タイトルの西洋美術史における歴史や言語学的理論、現代藝術におけるタイトル形式の脱芸術化を論じる。
- 審美派はカント的な美の直感性(《美の無関心性》)に基づき鑑賞を行い、教養派は含意された鑑賞者を演じる。
- 《なまえの魔力》は、ソシュールやフレーゲの言語学的・形式的理論には負えないとする。(確かに、ソシュールの記号論が共示的な意味内容を捨てたことは知られている。しかし、彼の後継者であるイェルムスレウは共示作用を記号論に組み込み、《なまえの魔力》を理論化しているように思える。)
- 保護聖人の名を取ることは、推移閉包的に彼が神の子であることを示す。
また9篇のタイトル論が紹介されており、美学の探究として有用である。
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タイトルの魔力: 作品・人名・商品のなまえ学 (中公新書 1613) 新書 – 2001/11/1
佐々木 健一
(著)
- ISBN-104121016130
- ISBN-13978-4121016133
- 出版社中央公論新社
- 発売日2001/11/1
- 言語日本語
- 本の長さ299ページ
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2001/11/1)
- 発売日 : 2001/11/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 299ページ
- ISBN-10 : 4121016130
- ISBN-13 : 978-4121016133
- Amazon 売れ筋ランキング: - 314,029位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,442位中公新書
- - 2,394位アート・建築・デザイン作品集
- - 2,881位アート・建築・デザインの絵画 (本)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2002年9月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「魔力」というタイトルだが、怪しげな本ではない。私たちの身の回りの名前やタイトルの成り立ちや意味を、知的好奇心旺盛に分析してゆくもの。後半、絵画のタイトルについて論じている部分では、ワトーの《シテール島への船出》とかブリューゲルの《イカロスの墜落》が話題になるなど美術史的でもあり、アカデミックな印象だ。著者の論理的な文章は読むのに時間がかかるが、内容は明快である。分析が厳密で、ふつうの人が見過ごすようなことを指摘している。例えば、ソシュールやフレーゲなど欧米の学者たちの見方では説明しきれない、日本の人名の意味について指摘している。欧米では聖人名をつけることが多いので、同じ名前を持つクリスチャンの同朋が多数いることになる。これは、日本の命名のあり方とは大きく違うものだ。本書は、社会的に大きなテーマで問題提起などしているわけではないので、そういう意味でのインパクトはないかもしれない。しかし、身の回りの些細なことに研究の着眼点を見出す「問題意識」や、考察を明確に筋道立てて進める「論理性」とはどういうものかを教えてくれると思う。巻末に、タイトル論につき、内容解説入りの文献案内がついている。
2009年4月6日に日本でレビュー済み
それはよくある美術館の風景。
絵の傍らに貼りつけられた作者名、タイトル、描かれた年代などが刻されたプレート。
ある種の人々は「絵を見るよりも早く、真先にプレートをのぞき込み、誰が画いた何という
絵なのか確かめる」。また、ある種の人々は「プレートには目もくれない。静かに絵だけを
見つめ続ける」。
しかしこうした何気ない態度の理由を考えてみれば、それがそのまま西洋近代美学を
めぐる非常に興味深い議論を反映していたものとなっているのだ、という。
「タイトルは作品そのものではないが、さりとて無縁なものではなく、密接な形で作品に
結びついている。作品にとって、それは純粋な内でもなければ、純粋な外でもない」。
こうして「タイトル」をめぐって、美学はもちろんのこと、言語学や哲学を巻き込みつつ、
その歴史をひもときながら議論は展開される。
タイトルという語の歴史や変遷などは非常に面白くもあったし――それだけでも
十分に本書を他人に薦める理由たりうるほどに――、なぜ現代のフィクションにおいて
『ハムレット』や『アンナ・カレーニナ』といった人名由来のタイトルがほぼ不可能になったのか、
という議論は非常に説得的ではあった。
ただしもっとシンプルに語れることをなぜそうしない、と苛立つところもあった。
ソシュールやヴィトゲンシュタインの議論については、理解が浅いというか、恣意的に文脈を
矮小化しすぎていて、だったらわざわざ引用なんてしなくてもいいのに、と思ってしまう。
彼らの名を出すまでもなく、具体例によって明快に伝えうる程度の主張なのだから。
定義と感性の問題に帰着するのかもしれないけれども、私に言わせれば、絵画のタイトルの
大半にはそれこそ「知覚を変えさせるような対象との間のずれ、もしくは距離」なんてものは
ないわけで――あるいはそんなものに依拠しなければいけないのならば、わざわざ描く必要なんて
どこにもない、とすら思う。ちなみに氏の挙げた「イカロスの墜落」などはこの定義にはまりません。
理由は簡単、空を飛べないなんて当たり前のことで、墜落などのどかな日常を揺るがすものでは
有り得ないから。また同時に、日常性の危うさなんて、これも当たり前のことで、いちいちタイトルに
教わらねばならないことではないから――、例えば「無題」が現代においては意味を持ってしまう、
という指摘は全くもってその通りなのだけれども、その一方で、識別記号としての「なまえ」と
「タイトル」の差異や境界をめぐって、むしろ現行の用法の方を捻じ曲げる必要すらあるように
思われてしまう。
また、全体に漂う権威主義的な臭気が時に不快でさえあった。
最後に引っかかってしまうのはやはりこの本のタイトル。果たしてこのタイトルは氏の掲げた
定義を満たしているのだろうか、と。(それとも、これは「藝術」ではないからよろしいのでしょうか?)
絵の傍らに貼りつけられた作者名、タイトル、描かれた年代などが刻されたプレート。
ある種の人々は「絵を見るよりも早く、真先にプレートをのぞき込み、誰が画いた何という
絵なのか確かめる」。また、ある種の人々は「プレートには目もくれない。静かに絵だけを
見つめ続ける」。
しかしこうした何気ない態度の理由を考えてみれば、それがそのまま西洋近代美学を
めぐる非常に興味深い議論を反映していたものとなっているのだ、という。
「タイトルは作品そのものではないが、さりとて無縁なものではなく、密接な形で作品に
結びついている。作品にとって、それは純粋な内でもなければ、純粋な外でもない」。
こうして「タイトル」をめぐって、美学はもちろんのこと、言語学や哲学を巻き込みつつ、
その歴史をひもときながら議論は展開される。
タイトルという語の歴史や変遷などは非常に面白くもあったし――それだけでも
十分に本書を他人に薦める理由たりうるほどに――、なぜ現代のフィクションにおいて
『ハムレット』や『アンナ・カレーニナ』といった人名由来のタイトルがほぼ不可能になったのか、
という議論は非常に説得的ではあった。
ただしもっとシンプルに語れることをなぜそうしない、と苛立つところもあった。
ソシュールやヴィトゲンシュタインの議論については、理解が浅いというか、恣意的に文脈を
矮小化しすぎていて、だったらわざわざ引用なんてしなくてもいいのに、と思ってしまう。
彼らの名を出すまでもなく、具体例によって明快に伝えうる程度の主張なのだから。
定義と感性の問題に帰着するのかもしれないけれども、私に言わせれば、絵画のタイトルの
大半にはそれこそ「知覚を変えさせるような対象との間のずれ、もしくは距離」なんてものは
ないわけで――あるいはそんなものに依拠しなければいけないのならば、わざわざ描く必要なんて
どこにもない、とすら思う。ちなみに氏の挙げた「イカロスの墜落」などはこの定義にはまりません。
理由は簡単、空を飛べないなんて当たり前のことで、墜落などのどかな日常を揺るがすものでは
有り得ないから。また同時に、日常性の危うさなんて、これも当たり前のことで、いちいちタイトルに
教わらねばならないことではないから――、例えば「無題」が現代においては意味を持ってしまう、
という指摘は全くもってその通りなのだけれども、その一方で、識別記号としての「なまえ」と
「タイトル」の差異や境界をめぐって、むしろ現行の用法の方を捻じ曲げる必要すらあるように
思われてしまう。
また、全体に漂う権威主義的な臭気が時に不快でさえあった。
最後に引っかかってしまうのはやはりこの本のタイトル。果たしてこのタイトルは氏の掲げた
定義を満たしているのだろうか、と。(それとも、これは「藝術」ではないからよろしいのでしょうか?)