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戦後教育で失われたもの (新潮新書 129) 新書 – 2005/8/1
- 本の長さ203ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2005/8/1
- ISBN-104106101297
- ISBN-13978-4106101298
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商品の説明
著者からのコメント
さて、本書を書き終えて今更ながらに感じたことは、学校や教育を取り巻く言論におけるリアリズムの欠如でした。
子ども達の学力が下がりつづけていた1990年代には「偏差値教育が子どもを傷つけている」という主張が真顔でされていました。
不登校児の家庭内暴力で親が手を焼いているときに「管理主義的な学校に通える子ども達のほうがどうかしている」という言論が勢いを得た時期もありました。
読んだこともない歴史教科書を「戦争を賛美する教科書だ」と思い込み、採択反対運動ビラを配っている教員は今でも大勢います。
思えば日本人がリアリズムを失ったのは日中戦争から対米戦争そして敗戦へと向う時でした。
戦略なき戦争と日本社会全体を覆った精神主義。本書を書くにあたって、戦時の学校や社会を改めて調査し、本当に暗澹たる思いがしました(だからと言って、先の戦争が無意味だった訳でも、日本だけが悪かった訳でもありませんが)。
戦後教育を肯定する人達は、「戦後教育は戦前・戦中教育の反省から生まれた」と言います。
しかし私には、戦後教育は日本人が先の戦争中に失ったリアリズムさえ、取り戻そうとしていない、と思えてなりません。
本書が、教育を巡る議論をリアルなものにし、多くの日本人を戦中・戦後教育の呪縛から解き放つ一助になれば望外の幸せです。
登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2005/8/1)
- 発売日 : 2005/8/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 203ページ
- ISBN-10 : 4106101297
- ISBN-13 : 978-4106101298
- Amazon 売れ筋ランキング: - 407,719位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
1960(昭和35)年大阪府生まれ。教育評論家。東京都職員。
中央大学法学部卒。佛教大学修士課程(通信)教育学研究科修了。
95年~05年まで都内公立学校に勤務。
著書に『偏差値は子どもを救う』『授業の復権』『戦後教育で失われたもの』『いじめの構造』などがある。
徒党を組まない保守派。紙媒体ではじめてスクールカーストに言及した。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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GHQによる黒塗り教科書は精神的虐待である、(旧)教育基本法が「戦後のダメ民主教育」の元凶、己を知ることが大事、不条理を認める学校文化、特に部活動の存在意義、「仰げば尊し」の2題目を堂々と歌えなくては自主的な学習姿勢が身につかない、などなど。
そして、いじめの存在を子供社会に前提としてあるものとして捉え、暴力を伴うものは司法にゆだねる他は、子供達の力で乗り越えよというくだりは、説得力があると感じた。
己を知る謙虚さ
全員百点の学校は理想的か?
満点主義から難問主義へ
中学校で増える不登校
学力テスト復活の見識
勉強だけではない競争の排除
都市伝説手を繋いでゴール
努力も実力も認めてくれない
最も公正な偏差値競争
人はなぜ偏差値を憎むのか
自分の力を正しく知る一歩
宿命を受け入れる潔さ
不平等社会論のいかがわしさ
結果の平等は見果てぬ夢
公立学校にお客さんはいない
金八先生はいい先生か
分配の不平等を責めない不平等社会論者
年収差よりも大きな様々な格差
親は子どもにとって宿命である
低学力は親の年収のせいではない
100円で構築できる学力の基礎
仰げば尊しの2番を歌えますか
不条理を生きぬく図太さ
戦後教育は誰を不幸にしたのか
新老人は尊敬されない
醜い戦後教育の申し子
中高年の離婚は必然だが……
負け犬増加も当たり前
不登校の末のニート・フリーター
合理性や正しさは人を幸せにしない
脱線事故は誰の責任か
ホリエモンが挑んだもの
共同体教育の場が消えた
通過儀礼としての学校
ニートとNEETは別ものである
ニートこそ正しい生き方である
正しくない親が子どもを救う
教師に職業教育をやらせるな
日本人であることの誇り
誰も知らない教育の民主化
GHQは何に墨を塗らせたか
武士は軍人ではない
習俗にもバンザイにも墨が塗られた
なぜ日本だけが全否定されたのか
教育基本法と教育勅語は別ものである
大御心信仰なき現代に教育勅語の復活はない
教育基本法改正でできることとできないこと
戦後教育と戦中教育は相似の奇形である
教育基本法により教師は神になった
教育基本法は改正ではなく廃止こそふさわしい
現場を敵に回すな
若手教師の内面は知識で変わる
悪制の中にも人士あり
辛く険しいけれど近い道のり
大人を取り戻すために
30人学級は学校を滅ぼす
学力と生徒数は無関係
誰が子どもを大人にするのか
人はいかにして幼稚になるか
常に主役でいたがる
親と学校ができるほんの小さなこと
競争を是とする
人権という言葉を使わない
いじめのある学校を認める
祭に参加する
デモクラシーの奥義を開陳する
やりたいことを探させない
凡人による凡人のための教育論
あとがき
参考文献
巻末資料
教育に差別を持ち込むことはそんなにいいことなのか?
「宿命は潔く受け入れる」という言葉と「日本人であることに誇りを持つ」は明らかに矛盾ではないだろうか?
例えば、母子家庭でさらに母親が教育に関心のない家庭において、子どもはこの状況を仕方ないとし、潔く自分のおかれている状況を受け入れられたとする。しかし、その子どもが、学校で愛国心教育を受けたからといって、自分の国が好きになれるか?そもそも、家庭での「共同体教育」が満足でない、自分の親すら愛せない子どもが、学校における「共同体教育」で自分の国を愛せますか?甚だ疑問です。もっと子どもの目線に立って議論を進めてください。子どもの人権、ニートに議論においても同様です。特に人権のところでは、子どもの権利条約をもう今一度確認してほしいです(子どもの権利条約自体の問題点もありますが…)。
最後に今の学校を「青少年用保育園」と称し、全く「学校」としての機能を果たしていないと書かれていることに対して。現場の先生方は、自らの教育信念に基づいて児童・生徒と格闘しています。現場に転がる教育問題には、虎の巻がありません。日々尽力している多くの先生方、そして学校を「保育園」と称したことについて謝罪していただきたいです。
勢い余って、教育論として肝心の客観性が失われているように感じられました。
熱い思いは教育に必要なことと察しますが
出版の際はもう少し冷静に対応されるべきかと思います。
出版されるにあたり、原稿を少し寝かせて読み直してから世に出された方が
よかったのではないかと、素人ながらに思わせる内容でした。
着眼点や方向づけなど、有意義なところも多いだけに、もったいないと思いました。
読後感としては、総じて“微妙”な感じです・・・。
最初は真面目な教育に物申す内容かと思ったら、後半愚痴が多くなった。著者は東京都職員→学校に転出→東京都職員、という変わった経歴。戦後の緩い教育では、”真っ当な大人”はできない、と警鐘を鳴らす。その中でも「失われたもの」として、競争を挙げている。確かに、全員手を繋いでゴール神話のように、結果の平等ではなく、機会の平等を目指すべきだろう。私が当時通っていた塾では、成績順に名前が貼り出されていた。自分の無力を噛みしめつつも、その透明性には納得感があり、次頑張ろうと競争意欲が沸いたのを思い出した。
第一章 「己」を知る謙虚さ
第二章 「宿命」を受け入れる潔さ
第三章 「不条理」を生きぬく図太さ
第四章 「日本人」であることの誇り
第五章 「大人」を取り戻すために
著者は大阪府(1960年)生まれ。本書執筆時点では東京都職員。中央大学法学部卒業。佛教大学大学院通信教育部教育学研究科修士課程修了。都内の小学校に転出(95年,35歳)。「影山ヒロノブや高崎晃とは中学校の同級生」(wiki)。評者未読の『偏差値は子どもを救う』,『授業の復権』など。本書が典拠となって,「小学校時代には低学力児童のための学級(小学校3〜4年の時、促進学級)に[森口が]入っていた」とWikiには記載されているが,私にはその記述がどこにあったのか記憶にない。もういっぺん読み返す暇もないので,読者諸兄がご一読いただき,ご確認とご報告をお願いしたい。
本書題名の「戦後教育で失われたもの」が,目次に列挙されている「謙虚さ」「潔さ」「図太さ」「誇り」。要旨は(左傾していた)戦後教育批判,戦後の平等教育の弊害批判。著者の履歴も知らず,タイトルだけでどうせしょうもない本だろうと高を括って勢いで購入した。しかし,都庁勤務で小学校に出向し,通信教育で教職免許を取って,職員室の内情を観察し,観察言明を文書化したら,「学校から追い払われてしまいました」(158頁)という著者の議論には,教育現場で奮闘した跡が刻まれていた。右翼が左翼を批判する時に,「徒競争,全員両手を繋いでゴールイン」というのは,捏造された都市伝説だったらしい(すくなくとも,森口は見たことがないらしい)。私は本当かと思っていたよ。「白雪姫と7人の小人」で白雪姫が8人登場というのも,都市伝説なんだろうか? (ちなみに,給食費踏倒し保護者はどうもいるらしい。)
著者が子供は親の相同形だと言うのは,統計的に有意という意味で正しいと思う。生物学的にも環境的にも,遺伝的要素は否定できない。これを跳ね返せるのは,よほど資質に恵まれた(もしくは恵まれない)子だ。浅薄なメディアを妄信して教育批判をPTA総会で大声で賜る親の子は,十中八九,バカか不登校かしゃべるサルである。疑うむきがあれば,保護者のふりして学校に紛れ込めば,それはよくわかるだろう。
過激な,三浦展『下流大学が日本を滅ぼす!』,諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?』,表現は温和だが主張内容的には三浦と諏訪に比肩する永谷敬三『経済学で読み解く教育問題』,荒井一博『学歴社会の法則』,学習意欲のない層には決して近寄らない和田秀樹『受験に強い子をつくる!』,井上修『私立中高一貫校しかない!』をつらつら読んできた評者としては,森口の憂鬱はよく理解できる。実際に,日本の普通の教育環境で教室にいただけの人材は役に立たない。その証拠に,ユニクロや楽天などの新興資本は大々的に,ローソンや日本的経営の取材先となっていたパナソニック(松下電器産業,当時)はこっそり,外国人採用枠を拡大している。相対的にだが,日本企業は日本人を雇わなくなっている。これから20年以内に,日本では非日本人による社会運営(と会社経営)が重みを増すだろう。政府は外国人を移民として歓迎するだろう。アメリカの80年代前半が日本国内で再現するだろう。
森口は,将来の(若き)日本人が困窮する事態を回避したいと願っているのではあるまいか。もしそうだとしたら,憂国の身の端くれとして私も同感だ。
(1405字)