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コメント: 【除菌クリーニング済】 2008年5月発行 ■帯付き。 若干軽いヨゴレあります。 その他、良好です。 線引き・書き込みありません。
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バーデン・バーデンの夏 単行本 – 2008/5/1

3.8 5つ星のうち3.8 8個の評価

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 新潮社 (2008/5/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2008/5/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 255ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4105900668
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4105900663
  • カスタマーレビュー:
    3.8 5つ星のうち3.8 8個の評価

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レオニード・ツィプキン
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上位レビュー、対象国: 日本

2013年3月7日に日本でレビュー済み
「どうして私は、これほどどうようもなくあの男の生涯に惹きつけられ引き寄せられるの
だろう、私や私の同朋たち[ユダヤ人]を軽蔑していた男なのに(彼が好んだ言い方を
借りれば、『疑いもなく』『分かっていながら』)?……クズネーチヌィ横町の『ドストエフ
スキーの家』博物館やドストエフスキーと関わりのある他の場所を訪ねておきながら、
まるでそこに行ったのは偶然だったかのように、そんなことは大して興味がないといっ
たふうに、少し距離を置き斜めに見るように振る舞っていたのは、まさにそのためでは
ないのか?」――現代用語でいうところの「聖地巡礼」の旅、真冬のソ連、そんな「私」
が傍らに携えるのはかの文豪の妻アンナ・グリゴーリエヴナの日記、彼女が「新婚の
夫とふたり初めての夏を外国で過ごしていたときにつけていた速記による日記を、ふ
つうの文章に直して出版した本」。――夫婦が目指すはドイツの保養地・バーデン・バ
ーデン、テキスト片手にその軌跡を夢想しながら「私」が目指すはレニングラード、そん
な二つの旅が交差して物語は進行する。基本的に本書の中軸を占めるのは夫婦の回
想、いかにもドストエフスキー・オタといった風情の文章、至る所にその作品の断片や
残像をちりばめながら、旅は進む――そうは言ってもハネムーンの甘美さはほぼ皆無、
物書きのはずの夫は筆を握ることさえも放棄して、来る日も来る日もひたすらにギャン
ブルに明け暮れる、向かうはカジノ、ルーレット、ラッキーナンバー「1457」に歩数が合
うよう家を出る、そして負ける、負ける、時々少し勝って、また負ける、原資も尽きる、妻
に頭をひたすら下げて金を用立て、それさえ尽きてドレスや貴金属を質入れ、それでも
夫は日々賭博、旅行の終わり、夫の懇願、最後のお願い、「どうか10フラン、たった10
フランでいいからくれないか、最後にもう一度だけ、本当に一回だけ試してみたい……
こういう機会はもう絶対にない、ここから出ていくのだし、最後の最後にわずかな額で
いいから勝たなくてはならない――勝ちがたった10フランでもいいのだ――君にもらう
のと同じくらいわずかな額でいいんだ、大事なのは、どんなことがあっても勝つ、たとえ
1フランでも損をしないということだ――そうしたら、落ちついた気持ちでここから出て行
ける」――さて男の意地と誇りを賭した最後の希望の結末は――と、ギャンブル小説と
しては紛う方なき一級品、賭博に取り憑かれてしまった人間の病理が実に生々しく、し
かも緊迫感を伴って描写されており、胸高鳴るような面白さに溢れている――が、しか
し、その一方で終始特に内面が深くえぐり込まれるでもない「私」はこの物語に果たし
て本当に必要なのか、はなはだ疑問が残ってしまう、「私」の役割といえば例えば、プ
ーシキンの話をしたい、そうだ、「私」にゆかりの場所を訪れさせてしまえばいい、とい
うご都合主義を成立させるための道具として横たわっているに過ぎない。

 と、ひどく読みづらい嫌がらせのようなこの内容紹介にうんざりした方はたぶん本書を
読むのに向かない。
 ただでさえ切れ目に乏しいロシア文学にあってもこの小説は特殊、「段落はたった11しか
なく、句点(。)も極端に少ない。いくつものダッシュ(――)でつながった文章が何ページも
何ページも続く」本書の文体、訳者曰く「独特で高度に芸術的」らしいが、単に読みづらい
という以上のエフェクトを持つとも思えない。
「この小説の独創性は、ふたつの異なる物語が絡みあい、縒りあわさっている点」というが、
別に物語が交差する構造をもつ小説なんて珍しくもない。そして本書の場合、ただ単に
無理やり押し込まれた挙句、特に双方を取りなす整理が与えられていない、というだけ。
 ただしギャンブル小説としては実に魅力的。はまり込んだが最後、取り返そうという
その思いがもたらす蟻地獄のドツボ感を見事に描き出している。ただし、「芸のためなら
女房も泣かす」の「泣か」される側の心情に肉薄するでもない、当の彼女が記した日記を
ひもといているはずなのに。
 風変わりな奇書好き、好事家の方にはおすすめ。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2012年2月10日に日本でレビュー済み
00 『バーデン・バーデンの夏』のドストエフスキー
    「人間死ななきゃさまにならない」。ドストエフスキーほど死んでさまになった人間もめずらしい。

0 『白痴』のムイシュキン公爵
    哀oTo愛。「なぜ世界の構造は、死を宣告された人々(犠牲)を必要としているのだろうか」
−『白痴』創作ノート。これが『白痴』、さらにはドストエフスキー文学の最大のテーマである。

1 『地下室の手記』の主人公
ヨナの末裔。『地下室の手記』は、ドストエフスキー持前の陰惨と滑稽のバランス感覚が絶妙に
按配された超傑作で、これよりおもしろい人物はこの世に存在しない。

2 『カラマーゾフの兄弟』のイワンの悪魔=スメル・ジヤコフ
ん千年を生き延びてきた由緒正しき古い神(相当くたびれてきているのも事実だが)。ジラールに
言わせると、『悪霊』のステパン氏とスタヴローギンとビョートルは、人間の呪われた欲望の悪魔的
三位一体(イワンの悪魔と大審問官とスメルジャコフ)の方が、より根源的存在である。

3 『罪と罰』のカチェリーナ・イワーノヴナとマルメラードフ
クサンチッペとソクラテス(夫婦の原型)が、19世紀のロシアに現れたら、あんなふうになるのではないか。

4 『悪霊』のステパン氏
知識人の鑑。最期に悔い改めたんだから、地獄行きはないだろう。よく分からないが、ドストエフスキーは、
評論と違って、小説の中では意外に西欧派に点が甘い。『未成年』のヴェルシーロフは、その理想化された
存在の見本である。

5 『カラマーゾフの兄弟』のスネギリョフ二等大尉
「なぜ二等なのだ」
「二等だから二等なのでございます、拝」

話はかわるが、フーデリの『ドストエフスキーの遺産』によると、『罪と罰』はソーニャとラスコーリニコフについての
劇詩である、とドストエフスキーは好んで語ったそうだが、ビーチェがダンテ文学のアルファにしてオメガであるように、
ソーニャはドストエフスキー文学の最初にして最高の達成ではないだろうか。

話はまたかわるが、最近『ヨハネ伝』を読み返してみて、「カナでの婚礼」と「ベトザタの池」の章がすごく印象に残った。
多くの人が指摘するように、『カラマーゾフの兄弟』の「ガリラヤのカナ」の章が、本当にドストエフスキー文学の頂点で
あるのかもしれない。
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2008年7月7日に日本でレビュー済み
 数奇な運命をたどった小説だ。ロシア系ユダヤ人で病理学者であった作者は、ソ連からの亡命を許されず、この小説のみがアメリカに渡り、英訳されて出版されたが、作者はそれを見ることなく亡くなり、作品も話題にならなかった。ところが近年スーザン・ソンタグが古本の中から発掘して絶賛し、新版となって世に出た……という前ふりで、「はいはい、そういう小説なのね」と高を括っていたのだが……素晴らしい小説でした、これ。
 「私」はドストエフスキーの妻アンナが新婚時代に速記でつけていた日記を入手し、これを読みながら汽車の旅をしている。プルーストばりの息の長い文章は、ドレスデンに新婚旅行する25歳差のドストエフスキー夫妻を追うが、「私」の想念は、夫を見つめるアンナ夫人の視線から、窓外の冬景色へ、シベリア流刑時代のドストエフスキーへ、ドレスデンの絵画館の「サン・シストの聖母」の前へ、時間軸も空間軸も自在に移動する。バーデン・バーデンでの賭博熱、ツルゲーネフとの確執、周囲のドイツ人たちへの苛立ち……天才作家の姿は息詰まるまでに生々しくリアルだ。そして、夫の全てを包んで受け入れるアンナ。
 作者は、あれほど弱者の側に立ち続けたドストエフスキーの、理不尽なまでに紋切型なユダヤ人差別を理解できない。なのに彼に惹かれ続け、作品のページをめくり続ける。その作者の姿が、アンナの姿に重なる。これは、ドストエフスキーを愛さずにはいられない人のための物語なのだ。
 「サン・シストの聖母」の複製画のかかった部屋のソファーでのドストエフスキーの死と、記念館となったその部屋を訪ねる「私」の重なるラストまで、幸せに貫かれて一気に読んだ。
 134ページの、ドストエフスキー文学に対する考察は胸をうつ。そんな夫への夫人の献身的な愛に触れ、ドストフエスキーがなぜイワン・カラマーゾフだけでなくゾシマ長老やアリョーシャを生み出したのかが実感できた。
25人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2008年5月29日に日本でレビュー済み
借金取りから逃れるためにヨーロッパを旅するドストエフスキー。彼と旅をする最後の妻アンナ。そのアンナの日記を懐に、文豪の描いた街を彷徨う私。これらの視点が交錯しつつも連綿と、ほとんど改行のない文章に綴られている。所謂、前衛文学のスタイルだが、そうした印象は読む限り些かもない。ダッシュで繋げられる文章は、地に沁みる水のように読者の中に入ってくる不思議にリーダブルなものであり、小説を読む喜びに充たされるという気がする。
ドストエフスキーの生活者としての過剰が、若い妻の日記と「私」を介して、ほとんど痛ましいまでに続いていくが、私の彷徨には、文豪への限りない敬愛と文豪の思想(反ユダヤ主義)への複雑な思いが交錯し、それもまた独特の哀切とユーモアさえ醸し出している。「私」はユダヤ人である(著者も)。

巻末には、このソヴィエト時代の流通せざる傑作の発見者、スーザン・ソンタグの遺稿が掲載されている。この解説は文章としてはそれほど面白いものではないが、未知の作家の経歴や本書創作のあれこれが書いてあって参考にはなる。ソンタグの手放しのオマージュも微笑ましい。
20人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート