「国語」というものはなんだろうか、そもそも実体として存在するものだろうか、という問題意識にもとづいて近代日本史をたどる。
明治維新によって中央集権国家として国民国家化を推しすすめる日本は「国語」を創始し、「方言」のみならず、北海道のアイヌや沖縄をも同化し、それは台湾や朝鮮半島、ひいては大東亜共栄圏にまで及ぶ。
そして敗戦後の国内や韓国での残された痕跡について、もろもろの学者を取り上げ、その学説的展開を踏まえながら、あらためて「国語」なるもののを解体していく。つまり、科学的には実体のない政治的なものであることを明らかにしていく。
そこから今日の「音読ブーム」や「英語公用化論」などにも一定の視座を提供する。
参考・引用文献と人物略歴、関係年表が非常に充実しており、今後の読書・研究の助けになる。
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「国語」の近代史: 帝国日本と国語学者たち (中公新書 1875) 新書 – 2006/12/20
安田 敏朗
(著)
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明治維新後、日本は近代的な統一国家を目指し、ことばの地域差・階層差を解消するため「国語」を創始する。「国語」は国民統合の名の下に方言を抑圧し、帝国日本の膨張とともに植民地・占領地にも普及が図られていく。この「国語」を創り、国家の国語政策に深く関与したのが、国語学者であった。仮名文字化、ローマ字化、伝統重視派、普及促進派などの論争を通し、国家とともに歩んだ「国語」と国語学者たちの戦前・戦後を追う。
- ISBN-104121018753
- ISBN-13978-4121018755
- 出版社中央公論新社
- 発売日2006/12/20
- 言語日本語
- 本の長さ308ページ
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- 出版社 : 中央公論新社 (2006/12/20)
- 発売日 : 2006/12/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 308ページ
- ISBN-10 : 4121018753
- ISBN-13 : 978-4121018755
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上位レビュー、対象国: 日本
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2010年5月31日に日本でレビュー済み
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文献や過去の研究者についての基本情報が一杯。網羅的ではなくとも、きっと信用がおけると思うので(歴史家でない大学のセンセイの「〜史」が、信用性以外の美点を果たして持つものだろうか−ちょっとキツいけど)、私のような日本語の近現代史初心者にはありがたかった。この本だけで、少なくとも昭和前半については必要な参考文献は全て集められると思う。
センセイは左派言語学者でおられるのだろうか。同著後半の共産主義的国語教育が失墜した経緯は、手を合わせたくなるほどありがたかった。実はこれが知りたかったこと。
1931年から45年にかけて、日本の政治史における「満州時代」は、実に混迷の歴史。台湾や朝鮮の「方言」の例とされた日本語用法の事例も面白かったけど、もっと言語学者たちの本音が見える引用が欲しかったと思う。一方、1930年〜40年代にかけて、植民地や地方の日本語が「誤謬」ではなく「方言」と呼ばれているのが、確かに面白い。標準語があるようでなかったわけである。
感性と国家の奇妙な結びつきの上に成り立つ現代日本語と、フランス啓蒙主義と切り離せない普遍言語の理想は相容れない、というこちらの仮説は、揺るがなかった。揺るがして欲しいものだけど。
センセイは左派言語学者でおられるのだろうか。同著後半の共産主義的国語教育が失墜した経緯は、手を合わせたくなるほどありがたかった。実はこれが知りたかったこと。
1931年から45年にかけて、日本の政治史における「満州時代」は、実に混迷の歴史。台湾や朝鮮の「方言」の例とされた日本語用法の事例も面白かったけど、もっと言語学者たちの本音が見える引用が欲しかったと思う。一方、1930年〜40年代にかけて、植民地や地方の日本語が「誤謬」ではなく「方言」と呼ばれているのが、確かに面白い。標準語があるようでなかったわけである。
感性と国家の奇妙な結びつきの上に成り立つ現代日本語と、フランス啓蒙主義と切り離せない普遍言語の理想は相容れない、というこちらの仮説は、揺るがなかった。揺るがして欲しいものだけど。
2007年7月13日に日本でレビュー済み
本書よりイ・ヨンスク『国語という思想』をお勧めするが、高いという方は
新書である本書がよい。手軽に国語学史、それをめぐる議論を概観できる。
明治以降、近代国家形成に照応するように「国語」が発明される。
それは、混沌とした人々の多様な言語的営みを、時間的・空間的に一定の物語を
現出させる装置=統合(排除)原理としての機能をになってきた・・・
予想どおりの内容で新鮮味は感じなかった。
主要な登場人物も網羅されていて、帝国経営のなかでの各人の立位置などもわか
りやすくまとめられている。だがしかし・・・
個人の言語行為に対するいかなる制度的規制(排除)は悪!、国家を志向しての
統合志向は反動!危険!、「民族」「伝統」等の時間的序列、共栄圏みられる空
間的序列に結びつけた言語政策は傲慢・・・
ようは、いまここ「私」の言語行為こそが「日本」や「国」に縛られない至高の
ものだ、という視点が勝ちすぎていて、正直それに辟易する。
明治期には国家を国家として立ちあげようとした明治人の気概がそれにはこめら
れていたはずだし、エリートの存在も決してわるいことではないはずだ。
そうした国家的なものをほぼ無条件に忌避するようなトーンが、せっかくのところで
本書を結果的につまらない「先人断罪のも」にしている。おしい。
著差のいう先行学説の「限界」は、戦後民主主義的な国家・ナショナリズムを忌避する
観点からみた「限界」にすぎず、その見方自体が現在とわれなおしている、という
ことにあまりに無自覚な気がした。
自国のものとして言語や文化を誇りをもてるようなパースペクティブで冷静に評価するのは、
至極当然であって、そこにすこしでも「まとまり」や画一性や「型」の臭いを嗅ぎ取ると、
国家的・抑圧的と直結してしまうのにあきれてしまう。それでは小森陽一とかわらない。
個人的には学校で自分の子供には、せめて書き言葉については歴史的仮名遣いを教え
て欲しい。
新書である本書がよい。手軽に国語学史、それをめぐる議論を概観できる。
明治以降、近代国家形成に照応するように「国語」が発明される。
それは、混沌とした人々の多様な言語的営みを、時間的・空間的に一定の物語を
現出させる装置=統合(排除)原理としての機能をになってきた・・・
予想どおりの内容で新鮮味は感じなかった。
主要な登場人物も網羅されていて、帝国経営のなかでの各人の立位置などもわか
りやすくまとめられている。だがしかし・・・
個人の言語行為に対するいかなる制度的規制(排除)は悪!、国家を志向しての
統合志向は反動!危険!、「民族」「伝統」等の時間的序列、共栄圏みられる空
間的序列に結びつけた言語政策は傲慢・・・
ようは、いまここ「私」の言語行為こそが「日本」や「国」に縛られない至高の
ものだ、という視点が勝ちすぎていて、正直それに辟易する。
明治期には国家を国家として立ちあげようとした明治人の気概がそれにはこめら
れていたはずだし、エリートの存在も決してわるいことではないはずだ。
そうした国家的なものをほぼ無条件に忌避するようなトーンが、せっかくのところで
本書を結果的につまらない「先人断罪のも」にしている。おしい。
著差のいう先行学説の「限界」は、戦後民主主義的な国家・ナショナリズムを忌避する
観点からみた「限界」にすぎず、その見方自体が現在とわれなおしている、という
ことにあまりに無自覚な気がした。
自国のものとして言語や文化を誇りをもてるようなパースペクティブで冷静に評価するのは、
至極当然であって、そこにすこしでも「まとまり」や画一性や「型」の臭いを嗅ぎ取ると、
国家的・抑圧的と直結してしまうのにあきれてしまう。それでは小森陽一とかわらない。
個人的には学校で自分の子供には、せめて書き言葉については歴史的仮名遣いを教え
て欲しい。
2011年6月11日に日本でレビュー済み
国民のことばが国語である。むしろ国民国家のことばを国語と定める、という方がよい。日清戦争後の台湾領有から「大東亜」戦争の敗戦にいたる50年間、「国語」が日本列島の外で広く使われる状況が出現した。大日本帝国の拡大に対処するため「国語」に何が要求されたかというのが著者の問題意識である。敗戦で帝国は崩壊し、国語を使うのは概ね日本人(「大和民族」、アイヌ民族、および在日朝鮮/韓国人というマイノリティを顕著な例外として)に限られる事態が生じたが、戦後45年経ったころ東西冷戦の終焉にともなうグローバリゼーションとともに、日本人以外の(「国語」ではない)日本語使用が無視できなくなった、と著者はざっとこんな見通しを示す。読んでおもしろいのは植民地の「国語」を扱う2章および3章である。ここでは上田萬年の後世有名になった弟子たち(小倉進平、金田一京助)や戦中戦後を通じて国語政策に大きな影響を与えた保科孝一の言行を追う事を通じて国語と国策とのつながりを具体的に示す。5章は韓国の「国語学」が山田孝雄の多大な影響を受けて形成されたと説く。本書の面白さは知られざる(少なくもあまり知られない)史実の紹介にあり、 本の体裁上つけたと思しい1章と終章はなくもがなとも思える。異色の書とは言えそうだ。
2008年5月11日に日本でレビュー済み
現在、私たちの母語教育は「国語」と「日本語」のあいだで揺れているが、「国語」の言い方はだんだん古くさくなり、「日本語」がちょっとずつではあるが浸透し始めている。日本語を学ぶ外国人が増え、日本語教育の国際化が進む中で、国語という言葉は廃れていく運命にあるのかもしれない。
「国語」はいかにして成立したのか。本書では明治維新後、それが国家イデオロギーの一翼を担うものとして成立していく過程が描かれている。日本が中央集権国家として成立していくのに呼応するがごとく、地方の言葉が切り捨てられ、標準語に立脚した国語が力を増していく。国語学者が政治に直接的に関与していたわけではないが、本書では政治が作り出した雰囲気が国語学者の考え方に圧倒的な影響を与えていることが暴露される。
国語の問題は、最後は日本人論へと行き着く。なぜなら、「国語とは何か」を考えていくと、必然的に「日本人とは何か」という問題が浮上せざるをえないからである。だが、本書を読むと、多くの指導的な立場にいた国語学者が「日本人とは何か」という大事な問題を自明なものとして、国語の問題を考えていたことがわかる。当時の国家イデオロギーがそれほど頑強であったのは、アメリカに無理矢理開国させられた小国日本がロシアや中国といった大国の圧倒的な脅威を受けていたからにほかならない。「国をまとめ列強に対抗する」ことが第一義の目標になっていた時代だったゆえに、国語は国語ととして成立し強化される。
しかし、日本語の国際化が進むごとに「国語」は時代にそぐわないものになっていく。本書は後半で外国人向けの日本語教育を論じ、国語が「日本語」に敗北していくであろうことを暗示する。それは、日本の政治の時代が終わり、経済の時代に移り変わるのと軌を一にする。国語は明治維新後の政治の時代とともに生まれ強化されたが、経済の時代の到来とともに廃れていく運命なのだろう。
本書はおそらく学術論文を下敷きに書き下ろされたものなのだろう。膨大な参考文献をもとにできるだけ客観的な視点で書くことが意識されている。「エンターテイメントとしての新書」の意識は著者には皆無で、情報が詰まっており、そのぶん決してとっつきはよくない。ただ、「国語」の問題を真剣に考えるのなら、国語の成立過程から日本語の国際化までをきちんと追っている本書は必読の1冊だと言える。
「国語」はいかにして成立したのか。本書では明治維新後、それが国家イデオロギーの一翼を担うものとして成立していく過程が描かれている。日本が中央集権国家として成立していくのに呼応するがごとく、地方の言葉が切り捨てられ、標準語に立脚した国語が力を増していく。国語学者が政治に直接的に関与していたわけではないが、本書では政治が作り出した雰囲気が国語学者の考え方に圧倒的な影響を与えていることが暴露される。
国語の問題は、最後は日本人論へと行き着く。なぜなら、「国語とは何か」を考えていくと、必然的に「日本人とは何か」という問題が浮上せざるをえないからである。だが、本書を読むと、多くの指導的な立場にいた国語学者が「日本人とは何か」という大事な問題を自明なものとして、国語の問題を考えていたことがわかる。当時の国家イデオロギーがそれほど頑強であったのは、アメリカに無理矢理開国させられた小国日本がロシアや中国といった大国の圧倒的な脅威を受けていたからにほかならない。「国をまとめ列強に対抗する」ことが第一義の目標になっていた時代だったゆえに、国語は国語ととして成立し強化される。
しかし、日本語の国際化が進むごとに「国語」は時代にそぐわないものになっていく。本書は後半で外国人向けの日本語教育を論じ、国語が「日本語」に敗北していくであろうことを暗示する。それは、日本の政治の時代が終わり、経済の時代に移り変わるのと軌を一にする。国語は明治維新後の政治の時代とともに生まれ強化されたが、経済の時代の到来とともに廃れていく運命なのだろう。
本書はおそらく学術論文を下敷きに書き下ろされたものなのだろう。膨大な参考文献をもとにできるだけ客観的な視点で書くことが意識されている。「エンターテイメントとしての新書」の意識は著者には皆無で、情報が詰まっており、そのぶん決してとっつきはよくない。ただ、「国語」の問題を真剣に考えるのなら、国語の成立過程から日本語の国際化までをきちんと追っている本書は必読の1冊だと言える。