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教養主義の没落: 変わりゆくエリート学生文化 (中公新書 1704) 新書 – 2003/7/1
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- ISBN-104121017048
- ISBN-13978-4121017048
- 出版社中央公論新社
- 発売日2003/7/1
- 言語日本語
- 本の長さ278ページ
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商品の説明
商品説明
教養主義とは、読書を通じて得た知識で、人格を磨いたり社会を改善していこうとする人生観のこと。大正期の旧制高校ではぐくまれた思潮で、戦後も1970年前後までは大学生の規範文化だった。本書はさまざまな文献や統計を素材に、教養主義の盛衰を実証していく。たとえば、勉強時間や書籍費、スポーツへの関心などについて教養主義の担い手たる帝大文学部生と他学部の学生を比較したり、学生の検挙率からマルクス主義の浸透を解読、または、大学生への読書調査をもとに、戦後、「世界」「中央公論」といった総合雑誌が読まれなくなっていくさまを提示する、といった具合である。こうした検証だけでも充分おもしろいが、「いったい教養主義とはなんだったのか」という考察にまで筆が及んでいるところが、なにより注目に値する。
著者によれば、教養主義を支えたのは、都市の気風よりも、むしろ農民的刻苦勉励の精神である。これも単なる印象ではなく、帝大文学部の学生は他学部にくらべて農村出身者の割合が高かったという。知識人として文化的生活を送ることへの憧れが背後にあったと考えられるのだ。ゆえに戦後、都市と農村の文化格差が消失し、学生がエリートでなくなったとき、教養も意味を失ったとする。さらに本書では、大学生の権威が失墜した不安や怒りを源泉に学園紛争が起こったという見方を示しているが、これもさまざまな資料にもとづき教養主義の斜陽が述べられたあとだけに、はっとするほどの説得力を持っている。
とはいえ、本書は単に実証的・論説的な書物ではない。あからさまに謳(うた)うことは避けていても、教養主義に対する愛惜が端々ににじみ出ており、それが骨太なメッセージとなって伝わってくるのだ。著者も述べているように、今後かつてのような教養主義が復活することはまずありえないだろう。しかし、文化がますます軽く、歯ごたえのない消費財となっていく時代、そのなかにいささか学ぶべきものがあると考えても決して的はずれではあるまい。(大滝浩太郎)
登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2003/7/1)
- 発売日 : 2003/7/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 278ページ
- ISBN-10 : 4121017048
- ISBN-13 : 978-4121017048
- Amazon 売れ筋ランキング: - 24,757位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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著者によれば、昔(戦中、戦前)の大学生というのはとにかく難しい本を読む人、というイメージだったそうである。私はもっとずっと新しい時代に生きているけれど、田舎のことゆえ周囲に大学生という存在がなく、殆ど同じようなイメージを抱いていたことを思い出す。また、本書を読んで実に久しぶりに「三太郎の日記」(阿部次郎著)などという本を思い出した。著者によって哲学めいた教養書の代表的な本として名指しされているこの名著を、私も大学に入りたての頃に読んだ。ただ、内容を覚えていないことを考えると余り良く理解できなかったものと思う。しかし、とにかくわかろうと努力したことは事実で、知的な格闘はした痕跡がある。
また、中央公論という雑誌が大学生にとってとても重要な地位を占める本だったということを初めて知った。私の中では子供の頃からずっと大人、つまりおじさんの雑誌という位置づけだったのだが、昔の大学生はこれを教養の一部としてわからなくても購入していた、という。最近では文藝春秋との境界も曖昧だが、昔は中央公論の方がずっと格上だったということである。
なぜ没落したのか、ということを本書はつきつめて書いていないのだが、確かにつきつめて考える特段の理由もなく、ただそれが時代の流れだということもできよう。しかし、やはり大学生というのはいつの世も知性の代表的な存在でありたいと願う。せめて東大や京大のエリート学生は、他とは一線を画する知のオーラのようなものをずっと発散していて欲しい。大学生の知性が退潮傾向にある今となってはもう遅く、ただの夢なのだとわかってはいるのだけれど。
著作や翻訳は故意に難解にされ、読解は困難を極めた。
たとえば、本書に吉本隆明の次の言葉が引用されている。『「革命」とは「現在」の市民社会の内部に膨大な質量でせり上がってきた消費としての賃労働者(階級)の大衆的理念が、いかにして生産労働としての自己階級と自己階級の理念を超えてゆくか、という課題だと考えております。』(p.229)
こういうのが有り難がられたのは、理解したふりをすることがかっこよかったからで、本書でも所々触れられている(たとえば冒頭での三島由紀夫の引用)。
本書は、戦前からの、この教養主義が崩壊してゆく過程を書いたものだそうだ。
それにしても、本書を読んでいると、小学生の作文を読まされている気分になる。
単調で起伏の全くない文章。
石原慎太郎を引用している部分なんかは引用なのでいきいきとしてて、で、その引用が終わって作文に戻ると、砂をかむ思いに戻る。
対比が鮮やかで、実に!分かりやすい。
(知らなかったが石原慎太郎は筆の立つ人には違いない)。
上の吉本隆明がビートたけしにやられたのがよほど悔しかったのは、分かる気がする。
だが、「耳穴っこ」なんて誰も知らない言葉(Weblioやgoogleで調べてみよう)で悔しさを言い表すよりか、この言葉の出典だというポール・ウィルスという人が世界にどのような角度で切り込んだのか、それを書く方が教養というものだろう。
『「耳穴っこ」なんて言葉、知らないだろう!この無教養漫才師め、ざまあみろ!』という著者のメンタリティーが透けて見える。
このメンタリティーこそがファッションに過ぎない教養主義の本質であって、当時ビートたけしに攻撃されたポイントだというのに、著者は更にそのポイントにわざわざ特攻していくのである。耳穴っこ!
ところで、あの頃大流行したニューアカには全く触れていないが、一体なぜなのか。
浅田彰は著者と同じ京大の人なのに、大ヒット作「構造と力」が本書には登場しない。
片手落ちのような気もするが、分かる気もする。触れたくないのだ。
あのニューアカこそ教養主義のバブルだったと個人的には思っている。実体のないバブル状態の信用が膨らんでニューアカではじけたとき教養主義は崩壊して、あとはぺんぺん草一枚生えなくなった、そういう理解をしている。
この点著者は、学生のサラリーマン化とか、更に「サラリーマン予備軍には専門知や教養知を必要としないのである。」(p.208)という学生側の変化によって教養主義が終焉を迎えたと書いている。
たしかにあの頃の大学はディズニーランドと言われたが、しかし、そのような学生に教養を身につけさせることができなかったのであれば、それを教える著者の側に責任があるのではないか。教養課程の2年間とは、いったい何だったのだ。
だから、教授である著者は、実は教養主義の崩壊に荷担した側なのだ。
この著者の唯一の功績は、戦後日本のこの暗黒時代を(教養ではなく)「教養主義」と命名したことだろう。ただ、著者はこの教養主義の時代を暗黒とは思っていない。
なお最近は、光文書古典新訳文庫など分かりやすいシリーズが発刊され、いい時代になったなあという思いが個人的に強い。
こういうわかりのいいものを肥やしにするのが、遠回りだが確実な方法だと信じている。
本を読んだこと自体が大事なのではないし、それ自体は何のステータスにもならない。ファッションは実体を伴わない。
その本を読んで、どう考えどう思ったか、その消化とそのことを人に伝えること、こちらの方が大切なはずだ。
自分はここで、この本を読んでいろいろ思ったことを、当時の記憶も併せて書き連ねた。まったく愚かしい時代だった。長文になってしまってまことに申し訳ない。
小学生の作文が続くだけという意味では星1つだが、教養主義という暗黒時代さ加減が期せずして現れているという意味では星5つのこの本に、間を取って星3つ。
松田聖子は「野菊の墓」に主演したが、その次は「プリメイラの伝説」。菊池桃子にいたっては「パンツの穴」だ。
「文学作品をありがたがる風潮がなくなった」と漠然と考えていたが、もっと大きな変化の現れのように感じていた。
本書を読んでその背景がよく分かった。
たしかに、それは現代においてはもはや効力を持たない過去の遺物かもしれない。
しかし、大正教養主義から始まり、70年代に至るまで、教養主義は様々な形態をとりながら、影響力を維持してきた。
本書は、ブルデューの理論を用いながらも、日本に固有の教養主義の展開を様々な側面から明らかにしていく。
それぞれの時代の精神を反映する小説にも数多く言及しており、たいへん興味深い。
構成は、旧制高校に存在していた「教養主義」について
新制高校と旧制高校の切り替え時に注目して考察を行っています。
特に、この切り替え時期である大江健三郎、高橋和己、石原慎太郎を比較し
「教養主義」が彼らにどんな違いをもたらしたのかを述べています。
またこの当時の色々な文化と「教養主義」の関係を述べています。
さらに当時の「岩波書店」がどのような関係あるのかを述べて
「教養主義」の定義を行っています。
最後にその「教養主義」が現在にどのように息づいているのか
アンチクライマックスという形で示しています。
社会学の本として、また旧制高校を知らない世代として
このころの「教養」とは何か、どのような変遷を辿ったのかを
知る良い手がかりとして有用でした。また、
現在に生きる私として「教養」の価値を計れるこの内容は
大学教育に求めるものとは何かを考えるうえでも私は
うれしかったです。
教養と教養主義の輝きとその後の没落過程を改めて問題として考察した書(P25より)。
教養主義とはどのようなものだったか、ということが理解できたのは収穫だった。
著者いわく教養主義とは、哲学・歴史・文学など、
人文学の読書を中心にした人格の完成を目指す態度である。
その精髄は、農村の若者たちの「西欧文化志向」と「成り上がり志向」にあり、
公卿や武家とは違う、新興のブルジョア階級の精神的拠り所となった。
また教養主義とは、万巻の書物を前にして教養を詰め込む預金的な志向・態度である。
それは学識を積んだ者とそうでない者との間に、強制的な上下関係・支配関係を作り、
一種の特権階級として機能した。
ところが1970年代になると、人口増加に伴い大学生の数が増え、
ほとんどの生徒が大衆的サラリーマンになることが分かると、
学歴エリート文化である特権的教養主義に、文化資本としての魅力は無くなった。
また、農村と都市の生活格差が無くなったことから、教養主義の土台も消滅した。
さらに現代の大学生は、人間形成の手段に従来の人文的教養を必要とせず、
代わりに友人との交際を選ぶようになっている。
著者は、現在の教養主義の凋落の状態を、ビートたけしを例に出して以下のように書き表している。
『たけしという知的野郎どもは、野郎どもや大衆的平均人を観客にしながら、「優等生」と「耳穴っ子」を
いじめるのである』(P230)
人格形成が教養主義の目的であるなら、難しいことを自分だけが知って満足するのではなく、
他人に分かりやすく説明する配慮をもつことが大切なのではないかと思う。
たけしは、『オレたちのような大衆が読んでもイメージの湧かない言葉は、
何のための、だれに向けた言葉なのか。それがわからない(中略)
年寄りだけにわかる言葉を使って、現実からますます遠ざかっているのはなぜか、わからない』
(P229)とも言った。しかし残念なことに、この問いに対する著者の見解は記されていない。