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オタクはすでに死んでいる (新潮新書 258) 新書 – 2008/4/15
- 本の長さ190ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2008/4/15
- ISBN-104106102587
- ISBN-13978-4106102585
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商品の説明
抜粋
この本は「オタクと昭和の死」についての本です。
このテーマについて最初に語ったのは、二年ほど前。あるイベントでのことでした。イベントのタイトルは「オタク・イズ・デッド」、つまり「オタクは死んだ」。二〇〇六年五月二十四日に東京新宿のロフト・プラスワンという会場でのトーク・イベントでした。
私は「オタキング」などと呼ばれ、世間やマスコミからはいわばオタクの代表みたいに思われている人間です。『オタク学入門』『東大オタク学講座』『オタク論!』などオタクに関する著作も多く、東京大学でもオタクをテーマにした講義を開きました。また、MIT(マサチューセッツ工科大学)など海外での講義や講演もこなし、タイム誌やパリ・マッチ誌などでも「オタクの代表」として取り上げられています。
そのオタキング自身が「オタクはもう死んでしまった」と宣言したのです。私の発言はかなりの衝撃と賛否両論の大激論を巻き起こしました。
しかし、それだけの話なら、この前書きを読んでくれている皆さんには関係ない話です。オタク業界がどんな騒ぎになろうとも、ネットやブログ世界でどんな大激論になろうとも、一般社会には関係ない。そう考える人がいるかもしれません。
でも、死んだのはオタクだけではないのです。オタクが成立するためには「高度消費社会」と「勤勉な国民性」の両立が不可欠です。つまり昭和後期型、言い換えると第二次大戦以降の日本という国自体がオタクを生んだ、と私は考えています。そのオタクが死んだと言うことは、消費社会と国民性の二つともが失われてしまった。
「失われた」というと否定的ニュアンスが強すぎるので、日本人は消費や勤勉の向こうにある、誰も知らない次のステージに入ってしまった。
つまり、「昭和は死んだ」ということになります。
このことに果たして、私たちは気づいているのでしょうか?
現在の日本社会のインフラや社会システムの大部分は「国民とは昭和時代の日本人である」という大前提で構築されています。
良く働き、良く貯金し、新製品や贅沢品に飛びつき、老後は年金や退職金で平和に過ごす人たち。
世界でも有数の「離婚率の低い国」であり、子供たちは受験戦争を勝ち抜く戦士であり、画一化と揶揄されるほどの総中流社会。
そんな日本は、もうどこにもありません。システムが変わったのではなく、私たち一人一人が、今やそういう「昭和の日本人」ではなくなってしまったからです。
「最近の若者は不気味だ」「理解できない」という人がいます。とんでもない。私たちがわからない、理解できないのは「最近の私たち自身」です。「昭和の日本人」ではなくなってしまった、自分自身ははたして何なのか?
いつの間に「働くのは損」と考えてしまっているのか?いつの間に「ずっと子供でいられるのが幸福」と教えてしまっているのか?いつの間に「自分を守ってくれるのは自分だけ」と身構えてしまうようになったのか?
昭和が死んで、次のステージに入ったことを、なぜ誰も教えてくれなかったのか?
この本は、イベントで語った内容に大幅に加筆・訂正を加えて、書き下ろしました。もともとが「オタク向けの発言」なので、かなりマニアックな言い回しや例示も多く登場します。注意していただきたいのは、そういう「オタク内部の話題」をメインに進めるからと言って、「自分には関係ない」と決めつけないでいただきたいのです。
「昭和の死」「日本の変化」という問題自身、大きすぎて語ることも受け取ることも不可能である、と私は考えます。一人の人間のキャパシティとして、「大きすぎる問題定義」は受け取れない。受け取るためにはそれぞれの事象を単純化・モデル化して扱うしかないけど、単純化すると単なる「昔はよかった」「最近の若者はケシカラン」という意味のない繰り言になってしまう。
なので、もっと扱いやすいサイズの問題を軸に論を進めたいと思います。「日本人論」としては巨大すぎて語ることも受け取ることもできない問題だけど、「オタク論」というパーソナルで卑小な切り口なら、抽象的な話やお説教に逃げ込まずに語ることができる。そう考えて、本書を執筆しました。
オタクは死んで、昭和も死んで、それでも私たちは生き続けなければいけません。
最初は「オタクが変わってきた」という話であり、それは次第に「オタクを生み出した土壌である日本の変化」へと繋がり、最後には「その中で私たちオタクや非オタク、つまり日本人はどう生きればいいのか」までかろうじて視野に入れながら話を進めたいと思います。
いえ、話を急ぐべきではありませんでした。
まずは、身近な変化、私個人の体験したほんの小さな違和感からはじめましょう。
著者について
登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2008/4/15)
- 発売日 : 2008/4/15
- 言語 : 日本語
- 新書 : 190ページ
- ISBN-10 : 4106102587
- ISBN-13 : 978-4106102585
- Amazon 売れ筋ランキング: - 93,008位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
1958年大阪生まれ。85年、アニメ・ゲーム制作会社ガイナックスを設立。代表取締役として「王立宇宙軍―オネアミスの翼」「ふしぎの海のナディア」な ど数々の名作を世に送る。92年退社。「オタキング」の名で広く親しまれ、「BSマンガ夜話」「BSアニメ夜話」のレギュラーとしても知られる。大阪芸術 大学客員教授(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『遺言』(ISBN-10:4480864059)が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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現在そこへの高い敷居は取り払われ、オタクというグループでなく、個々のアイデンティティを追うようになってしまった。
筆者の実感、経験に基づき語る「オタク」の終焉。
かつての日本のSFの状況に重ね合わせて描く、オタクの歴史は見事!
•テーマの「オタクの死」について
これはオタク文化の死なのか、オタクというパーソナリティの死亡なのかというと、後者について書かれたものである。
かつてオタクが好んだ漫画やアニメ、ニッチな映画や演劇といった文化は衰退するどころか増える一方であるし、そのクオリティも平均点は上がり続けている。だがそれを見る側の数が増えすぎて平均的なクオリティというか知性は下がっているかもね。まぁ仕方ないし悪い事ばかりじゃないよね。という話だと思う。
オタク第一世代というのは、著者が書いているように、自分の知的好奇心を最優先させて人生に道を見つけるものだ。
したがって、自分がオタクとしてどう位置付けられているかは別に気にしない。それが多分、この本を読むのが十年も遅くなった理由だと思う。
自分の指向によって道を進むのだから、他人との差異を気にしたりしないし、自分がオタクと呼ばれるものであるかどうかさえ本当はどうでもいい。
しかし、文化論として読むならば、この本に書かれていることは実に面白いことだ。
とても分かりやすい文章で、日本の文化論になっているし、自分たちがこれから直面するだろう問題まで説明している。
僕は世代論というものにはあまり興味はなかったが、この本は世代交代の本質的なことまで説明してくれていると思う。
遅くなっても読んだ価値があった。東大で講義したのは自分のアドバンテージのためなんていう本音にも親しみを感じる。
特に面白かった部分のひとつを挙げると、僕は日本のSFが20世紀末から衰退したのはなぜか、常々疑問に思っていたのだが、
その疑問に正面から答えている一章があって驚いたほどだ。
オタクの原型はかつてのSFファンダムにあったのだから、ここで取り上げられていて不思議はないが。
今もSF小説というのはたくさん書かれているが、モノによっては文章で二次元創作物のビジュアルに対抗しようとしていて、
痛々しいくらいのものもあるので著者の説明には納得した。
冒頭で書いたように、オタクではあってもオタクそのものには興味はないので、岡田氏の今後の著作に触れる機会があるかわからないが、
オタクの末路まで見届けるくらいは長生きしたいと思う。
昔は「俺ってアニメとか好きなんだけど」とか恥ずかしくて死んでも世間様の前では口に出来なかったのです。
ところが今はけっこう周りで耳にします。
そんな風潮に「いい世の中になった」と思う反面、奇妙な違和感も感じていました。
その理由がこの本には記されています。
少年の頃ウテナやエヴァやナデシコに胸を熱くして、そのままおっさんになってしまった人にはぜひ読んでほしい一冊です。
動画も検索すればすぐに見つかるでしょう
オタキング(元)と、オタクの王を自称する岡田斗司夫さんほどの人物が
オタクは死んだと宣言するまでのことが日本に起こりました。
これはオタクと呼ばれる人だけの問題ではなく、
オタクの第一人者の視点でしか発見し得なかった、私達が今直面している
日本という国の時代の移り変わりの話です
巻末の「オタクたちへ」の文章は是非読むべき
一人の人間の生きた時代が死んだのだということが読後伝わるはずです
社会の死を見ただけで、これほど感動することはできません あまりに対象が大きすぎるからです
オタクを作り出しオタクの死を宣言した岡田さんの目を通して時代の終わりを体験して欲しい
岡田斗司夫さんが涙しながら語ったその理由を
それまでネガティブなイメージで受け取られることの多かったオタクの存在を「進化した視覚を持つ人間」と定義し、
日本の誇れる文化ですらあることを強調した筆者。
オタクが、傍目には社会に受け入れられてきた2008年に書かれたのがこの本だ。
タイトルからしてふざけている…というのは冗談だが、
自らオタクであることを自認し、「オタクはすごいんだ」と言い続けてきた人とは思えないテーマである。
では何をもって筆者は、このような本を書いたのか。
本の中では、まず触れられているのが、筆者が感じた違和感だ。
それはテレビ番組での収録でオタクとして登場してきた人に対する印象が大きかったという。
筆者の考えるオタクとは「何かを『好き』という気持ちを抑えきれずに人に伝えてしまう人」であったが
テレビ番組でオタクとされている人に触れてみると「自分が楽しいのが大事」というように、
尺度が個人の満足度になってしまったことをあげている。
その変質をもって筆者は「オタクは死んだ」というアングルを持ち、
オタクという言葉で定義してきたものが変質したことを分析していく。
この本の優れているのは、具体的な切り口としてはあくまでオタクではあるが、
筆者が捉えているのは、それを通してみる時代の変化であり、
「オタクの死」を「昭和の終焉」として見ているところ。
ひとつの共同体験から、コミュニティが生まれ、そこに文化としての発展があった昭和。
それに対して現在は、ネットなどを通して時間軸、評価軸を失い、
個々がバラバラに好きなものを楽しむ時代になったこと。
リアルタイムにおける共同体験の消失が、
他者との結びつきを解体し、文化としての発展よりも個の満足を追い求めるようになっていったなど。
それは個人が自由に好きなものを楽しめることでもあるのだが、
一緒に苦楽を乗り越えていく仲間の消失でもあると。
現代社会の変質を客観的に、そしてその変化を肉親を失ったかのようなさびしさで語る。
この本の執筆時点から、SNSなどの台頭により
また時代は変化を続けていると思う。
続けて筆者の本を追いかけてみたい。