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「戦争体験」の戦後史: 世代・教養・イデオロギー (中公新書 1990) 新書 – 2009/3/1
- 本の長さ286ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2009/3/1
- ISBN-104121019903
- ISBN-13978-4121019905
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (2009/3/1)
- 発売日 : 2009/3/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 286ページ
- ISBN-10 : 4121019903
- ISBN-13 : 978-4121019905
- Amazon 売れ筋ランキング: - 370,497位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
![福間 良明](https://m.media-amazon.com/images/S/amzn-author-media-prod/sepgkr25mutnal9c3okm4fvcbj._SY600_.jpg)
1969年熊本市生まれ.京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了.博士(人間・環境学).出版社勤務,香川大学経済学部准教授などを経て,現在,立命館大学産業社会学部教授.専門は歴史社会学・メディア史.著書に『「反戦」のメディア史――戦後日本における世論と輿論の拮抗』(世界思想社,2006年,内川芳美記念マス・コミュニケーション学会賞受賞),『「戦争体験」の戦後史――世代・教養・イデオロギー』(中公新書,2009年),『焦土の記憶――沖縄・広島・長崎に映る戦後』(新曜社, 2011年), 『「戦跡」の戦後史――せめぎあう遺構とモニュメント』(岩波現代全書,2015年),『「働く青年」と教養の戦後史――「人生雑誌」と読者のゆくえ』(筑摩選書,2017年,サントリー学芸賞受賞),『「勤労青年」の教養文化史』(岩波新書,2020年),『戦後日本、記憶の力学――「継承という断絶」と無難さの政治学』(作品社,2020年), 『司馬遼太郎の時代――歴史と大衆教養主義』(中公新書、2022年)など.
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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1、インテリ学生が中心だった「きけわだつみの声」に出てくるリベラルで醒めた戦争観は、戦後民主主義の思想潮流に非常にマッチしたものだった。それゆえに、戦後社会では戦争に熱狂していた一般大衆の手記よりも受け入れられやすく、ベストセラーとなって映画化までされた。
2、しかし、学徒出陣した学生は、学期が短縮されて十分に読書にいそしむ時間がなかったため、一つ上の教養主義世代からは、その教養の低さをバカにされていた。また学徒出陣した学生自身も、教養主義的なものへの飢え渇きが強く、和辻哲郎の古寺巡礼のような本に耽溺し、戦争の現実から目を背けようとしていた。
3、これに対し、「戦没農民兵士の手紙」は、農村出身の下級兵士の手記が中心であり、直截的に戦争を盲信する内容も多く含まれる一方で、田舎に残した親兄弟を思いやるような飾り気の少ない手記も多く、ストレートに多くの人の心を打った。この手記を古歌の「読み人知らず」の伝統の流れを汲むなどと絶賛するものもあった(荒瀬豊)。
4、「戦没農民兵士の手紙」を絶賛するのは大部分がインテリであった。しかし、「純朴」であるはずの農民兵士が現実には戦場では最も残虐であったことや、農民戦士を美化する言説に知識人の優越感を看取して、そうした言説に強く反発する者もおり(安田武)、1960年代に一大論争となった。
5、立命館全共闘が学内の「わだつみ像」を破壊した事件は、一見奇異な感じを受けるが、「わだつみの声」が戦後民主主義体制を支える知識人の象徴となっていた時代背景を踏まえると、よく理解しうるものである。
6、わだつみ会はその後も継続し、1980〜90年代になると、教科書問題に対して積極的に発言したり、日本の加害責任に対しても積極的に語るようになっていった。
7、1990年代以降、戦争観を巡る二項対立はますます激化し、「殉国」や「顕彰」といった心情を持ち上げる向きは、戦争責任や加害責任を語ろうとしないし、逆に戦争責任や加害責任を積極的に語る側は、死者の言葉と真摯に対話しようとしない。しかし、死者への批判は死者との真摯な対話であって、無批判に死者に感銘するのは、「生者の傲岸の頽廃」(P262)に他ならない。また、殉国の情を強調することは、戦争責任や加害責任の語りと矛盾するわけでもない。
たとえば、『わだつみ』の書き手である学生たちの教養レベルは、今日でこそ「高かった」と言われるが、彼らの前の教養主義全盛時代の世代に言わせると、彼らのレベルは、戦争責任を問うことも難しいくらいに「低かった」のである。しかし、教養主義そのものが没落した時代になると、『わだつみ』世代の「教養」が再び問題となり、学徒兵の戦争における加害者責任をめぐる議論が行われるようになったという。
戦争体験は、戦争を体験した人の数ほどある。それゆえにそれを継承して、記憶として残そうとすると、誤解や歪曲を伴わざるを得ない。その結果、受け止め側の世代、イデオロギーによって異なった記憶が形成され、断絶や対立が生じる。その結果、体験は風化していくかもしれない。体験を語り継ぐとは、このような困難と向き合う作業なのだということを、本書は教えてくれる。
自由主義史観が当時一定の勢いを持ったのを単に「日本人の自信の喪失」と記述したことはまだ著者のイデオロギー的位置からの発言としても、カンボジアにPKOを出したことで東アジア諸国から非難を招いたなどは明らかな虚偽である。
また、「アジア」の記述も、中韓と他のアジア諸国では日本に対する論じ方も違うのに敢えて中韓をベースに「アジア」としている(反中国の関係などもあり、フィリピンやベトナムなど色んなアジア諸国があるから簡単には「アジア」とひとくくりには出来ない)。
また、湾岸戦争による戦争の捉え方の変遷(今までは戦争は悪の行為で過去のものだったのが、米英仏軍やアラブ諸国軍がクウェートを解放して平和をもたらしたことで、戦争を客観的に見るようになってきた)、そして、北朝鮮などの動きなど60~80年代と異なる事柄が政治と戦争に対する日本人の考え方を変えてきたを考慮に入れていないのが残念である。
前半の良い部分と後半の残念な分から評価は三である。
内容に関する記述に多くを割くことはしませんが、ざっくり言ってしまえば
「きけわだつみの声」における戦争体験が、戦後どのように語られ受容され、政治的に利用されてきたか、
そして「戦争体験」の語り方や中身をめぐって激しい論争が繰り広げられてきたこと、について書かれていると理解しています
そこで著者が鍵概念として用いているのが、「教養」なわけですが、これについては単純になるほどなぁ、という感じ
近年の、戦前の教養主義、戦中派の教養、戦後の教養、近年の無教養、これらは一口に「教養」といっても、
その中身は様々であって、むしろ「わだつみ」をめぐる論争を通して、各世代が標榜する「教養」をめぐる論争を追うことにもなります
無論、著者も認めている通り、これは「わだつみ」という、学徒兵の「戦争体験」をめぐる著書であって
(中には農民兵士に関する記述も少なくありませんが)、その意味ではカッコつきの、限定的な「戦争体験」なわけです
必ずしもすべての戦争体験が同様の経験をしたわけではないことに留意すべきでしょう
むしろ本書から私が得た洞察は、「わだつみ」だとか、「戦争体験」だとかいうものは、あくまで象徴・イコンに過ぎないということでしょうか
だから、その中身や意味をめぐって、論争などが起きたり、「戦争体験」の継承の中に断絶をみることになるのでしょう
メディア史家の佐藤卓己氏がいみじくも述べたように、「戦争体験の風化」や「世代の断絶」を嘆く言説は、
「戦争体験の継承」を主張する一方で、同時にその「忘却」をも推進している
つまり、ある誰かが言う「戦争体験」には、特定の中身があり、意味がある
それは継承されるべきだけども、それ以外の「戦争体験」は継承しなくともよい
「戦争体験の継承」を訴える人々は、意識的にか無意識的にか、「戦争体験」というイコンを用いて、何らかの政治的(とは限らないが)主張をしているわけです
このような考えは別段私が言うまでもないことですが、本書はこのことを改めて再確認させてくれた気がします
最後に、話を本書の中身に戻しますが、第二次わだつみ会で理事をつとめた安田武氏が追求し続けたような、
体験を生の体験としてのみ語り、そこになんらの意味ももたせず、その語りがたさにこだわる姿勢というのは、世代を越えて継承されうる手法なのでしょうか
あるいは、戦争体験の語り方に、何らかの正解のようなものはあるのでしょうか。今のところ私には答えを出せそうにありません
本書は主として戦没学徒兵の遺稿集『きけわだつみのこえ』を題材にして、その受容の世代的変遷を「歴史社会学」的に丁寧に追求している。この本の特徴は、ある言説を感心しつつ読んでいくと、それを真っ向から批判する別の言説に出会うといった、ページをめくる面白さにある。著者の目配りの広さと公平さに感心させられる。
受容を読み解くキーワードは「教養」である。戦中派としての彼等は、戦前派からはその教養の無さが哀れまれ、戦後・戦無派からは逆にその教養臭さが嫌悪される。これでは戦中派は立つ瀬がない。
感想を言わせて貰えば、だがしかし、実際に銃を持って戦場に出掛け身を挺して戦い死んでいったのが彼等世代である。戦前・戦時中の自分の言説を隠蔽して戦後の言論界に生き残った戦前派知識人の態度には許せないものがあるが、戦場のない幸運に身を置きながら声高に彼等を責め立てた私たち戦後・戦無世代も今から思えば恥ずかしい点もある。
「歴史社会学」的観点を少し広げて言えば、戦後の高度経済成長を担い、平和憲法を守ってきたのは戦争に生き残った戦中派である。これらの中味に関しても様々な議論はあろうが、荒廃し尽くした国土を復興し、日本をとにかくもGDP世界第2位までのし上げ、戦後65年間、一人の「戦死者」を出さずにきたのは、悲惨な戦争体験から得た彼等の「絶対平和主義」によるところが多い。それは「自尊史観」派や絶対平和主義では「国際貢献」が出来ないとする新自由派からの執拗な攻撃に抗して、今も日本人の主流な潮流として生き延びている。
これは彼等が我々に示した教養というものではないだろうか。戦中派の戦争責任はこれによって、既に大部分が免罪されているのではないだろうか。
好むと好まざるにかかわらず、日本の戦争責任を引き継いでいるのは戦後・戦無派である。戦中派を非難して済む問題ではないのだ。日本兵士が犯した罪でなく、日本国家が犯した罪をなお追求しなければならない。それは国民総懺悔である筈はない。その構造を問うことである。
アメリカが引き起こした、イラク戦争やアフガン戦争に見るように、開始された戦争を止めるのは容易ではない。それ故かつて日本が引き起こした戦争に対しても、その「始まりの原因と責任」を解明することが今なお大事なのである
本書はこのケーススタディをもとに、戦後体験の語られ方が様々であることを結論として示している。
では、我々がどうすればいいかというと、なかなか難しい。ある程度時が経てば、直接戦争を体験した人から体験を聞くことはできなくなってしまう。その時には、観念的・抽象的な言説のみが独り歩きするのではないだろうか。今我々がなすべきことは何だろうか。当然答えがあるわけではないが、このことは胸の片隅に置いておいてもよいのではないか。