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ハーバード白熱日本史教室 (新潮新書) 単行本 – 2012/5/17
北川 智子
(著)
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レポートのテーマは「タイムトラベル」! 「日本史は書き換えられなければならない」という強い使命感のもと、米国の有名大学で日本史を大人気講座に変貌させた著者による「若き歴史学者のアメリカ」。
- 本の長さ190ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2012/5/17
- ISBN-104106104695
- ISBN-13978-4106104695
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2012/5/17)
- 発売日 : 2012/5/17
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 190ページ
- ISBN-10 : 4106104695
- ISBN-13 : 978-4106104695
- Amazon 売れ筋ランキング: - 438,629位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 944位新潮新書
- カスタマーレビュー:
著者について
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Tomoko L. Kitagawa
『ハーバード白熱日本史教室』(新潮新書)
『世界基準で夢をかなえる私の勉強法 A Song of July』(幻冬舎)
『異国のヴィジョン 世界のなかの日本史へ The Visions』(新潮社)など。
www.tomokokitagawa.com
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2018年2月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この作品を読み、北川さんのパフォーマンスに感動しました。素晴らしいです。
2017年11月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
内容はとてもおもしろかった。発表済みの英語の論文を読んでみたい。
2012年6月25日に日本でレビュー済み
本書を楽しく一読してから Amazonのレビューを見れば、★1つ〜3つの低評価の割合が多くて驚きました。
確かに(日本史の専門知識が無いのに失礼ですが)識者が読めば、
突っ込み所満載?...のハーバード大学の日本史講師にも読めます。
しかし、著者が正にルネッサンス的ともいえる才人であることは多くの読者が認める所でしょう。
・福岡から飛び出してカナダの大学で数学・生命科学を専攻。
・早々に進級を果たしつつ、たまたま手伝った日本史の現地講師の講義に「女性への視点の欠落」を感じ
専門家に違和感を伝える内に、あれよと言う間に米国名門大学への推薦状をもらって博士課程へ進学。
そこからさらに、ひょんなことでハーバードの日本史授業を受け持つことになる..という経歴は、
(サラッと爽やかに書かれている)人並み以上の努力と集中力のみならず、
著者があらゆる方面に類いまれなセンスの持ち主であることを感じさせます。
・日常生活に見られる曲線(タマネギのカーブ?)を目にする途端に方程式を思い描いて楽しむ数学センス!
・大学時代にはカナダの国技たるアイスホッケーで遊ぶ身体能力!
・ハーバードへ移ってからも、たまに学内でピアノ・コンサートをする音楽へのセンス!
・おまけに、日常を描いて楽しむ絵画への嗜好!
こういう(ダヴィンチとは言わないけれど)平賀源内(ちょっと違うか?)みたいなタレントが
あふれるセンスを生かして工夫する授業の中で、天真爛漫に独自な視点(Lady Samurai !)を投げかければ、
これに魅了されない学生はいないでしょう。
この著者の授業が高く評価されているのは、この著者のタレント性にあると感じます。
ものすごくチャーミングで素敵です。
著者の日本史授業のいちいちを擁護するつもりはありません。
しかし、学者ではないとはいえ、学者よりはるかに日本人の歴史観に大いに影響を与えた
(ように見える)かの司馬遼太郎の代表作「坂の上の雲」ですら、
専門家から見れば突っ込まれる所(特に軍事的側面での偏り)はいくらもあるでしょう?
そもそも、著者へ講義担当を依頼する大学側からは、(東洋の国の歴史など)受講者数は一桁、
下手をすれば0人(=講義が不成立!)というくらい期待度が低かったのです。
将来の大学者?数人に教える本格的な講義も大事でしょうが、多少の偏りがあっても、
立ち見がでるほど熱狂的に迎えられる講義が行われることの意味を改めて考えるべきではないでしょうか?
全くの誤り・史実自体の事実誤認という場合は、直接メールを送って訂正させればよいことです。
こういう天真爛漫で陶酔感もいっぱいな? 爽やかな 発信力のある日本人には、もっともっと拍手を送りたい。
(追記: 2012/06/28.)
著者のようなタレントなら、また新しく挑戦する領域が見つかれば、
あっという間に次のフィールドへ「突っ走って」いくのだろうな...。と思いつつ、
後書きを読んでみると、それなりの将来への抱負が記されておりました...。 さもありなん、です。
ちなみに著者の受講生には「かなり体育会系が目立つ」と書いてありますが、
著者の身体能力の高さやそれにともなう反応の速さを想像するに、文武両道の学生には
この位のパワーが講師から感じられないと飽きてしまうのでしょう。
講義内容に意見はありますが、改めてこういう授業を受けてみたいと思いました。
また(日本の)外務省がこういうタレントを集めてワシントンでのロビーイスト活動に
起用すれば、もっと日本への注目、評価も良くなるのでは?などと想像します。
確かに(日本史の専門知識が無いのに失礼ですが)識者が読めば、
突っ込み所満載?...のハーバード大学の日本史講師にも読めます。
しかし、著者が正にルネッサンス的ともいえる才人であることは多くの読者が認める所でしょう。
・福岡から飛び出してカナダの大学で数学・生命科学を専攻。
・早々に進級を果たしつつ、たまたま手伝った日本史の現地講師の講義に「女性への視点の欠落」を感じ
専門家に違和感を伝える内に、あれよと言う間に米国名門大学への推薦状をもらって博士課程へ進学。
そこからさらに、ひょんなことでハーバードの日本史授業を受け持つことになる..という経歴は、
(サラッと爽やかに書かれている)人並み以上の努力と集中力のみならず、
著者があらゆる方面に類いまれなセンスの持ち主であることを感じさせます。
・日常生活に見られる曲線(タマネギのカーブ?)を目にする途端に方程式を思い描いて楽しむ数学センス!
・大学時代にはカナダの国技たるアイスホッケーで遊ぶ身体能力!
・ハーバードへ移ってからも、たまに学内でピアノ・コンサートをする音楽へのセンス!
・おまけに、日常を描いて楽しむ絵画への嗜好!
こういう(ダヴィンチとは言わないけれど)平賀源内(ちょっと違うか?)みたいなタレントが
あふれるセンスを生かして工夫する授業の中で、天真爛漫に独自な視点(Lady Samurai !)を投げかければ、
これに魅了されない学生はいないでしょう。
この著者の授業が高く評価されているのは、この著者のタレント性にあると感じます。
ものすごくチャーミングで素敵です。
著者の日本史授業のいちいちを擁護するつもりはありません。
しかし、学者ではないとはいえ、学者よりはるかに日本人の歴史観に大いに影響を与えた
(ように見える)かの司馬遼太郎の代表作「坂の上の雲」ですら、
専門家から見れば突っ込まれる所(特に軍事的側面での偏り)はいくらもあるでしょう?
そもそも、著者へ講義担当を依頼する大学側からは、(東洋の国の歴史など)受講者数は一桁、
下手をすれば0人(=講義が不成立!)というくらい期待度が低かったのです。
将来の大学者?数人に教える本格的な講義も大事でしょうが、多少の偏りがあっても、
立ち見がでるほど熱狂的に迎えられる講義が行われることの意味を改めて考えるべきではないでしょうか?
全くの誤り・史実自体の事実誤認という場合は、直接メールを送って訂正させればよいことです。
こういう天真爛漫で陶酔感もいっぱいな? 爽やかな 発信力のある日本人には、もっともっと拍手を送りたい。
(追記: 2012/06/28.)
著者のようなタレントなら、また新しく挑戦する領域が見つかれば、
あっという間に次のフィールドへ「突っ走って」いくのだろうな...。と思いつつ、
後書きを読んでみると、それなりの将来への抱負が記されておりました...。 さもありなん、です。
ちなみに著者の受講生には「かなり体育会系が目立つ」と書いてありますが、
著者の身体能力の高さやそれにともなう反応の速さを想像するに、文武両道の学生には
この位のパワーが講師から感じられないと飽きてしまうのでしょう。
講義内容に意見はありますが、改めてこういう授業を受けてみたいと思いました。
また(日本の)外務省がこういうタレントを集めてワシントンでのロビーイスト活動に
起用すれば、もっと日本への注目、評価も良くなるのでは?などと想像します。
2012年11月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
物語には「始まり」がある。
本書は新米先生と生徒の早すぎる回顧録です。
授業は日本史。テーマは「レディーサムライ」。
キラキラした魅力講義内容と活気ある授業風景がわかる内容となっています。
生徒と同世代の著者(若すぎる年齢と、実年齢よりさらに若く見える外見の持ち主)が作り上げる授業は素晴らしいの一言です。
私は高校5年間・大学6年間在学した学校マニアです。
実はリタイア後に再び大学で学びたいと思っています。
是非著者の講義に参加したいと思いました。
本書は新米先生と生徒の早すぎる回顧録です。
授業は日本史。テーマは「レディーサムライ」。
キラキラした魅力講義内容と活気ある授業風景がわかる内容となっています。
生徒と同世代の著者(若すぎる年齢と、実年齢よりさらに若く見える外見の持ち主)が作り上げる授業は素晴らしいの一言です。
私は高校5年間・大学6年間在学した学校マニアです。
実はリタイア後に再び大学で学びたいと思っています。
是非著者の講義に参加したいと思いました。
2017年12月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
筆者は、本書の末尾の方で次のように述べる。「ですからこの本は、ハーバード大学の日本史が栄えていったという話では終わらないのです。私の経験と、読者のあなたがつながる話なのです。」(p.182)
また著者は、教員への学生の評価について、こう述べている。「…、言いたいことがあるというのは学生に「何か」を働きかけた結果ですから、何も書かれないよりは遙かにましです。」(p.100)この姿勢は立派だ。
一読者として著者の呼びかけに応えることにする。
本書の構成要素は大体以下のように分けられる。
①著者の優秀な頭脳と集中力によって、学部と大学院での課題や難題を突破し、ハーバードの教員になるまでの話。
②ハーバードでの教育実践
③ハーバードでの活躍を裏付ける評価制度や実践を支援する助手たちの話。
④歴史学者としての主張。
①から③の記述方法や内容は、個々人の好みの問題であろう。世代や性別によっても読み方は変わる。憧れの成功物語とも自慢話ともとれる。自慢話が悪いわけではない。
問題は④である。残念ながら全ての項目について疑問符がついた。反論というより筆者の主張がよく分からなかった。なぜ伝わらなかったのか。私の能力はさておき、可能性として次の三つが考えられる。
1、著者は「英語で考え英語で生活して英語で夢を見る」(p.130)のに対して、読者の私は「日本語で考え日本語で生活して日本語で夢を見る」ことの影響。
2、育った環境や世代の違い。
3、上記の①から③の成功体験に引きづられ、また数学のできる頭のよい人の特徴として、答えを性急に求めすぎた結果による不十分さ。
以下、歴史学者としての筆者の主張に関する第5章の項目をかかげながら論評する。
<歴史は時代にあわせて書き換えられる>(p.176)
「ザ・サムライ」から「Lady Samurai」へとして、ご自身の実践をさしておられるのだが、拍子抜けしてしまう。
「Lady Samurai 」と聞いても私の日本語脳は何の反応もしない。せめて(レディ・サムライ)と片仮名で併記されていれば、「マイフェアレディ」とか「舞子は○○」とか反応することができたかもしれない。「HARVARD」でなくて「ハーバード」だと何となく多くの日本人がイメージできるのと同じである。
また私の歴史観から女性が排除されたことはないので、女性に視点を当てた試みが特に目新しいとも思わない。
侍の子として育てられ幼くして米国に留学した津田梅子は、著者と同じように生命科学を学んでいる。帰国してからの津田梅子の格闘や葛藤の様子について同じような経験をしている著者の見解を聞いてみたい。
山川菊栄の『武家の女性』という本も、随分前に興味深く読んだことを思い出した。
歴史は勝者によって書き換えられる。まさにGHQが実際に書き換えた。子どもの墨塗教科書から大人の作品の発禁まで、戦略的、計画的、執拗にそれらは実行されたと記憶している。こうした研究書なら興味を覚える。
<印象派歴史学>(p.178)
これも著者の「Lady Samurai」や「KYOTO」のような実践をさすらしい。
ハーバード大学のサマースクールで教えられた「ザ・サムライ」に全く女性が登場しないのは、たまたまか、嗜好か、国柄の違いによるものだと思う。
それにしても「サムライ」好きには感心する。この心理こそ研究に値する。
日本人の侍好きとは、趣を異にするように感じる。
ジェームズ・クラベルの「将軍」が流行ったのはいつのことだったか。あのドラマは欧米人への教育的意味合いもあったと思う。本当に米国で受容されている侍のイメージは全く変わっていないのだろうか。
いずれにしても著者はこの「ザ・サムライ」の授業に拘り続けた。「「ザ・サムライ」は絶対おかしい。何かがどこかに隠れている。ある種の使命じみた感覚にとらわれて、私はどんどんのめりこんでいった。」(p.21)
その後の筆者の活躍は本書に記載されている通りである。野口英世がある日、学僕から先生になったような痛快さがあったであろう。筆者の情熱と行動力には感服する。
しかし「KYOTO」のような授業は、かなり以前より日本の小学校で実践されている。
戦後に、ジョン・デューイの思想やコア・カリキュラムの発想が導入され、社会科の授業の中で様々な実験的な試みがなされ、それが今日まで続いていると理解している。
「印象派歴史学」という言葉を初めて知った。専門用語なのか翻訳語なのかも知らない。へんな片仮名語よりはよっぽどよい。著者の五感を使った素晴らし授業を否定するつもりもない。だが、この「印象派歴史学」という日本語は、いずれ忘れ去られる運命にあるような気がする。
<「大きな物語」がない日本>(p.180)
大きな物語がない日本とはどういうことか。
「…、サムライで完結した日本史を越える日本史概論、専門用語でいうと「大きな物語(grand narrative)」を描き出すことが目的です。」(p.60)と著者は解説する。
「grand narrative」と英語が併記されてあっても私の日本語脳には届かない。「残念ながら、第二次世界大戦後から長い間、日本には「大きな物語」がありません。一般化された歴史叙述がないのです。つまりイデオロギー、アイデンティティーが不足しているのです。」(p.181)
大きな物語という専門用語がどう使われているのか私はしらない。一般化された歴史叙述がないことを筆者は問題にしているが、意味が分からないので筆者とその問題意識を共有することはできない。
仮に一般化された英文の歴史叙述があったとしても、その性急に描かれた歴史叙述など吹けば飛ぶような薄っぺらものになるに違いない。
私は○○史観○○主義など気にしない。興味深ければ面白いと思うし感心もする。戦後、日本では多くの作家、脚本家、学者が英知を絞って歴史の物語を記述してきた。
最近は大河ドラマは見ていない。昔見た「獅子の時代」が印象深かった。架空の人物を造形して物語が構築されていくのだが、その手法にとても感心したことを覚えている。後に意識したのだが脚本は山田太一氏である。
歴史を俯瞰する大きな視点、洞察力、全体構想力がなければ完成しなかった作品であると思う。
<マイケル・サンデルの言葉>(p.182)
著者は、サンデル教授の「わたしは、地球市民なのです」という言葉を引用し、「地球市民向けの日本史が早く出来上がるよう」(p.183)読者に呼びかけている。筆者の呼びかけは、私には空疎な空回りに聞こえてしまう。
サンデル教授がどのような場面でこの言葉を発したかはしらない。以前、サンデル教授の作品を読んだ。
サンデル教授の本から読み取った最も重要な点は以下の通りだ。もちろん日本語での理解であり自分の言葉に置き換わっている。著者の引用文を借りれば、頭の中で作り出されただけの「地球市民」などありえないということだ。確かに私たちは地球市民である。その地球市民一人一人の価値観は、地域や家族、共同体、ご先祖様たちとの「つながり」の中で形成されたということだ。
私は歴史愛好家ではない。雑多な本の中で歴史に関する本を時々読む程度である。学問としての歴史学の本もほとんど読んだことはない。遙か昔に読んだE・H・カーの『歴史とは何か』を思い出すのみである。ただ「日本とは何か」「日本人とは何か」をずっと考えてきたような気がする。
随分前に『武士道』を読んだのもそうした動機による。この本の中で最も重要だと感じたのは、新渡戸稲造の問題意識である。武士道「第一版序」の冒頭部分に凝縮されていると思うので引用する。
「約十年前、私はベルギーの法学大家故ド・ラヴレー氏の歓待を受けその許で数日を過したが、或る日の散歩の際、私どもの話題が宗教の問題に向いた。「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と私が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩みを停め、「宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れえない。」(矢内原忠雄訳)
仏典や儒教、神道の本なども読んできた。「日本とは何か」「日本人とは何か」、この問題の答えはすぐには見出せない。死ぬまで考えて答えが出なくてもそれでよいと思っている。
古い座頭市の映画を見ていて、市さんが「お天道様が見ている」とつぶやくとき一番しっくりくる。
この心情を言葉で説明するのは難しい。
日本のよさは多くの人々が自国の歴史に関心があることだ。その裾野の広さが様々な歴史書の出版につながっている。切口は色々、私も時々歴史を楽しんでいる。日本語が読めることは幸せだ。
神社仏閣、森、巨木、古道、山川、海、城跡、田畑、等々に触れ、実際に身体を動かし五感で感じ、ご先祖様たちと思いを共有する。そうした場所があることも有難い。
世界の人々に「日本とは何か」「日本人とは何か」と問われたら、その問題に即答できないと答えればよい。もし相手が怪訝そうな顔をしたら「日本に行ってみれば」と勧めればよい。
日本史に関するハーバードの総合知と日本の庶民の総合知を比べたら自ずと答えは出てくる。物語は今も日本全体で、過去とのつながりや過去との対話の中で紡ぎ出されているのだと。それは簡単に紙の上に再現できるものではないしそれでよいのだと思っている。
グローバル資本主義で行き詰まった欧米の賢い人々は、きっと日本史の中の知恵に学ぼうとするに違いない。「新しい日本史を組み立てる」(p.177)と大上段に構えて焦る必要はさらさらないのだ。
優秀な筆者には二つのことを提案したい。
本書で一番興味を持ったのは、「光の計算遊び」(p.24)の記述である。筆者の独創か、仲間同士で流行っていたのか、この時頭に浮かんだのは「算法少女」だ。そして「生命科学」(p.14)という語を見て想起されたのは「津田梅子」である。津田梅子への関心が増したのは確か「学習まんが」の影響であったと思う。
著者の海外での頑張り、ハーバードでの成功は賞賛に値する。読者を青少年にしぼり、『算法少女、海を渡る』とかいう題で出版してはいかがだろうか。五十五頁の写真もカラーで見てみたい。
もう一つは、「著者自身の歴史」である。ハーバードの学生は、著者自身に淑女侍の姿を重ね合わせたに違いない。また著者に人を引きつける力、天性の教師としての資質がなかったらあのような成功は望めなかったと思う。だからこそ著者その人に興味がある。著者が育った日本での環境、地域に共有する価値観、地域の歴史、学校や父母、祖父母の教え、等々に関心がある。
つまり筆者がどのように育ちどのように人格が形づくられてきたのか、なぜ数学や理科に興味を持ったのか、そうしたことを知りたい。こうした本があればまた求める。
以上私見であるので、是非本書を手に取りご自身で確かめてほしい。
また著者は、教員への学生の評価について、こう述べている。「…、言いたいことがあるというのは学生に「何か」を働きかけた結果ですから、何も書かれないよりは遙かにましです。」(p.100)この姿勢は立派だ。
一読者として著者の呼びかけに応えることにする。
本書の構成要素は大体以下のように分けられる。
①著者の優秀な頭脳と集中力によって、学部と大学院での課題や難題を突破し、ハーバードの教員になるまでの話。
②ハーバードでの教育実践
③ハーバードでの活躍を裏付ける評価制度や実践を支援する助手たちの話。
④歴史学者としての主張。
①から③の記述方法や内容は、個々人の好みの問題であろう。世代や性別によっても読み方は変わる。憧れの成功物語とも自慢話ともとれる。自慢話が悪いわけではない。
問題は④である。残念ながら全ての項目について疑問符がついた。反論というより筆者の主張がよく分からなかった。なぜ伝わらなかったのか。私の能力はさておき、可能性として次の三つが考えられる。
1、著者は「英語で考え英語で生活して英語で夢を見る」(p.130)のに対して、読者の私は「日本語で考え日本語で生活して日本語で夢を見る」ことの影響。
2、育った環境や世代の違い。
3、上記の①から③の成功体験に引きづられ、また数学のできる頭のよい人の特徴として、答えを性急に求めすぎた結果による不十分さ。
以下、歴史学者としての筆者の主張に関する第5章の項目をかかげながら論評する。
<歴史は時代にあわせて書き換えられる>(p.176)
「ザ・サムライ」から「Lady Samurai」へとして、ご自身の実践をさしておられるのだが、拍子抜けしてしまう。
「Lady Samurai 」と聞いても私の日本語脳は何の反応もしない。せめて(レディ・サムライ)と片仮名で併記されていれば、「マイフェアレディ」とか「舞子は○○」とか反応することができたかもしれない。「HARVARD」でなくて「ハーバード」だと何となく多くの日本人がイメージできるのと同じである。
また私の歴史観から女性が排除されたことはないので、女性に視点を当てた試みが特に目新しいとも思わない。
侍の子として育てられ幼くして米国に留学した津田梅子は、著者と同じように生命科学を学んでいる。帰国してからの津田梅子の格闘や葛藤の様子について同じような経験をしている著者の見解を聞いてみたい。
山川菊栄の『武家の女性』という本も、随分前に興味深く読んだことを思い出した。
歴史は勝者によって書き換えられる。まさにGHQが実際に書き換えた。子どもの墨塗教科書から大人の作品の発禁まで、戦略的、計画的、執拗にそれらは実行されたと記憶している。こうした研究書なら興味を覚える。
<印象派歴史学>(p.178)
これも著者の「Lady Samurai」や「KYOTO」のような実践をさすらしい。
ハーバード大学のサマースクールで教えられた「ザ・サムライ」に全く女性が登場しないのは、たまたまか、嗜好か、国柄の違いによるものだと思う。
それにしても「サムライ」好きには感心する。この心理こそ研究に値する。
日本人の侍好きとは、趣を異にするように感じる。
ジェームズ・クラベルの「将軍」が流行ったのはいつのことだったか。あのドラマは欧米人への教育的意味合いもあったと思う。本当に米国で受容されている侍のイメージは全く変わっていないのだろうか。
いずれにしても著者はこの「ザ・サムライ」の授業に拘り続けた。「「ザ・サムライ」は絶対おかしい。何かがどこかに隠れている。ある種の使命じみた感覚にとらわれて、私はどんどんのめりこんでいった。」(p.21)
その後の筆者の活躍は本書に記載されている通りである。野口英世がある日、学僕から先生になったような痛快さがあったであろう。筆者の情熱と行動力には感服する。
しかし「KYOTO」のような授業は、かなり以前より日本の小学校で実践されている。
戦後に、ジョン・デューイの思想やコア・カリキュラムの発想が導入され、社会科の授業の中で様々な実験的な試みがなされ、それが今日まで続いていると理解している。
「印象派歴史学」という言葉を初めて知った。専門用語なのか翻訳語なのかも知らない。へんな片仮名語よりはよっぽどよい。著者の五感を使った素晴らし授業を否定するつもりもない。だが、この「印象派歴史学」という日本語は、いずれ忘れ去られる運命にあるような気がする。
<「大きな物語」がない日本>(p.180)
大きな物語がない日本とはどういうことか。
「…、サムライで完結した日本史を越える日本史概論、専門用語でいうと「大きな物語(grand narrative)」を描き出すことが目的です。」(p.60)と著者は解説する。
「grand narrative」と英語が併記されてあっても私の日本語脳には届かない。「残念ながら、第二次世界大戦後から長い間、日本には「大きな物語」がありません。一般化された歴史叙述がないのです。つまりイデオロギー、アイデンティティーが不足しているのです。」(p.181)
大きな物語という専門用語がどう使われているのか私はしらない。一般化された歴史叙述がないことを筆者は問題にしているが、意味が分からないので筆者とその問題意識を共有することはできない。
仮に一般化された英文の歴史叙述があったとしても、その性急に描かれた歴史叙述など吹けば飛ぶような薄っぺらものになるに違いない。
私は○○史観○○主義など気にしない。興味深ければ面白いと思うし感心もする。戦後、日本では多くの作家、脚本家、学者が英知を絞って歴史の物語を記述してきた。
最近は大河ドラマは見ていない。昔見た「獅子の時代」が印象深かった。架空の人物を造形して物語が構築されていくのだが、その手法にとても感心したことを覚えている。後に意識したのだが脚本は山田太一氏である。
歴史を俯瞰する大きな視点、洞察力、全体構想力がなければ完成しなかった作品であると思う。
<マイケル・サンデルの言葉>(p.182)
著者は、サンデル教授の「わたしは、地球市民なのです」という言葉を引用し、「地球市民向けの日本史が早く出来上がるよう」(p.183)読者に呼びかけている。筆者の呼びかけは、私には空疎な空回りに聞こえてしまう。
サンデル教授がどのような場面でこの言葉を発したかはしらない。以前、サンデル教授の作品を読んだ。
サンデル教授の本から読み取った最も重要な点は以下の通りだ。もちろん日本語での理解であり自分の言葉に置き換わっている。著者の引用文を借りれば、頭の中で作り出されただけの「地球市民」などありえないということだ。確かに私たちは地球市民である。その地球市民一人一人の価値観は、地域や家族、共同体、ご先祖様たちとの「つながり」の中で形成されたということだ。
私は歴史愛好家ではない。雑多な本の中で歴史に関する本を時々読む程度である。学問としての歴史学の本もほとんど読んだことはない。遙か昔に読んだE・H・カーの『歴史とは何か』を思い出すのみである。ただ「日本とは何か」「日本人とは何か」をずっと考えてきたような気がする。
随分前に『武士道』を読んだのもそうした動機による。この本の中で最も重要だと感じたのは、新渡戸稲造の問題意識である。武士道「第一版序」の冒頭部分に凝縮されていると思うので引用する。
「約十年前、私はベルギーの法学大家故ド・ラヴレー氏の歓待を受けその許で数日を過したが、或る日の散歩の際、私どもの話題が宗教の問題に向いた。「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と私が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩みを停め、「宗教なし!どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れえない。」(矢内原忠雄訳)
仏典や儒教、神道の本なども読んできた。「日本とは何か」「日本人とは何か」、この問題の答えはすぐには見出せない。死ぬまで考えて答えが出なくてもそれでよいと思っている。
古い座頭市の映画を見ていて、市さんが「お天道様が見ている」とつぶやくとき一番しっくりくる。
この心情を言葉で説明するのは難しい。
日本のよさは多くの人々が自国の歴史に関心があることだ。その裾野の広さが様々な歴史書の出版につながっている。切口は色々、私も時々歴史を楽しんでいる。日本語が読めることは幸せだ。
神社仏閣、森、巨木、古道、山川、海、城跡、田畑、等々に触れ、実際に身体を動かし五感で感じ、ご先祖様たちと思いを共有する。そうした場所があることも有難い。
世界の人々に「日本とは何か」「日本人とは何か」と問われたら、その問題に即答できないと答えればよい。もし相手が怪訝そうな顔をしたら「日本に行ってみれば」と勧めればよい。
日本史に関するハーバードの総合知と日本の庶民の総合知を比べたら自ずと答えは出てくる。物語は今も日本全体で、過去とのつながりや過去との対話の中で紡ぎ出されているのだと。それは簡単に紙の上に再現できるものではないしそれでよいのだと思っている。
グローバル資本主義で行き詰まった欧米の賢い人々は、きっと日本史の中の知恵に学ぼうとするに違いない。「新しい日本史を組み立てる」(p.177)と大上段に構えて焦る必要はさらさらないのだ。
優秀な筆者には二つのことを提案したい。
本書で一番興味を持ったのは、「光の計算遊び」(p.24)の記述である。筆者の独創か、仲間同士で流行っていたのか、この時頭に浮かんだのは「算法少女」だ。そして「生命科学」(p.14)という語を見て想起されたのは「津田梅子」である。津田梅子への関心が増したのは確か「学習まんが」の影響であったと思う。
著者の海外での頑張り、ハーバードでの成功は賞賛に値する。読者を青少年にしぼり、『算法少女、海を渡る』とかいう題で出版してはいかがだろうか。五十五頁の写真もカラーで見てみたい。
もう一つは、「著者自身の歴史」である。ハーバードの学生は、著者自身に淑女侍の姿を重ね合わせたに違いない。また著者に人を引きつける力、天性の教師としての資質がなかったらあのような成功は望めなかったと思う。だからこそ著者その人に興味がある。著者が育った日本での環境、地域に共有する価値観、地域の歴史、学校や父母、祖父母の教え、等々に関心がある。
つまり筆者がどのように育ちどのように人格が形づくられてきたのか、なぜ数学や理科に興味を持ったのか、そうしたことを知りたい。こうした本があればまた求める。
以上私見であるので、是非本書を手に取りご自身で確かめてほしい。
2017年9月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
著者がもともと歴史が好きで、日本の大学で歴史を普通に学んでたら、この本は出版されてなかっただろう。アクティブラーニングの理想像も描かれ、読んでいて、ワクワクした。ハーバードってこんな授業も受けられる、いや、参加できるんだなあ。