昔の女学校の女学生は、こんな感じで通学していたのかな~と言う感じです。
京都大学卒、日本赤軍の重松氏と友人という著者の経歴や人間関係を踏まえて書籍を読むと何か違うのかもしれません。
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女学校と女学生: 教養・たしなみ・モダン文化 (中公新書 1884) 新書 – 2007/2/1
稲垣 恭子
(著)
旧制高等女学校の生徒たちは、戦前期の女性教養層を代表する存在だった。同世代の女性の大多数とはいえない人数であったにもかかわらず、明治・大正・昭和史の一面を象徴するものだったことは疑いない。本書は、彼女たちの学校教育、家庭環境、対人関係の実態を検証する試みである。五〇年弱しか存在しなかったにもかかわらず、消滅後も、卒業生たちの思想と行動をコントロールし続けた特異な文化の再発見。
- ISBN-104121018842
- ISBN-13978-4121018847
- 出版社中央公論新社
- 発売日2007/2/1
- 言語日本語
- 本の長さ246ページ
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2007/2/1)
- 発売日 : 2007/2/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 246ページ
- ISBN-10 : 4121018842
- ISBN-13 : 978-4121018847
- Amazon 売れ筋ランキング: - 456,579位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2016年7月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2020年5月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
戦前の女学生が何を考え、何を楽しんでいたのかが適度にまとめてある
特にエスの文化のところは楽しく読ませてもらいました
特にエスの文化のところは楽しく読ませてもらいました
2014年2月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ほかのレビューがかなり好意的なのでやや辛口に。
この本では目標として言明された課題をクリアできていないと感じる。
また,終章の「「軽薄な知」の系譜」はさらに納得がいかない。
なぜ女学生が「西洋的教養や文化を受容する過程における自らの戯画」(218-219)となる必然性があったというのか。
西洋化しつつある自己の浅はかさなどを潜在的に意識していたとして,それをことさら女学生に見る必然性はどこにもないし,それを明らかにする内容でもない。
こうやって安易に普遍化することで,男性たちに女性に向けられていた不信の眼差しは実は自らに向けられたものだったという逃げ口上を与えることにもなりかねないというのに。
決して駄作とは思わないし,それなりのバックグラウンドをもっていることは評価しつつ。
そもそも本書は,「「教養主義」タイプや「文学少女」タイプ,「軟派」タイプ,「スポーツ少女」タイプなど,いくつかのタイプの・・・「女学生」の姿を通して,「女学生文化」と「女学生」のイメージが創られていく過程を描き出」(36)すという目的だったはずだ。
ところが,文学少女は確かにこの通りの手順を取っているが,それだけだ。
その後まともに取り上げられるのは,社会のまなざしとしての「堕落女学生・不良少女・モダンガール」であり,女学校の差異を通したミッション女学生であり,様々なタイプの「「女学生」の姿を通して」という視点を欠いてしまっている。
それらの累計の分析の結果であるはずの最後に登場する女学生文化の枠組みは,「たしなみ」文化,モダンな教養文化,大衆モダン文化の折衷という本論で用いると言っていたような女学生タイプとは異なるまとめであり,結局女学生の姿からというフレーズはどこにいったのかと問いたくなる。
類型化できる女学生の姿から描くのではなく,結局は社会の女学生観に沿った形で女学生を切り出しているところは本書の限界である。
また,第二章の「女学生の手紙の世界」はあまりにも飛躍が過ぎる。
そもそも資料がKという一人の人物を中心にしているという制約(おそらく協力を得られ手紙が保存されていたKの資料を利用したのだろう)からは,タイトルはもっと控えめなほうがいいと思うし,そこからSという概念にたどり着くことはできるにしても,それをフェミニズムの研究史上に位置づけ,レズビアン研究と対比的に考えるのは控えたほうがよかったと思う。
少なくとも西洋文化に親しみ様々な英語を用いられた彼女たちが,「スプーンズとかスマッシュ,クラッシュと呼ばれたアメリカの女子大学での女学生同士の親密な友情」(113)と同じであったなら,なぜ彼女たちはそれらの単語ではなくSisterhoodという概念に由来するエスとして自らの交友の形を説明したのか。
さらにいえば,アメリカではそれらの友情が「徐々に「性的倒錯」「異常」として排除されていく」(113)結果これらがレズビアン研究の文脈に位置づけられたが,この位置づけそのものが適切だったのかどうかも定かではない。
安易にフェミニズム研究の枠組に乗っかることで,ここでも女学生の姿は見失われている。
きっともっとすごい何かがあるのではないか,そういう期待にややもったいなさを感じてしまう読後感が惜しい。
知の系譜にしろ,フェミニズムにしろ,乗っかれるものに乗っかってしまって見えるはずのなにかが見えてないような。
この本では目標として言明された課題をクリアできていないと感じる。
また,終章の「「軽薄な知」の系譜」はさらに納得がいかない。
なぜ女学生が「西洋的教養や文化を受容する過程における自らの戯画」(218-219)となる必然性があったというのか。
西洋化しつつある自己の浅はかさなどを潜在的に意識していたとして,それをことさら女学生に見る必然性はどこにもないし,それを明らかにする内容でもない。
こうやって安易に普遍化することで,男性たちに女性に向けられていた不信の眼差しは実は自らに向けられたものだったという逃げ口上を与えることにもなりかねないというのに。
決して駄作とは思わないし,それなりのバックグラウンドをもっていることは評価しつつ。
そもそも本書は,「「教養主義」タイプや「文学少女」タイプ,「軟派」タイプ,「スポーツ少女」タイプなど,いくつかのタイプの・・・「女学生」の姿を通して,「女学生文化」と「女学生」のイメージが創られていく過程を描き出」(36)すという目的だったはずだ。
ところが,文学少女は確かにこの通りの手順を取っているが,それだけだ。
その後まともに取り上げられるのは,社会のまなざしとしての「堕落女学生・不良少女・モダンガール」であり,女学校の差異を通したミッション女学生であり,様々なタイプの「「女学生」の姿を通して」という視点を欠いてしまっている。
それらの累計の分析の結果であるはずの最後に登場する女学生文化の枠組みは,「たしなみ」文化,モダンな教養文化,大衆モダン文化の折衷という本論で用いると言っていたような女学生タイプとは異なるまとめであり,結局女学生の姿からというフレーズはどこにいったのかと問いたくなる。
類型化できる女学生の姿から描くのではなく,結局は社会の女学生観に沿った形で女学生を切り出しているところは本書の限界である。
また,第二章の「女学生の手紙の世界」はあまりにも飛躍が過ぎる。
そもそも資料がKという一人の人物を中心にしているという制約(おそらく協力を得られ手紙が保存されていたKの資料を利用したのだろう)からは,タイトルはもっと控えめなほうがいいと思うし,そこからSという概念にたどり着くことはできるにしても,それをフェミニズムの研究史上に位置づけ,レズビアン研究と対比的に考えるのは控えたほうがよかったと思う。
少なくとも西洋文化に親しみ様々な英語を用いられた彼女たちが,「スプーンズとかスマッシュ,クラッシュと呼ばれたアメリカの女子大学での女学生同士の親密な友情」(113)と同じであったなら,なぜ彼女たちはそれらの単語ではなくSisterhoodという概念に由来するエスとして自らの交友の形を説明したのか。
さらにいえば,アメリカではそれらの友情が「徐々に「性的倒錯」「異常」として排除されていく」(113)結果これらがレズビアン研究の文脈に位置づけられたが,この位置づけそのものが適切だったのかどうかも定かではない。
安易にフェミニズム研究の枠組に乗っかることで,ここでも女学生の姿は見失われている。
きっともっとすごい何かがあるのではないか,そういう期待にややもったいなさを感じてしまう読後感が惜しい。
知の系譜にしろ,フェミニズムにしろ,乗っかれるものに乗っかってしまって見えるはずのなにかが見えてないような。
2009年9月23日に日本でレビュー済み
社会教育学者・竹内洋の著作物追っ掛けをする中で、その弟子筋の稲垣氏の名前を見つけ、文章も多少読ませて貰ってゐた。竹内が行なってゐる近代日本の学生文化への社会学的アプローチの周辺に、本書も存在する事から、古本屋で取敢へず買ひ置きし、今日漸く読み終ったわけである。
率直に言って標題の内容に私は、かなり舐めてかかってゐたと思ふ。竹内の物する旧制度での学生文化についてかなり読んでゐたからその亜流に過ぎないと漠然と見做してゐたのである。
所がどうだらう。女学校、女学生文化について殆どその内実を私は理解してゐなかったのである。現代女子学生にも通じる乙女チックな情緒あふれる女学生文化が確乎として存在し、近代化の中で日本女学生文化、教育がどう位置づけられ、展開したかをはっきりとした輪郭で描いてゐたのである。
更には、正統学生文化の映し鏡とするやうな女学生文化の推移も秀逸にも指摘してゐるのである。今まで十分教育社会学的に位置づけられてゐなかった分野を陰翳深き近代日本の諸相の一分野として明らかにしてくれたと言へよう。これは、横綱相撲のやうな力作と言っても全く言ひ過ぎではないと信じる。
率直に言って標題の内容に私は、かなり舐めてかかってゐたと思ふ。竹内の物する旧制度での学生文化についてかなり読んでゐたからその亜流に過ぎないと漠然と見做してゐたのである。
所がどうだらう。女学校、女学生文化について殆どその内実を私は理解してゐなかったのである。現代女子学生にも通じる乙女チックな情緒あふれる女学生文化が確乎として存在し、近代化の中で日本女学生文化、教育がどう位置づけられ、展開したかをはっきりとした輪郭で描いてゐたのである。
更には、正統学生文化の映し鏡とするやうな女学生文化の推移も秀逸にも指摘してゐるのである。今まで十分教育社会学的に位置づけられてゐなかった分野を陰翳深き近代日本の諸相の一分野として明らかにしてくれたと言へよう。これは、横綱相撲のやうな力作と言っても全く言ひ過ぎではないと信じる。
2008年4月25日に日本でレビュー済み
新書であるから当然、興味本位で手に取っていい本であるが、内容はいたって真面目な研究の成果である。
女学校や女学生に対して、ある種の「軽佻浮薄」さや「虚栄心」を読み取り、それを批判するという系譜が近現代日本には連綿としてある。だが、その批判は実は批判者自身の似姿に対して行われているのだという指摘は興味深い。「女学生文化」に対するアンビヴァレントな感情は、近代日本社会の西洋文化受容の過程の反映であるいう本書の議論は、おそらく正鵠を射ている。
女学校や女学生に対して、ある種の「軽佻浮薄」さや「虚栄心」を読み取り、それを批判するという系譜が近現代日本には連綿としてある。だが、その批判は実は批判者自身の似姿に対して行われているのだという指摘は興味深い。「女学生文化」に対するアンビヴァレントな感情は、近代日本社会の西洋文化受容の過程の反映であるいう本書の議論は、おそらく正鵠を射ている。
2014年9月9日に日本でレビュー済み
期待して手にしたのですが、読むと、その内容のなさに途中で嫌になりました。
〜らしい・〜ようである、という書き方にみられるように、その程度の内容の本です。後ろにある主要参考文献をジグソーパズルのピースとして、本書を組み立てたものに過ぎないと感じました。また、図表の扱いも非常に平面的です。過去の記録を、そのように仕向けていく当時の社会構造などを踏まえて、もっと深く読み解くべきだと思いました。
また、たとえば、どうして、p54で下田歌子の言葉を出すのか? 非常に安易な引用だと思いました。
明治女子教育の大御所・下田歌子の「女学生と読書」のその一節がほしかっただけではないのか? 後には「妖婦下田歌子」とまで批判される彼女には、パトロンとして伊藤博文がいました。(だからと言って、下田歌子を全面否定するのではありませんが)。その当時の国策をもっと考えて、その中で、下田の言説の位置をしっかり定めて引用すべきだと思います。もうひとつ付け加えるなら、p138の土田杏村の言葉を引用していること。画家・土田麦僊の弟ですが、それすら知らない人もいるかもしれないのに、無造作に彼の言葉を出してくる。その神経のなさは、わたしには理解できません。
本書は、やさしく書かれていますが、その内容は30ページもあれば十分な内容のものです。短い射程の中で書かれたもので、女学生と女学校に関して、当時の社会構造の深部をしっかりと捉えて書かれたものとは、到底思われません。テーマは別として、書かれている内容(考察の程度)は、中学生程度のものだと思います。
しかし、内容の薄さのわりには、次のような文章に出くわすことになります。
「不良モガ」が「虚栄的」で「消費的」な知の拡大に対する知識人の不安と不快感を映し出す文化の表象であった…(p155)
これこそ、「虚栄的」な知の象徴的な文だと思いました。内容がたいしたものでないのですから、さらっと書けばいいと思うのですが。
きびしい評価になってしまいましたが、中公新書の一冊としては、あまりにも内容がお粗末です。新書の中で、中公新書を手にすることの多い人には、浅薄な内容の本だと感じるのではないでしょうか。
テーマはおもしろいものですから、もっと考えて書いていただきたかったです。
〜らしい・〜ようである、という書き方にみられるように、その程度の内容の本です。後ろにある主要参考文献をジグソーパズルのピースとして、本書を組み立てたものに過ぎないと感じました。また、図表の扱いも非常に平面的です。過去の記録を、そのように仕向けていく当時の社会構造などを踏まえて、もっと深く読み解くべきだと思いました。
また、たとえば、どうして、p54で下田歌子の言葉を出すのか? 非常に安易な引用だと思いました。
明治女子教育の大御所・下田歌子の「女学生と読書」のその一節がほしかっただけではないのか? 後には「妖婦下田歌子」とまで批判される彼女には、パトロンとして伊藤博文がいました。(だからと言って、下田歌子を全面否定するのではありませんが)。その当時の国策をもっと考えて、その中で、下田の言説の位置をしっかり定めて引用すべきだと思います。もうひとつ付け加えるなら、p138の土田杏村の言葉を引用していること。画家・土田麦僊の弟ですが、それすら知らない人もいるかもしれないのに、無造作に彼の言葉を出してくる。その神経のなさは、わたしには理解できません。
本書は、やさしく書かれていますが、その内容は30ページもあれば十分な内容のものです。短い射程の中で書かれたもので、女学生と女学校に関して、当時の社会構造の深部をしっかりと捉えて書かれたものとは、到底思われません。テーマは別として、書かれている内容(考察の程度)は、中学生程度のものだと思います。
しかし、内容の薄さのわりには、次のような文章に出くわすことになります。
「不良モガ」が「虚栄的」で「消費的」な知の拡大に対する知識人の不安と不快感を映し出す文化の表象であった…(p155)
これこそ、「虚栄的」な知の象徴的な文だと思いました。内容がたいしたものでないのですから、さらっと書けばいいと思うのですが。
きびしい評価になってしまいましたが、中公新書の一冊としては、あまりにも内容がお粗末です。新書の中で、中公新書を手にすることの多い人には、浅薄な内容の本だと感じるのではないでしょうか。
テーマはおもしろいものですから、もっと考えて書いていただきたかったです。