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ミッション・スクール: あこがれの園 (中公新書 1864) 新書 – 2006/9/1

4.2 5つ星のうち4.2 7個の評価

ダブルポイント 詳細
天皇家にミッション・スクール出身者が嫁ぐ例が続いた。事実、ミッション・スクールには、どこか「やんごとない」雰囲気が漂っている。こうしたイメージは、いかに形成されてきたのか。そしてそれは日本人について何を語っているのか。日本社会において独自の地位を保つミッション・スクール。その来歴を辿り、忌避と羨望のあいだを揺れ動いてきたイメージの変遷を浮き彫りにする。全国のミッション中・高校一覧つき。
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登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 中央公論新社 (2006/9/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2006/9/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 新書 ‏ : ‎ 246ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4121018648
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121018649
  • カスタマーレビュー:
    4.2 5つ星のうち4.2 7個の評価

著者について

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佐藤 八寿子
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カスタマーレビュー

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上位レビュー、対象国: 日本

2021年2月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
大学生ですが、ミッションスクールについての議題を扱うのであれば、目を通しておくと円滑に進むと思われます。
2013年11月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
以前から気になっていた本を、とうとう入手できました。きれいな本で満足しています。
2014年5月23日に日本でレビュー済み
佐藤八寿子『ミッション・スクール----あこがれの園----』(中公新書,2006年)を読んだ。
表紙の裏には本書を次のように紹介している。
天皇家にミッション・スクール出身者が嫁ぐ例が続いた。
事実,ミッション・スクールには,どこか「やんごとない」雰囲気が漂っている。
こうしたイメージは,いかに形成されてきたのか。
そしてそれは日本人について何を語っているのか。
日本社会において独自の地位を保つミッション・スクール。
その来歴を辿り,忌避と羨望のあいだを揺れ動いてきたイメージの変遷を浮き彫
りにする。
全国のミッション中・高校一覧付き。
これはおもしろそうだと思って読み始めた。
冒頭の一行で魂をわしづかみにされた。
「蔦のからまるチャペルで祈りをささげた日
1960年代後半に大ヒットし,その後も長く愛唱されてきた『学生時代』(1964)は,この歌詞から始まる」(p.ⅰ)
うまい書き出しだ。
佐藤八寿子は芸人だ。それも一流のエンターテナーだ。
一流のエンターテナーは客(読者)の心をつかむ術を心得ている。
のっけから魂を奪われてしまった僕は佐藤八寿子がおしげもなくくりだすネタを楽しく味わうだけだ。
246ページを一気に読んでしまった。
「立身出世主義者と良妻賢母が相補いつつ社会的役割を果たす陽画(ポジ)であるならば,ファム・ファタルは近代日本知識人の慾望の陰画(ネガ)そのものである。
(中略)
彼女たちはミッション女学生だからこそ,良妻賢母たちはもちろん,メリトクラシーの枠の外部にいる悪女や妖婦たちももちえなかった衝撃力をもちえたのだ」(p.144)
この指摘には目からウロコが落ちた。
ファム・ファタール(仏:Femme fatale)は、男にとっての「運命の女」(運命的な恋愛の相手、もしくは赤い糸で結ばれた相手)の意味。また、男を破滅させる魔性の女(悪女)のこと。
ミッション・スクールの女学生を「運命の女」として慾望していたなんて!
だから僕はミッション・スクールのお嬢様にあんなに憧れるのだ。
彼女たちは美しく清楚だ(だからこそ僕にとってセクシーだ)。
でもこれは僕が近代日本社会を生きていく中で身につけてしまったイメージなのだ。
なぜこんなことになってしまったのか?
本書はその秘密をあますことなく明らかにしてくれる。
おまけに,なぜ僕が村上春樹が好きなのか,ジャズが好きなのか,留学生に日本語を教えるボランティアをしているのか,なぜ僕が……etc.
いろんなことを明瞭に理解させてくれる。
あまりにたくさんのことがわかったので僕はずいぶん得をした気分になった。
ありがとう。佐藤八寿子さん!
2011年4月15日に日本でレビュー済み
思い出したので、瑣末な部分をひとつ。

「日本主義的英語学者」松田福松に関するところで、納得し難い文章がある。p158。
リンカーンの「GETTYSBURG ADDRESS(本書の−ADRESS−は脱字がある」
の解釈をめぐる彼の姿勢を「典型的なパラノイア型知識人」と表現しているところ
である。

実は岩波文庫の高木八尺・斎藤光訳『リンカーン演説集』などは、日本語として意
味が把握できるものではない。government(of the people)を「人民の」では
トンチンカンで「人民を統治する」と解釈してその意味が明瞭となる。peopleは目
的語である。
 
松田福松は蓑田胸喜と活動した汚点をもつが、この論文だけは秀逸である。松田が
パラノイア型なのではなく、高木八尺らがイデオロギーで解釈したのが事実である。

松田福松のこの論文は「真面目」とか「一生懸命」というより、「学問的」という
べきである。基本的な政治哲学の知識があれば、彼の論文の価値がわかる。

本書の主なテーマとは離れるが、ジョージ・モッセの翻訳者である著者が、この文
章を書かれたことに小さな驚きを覚えざるを得なかった、というのが本音である。
まことに瑣末ですが、たいへん重要なことなので一言。
2007年2月14日に日本でレビュー済み
本書は近現代日本社会における

ミッションスクールのイメージをめぐる研究書である。

甘い、魅惑的な題名とは裏腹に、

そのイメージの源泉を探った硬派な内容である。

立身出世を夢見て上京し、刻苦勉励する明治の青年が

強力な上昇志向のイデオロギーに縛られていたがゆえに

その潜在意識がミッション・ガールという

ファム・ファタルを産んだという記述は興味深い。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2006年9月30日に日本でレビュー済み
先日、仙台の歴史を取り上げたグラビア本で、宮城女学院の生徒の戦前の集合写真を見る機会がありました。そこに残されていたのは、大東亜戦争直前の昭和10年代に、しゃれた洋装に身を包んだ戦前のミッションスクールの女学生たちでした。どの顔も屈託がなくその後に待ち受ける苦難を予想させるものは何も感じさせません。このようなミッションスクールが、なぜ日本にそれも東京以外の場所にまで、多数作られたのかについて、この作品は答えを与えてくれます。この特異な存在が、日本の近代の中で演じた役割は、一筋縄ではいきません。それは、西欧文化導入と近代化のルートとしての必然性とその存在に対する本質的な誤解に由来する喜劇性の両面を持つものです。著者は、mosseの国民化理論をベースとして、この不可思議な対象に接近していきます。したがって、この対象は、国民化現象の日本に特有な発現形態である立身出世主義の陰画として、描かれることになります。著者の分析は、明治に始まり現代の平成のコミックにまで射程を広げていますが、この二面性の分析は見事です。しかし、現代の受験校の選択と絡めてミッション・スクールの存在を取り上げた部分(218ページから)は、私には醜悪な構図にしか思えませんでした。もっともその醜悪さは、日本の近代が必然的に引き受けざるを得なかった側面なのでしょうが。最後の結語の部分も、その存在の究極的な”堕落”の必然性の認識においては、あまりにもナイーヴな結語に終始しています。最後の最後まで著者自身の経歴は語られることなく、限りなく禁欲的な作品です。
9人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2007年4月25日に日本でレビュー済み
 竹内洋に師事し、G.L.モッセの翻訳者である1959年生まれの教育社会学研究者が、国民化の原動力としての市民的価値観に伴う葛藤に焦点を当てようとして、メディア論的アプローチから、近代日本におけるミッション・スクール・イメージの解明を試みた、2006年刊行の本。ミッション・スクール(キリスト教主義学校)は、クリスチャンの少ない近代日本において、独自のイメージを醸し出す存在であった。明治初頭には、江戸時代以来の禁教イメージと、新たな存在理由を求める仏教界からの攻撃によって、それは数々の「不敬事件」の舞台とされ忌避される(=受難)と同時に、西洋先進文化の徴として(かつ高貴なイメージの一人歩きによって)、羨望の対象ともなった。ミッション・スクールのイメージは文学作品を通じて流布され、特にその女生徒は男性の視点から(大正期には女性による少女文化も開花するが)、リベラルでハイカラな文化を身につけた、無垢でスキゾ的な都会の誘惑者=一種のファム・ファタルとして、パラノ的奮闘によって立身出世を夢みる田舎出の青年にとっての、嫌悪と羨望の対象として描かれた。高度成長の後、立身出世主義的突貫が魅力を失うと同時に、その影としてのファム・ファタルの魅力も低下する(美智子妃と雅子妃の差異)が、未だにミッション・スクールは西洋文化(およびその陰謀)、ファッション、階層感(とその戯画化)、乙女、性倒錯と結び付いた独自の記号性を帯びており、価値観の多様化の中で、今後もその存在価値を失わないであろうと著者は言う。本書においては、現在のサブカルチャーも視野に入れられているとはいえ、明治〜昭和前期の文学作品を通じたミッション・スクール・イメージの形成と、そのナショナリズムとの関係に重点があり、その分析も説得的だが、その間の変化の側面が見えにくいように感じる。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート