戦後まもない昭和二十四年青森で起きた弘前大学教授婦人殺人事件で、無実の罪で有罪判決を受け刑に服し、出所後真犯人の登場により冤罪が証明され、晴れて名誉を回復することになった那須隆氏の、運命に翻弄される事件の顛末を綴るノンフィクション作品。
色々考えさせられたが、3つのことを挙げたい。
まず思い知らされるのは、時間の経過の重さである。
逮捕から入獄までの裁判に費やされた3年、11年の刑期を終えての仮出所、それから8年後の真犯人の登場。さらに6年を経ての再審無罪判決の裁定。逮捕から名誉回復まで、実に28年の歳月が経過しているのである。その間に実父は他界し、生まれ育った家屋敷も裁判費用の工面のため手放されていた。
そして、時効成立後に名乗り出た真犯人に対して母と子は感謝の言葉さえ掛けるのである。
無罪の叫びは28年間絶えることは無かったが、その声の苛烈さは時の経過と共に、あたかも割れたガラスの鋭い切口も長い年月打ち寄せる波に磨耗するように、弱まって行った。当初は無実の罪で刑に服することの理不尽さへの身悶えるような抵抗であったものが、いつしか名誉さえ回復されればそれで良しとする慎ましい思いにまで変わっていた。主役の那須氏の事件前の20代の写真が巻頭に、再審判決後の50代の写真が巻末にあるが、時の経過の長さをまざまざと示し、冤罪の重さを痛切に物語っている。
短い我々の人生において、10年、20年というのは取り返しのつかない、かけがえの無い年月なのである。
2つ目は、法廷闘争のあり方である。当の那須氏も語るように、裁判において被告弁護団の追及が甘かったのではないかという懸念である。実は、当初から真犯人である「滝谷」は捜査線上に浮かんでおり、弁護側もそれは知っていた筈である(那須の母親はそれを終始一貫強く疑っていた)。であれば、弁護団は滝谷のアリバイについて、もっと追究すべきだったのではないか?(小説などを援用して恐縮だが、英国法廷小説のヒーローたる法廷弁護士ランポールなら、滝谷のアリバイを支える人物が滝谷の親と仕事上の利害関係があることを論って、弁護をもっと有利に進められたのでは無かろうか?などと思ってしまう)
法廷とは、戦いの場であり、真実が勝利するのではなく、勝利したものが真実とされる場なのだという、リアリズム(現実主義)が弁護側に欠けていたように思う。なぜなら、「足利事件」や、つい昨年起きた厚生労働省の郵便不正事件での、検察の「暴走」は、何も今に始まったことではなく、また検察に特有の悪弊というわけではなく「組織」というもののもつ普遍的な宿あと言えよう。であればそれをいくら批判した所で是正を期待する方が無理な注文で、さすれば戦う側がそれを前提に戦に挑むしかないわけで、法廷闘争に於ける「戦略」の重要性が再認識されるべきである。
さらに言えば、現在施行されている裁判員制度は、まさにこの法廷闘争の本来的意味を支持するものであり、判決は「お上」(裁判官や検察)が下すものではなく、「公衆の良識」(裁判員)の判断に帰すべきものである、という点で望ましいものと言えよう。
最後に痛感したのは、やはり「組織の論理」の嫌らしさである。ここで明らかになるのは、検察という組織の論理の嫌らしさだが、何もそれは検察に特有のものという訳ではなく、全ての組織が内包する悪弊としての、自己保存の論理である。それは、被害者である教授の属する弘前大学とその医学部という組織にもあったことが窺われる。
当時の学長である丸井教授による、今考えれば噴飯ものとしか考えられない「変態性欲患者」などという精神鑑定一つを取ってみても、被害教授の気持ちにむくいるためにも、事件を迷宮入りさせることは出来ないとの大学の思いが、強引に決着をつけるべく生贄として被告「那須氏」を犯人として血祭りに挙げた、とも言えそうだ。
それにしても、血痕鑑定の世界的権威「古畑東大教授」の、「他人にはできなくとも、自分ならこれだけ微量でも血液鑑定が出来る」と豪語した自信が、科学の名の下に裁判の流れを大きく歪めてしまった事には、その代償の大きさゆえに何とも言えず、やりきれない思いにさせられてしまう(H23.4.23)。
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冤罪の軌跡: 弘前大学教授夫人殺害事件 (新潮新書 402) 新書 – 2011/1/1
井上 安正
(著)
警察のストーリー通りの調書と、疑惑の証拠鑑定によって、二五歳の青年は殺人犯にされてしまった。判決が確定し、服役も終えた後、真犯人が名乗り出てきたことで、時計の針は再び動き始めたのだが......司法の不条理に青年と家族はどのように立ち向かったのか。過ちはいつまで繰り返されるのか。戦後日本の冤罪事件の原点、弘前大学教授夫人殺害事件の顛末を新資料を盛り込んで描き出す、迫真のノンフィクション。
- 本の長さ207ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2011/1/1
- ISBN-104106104024
- ISBN-13978-4106104022
商品の説明
著者について
井上安正 1944(昭和19)年栃木県生まれ。中央大学法学部卒。読売新聞で長年事件取材に携わる。本書の主題となった弘前大学教授夫人殺害事件の取材で、日本新聞協会賞、菊池寛賞を受賞。社会部長、西部本社取締役編集局長、報知新聞顧問を経て退社。著書に『検証!事件報道』など。
登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2011/1/1)
- 発売日 : 2011/1/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 207ページ
- ISBN-10 : 4106104024
- ISBN-13 : 978-4106104022
- Amazon 売れ筋ランキング: - 39,282位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年10月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
警察や検事に893みたいなのがいると冤罪は作られるんですね.冤罪事件に関わっている若い弁護士に勧めました.早速買ったそうです.「この事件知りませんでした.参考になりました.」と言っていました.
2011年3月12日に日本でレビュー済み
冤罪についての書は、人並み以上に読んでいるつもりだが、常に捜査側に都合の良いミスリードと、その延長として起訴・公判維持する検察、科学的証拠に基づかずとも状況証拠や創られた証拠・自白などによって有罪判決を記す裁判官、それらを疑う事をせず、時には犯人像を創り上げて援護するメディア、それを無批判に信ずる一般の人々によって、創られ、冤罪確定後も風評として被害者を苦しめる構図はどれも同じだ。
狭山事件や和歌山カレー事件のように、ガサ入れを執拗に何度もかけた後に、突然重大な証拠となる脅迫状を書いたとされる万年筆や、ヒ素付着のタッパーが発見されている。
本件でも返り血を浴びたとされる海軍シャツと白ズックは、血痕を創作された。
しかも事件直後の8月24日に帯灰暗色であったものが、1年後に赤褐色と鮮やかな色となって。
更にたった15分程の健診による、極めて意図的な精神鑑定によって、何の前歴も徴候もないにもかかわらず変態性欲者でサディストと鑑定書に記載されてしまう。
それでも1審では無罪判決が出るが、裁判長が多忙なあまり、判決理由を「その証明充分ならず」とたった2行で済ましてしまった為、控訴審で覆る結果となってしまった。
法医学は比較的新しい「誤審を防止する」学問とされ、その使命は当時、裁く側に協力して国家に奉仕する国家学としての進歩=社会の治安維持の為の公安医学であり、無辜の救済の為の学問ではなかった。
東大の権威者であった古畑教授もそれを公言したが、本件を含め、氏の血液鑑定が有力なキメ手となって被告人に殺刑が宣告され確定している財田川・島田・松山の3大冤罪事件については、ご存じのように再審無罪となっている。
ちなみに現在でもDNA鑑定は、容疑者が真犯人でない事は証明できるが、鑑定結果をもって真犯人を特定するものではないとされる。
その後時効もあり、真犯人が名乗り出るも、その供述を「真犯人でなければ、到底供述し得ないものと断定できるほどのものとは認められなかった。」と再審請求棄却されるも、「疑わしきは罰せず」の法理を再審請求にも適応するべく弁護団が熱意を持って異議申立を行う中、「もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、果たしてその確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から、当の証拠と他の全証拠と総合的に評価して判断すべきである」との「白鳥決定」が出され、事実調べ・出張証拠人調べが開始され、再審が開始された。
再審では、血液・精神鑑定は、「無価値」と判断され、4回の公判をもって無罪判定が下る。
その間も特別抗告の可能性を探り、結審の引き延ばしを図った検察側の姿勢についても忘れてはならない。
それで一件落着したわけではなく、拘禁生活の刑事補償と、費用補償請求、国家賠償請求も行われたが、当時の補償額は¥3200/日であり(現在は最高限度額¥1万2500)、国賠は¥9700万の請求に対し、¥960万しか認められなかった。
真犯人出現から辿っても、再審無罪の判決を得るまで約6年、国賠が最高裁で確定するまで19年の月日が流れた。
事件から41年。
そしてその死に際しても、残された妹や弟が再びメディア取材の渦中に引き込まれる事を案じ、「私が死んでも、誰にも知らせないでほしい。」ときつく言い残さざるをえなかった冤罪被害者の那須氏。
同じく冤罪被害者の免田氏は、今も「本当は免田が犯人」との風評があり、郷里には住めない。
その人や家族の一生を台無しにする冤罪について、もっともっと人口に膾炙し、撲滅される事を願わずにいられない。
狭山事件や和歌山カレー事件のように、ガサ入れを執拗に何度もかけた後に、突然重大な証拠となる脅迫状を書いたとされる万年筆や、ヒ素付着のタッパーが発見されている。
本件でも返り血を浴びたとされる海軍シャツと白ズックは、血痕を創作された。
しかも事件直後の8月24日に帯灰暗色であったものが、1年後に赤褐色と鮮やかな色となって。
更にたった15分程の健診による、極めて意図的な精神鑑定によって、何の前歴も徴候もないにもかかわらず変態性欲者でサディストと鑑定書に記載されてしまう。
それでも1審では無罪判決が出るが、裁判長が多忙なあまり、判決理由を「その証明充分ならず」とたった2行で済ましてしまった為、控訴審で覆る結果となってしまった。
法医学は比較的新しい「誤審を防止する」学問とされ、その使命は当時、裁く側に協力して国家に奉仕する国家学としての進歩=社会の治安維持の為の公安医学であり、無辜の救済の為の学問ではなかった。
東大の権威者であった古畑教授もそれを公言したが、本件を含め、氏の血液鑑定が有力なキメ手となって被告人に殺刑が宣告され確定している財田川・島田・松山の3大冤罪事件については、ご存じのように再審無罪となっている。
ちなみに現在でもDNA鑑定は、容疑者が真犯人でない事は証明できるが、鑑定結果をもって真犯人を特定するものではないとされる。
その後時効もあり、真犯人が名乗り出るも、その供述を「真犯人でなければ、到底供述し得ないものと断定できるほどのものとは認められなかった。」と再審請求棄却されるも、「疑わしきは罰せず」の法理を再審請求にも適応するべく弁護団が熱意を持って異議申立を行う中、「もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、果たしてその確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から、当の証拠と他の全証拠と総合的に評価して判断すべきである」との「白鳥決定」が出され、事実調べ・出張証拠人調べが開始され、再審が開始された。
再審では、血液・精神鑑定は、「無価値」と判断され、4回の公判をもって無罪判定が下る。
その間も特別抗告の可能性を探り、結審の引き延ばしを図った検察側の姿勢についても忘れてはならない。
それで一件落着したわけではなく、拘禁生活の刑事補償と、費用補償請求、国家賠償請求も行われたが、当時の補償額は¥3200/日であり(現在は最高限度額¥1万2500)、国賠は¥9700万の請求に対し、¥960万しか認められなかった。
真犯人出現から辿っても、再審無罪の判決を得るまで約6年、国賠が最高裁で確定するまで19年の月日が流れた。
事件から41年。
そしてその死に際しても、残された妹や弟が再びメディア取材の渦中に引き込まれる事を案じ、「私が死んでも、誰にも知らせないでほしい。」ときつく言い残さざるをえなかった冤罪被害者の那須氏。
同じく冤罪被害者の免田氏は、今も「本当は免田が犯人」との風評があり、郷里には住めない。
その人や家族の一生を台無しにする冤罪について、もっともっと人口に膾炙し、撲滅される事を願わずにいられない。
2011年3月21日に日本でレビュー済み
本書は、冤罪事件の原点ともいえる「弘前大学教授夫人殺害事件」について、事件発生から、逮捕・拘留、訴訟、服役、そして真犯人登場、再審までを時系列に記述しています。
事件発生は1949年(昭和24年)であり、戦後の雰囲気を色濃く残した時代、仮釈放は1963年(昭和38年)、真犯人が名乗り出たのが1971年(昭和46年)、そして再審決定が1976年(昭和51年)であり、そんなにも長い期間、冤罪の被害者とその家族の運命は大きな影響を受け、人生が狂わされてしまったことを実感できます。
このような人権に影響を与える捜査や裁判が突き詰めてみると、(悪名高い)古畑鑑定の1点だけに依存していたことには驚きます。
鑑定の資料である血液は極めて微量であり正確な鑑定ができないことや、資料に不自然な点が多かったことは当時の関係者でも容易に判断できたと思います。
にもかかわらず、古畑本人は「他の方なら不可能かも知れません。しかし私なら可能です」と言い放ち、検察は「古畑種基は法医学者として特に血液に関しては日本の、否、世界の権威であります」と古畑をもちあげるのです。
傲慢な「権威ある」学者と、そのトラの威を借りていいかげんな裁判を維持しようとする検察と、それを正せない裁判所が、人権を踏みにじったことがよくわかります。ほんとうに心の底から憤りをおぼえます。
ひどすぎる事件ではありますが、救われる気がするのは冤罪に巻き込まれた那須家の人々が苦しみの中で家族として支えあったこと。
特に、被害者の父親の手紙は、簡潔な中にも息子に対する深い愛情があふれています。そして、名家(平家物語に出てくる那須与一の直系の家系の家だそうです)の当主らしい気品のある文章です。
本書は、冤罪事件について、そして家族の愛情について、さまざまに考えさせられる貴重な本だと思います。
事件発生は1949年(昭和24年)であり、戦後の雰囲気を色濃く残した時代、仮釈放は1963年(昭和38年)、真犯人が名乗り出たのが1971年(昭和46年)、そして再審決定が1976年(昭和51年)であり、そんなにも長い期間、冤罪の被害者とその家族の運命は大きな影響を受け、人生が狂わされてしまったことを実感できます。
このような人権に影響を与える捜査や裁判が突き詰めてみると、(悪名高い)古畑鑑定の1点だけに依存していたことには驚きます。
鑑定の資料である血液は極めて微量であり正確な鑑定ができないことや、資料に不自然な点が多かったことは当時の関係者でも容易に判断できたと思います。
にもかかわらず、古畑本人は「他の方なら不可能かも知れません。しかし私なら可能です」と言い放ち、検察は「古畑種基は法医学者として特に血液に関しては日本の、否、世界の権威であります」と古畑をもちあげるのです。
傲慢な「権威ある」学者と、そのトラの威を借りていいかげんな裁判を維持しようとする検察と、それを正せない裁判所が、人権を踏みにじったことがよくわかります。ほんとうに心の底から憤りをおぼえます。
ひどすぎる事件ではありますが、救われる気がするのは冤罪に巻き込まれた那須家の人々が苦しみの中で家族として支えあったこと。
特に、被害者の父親の手紙は、簡潔な中にも息子に対する深い愛情があふれています。そして、名家(平家物語に出てくる那須与一の直系の家系の家だそうです)の当主らしい気品のある文章です。
本書は、冤罪事件について、そして家族の愛情について、さまざまに考えさせられる貴重な本だと思います。
2011年3月3日に日本でレビュー済み
昭和24年8月に起きた弘前大学教授夫人殺害事件は、戦後の代表的なえん罪事件として知られている。著者は、読売新聞記者として、滝谷福松が名のりあげた昭和46年からこの事件に関わり、多くのスクープ記事を書いたことで知られる。
読者は、著者の導くままに、昭和24年夏の夜、弘前城西側の閑静な住宅地で青蚊帳の奥に眠るすず子夫人と幼い娘の寝顔を見ることになるだろう。そして、その後に起きた事件と一連の捜査、裁判、犯人とされた那須隆氏とその家族はどのように生きなければならなかったのか。それは、読者を粛然とさせるであろう。
刑務所に送致された那須隆氏と家族との心のこもった手紙のやりとりは、まさしく「無実」を信じていなければできないものである。模範囚であった那須氏が「仮釈放」されるためには、「犯罪被害者への謝罪」「悔悟と更正への決意」を誓わなければならない。しかし、「無実」である那須氏にはそれがどうしてもできない。
「真犯人」が現れ、再審請求が行われても、我が国の法の壁は厚い。「捏造された証拠」の再検証、検察の「抵抗」、そして当時はまだ「古畑鑑定」という巨大な壁が立ちふさがっていた。
しかし、逆境に屈しなかった那須隆氏とその家族の生き方は、その先祖である那須与一の矢のように、千年の時を超えて再び美しく放たれたのである。
読者は、著者の導くままに、昭和24年夏の夜、弘前城西側の閑静な住宅地で青蚊帳の奥に眠るすず子夫人と幼い娘の寝顔を見ることになるだろう。そして、その後に起きた事件と一連の捜査、裁判、犯人とされた那須隆氏とその家族はどのように生きなければならなかったのか。それは、読者を粛然とさせるであろう。
刑務所に送致された那須隆氏と家族との心のこもった手紙のやりとりは、まさしく「無実」を信じていなければできないものである。模範囚であった那須氏が「仮釈放」されるためには、「犯罪被害者への謝罪」「悔悟と更正への決意」を誓わなければならない。しかし、「無実」である那須氏にはそれがどうしてもできない。
「真犯人」が現れ、再審請求が行われても、我が国の法の壁は厚い。「捏造された証拠」の再検証、検察の「抵抗」、そして当時はまだ「古畑鑑定」という巨大な壁が立ちふさがっていた。
しかし、逆境に屈しなかった那須隆氏とその家族の生き方は、その先祖である那須与一の矢のように、千年の時を超えて再び美しく放たれたのである。