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言語の脳科学: 脳はどのようにことばを生みだすか (中公新書 1647) 新書 – 2002/7/25
酒井 邦嘉
(著)
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- ISBN-104121016475
- ISBN-13978-4121016478
- 出版社中央公論新社
- 発売日2002/7/25
- 言語日本語
- 本の長さ340ページ
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2002/7/25)
- 発売日 : 2002/7/25
- 言語 : 日本語
- 新書 : 340ページ
- ISBN-10 : 4121016475
- ISBN-13 : 978-4121016478
- Amazon 売れ筋ランキング: - 115,585位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 557位中公新書
- - 1,797位生物・バイオテクノロジー (本)
- - 6,229位医学・薬学・看護学・歯科学
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2019年4月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
言語は心の一部なら、脳の一部である。脳の一部であるなら、科学の対象である。脳科学は医学部で言語学は文学部、という区分は全く古いのである。また、言語が科学の対象であるなら、言語には自然法則がある。そして、「言語に自然法則があるとすれば、それは普遍的でなくてはならない」(p16)。われわれは、「脳によって決められた『文法』に従っていて、人間が話す言葉の構造は、勝手気ままに変えられるわけではない」(同上)のが根拠となる。新書でありながら、引用元や参考文献が詳しく説得力がある。チョムスキー批判についても、「チョムスキーの理論は古い、という主張そのものが古いのだ」(p113)と喝破していて痛快である。ところで、「言語が何かの必要性から生まれたと考えるのは誤り」(p37)で、進化を考える上でよくある勘違いである。「鳥の翼は飛ぶために必要なものだが、飛ぶ必要性から翼が進化したわけではない。進化の遺伝的メカニズムには、今西錦司(一九〇二~九二)が唱えた進化論のような、「なるべくしてなる」という合理目的性は存在しない。鳥は、翼が進化したから飛べるようになったのである。同様にして、人間は脳が進化したから言語を使えるようになったのである」(p同上)。ちなみに、言語はコミュニケーションのために適応したのが言語の起源だとスティーブン・ピンカーが主張したことがあるらしいが、進化に合理目的性がないのだから誤りだと主張を排している(p95)。非常に勉強になった。
2020年10月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ちょっと難しいかも、でも読み進めていくうちにことばの獲得の不思議が解けていく感じです。
2022年4月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「脳はどのようにことばを生みだすか」
という副題について、どのような回答も
得られていない・が最大の感想。
このテーマを求めて紐解こうとするのなら、
無価値だろう・・・
むしろ「言語処を脳はどこで処理するか‐事例集‐」
とでもするほうが適切か?と・
当該書籍の「論及」は、いちばん最後の最後
「おわりに/個を持つ人間そのものを対象とする
学問‐人間科学‐が必要だと提言したい」にある。
か・といって、人間科学についての具体的明示は
記載されていない。かいつまむと、理系(脳科学等)
にも、言語学等(文系的)要素は必要であり、
文系(言語学等)にも、科学的要素が必要である・
ということを「提言」しただけで、それ以上の内容
(副題)を期待できない。
・ 科学すること
・ 言語について
・ 脳について
・ 複数言語処理について
と、別々に事例で進めている。
ただし、次のの見方をすれば、よいテキストかも?
しれない・・・
① 言語について、脳というものは、どのように
対応しているか?(多数の研究例を要約して引用)
脳のマップも複数あり、このマップは「脳」を
学問する者には、好い例となるだろう。
② 「言語」とは?(脳機能を例として)
② 科学的脳機能の見方の例(言語を例として)。
著者の研究例も含んではいるが、ほとんどは、
他国の研究例引用であるので、当該書籍を土台に、
他国の研究検索に用いることは可能と思う。
最終テーマに「バイリンガル」の脳障害者等の
事例を揚げており、参考・・・になる?というところ
であるが、幾分他国語圏の研究であり、同一対象の
深い研究結果を得られていない(たいていは今後に期待)。
少し興味を持つとすれば、
・生まれつきの母国語(&第二言語)保持者 対
生育後‐数才経過後‐第二言語習得者
の脳機能について記述がある(だからといって
なんの明示的結果を記述していない)ので、
記述者の発想を次に。
〇 複数の言語を習得する際、語彙と語意の違いで
習得すると仮定し、語彙で習得するとすれば、
一々第二言語を母語の語彙に翻訳(置き換え)して
習得し、語意で習得するとすれば、直イメージで
記憶し、一々母語へ翻訳していない・のではないか?
と考える。
すこし違うかもしれないが、例えとして、
義務教育で米語を、対試験用としてのみ「記憶」する
ことに対し、米(英)語の歌を好んで聴き覚える
(歌詞をみてさらに定着する)という違いを考える。
これを機械処理で表すと、一々単語と並べ方を記録し
その量を単純に増やす方法と、IMEが行っているように、
文字パターンを(変えながら)増やし、確率的にその量を
増やす方法に似ているかもしれない。
前者(義務教育的)は、記憶(記録)しているか否かのみ
で、量(点数)が決定され、後者(好んで接する量)は、
繰り返し確認をすることで量より質(精度)を高めること
ができる・違いを考える。
この前者/後者は実際の「所謂受験戦争」の対象者にも
現れ、短期記憶の好い者は、その場しのぎの高得点を得られる
が、対長期戦の「入試」等では記憶を消失し、得点にならない・
一方、量少数でありながら深い理解とともに記憶した者は、
多角的に問いに対応できるので、記憶の定着するまでは
得点とならないが、対長期戦ではその質を発揮できる・という
現象があるように実感する。
別の例えとして・短期記憶は、あたかも百科事典の目次のみ
を確実に多く記憶するが、同一レベルで記憶するので、やがて
混乱や消失することで、記憶の定着量が落ちる者・一方目次を
記憶しつつも、その量は少ないが、目次で参照する内容に
興味を持ち、内容とともに事柄を記憶することで、項目量こそ
少ないが、その事項を伴っているので、いっそう確実性を
保っている者の違いといえるかもしれない。前者は目次のみの
ため、他事項への関連発展性を期待できないが、後者はその内容
から、さらに興味ある他事項へ移り、関連記憶することができる
特性を保持する。前者は「学生」にとどまり「考える」ことを
しない・一方後者は学生の時期に、既に「大学生」がしなければ
ならない「考える」ことを習得している(かも/個々別々)。
どちらも人工知能に置き換えることができるが、
Googleで終わるか、多数の検索結果を体験するかの違いがある。
前者は記憶量の保持に忙しく後者のような余裕は無く、後者は探求
をするため、前者のような記憶量を期待することは酷である。
なので、短期試験では中間層あたりにいる(成績では並以下とか)。
突っ込んで・これまで(進行形)の教育は3段階(小・中・高)
で、同じ事を繰り返し、単純に記憶(量を増やす/目次を増やす)
量の多さで単位の高低を決めることに終始し、「学(マネ)ぶ」
のみで、「考える」ことに重きを置いていないとみている。
Charley Brown (PEANUT)に度々現れる場面「見せて話す」は、
米国の子どもが、自分なりにテーマを決め、それを他者に説得力
を以って話す(説明する)という、「考える」ことを身につける
訓練をしているのはたいへん参考になる。
現代の「受験戦争」を体験したことはないが、「?」がある。
それは「学校」と「学習塾」の違い/役割はなんだろう・・・?
単純に同じ事を繰り返すだけなら一つ経験上の「提案」がある。
高い塾料を支出しなくとも、安価な市販のテスト用紙を何度も
何度も繰り返し解いてみることだ。学校のテストはその教師色が
あり、傾向している。故に公開模試等の他流試合(テスト)には
不向きである。市販のテスト用紙は、過去の出題例を統計的に
包括し作成されているので、かなりの確率で公開模試等に類似
している。なので市販のテスト用紙(他流試合)を数多くこなす
ことで、どの問いにどういう解答をすべきかが身につく。
出題パターンがあるし、もし分からなければむやみに考えず
「解答」を参照すると、無駄な時間をとらずに適切な解答を知る。
* 言ってみれば「カンニング」の良法だ・ここで重要なのは、
なぜ「その答え」なのかを理解すること。もし分からなければ、
逆たどって「なぜ」を考えてみること。どうしても分からなけ
れば、その時は、追確認をすればよい。
(これらのプロセスが大切であり、力量を知ることもできる)
ともかく「出題パターン」対「解答」をより多く身に着ける
ことが目的で、これにより「対外試合/入試」での発揮を期待。
学校であれ塾であれ、不知のことを決めるため、制限時間を
気にし、かつ他者との差異も気するという無駄な負荷を負う。
自宅で自分のペースで「問いパターン」を多く身につけること
は、経費的にも時間的にも精神的にも負荷が少なく良好だ。
ともかく多くの出題パターンを身につけること。
&対択一試験で気をつけるべきは「肯定質問」か「否定質問」か
を間違えないこと。慌てると「落ち」やすい/ロスだ。
ともかく他流試合を多くこなすこと。当時の経験では、
森茉莉の「父の帽子」、小泉八雲の「東洋一日め」が、高頻度で
出題されていた。この「問い」には「この解答」を覚えるだけで
他流試合にかなりの効果が期待できる。お試しあれ。
記述者は、試験問題から興味を持ち「父の帽子」と「八雲全集」
を読んでいる。
* 森茉莉は森鴎外の子、八雲はラフカディオ・ハーン
言語について、過去の経験に「ゴミをすてる」と言ったとき、
「ゴミ置き場へ持ってゆく」という意味で用いたところ、
「?」とされ、尋ねると「ゴミを散らかす/放置する」という
解釈をされた・ということがあった(東京で)。
東京は多くの地方から人々が集まるので、今日メディアの発達で
いわゆる東京方言を標準語とし、学習用教科書も画一化されている
にも関わらず、多様なアクセントで話され、上述のような用途の
多様化も視られる。
同一語彙であっても他語意になる(言葉遊びではよくつかう)
ということがあるので、当該書籍で頻繁に記述される「限定的」
事例だけを読んで、この場合は「脳のどの部位」が・等即断する
ことは避けたい。十人十色というけれども1000人1000色としたい。
まず出生時に持って生まれた資質(遺伝等)は、両親の血筋に
起因するであろうし(この時点で同一は見込めない)、次いで
どういう環境で育つか(これも類似であり同一は見込めない)、
そしてどういつ訓練(学習等)をするのか(できるのか)、
という多様的組み合わせが、結果を導くのであって、当該書籍の
ように、単純に分類して「脳が・・・」と記述することは、
ぞの道の熟練工には適切であっても、入門者等には早急な提示だ。
まで・
という副題について、どのような回答も
得られていない・が最大の感想。
このテーマを求めて紐解こうとするのなら、
無価値だろう・・・
むしろ「言語処を脳はどこで処理するか‐事例集‐」
とでもするほうが適切か?と・
当該書籍の「論及」は、いちばん最後の最後
「おわりに/個を持つ人間そのものを対象とする
学問‐人間科学‐が必要だと提言したい」にある。
か・といって、人間科学についての具体的明示は
記載されていない。かいつまむと、理系(脳科学等)
にも、言語学等(文系的)要素は必要であり、
文系(言語学等)にも、科学的要素が必要である・
ということを「提言」しただけで、それ以上の内容
(副題)を期待できない。
・ 科学すること
・ 言語について
・ 脳について
・ 複数言語処理について
と、別々に事例で進めている。
ただし、次のの見方をすれば、よいテキストかも?
しれない・・・
① 言語について、脳というものは、どのように
対応しているか?(多数の研究例を要約して引用)
脳のマップも複数あり、このマップは「脳」を
学問する者には、好い例となるだろう。
② 「言語」とは?(脳機能を例として)
② 科学的脳機能の見方の例(言語を例として)。
著者の研究例も含んではいるが、ほとんどは、
他国の研究例引用であるので、当該書籍を土台に、
他国の研究検索に用いることは可能と思う。
最終テーマに「バイリンガル」の脳障害者等の
事例を揚げており、参考・・・になる?というところ
であるが、幾分他国語圏の研究であり、同一対象の
深い研究結果を得られていない(たいていは今後に期待)。
少し興味を持つとすれば、
・生まれつきの母国語(&第二言語)保持者 対
生育後‐数才経過後‐第二言語習得者
の脳機能について記述がある(だからといって
なんの明示的結果を記述していない)ので、
記述者の発想を次に。
〇 複数の言語を習得する際、語彙と語意の違いで
習得すると仮定し、語彙で習得するとすれば、
一々第二言語を母語の語彙に翻訳(置き換え)して
習得し、語意で習得するとすれば、直イメージで
記憶し、一々母語へ翻訳していない・のではないか?
と考える。
すこし違うかもしれないが、例えとして、
義務教育で米語を、対試験用としてのみ「記憶」する
ことに対し、米(英)語の歌を好んで聴き覚える
(歌詞をみてさらに定着する)という違いを考える。
これを機械処理で表すと、一々単語と並べ方を記録し
その量を単純に増やす方法と、IMEが行っているように、
文字パターンを(変えながら)増やし、確率的にその量を
増やす方法に似ているかもしれない。
前者(義務教育的)は、記憶(記録)しているか否かのみ
で、量(点数)が決定され、後者(好んで接する量)は、
繰り返し確認をすることで量より質(精度)を高めること
ができる・違いを考える。
この前者/後者は実際の「所謂受験戦争」の対象者にも
現れ、短期記憶の好い者は、その場しのぎの高得点を得られる
が、対長期戦の「入試」等では記憶を消失し、得点にならない・
一方、量少数でありながら深い理解とともに記憶した者は、
多角的に問いに対応できるので、記憶の定着するまでは
得点とならないが、対長期戦ではその質を発揮できる・という
現象があるように実感する。
別の例えとして・短期記憶は、あたかも百科事典の目次のみ
を確実に多く記憶するが、同一レベルで記憶するので、やがて
混乱や消失することで、記憶の定着量が落ちる者・一方目次を
記憶しつつも、その量は少ないが、目次で参照する内容に
興味を持ち、内容とともに事柄を記憶することで、項目量こそ
少ないが、その事項を伴っているので、いっそう確実性を
保っている者の違いといえるかもしれない。前者は目次のみの
ため、他事項への関連発展性を期待できないが、後者はその内容
から、さらに興味ある他事項へ移り、関連記憶することができる
特性を保持する。前者は「学生」にとどまり「考える」ことを
しない・一方後者は学生の時期に、既に「大学生」がしなければ
ならない「考える」ことを習得している(かも/個々別々)。
どちらも人工知能に置き換えることができるが、
Googleで終わるか、多数の検索結果を体験するかの違いがある。
前者は記憶量の保持に忙しく後者のような余裕は無く、後者は探求
をするため、前者のような記憶量を期待することは酷である。
なので、短期試験では中間層あたりにいる(成績では並以下とか)。
突っ込んで・これまで(進行形)の教育は3段階(小・中・高)
で、同じ事を繰り返し、単純に記憶(量を増やす/目次を増やす)
量の多さで単位の高低を決めることに終始し、「学(マネ)ぶ」
のみで、「考える」ことに重きを置いていないとみている。
Charley Brown (PEANUT)に度々現れる場面「見せて話す」は、
米国の子どもが、自分なりにテーマを決め、それを他者に説得力
を以って話す(説明する)という、「考える」ことを身につける
訓練をしているのはたいへん参考になる。
現代の「受験戦争」を体験したことはないが、「?」がある。
それは「学校」と「学習塾」の違い/役割はなんだろう・・・?
単純に同じ事を繰り返すだけなら一つ経験上の「提案」がある。
高い塾料を支出しなくとも、安価な市販のテスト用紙を何度も
何度も繰り返し解いてみることだ。学校のテストはその教師色が
あり、傾向している。故に公開模試等の他流試合(テスト)には
不向きである。市販のテスト用紙は、過去の出題例を統計的に
包括し作成されているので、かなりの確率で公開模試等に類似
している。なので市販のテスト用紙(他流試合)を数多くこなす
ことで、どの問いにどういう解答をすべきかが身につく。
出題パターンがあるし、もし分からなければむやみに考えず
「解答」を参照すると、無駄な時間をとらずに適切な解答を知る。
* 言ってみれば「カンニング」の良法だ・ここで重要なのは、
なぜ「その答え」なのかを理解すること。もし分からなければ、
逆たどって「なぜ」を考えてみること。どうしても分からなけ
れば、その時は、追確認をすればよい。
(これらのプロセスが大切であり、力量を知ることもできる)
ともかく「出題パターン」対「解答」をより多く身に着ける
ことが目的で、これにより「対外試合/入試」での発揮を期待。
学校であれ塾であれ、不知のことを決めるため、制限時間を
気にし、かつ他者との差異も気するという無駄な負荷を負う。
自宅で自分のペースで「問いパターン」を多く身につけること
は、経費的にも時間的にも精神的にも負荷が少なく良好だ。
ともかく多くの出題パターンを身につけること。
&対択一試験で気をつけるべきは「肯定質問」か「否定質問」か
を間違えないこと。慌てると「落ち」やすい/ロスだ。
ともかく他流試合を多くこなすこと。当時の経験では、
森茉莉の「父の帽子」、小泉八雲の「東洋一日め」が、高頻度で
出題されていた。この「問い」には「この解答」を覚えるだけで
他流試合にかなりの効果が期待できる。お試しあれ。
記述者は、試験問題から興味を持ち「父の帽子」と「八雲全集」
を読んでいる。
* 森茉莉は森鴎外の子、八雲はラフカディオ・ハーン
言語について、過去の経験に「ゴミをすてる」と言ったとき、
「ゴミ置き場へ持ってゆく」という意味で用いたところ、
「?」とされ、尋ねると「ゴミを散らかす/放置する」という
解釈をされた・ということがあった(東京で)。
東京は多くの地方から人々が集まるので、今日メディアの発達で
いわゆる東京方言を標準語とし、学習用教科書も画一化されている
にも関わらず、多様なアクセントで話され、上述のような用途の
多様化も視られる。
同一語彙であっても他語意になる(言葉遊びではよくつかう)
ということがあるので、当該書籍で頻繁に記述される「限定的」
事例だけを読んで、この場合は「脳のどの部位」が・等即断する
ことは避けたい。十人十色というけれども1000人1000色としたい。
まず出生時に持って生まれた資質(遺伝等)は、両親の血筋に
起因するであろうし(この時点で同一は見込めない)、次いで
どういう環境で育つか(これも類似であり同一は見込めない)、
そしてどういつ訓練(学習等)をするのか(できるのか)、
という多様的組み合わせが、結果を導くのであって、当該書籍の
ように、単純に分類して「脳が・・・」と記述することは、
ぞの道の熟練工には適切であっても、入門者等には早急な提示だ。
まで・
2023年3月15日に日本でレビュー済み
私は高校卒業レベルの数学しかわからないのでチョムスキーの本は読んでもよくわからないのでそういう人にとってこの本はオススメです。それと一般的に自己啓発本で言われている左脳右脳論はでたらめだと言うことも脳科学の観点から鋭く批判されています。
2013年4月24日に日本でレビュー済み
私は言語学には明るくないですが、そんな私にとっては言語学と脳科学の関係が見渡せる、とても有意義な本でした。他のレビューに「誹謗中傷的な言い回し」について批判的なレビューをされている方もいらっしゃいますが、私にとっては「言語学でもいろいろ立場が違うのだなぁ」というのが良く分かり、ある意味勉強になりました。
2011年6月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
1章〜4章は、脳科学(脳研究全般ではなく、言語に関する脳の働きの解明を
目的とする脳科学)と生成文法の関係を説くために書かれたと思われる内容です。
ただし、著者の誤解に基づく思い込みが激しい内容で、生成文法の知識が
少し怪しい部分が垣間見えますし、言語心理学や社会言語学など、
他の言語学を不当に誹謗している書き方で、参考にはならない内容です。
5章〜10章には、本題であり、著者の専門分野である脳科学の話が書かれています。
でもその内容は、著者の研究成果ではなく、今まで過去に他の研究者によって
明らかにされて来た内容を浅く紹介する程度のものです。
著者の専門分野なので、読む前は期待していましたが、
実際は、脳科学の最初歩の内容で、他の入門書で書かれている内容と同じです。
そうしたものをすでに読んでいる方はこの本を読む必要はないと思います。
11章は手話について、12章と13章は言語獲得と脳についての内容です。
これらも他の入門書で書かれている内容と代わり映えせず、
そうしたものをすでに読んでいる方はこの本を読む必要はないと思います。
以上のように、「専門書でなく新書だからね、こんなもんでしょ」って感じの内容です。
ただし、脳科学に関する記述は問題ないのですが、1章〜4章の他分野への批判は、
あくまで著者の誤解や思い込みに基づいた不当なもので、
予備知識のない読者は、著者のこれらの言葉を真に受けてしまう危険があります。
これを理由に星2つとしました。
目的とする脳科学)と生成文法の関係を説くために書かれたと思われる内容です。
ただし、著者の誤解に基づく思い込みが激しい内容で、生成文法の知識が
少し怪しい部分が垣間見えますし、言語心理学や社会言語学など、
他の言語学を不当に誹謗している書き方で、参考にはならない内容です。
5章〜10章には、本題であり、著者の専門分野である脳科学の話が書かれています。
でもその内容は、著者の研究成果ではなく、今まで過去に他の研究者によって
明らかにされて来た内容を浅く紹介する程度のものです。
著者の専門分野なので、読む前は期待していましたが、
実際は、脳科学の最初歩の内容で、他の入門書で書かれている内容と同じです。
そうしたものをすでに読んでいる方はこの本を読む必要はないと思います。
11章は手話について、12章と13章は言語獲得と脳についての内容です。
これらも他の入門書で書かれている内容と代わり映えせず、
そうしたものをすでに読んでいる方はこの本を読む必要はないと思います。
以上のように、「専門書でなく新書だからね、こんなもんでしょ」って感じの内容です。
ただし、脳科学に関する記述は問題ないのですが、1章〜4章の他分野への批判は、
あくまで著者の誤解や思い込みに基づいた不当なもので、
予備知識のない読者は、著者のこれらの言葉を真に受けてしまう危険があります。
これを理由に星2つとしました。
2014年9月13日に日本でレビュー済み
この新書版は、言語というものが物理的に脳の言語関連領域(従来左脳で分割・解析、右脳で整流・統合するといわれてきた)で生成する、
という視点に立って書かれたものです。いわば単語が文法体系に乗って脈絡をなす形で配列するもので、
モジュラー形式というのは、言語生成上その際のコアとなる単語なり概念なり(つまりキーワードやキーコンセプト)のまわりで、
コンテクストやムードあるいは文法規則なりが取り巻くように触発して、場に適応した有意な立体配座(コンホメーション)となるように、
残りの単語や概念を配位するようです。
たとえていえば、化学結合における配位的な錯体(よってケアレスミスを含む!)にあたるものでしょうか。
このときに左脳と右脳が脳梁を介して連携し、よく要素レベルにまで分析された単語なりが、
その場の状況にあうかたちで、最小限の文法規則に従って配列される、とも考えられます。
この点、コミュニケーションとはコーディングとデコーディングであり、インプットとアウトプットなのです。
本書にはいろんなキータームがでてきますが、それもこの分野がまだ新しい模索過程にあるからで、
学問分野として十分に確立されたものではないからなのです。
従来、伝統的な言語学は独自の方法論から言語にアプローチしてきましたし、心理面との連携もありましたが、
より物理学の方法を取り入れたアプローチは新しいもので、コンピューターサイエンスや工学畑からは、
ニューラルネットワークなどのアプローチがある程度理解され浸透もしていますが、
脳の構造を物理的に捉え直した上で、単語や概念要素がどう脳内に分布し、
どんな適合的状況下で、どう組み上がってゆくのかというブートストラッピング過程をもろに扱える分野は、
「唯脳論」を含めまだあまり多くはないようですね。唯脳論はそのパラダイムを与えてくれる重要な考え方だと思っています。
本書は学問としてまだ新生の物理言語学を、手話通訳や言語障害などの事例を参照しながら、
従来の言語学(音韻論/統辞論/語用論)からはみでてしまう言語現象まで含めて、総合的に扱ってゆこうという意気込みに満ちたものとして、
その基本的な考え方の一端を広く紹介した良書ですから、幅広い言語現象に関心のある方になら誰にでもおすすめできると思いました。
という視点に立って書かれたものです。いわば単語が文法体系に乗って脈絡をなす形で配列するもので、
モジュラー形式というのは、言語生成上その際のコアとなる単語なり概念なり(つまりキーワードやキーコンセプト)のまわりで、
コンテクストやムードあるいは文法規則なりが取り巻くように触発して、場に適応した有意な立体配座(コンホメーション)となるように、
残りの単語や概念を配位するようです。
たとえていえば、化学結合における配位的な錯体(よってケアレスミスを含む!)にあたるものでしょうか。
このときに左脳と右脳が脳梁を介して連携し、よく要素レベルにまで分析された単語なりが、
その場の状況にあうかたちで、最小限の文法規則に従って配列される、とも考えられます。
この点、コミュニケーションとはコーディングとデコーディングであり、インプットとアウトプットなのです。
本書にはいろんなキータームがでてきますが、それもこの分野がまだ新しい模索過程にあるからで、
学問分野として十分に確立されたものではないからなのです。
従来、伝統的な言語学は独自の方法論から言語にアプローチしてきましたし、心理面との連携もありましたが、
より物理学の方法を取り入れたアプローチは新しいもので、コンピューターサイエンスや工学畑からは、
ニューラルネットワークなどのアプローチがある程度理解され浸透もしていますが、
脳の構造を物理的に捉え直した上で、単語や概念要素がどう脳内に分布し、
どんな適合的状況下で、どう組み上がってゆくのかというブートストラッピング過程をもろに扱える分野は、
「唯脳論」を含めまだあまり多くはないようですね。唯脳論はそのパラダイムを与えてくれる重要な考え方だと思っています。
本書は学問としてまだ新生の物理言語学を、手話通訳や言語障害などの事例を参照しながら、
従来の言語学(音韻論/統辞論/語用論)からはみでてしまう言語現象まで含めて、総合的に扱ってゆこうという意気込みに満ちたものとして、
その基本的な考え方の一端を広く紹介した良書ですから、幅広い言語現象に関心のある方になら誰にでもおすすめできると思いました。
2008年6月15日に日本でレビュー済み
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言語学というとほとんどの大学や研究機関では文系の範疇に入る。
そして研究者の大半も文系の訓練を受けてきた人々である。
それは文字や音声で表現される言語というものは再現性や反証性を重視する自然科学の手法になじみくかったこともあろう。
しかし、認知科学や脳科学の発達により、言語活動を脳の活動と関連させて研究する手法が広くとられるようになってきた。脳の活動から言語をとらえることによって従来の言語学の知見が再確認されたものもあれば、否定されたものもあり、まったく新しい局面を迎えたものがある。脳科学により言語学はさらなる発展を遂げたとも言えよう。
だが、著者も言うように脳科学者には基本的な言語学の知識を欠いたまま言語活動について論究する者もいるようである。言語学者が脳科学の知見を踏まえるのも当然であるが、脳科学者が言語学の成果を知ることも同様に必要である。近年進む学際的研究の典型であろうが、双方の専門への敬意を持って研究を進めていただきたい。
脳科学を専門とする著者が最前線の知見をできるだけわかりやすく紹介しようとする意気込みは買うが、それでも難しい。
脳科学の話となるとわかりやすくするにも限界があるのは致し方ないというところだろうか。
とりあえず脳科学の奥深さ、それでも脳が言語をどのように処理しているかにはまだまだわからないことの方が多いということはわかった。
そして研究者の大半も文系の訓練を受けてきた人々である。
それは文字や音声で表現される言語というものは再現性や反証性を重視する自然科学の手法になじみくかったこともあろう。
しかし、認知科学や脳科学の発達により、言語活動を脳の活動と関連させて研究する手法が広くとられるようになってきた。脳の活動から言語をとらえることによって従来の言語学の知見が再確認されたものもあれば、否定されたものもあり、まったく新しい局面を迎えたものがある。脳科学により言語学はさらなる発展を遂げたとも言えよう。
だが、著者も言うように脳科学者には基本的な言語学の知識を欠いたまま言語活動について論究する者もいるようである。言語学者が脳科学の知見を踏まえるのも当然であるが、脳科学者が言語学の成果を知ることも同様に必要である。近年進む学際的研究の典型であろうが、双方の専門への敬意を持って研究を進めていただきたい。
脳科学を専門とする著者が最前線の知見をできるだけわかりやすく紹介しようとする意気込みは買うが、それでも難しい。
脳科学の話となるとわかりやすくするにも限界があるのは致し方ないというところだろうか。
とりあえず脳科学の奥深さ、それでも脳が言語をどのように処理しているかにはまだまだわからないことの方が多いということはわかった。