本の写真は、機械だけが到達できる、人間の行くことができない世界で撮影されたものなのだ。もしかしたら、その中には永遠に人間の手が届かない場所さえあるかもしれない。
もちろん今後も有人宇宙活動は続いていくだろう。数十年の間には、有人火星飛行くらいは実現するかもしれない。しかし、同じ期間に惑星探査機がさらに進歩し、今以上に活動の範囲を広げていくことは絶対に間違いない。したがって、宇宙のフロンティアを拓くパイオニアが機械であることは、これからも決して変ることはなく、宇宙飛行士は永遠に機械の後塵を拝する存在でしかないのだ。
そこまで考えたとき、アーサー・C・クラークの序文にある、「これからの時代、鈍く独創性のない者は古く穏やかな地球に残り、真の天才と冒険者が宇宙を舞台に活躍することになるのかもしれない。そしてそこは、肉と血ではなく、機械の領域なのだ」(11頁)という言葉が、初めて現実味を持って感じられた。
興味深いことに本書の終わりで、ローレンス・ウェシュラーが、このクラークの主張を強く否定する文章を寄せている。「私たちがここにいるのは、私たちがここでよく見ていなければ、世界の素晴らしい複雑さが無駄になってしまうからだ。そして、その素晴らしい魅惑的な複雑さを人間が経験するのは、畏怖という感覚――機械や探査機には決して複製できない、まさにその感覚――を通してのことなのである」(318頁)
この対立する見解は、たぶんどちらも正しいのだろう。機械は人間の後継者になるのかもしれず、あるいは最後まで単なる道具にとどまるのかもしれない。しかし、確実なことが一つある。宇宙の中で、人間が生きられる場所はごく一部であり、宇宙の大部分は現在も、これからも機械の領域であるということだ。
この写真集は、そうした、人間の手の届かない無辺の宇宙を孤独に飛び続ける機械たちの存在を、いっとき我々に実感させてくれる。あたかも自分自身が探査機の一つになったかのように。
そう思うとき、今年亡くなった小松左京の最後の長編『虚無回廊』のことを思い出さずにいられない。あの物語の主人公は人工知能を搭載した恒星間探査機であり、まさにクラークが序文で主張したそのままの存在だった。そして同時に、宇宙を目指す人間の意志と情熱を受け継いだ「人工実存」であった。それはクラークとウェシュラーの思想を止揚した存在に他ならず、自らの限りある生を超えて宇宙の真実に迫りたいという小松左京自身の願望を投影した存在だったと、私は解釈している。
本書は、そうした小松左京が晩年に到達した境地を、我々凡人にも実感させてくれる、そのようなツールになりうるのかもしれない。
それは、一枚を除いて、すべての写真が、人間によって撮影されたものでない、ということである。
本書に収められた画像は、8頁のアポロ15号の宇宙飛行士が撮影した一枚と、ハッブル宇宙望遠鏡などの天文衛星が撮影した数枚を除くと、ほとんどが惑星探査機によって撮影されている。
この事実が何を意味するのか最初は気づかなかった。ページをめくるたびに信じられないほど美しい宇宙の姿が次々に現れるのに息を呑みながら見続け、そして170頁に達した。
そこには火星の赤茶けた大地と、淡い褐色にかすむ地平線の山々があった。そこから4ページ分の、火星探査車スピリットが写した火星地表の画像は、それまで見てきた、冷たい美しさをたたえた星々とは全く異なる印象を与えるものだった。
この違和感がどこから来たのか、分からないままにさらに先へ読み進むと、ボイジャーやガリレオが撮影した、耐え難いほどに美しい木星や土星の光景が再び繰り広げられていったが、あの4ページ分と同じ印象を与える写真が再び現れることはなかった。
それでようやく気づいた。この本のすべての写真の中で、スピリットが写した数枚だけが、「人間の息づかい」を感じさせたのだ。それは異星の姿というより、地球のどこかの砂漠で、旅行者が撮ったスナップ写真のようだった。
違いが生まれた理由は単純だ。スピリットは火星の地表にあって、人間の目の高さと大体同じ高さから水平に周囲の風景を写し取っていた。つまりその「視線」のありようが人間の肉体のスケールときわめて似通っていたから、写した画像も「人間の肉体を感じさせる」ものになったのだ。
逆に言うと、それ以外の探査機による画像は、人間の肉体性とは異質な、機械という存在の視線が刻印されたものであったのだ。それに気づいた時、この本が今までに世に出た写真集とは全く異質な本であることが理解できた。
この本の写真は、機械だけが到達できる、人間の行くことができない世界で撮影されたものなのだ。もしかしたら、その中には永遠に人間の手が届かない場所さえあるかもしれない。
もちろん今後も有人宇宙活動は続いていくだろう。数十年の間には、有人火星飛行くらいは実現するかもしれない。しかし、同じ期間に惑星探査機がさらに進歩し、今以上に活動の範囲を広げていくことは絶対に間違いない。したがって、宇宙のフロンティアを拓くパイオニアが機械であることは、これからも決して変ることはなく、宇宙飛行士は永遠に機械の後塵を拝する存在でしかないのだ。
そこまで考えたとき、アーサー・C・クラークの序文にある、「これからの時代、鈍く独創性のない者は古く穏やかな地球に残り、真の天才と冒険者が宇宙を舞台に活躍することになるのかもしれない。そしてそこは、肉と血ではなく、機械の領域なのだ」(11頁)という言葉が、初めて現実味を持って感じられた。
興味深いことに本書の終わりで、ローレンス・ウェシュラーが、このクラークの主張を強く否定する文章を寄せている。「私たちがここにいるのは、私たちがここでよく見ていなければ、世界の素晴らしい複雑さが無駄になってしまうからだ。そして、その素晴らしい魅惑的な複雑さを人間が経験するのは、畏怖という感覚――機械や探査機には決して複製できない、まさにその感覚――を通してのことなのである」(318頁)
この対立する見解は、たぶんどちらも正しいのだろう。機械は人間の後継者になるのかもしれず、あるいは最後まで単なる道具にとどまるのかもしれない。しかし、確実なことが一つある。宇宙の中で、人間が生きられる場所はごく一部であり、宇宙の大部分は現在も、これからも機械の領域であるということだ。
この写真集は、そうした、人間の手の届かない無辺の宇宙を孤独に飛び続ける機械たちの存在を、いっとき我々に実感させてくれる。あたかも自分自身が探査機の一つになったかのように。
そう思うとき、今年亡くなった小松左京の最後の長編『虚無回廊』のことを思い出さずにいられない。あの物語の主人公は人工知能を搭載した恒星間探査機であり、まさにクラークが序文で主張したそのままの存在だった。そして同時に、宇宙を目指す人間の意志と情熱を受け継いだ「人工実存」であった。それはクラークとウェシュラーの思想を止揚した存在に他ならず、自らの限りある生を超えて宇宙の真実に迫りたいという小松左京自身の願望を投影した存在だったと、私は解釈している。
本書は、そうした小松左京が晩年に到達した境地を、我々凡人にも実感させてくれる、そのようなツールになりうるのかもしれない。
2005年6月20日に日本でレビュー済み
最先端技術を駆使した望遠鏡や探査衛星でNASAが60年代から昨2004年にかけて撮影してきた太陽系内の星々の写真集です。その美しさに息を呑みます。
この写真集で目にする惑星や衛星を眺めながら私はポロックの絵を想い出していました。
アメリカの画家ジャクソン・ポロッックはアクション・ペインティングという手法を使って偶然が織りなす計算されない美を表現しました。太陽系の星々の表面は多くがクレーターや氷によって覆われ、無秩序と混沌が支配しています。しかしその無秩序の中に、ポロックの絵同様、確かに美が存在しているのです。
ボイジャー1号が捉えた木星の赤道地帯(197~211頁)。渦巻く大赤斑は巨大な水溜りに誰かが―― 人間を超越した誰かが ――絵の具を一滴たらしたかのようです。何者かの手と宇宙とのコラボレーションを感じないではいられません。
一方で土星の環はこれとは対照的に、およそ偶然では成立しないほどの整然とした美しさをたたえています。コンパスを使って思い切り良く一気に描きあげたような円(260~261頁)。自然が設計した幾何学模様を眺めながら私はここにも、こうした美を太陽系の端に置く力をもつ超越した存在を強く感じたのです。
また火星に降り立った探査車スピリットが昨年地球へ送って寄越した火星の地平線写真(172~173頁)を眺めながら、人間の技術力のとどまることのない躍進を思いました。アメリカ中西部にありそうな渇いた褐色の明るい地表は、いつまで眺めていても倦むことがありません。
自然が見せる超越的な美しさ。それを天空にまで手を伸ばして撮ってしまう人間の果てしない可能性。
官能的とすらいえる、美しい写真集です。
この写真集で目にする惑星や衛星を眺めながら私はポロックの絵を想い出していました。
アメリカの画家ジャクソン・ポロッックはアクション・ペインティングという手法を使って偶然が織りなす計算されない美を表現しました。太陽系の星々の表面は多くがクレーターや氷によって覆われ、無秩序と混沌が支配しています。しかしその無秩序の中に、ポロックの絵同様、確かに美が存在しているのです。
ボイジャー1号が捉えた木星の赤道地帯(197~211頁)。渦巻く大赤斑は巨大な水溜りに誰かが―― 人間を超越した誰かが ――絵の具を一滴たらしたかのようです。何者かの手と宇宙とのコラボレーションを感じないではいられません。
一方で土星の環はこれとは対照的に、およそ偶然では成立しないほどの整然とした美しさをたたえています。コンパスを使って思い切り良く一気に描きあげたような円(260~261頁)。自然が設計した幾何学模様を眺めながら私はここにも、こうした美を太陽系の端に置く力をもつ超越した存在を強く感じたのです。
また火星に降り立った探査車スピリットが昨年地球へ送って寄越した火星の地平線写真(172~173頁)を眺めながら、人間の技術力のとどまることのない躍進を思いました。アメリカ中西部にありそうな渇いた褐色の明るい地表は、いつまで眺めていても倦むことがありません。
自然が見せる超越的な美しさ。それを天空にまで手を伸ばして撮ってしまう人間の果てしない可能性。
官能的とすらいえる、美しい写真集です。
2011年10月21日に日本でレビュー済み
惑星探査機によってもたらされた
「リアル」な太陽系の惑星たちの姿と宇宙空間。
作りものではない迫力がここにはあります。
「リアル」な太陽系の惑星たちの姿と宇宙空間。
作りものではない迫力がここにはあります。
2005年5月2日に日本でレビュー済み
自然が織り成す芸術の数々。
それが地球以外にも垣間見ることができます。
NASAに保管されている惑星探査機からの写真の多くが、
大判の写真集によって出版されました。
カラーとモノクロ併せて295枚。
一枚一枚に畏敬の念を感じせずに入られません。
1966年8月25日にルナ・オービターから撮影された『地球の出』から、
(私の生まれる一年前)
2004年5月2、3日の火星探査機オポチュニティまでの40年に及ぶ集大成。
人間にとっては一生に近い時間も、宇宙にとっては一瞬の出来事です。
人類が成し得た遺産のひとつといっても過言ではないでしょうか。
それが地球以外にも垣間見ることができます。
NASAに保管されている惑星探査機からの写真の多くが、
大判の写真集によって出版されました。
カラーとモノクロ併せて295枚。
一枚一枚に畏敬の念を感じせずに入られません。
1966年8月25日にルナ・オービターから撮影された『地球の出』から、
(私の生まれる一年前)
2004年5月2、3日の火星探査機オポチュニティまでの40年に及ぶ集大成。
人間にとっては一生に近い時間も、宇宙にとっては一瞬の出来事です。
人類が成し得た遺産のひとつといっても過言ではないでしょうか。